今日は二回分を一気に。長いです(汗)。
木曜日に、みんちゃんが幼稚園を卒園しました。
入園当時は、バスに乗せるのも困難なくらい泣いていて。それが日を重ねるごとに成長していき。と親からみたら本当にあっという間の3年間だったなあ、と思います。
これを期に、みんちゃんファンの方にも、ご報告をかねて今日の一文をしたためさせていただきました。
みんちゃんが、このタイミングで卒業したもの
みんちゃんに聞いたんですが、「オバケもカミサマも、見えなくなった」って。
友達の一人は「じゃ、やっぱり見えてたんだ」といい、もうお一人は「子供は7歳まで神様の子供」というから、そういう時期だったんだね、というニュアンスの言葉。
みんちゃんは、視ることを卒業して、代わりに手に入れたもの。たぶん、屈託なく笑える毎日だと思う。よく笑うようになったし、知らない人がおうちにきても、遊べるようになったし。春休みはスイミングに行くって言ってるしピアノも習いたいと今度、見学か抽選会かに行くようです。
そんなふうに、親とはなれてなにかをする、という子ではなかったので、正直、驚いています。
僕は、昔から視えない世界を視たいと熱望していたけれど、僕にそれは叶わず、かわりにみんちゃんがやってきて、その世界を伝えてくれました。3歳くらいで「自分がカミサマだ」といい、4歳くらいでは「一人ひとりの後ろには守ってるカミサマがいる」といい、、、6歳で「鬼は人のなかにいる」といい、僕にスピリチュアルな世界観を真実味をもって教えてくれていました。
その代わり、僕はある人から「みんちゃんを守るために先に生まれてきたんかもね」と言われたこともって。それは、みんちゃんがオバケを視ても僕がそっちを向くとオバケが消えるから(みんちゃん談)。ある意味、みんちゃんの魔よけ、防波堤として僕があったようなんです。
外出するときは、僕にくっついて離れなかったのも、そういう「効果」があったからなのかも知れません(苦笑)。
そういう二人の関係も、いい意味で卒業になるのかな。それもまたいいね、と思う。
視えなくても、その存在を自分のイマジネーションで信じることができれば、それもまた尊いことだと思うもの。視えなくても、在ることを信じれる、って僕はステキだと思うから。
個人的には、彼女が視なくなったことに一抹の寂しさを覚えてはいるけれど。
それは、幼稚園を卒園するようなもの?
園児ではなくなってしまうけど、今度は小学生になる。そういうことなのかな、って。
そこに、期待と希望をもって見守っていきたいな。
ありがとうね、みんちゃん。
みんちゃんが卒園して、考えたこと
卒業。
卒業するってなんだか「手放す」に近いのかな。「手放すと、入ってくる」、ていうけど、手放したら、そこから卒業できる、ってことなんじゃないか。卒園式が終わった夜にそんなことを感じていました。
これを手放したら、こんないいことが降ってきた、というよりも、降ってきたんじゃなくて、自分が上がってるんじゃないか、って。
僕はいっとき、午前中を休みにして(育児という大層なものじゃなく)子守をしてました。
仮に午前中休むことでお客さん一人を失ったとして5000円×25日 125000円をロスしたかも知れないけれど、それを手放して僕は、子供が寝返りをし、つかまり立ちをし、カタコトをしゃべる一瞬一瞬に立ち会えて来た。そういうことに出会えたパパさんって、まだまだ少ないほうだと思うんです。それは125000円の価値を下回るだろうか?
つまり、お金を手放すと、お金以外のカタチでちゃんと入ってくる。
ロスしたように見えて、誰もなにもロスはしてないんじゃないか。ただ、手放したものと、違う形、ちがう価値観のものだったから、元からみたらロスしたように見えただけなんじゃないか、って。
もしかしたら、今、なにかを失ったように感じても、そうは思えない別のカタチでなにかをちゃんと得てる、そうやって出来事は常にバランスを平衡に保とうとしてるんじゃないか、って僕には思えるんです。だから、僕は「大丈夫だよ」って言う。失いっぱなしは有り得ないと思う派だから。
それを手放すではなく、卒業と捉えることができたなら、1センチかも、1ミリかも知れないけれど、ほんのちょっとは上に登った感じがするんです。
車を友人にあげたら、新しい車が手に入った、とかじゃなくて、車を手放したら、移動しなくていい生活が手に入った、くらい、価値観の変わるもの。見た目には、「車をロスしただけ」に見えて、実は「車の要る生活から解放された」みたいな。そういうことが、確かにあるので、「手放すと入ってくる」という感覚よりも、「手放すと卒業できる」感覚が僕の内部のどこかにはある。
もちろん、友達にも言ったけど「手放したくない」んで僕は大事に抱きしめてるものがいっぱいあります。これはまだまだ手放さないけれど。まだ人間の苦しみという面白さには未練があるし。
その日は幼稚園に小学校の校長が、中学校の教頭先生が、高校の校長先生までが来てくださっていました。「卒園おめでとう。君たちを待っているよ」と挨拶されていました。園児を手放せば、園児じゃない人生が、園児を卒業すれば、その上の小学生という人生が、待ってくれている。卒業、おめでとう、と言って。
卒園という日をみんちゃんと迎えることができて良かったなあ。
今日という一日さん、ありがとう。
もう、このブログにこの制服姿で登場することもありません(苦笑)。卒園式の朝、今日だけはママに髪を結んでもらって、大好きな爆ちゃんとの記念写真です。
木曜日に、みんちゃんが幼稚園を卒園しました。
入園当時は、バスに乗せるのも困難なくらい泣いていて。それが日を重ねるごとに成長していき。と親からみたら本当にあっという間の3年間だったなあ、と思います。
これを期に、みんちゃんファンの方にも、ご報告をかねて今日の一文をしたためさせていただきました。
みんちゃんが、このタイミングで卒業したもの
みんちゃんに聞いたんですが、「オバケもカミサマも、見えなくなった」って。
友達の一人は「じゃ、やっぱり見えてたんだ」といい、もうお一人は「子供は7歳まで神様の子供」というから、そういう時期だったんだね、というニュアンスの言葉。
みんちゃんは、視ることを卒業して、代わりに手に入れたもの。たぶん、屈託なく笑える毎日だと思う。よく笑うようになったし、知らない人がおうちにきても、遊べるようになったし。春休みはスイミングに行くって言ってるしピアノも習いたいと今度、見学か抽選会かに行くようです。
そんなふうに、親とはなれてなにかをする、という子ではなかったので、正直、驚いています。
僕は、昔から視えない世界を視たいと熱望していたけれど、僕にそれは叶わず、かわりにみんちゃんがやってきて、その世界を伝えてくれました。3歳くらいで「自分がカミサマだ」といい、4歳くらいでは「一人ひとりの後ろには守ってるカミサマがいる」といい、、、6歳で「鬼は人のなかにいる」といい、僕にスピリチュアルな世界観を真実味をもって教えてくれていました。
その代わり、僕はある人から「みんちゃんを守るために先に生まれてきたんかもね」と言われたこともって。それは、みんちゃんがオバケを視ても僕がそっちを向くとオバケが消えるから(みんちゃん談)。ある意味、みんちゃんの魔よけ、防波堤として僕があったようなんです。
外出するときは、僕にくっついて離れなかったのも、そういう「効果」があったからなのかも知れません(苦笑)。
そういう二人の関係も、いい意味で卒業になるのかな。それもまたいいね、と思う。
視えなくても、その存在を自分のイマジネーションで信じることができれば、それもまた尊いことだと思うもの。視えなくても、在ることを信じれる、って僕はステキだと思うから。
個人的には、彼女が視なくなったことに一抹の寂しさを覚えてはいるけれど。
それは、幼稚園を卒園するようなもの?
園児ではなくなってしまうけど、今度は小学生になる。そういうことなのかな、って。
そこに、期待と希望をもって見守っていきたいな。
ありがとうね、みんちゃん。
みんちゃんが卒園して、考えたこと
卒業。
卒業するってなんだか「手放す」に近いのかな。「手放すと、入ってくる」、ていうけど、手放したら、そこから卒業できる、ってことなんじゃないか。卒園式が終わった夜にそんなことを感じていました。
これを手放したら、こんないいことが降ってきた、というよりも、降ってきたんじゃなくて、自分が上がってるんじゃないか、って。
僕はいっとき、午前中を休みにして(育児という大層なものじゃなく)子守をしてました。
仮に午前中休むことでお客さん一人を失ったとして5000円×25日 125000円をロスしたかも知れないけれど、それを手放して僕は、子供が寝返りをし、つかまり立ちをし、カタコトをしゃべる一瞬一瞬に立ち会えて来た。そういうことに出会えたパパさんって、まだまだ少ないほうだと思うんです。それは125000円の価値を下回るだろうか?
つまり、お金を手放すと、お金以外のカタチでちゃんと入ってくる。
ロスしたように見えて、誰もなにもロスはしてないんじゃないか。ただ、手放したものと、違う形、ちがう価値観のものだったから、元からみたらロスしたように見えただけなんじゃないか、って。
もしかしたら、今、なにかを失ったように感じても、そうは思えない別のカタチでなにかをちゃんと得てる、そうやって出来事は常にバランスを平衡に保とうとしてるんじゃないか、って僕には思えるんです。だから、僕は「大丈夫だよ」って言う。失いっぱなしは有り得ないと思う派だから。
それを手放すではなく、卒業と捉えることができたなら、1センチかも、1ミリかも知れないけれど、ほんのちょっとは上に登った感じがするんです。
車を友人にあげたら、新しい車が手に入った、とかじゃなくて、車を手放したら、移動しなくていい生活が手に入った、くらい、価値観の変わるもの。見た目には、「車をロスしただけ」に見えて、実は「車の要る生活から解放された」みたいな。そういうことが、確かにあるので、「手放すと入ってくる」という感覚よりも、「手放すと卒業できる」感覚が僕の内部のどこかにはある。
もちろん、友達にも言ったけど「手放したくない」んで僕は大事に抱きしめてるものがいっぱいあります。これはまだまだ手放さないけれど。まだ人間の苦しみという面白さには未練があるし。
その日は幼稚園に小学校の校長が、中学校の教頭先生が、高校の校長先生までが来てくださっていました。「卒園おめでとう。君たちを待っているよ」と挨拶されていました。園児を手放せば、園児じゃない人生が、園児を卒業すれば、その上の小学生という人生が、待ってくれている。卒業、おめでとう、と言って。
卒園という日をみんちゃんと迎えることができて良かったなあ。
今日という一日さん、ありがとう。
もう、このブログにこの制服姿で登場することもありません(苦笑)。卒園式の朝、今日だけはママに髪を結んでもらって、大好きな爆ちゃんとの記念写真です。
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