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 裁判員裁判が国民に負担をかけるものであることは間違いない。
 それだけに,負担をおかけするに値する,十分に意義のある制度であることを理解して貰うことが,何よりも大切である。
 これまで裁判所側は,この裁判員制度の意義について,「刑事裁判に対する理解を深め,司法に対する信頼を高める」ためというふうに説明してきた。
 そこでは,従前の職業裁判官による刑事裁判に何も問題はなかったのだが,これを広く国民に理解して貰うための広告宣伝のために裁判員制度を作った,というふうにみえる。裁判員は宣伝員なのか,忙しい国民を宣伝役だけに使うのか,ある論者がこのように批判していた。裁判所は痛いところをつかれている。

 しかし,最近は,裁判員裁判の意義について,「ひとつは,刑事裁判の世界に,国民の皆さんの感覚を取り入れたい,ということです。プロの法律家だけで裁判をやっていると,どうしても,考え方の幅が狭くなってしまうところがあります」と説明することもある(島田仁郎最高裁長官「司法の窓」72号12頁)。正鵠を得ていると思う。
 これまでの職業裁判官だけによる裁判には,自分たちでは必ずしも気がつかなかったのだが,その判断に狭量さや浅薄さがあったかもしれないことを自覚すべきである。そして,裁判員裁判は,この問題点を補強するためであることを改めて認識すべきだと思う。
 私の経験でも,合議の中で,有罪意見と無罪意見が鋭く対立し,激しい議論となった事件がいくつもあった。その多くは,あの証言が信用できるかとか,被告人の言っていることは本当のことか,などを巡って意見が分かれていたのである。あの議論に裁判官と違う社会経験を持つ裁判員が加わっていれば,裁判員はどちらの意見に与したであろうか,あるいは別の結論が出たかも知れない,と思うときがある。
 一橋大学の後藤昭教授が,そのあたりのことについて,「法律家は,事実認定の問題を類型化して捉える傾向がある。つまり,この事情とこの事情があれば,たいていは,事実はこうなのだ,というふうに事実認定についての相場観をもっている。これに対して,法律家でない人々は,事実をあくまで個別的なでき事として見る傾向がある。そのために,被告人の弁解が,ふつうはあまり起きそうもない話であっても,真実はそうだっかもしれないと素直に考えやすい。」と指摘して,裁判員が加わることで,判断が質的に高まることを期待しておられる(雑誌「世界」08年6月号 96頁)。
 職業裁判官の判断が「類型的」になりがちなことは指摘のとおりであろう。「有罪慣れしている」と警告する安原判事の指摘とも一脈通じる点である。

 新たな刑事裁判は,素人の裁判員が加わることで,職業裁判官だけによる判断の限界を克服して,新鮮な目で証拠をみて貰い,柔軟で高い質の判断に到達しようとする。それだけ意義の大きい制度なのである。
 国民の皆さまには,ご負担ではありましょうが,ぜひ参加していただきたい。(蕪勢)


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