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知識VS叡智は自力と他力でもある

2005-10-25 10:06:22 | 健康 整体
操体法を世にあらわした先生の本の一文に、
コドモは裸足でデコボコした土の上だったか砂利の上だったかを歩かせればよい。デコボコのバランスをとろうとして体をギクシャクと動かす。それがそのまま歪みをとる自然の療法になる、のだというニュアンスのものがあった。

そういえば足裏療法というのもある。足裏で内臓の疲れまで癒せるわけだが、考えてみれば、素足や薄い履物で土なり砂利なりの上を歩くだけで、カラダの外側(筋肉や骨)も内側(内臓)も丈夫なるように、人間は創られているのだとしたら、すごいことである。

コドモを見ていたらわかるが、ほっといてもギクシャクしている。あれで歪めたりしないから大したもんである。逆に、正しい姿勢がどうの、歪みがどうのと知識はある大人の方が疲れを溜めているのだから、いやはや、である。

もしかしたら、コドモはギクシャクなりに流れにゆだねているからだろうかと思った。ゆだねるには、脱力が必要である。脱力したところにカラダの声は届く。大人は自力(じりき)である。自らの知識と努力でもって正しい姿勢を維持しようと試みる。自力でやるならどうぞ、とカラダは沈黙する。いや、そのメッセージが聞こえてこない。コドモは、おそらく他力(たりき)である。頭が重いからとととっと前に傾きつんのめり、がくんと頭を後ろにやったりして、手を挙げ振りまわししながら、それでも移動していく。そこに作為はない。他力の源はカラダの叡智である。必ずバランスを取らずにはおかないシステムである。叡智と一体化したコドモはやじろべえ「そのもの」みたいなものか。その身そのままで、揺れながら真中に戻ってくる。大人は叡智とカラダを切り離す。したがってやじろべえ(肉体)の「外」に頭が分離し、やじろべえを指でつまみ、必死で垂直に保持しようとしている。したがって、疲れて指がブルブルふるえだす。コドモには知識がない分、他力が発揮される。「他」のチカラであるから効率が良い。そして「他力」はラクである。どう立てばラクか?はどのポジションがラクか、というだけの話でラクな立ち方を考案する必要などないのだ。体が元から知っているからである。



そんなことを考えていたら、なぜだか「である」調になったのである。
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