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鉱物の部屋へのいざない

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インターメディアテク

2013-06-16 12:57:36 | 日記・エッセイ・コラム

6月8日(土)はミネラルマーケット、新宿ショーに行った後、東京駅に向かいました。

目的は先日TVで見たインターメディアテクに行く為です。インターメディアテクは東京駅前JPタワー内旧東京中央郵便局舎2・3階にある東京大学の学術コレクションを常設展示してある博物館です。

非常に期待して行きました。そして、行ってみて正直、違和感を感じてしまいました。

その違和感は何から来るのだろう?と約1週間、時間を置いて考えてみました。

展示されているものは東京大学の学術文化財です。そして、それらは全て本物です。そこには私の好きな鉱物標本があったり、木製結晶模型もありました。それにもかかわらず、それほど感動しなかったのです。それはなぜでしょうか?

その事を自問自答してみます。

ひとつは場所の問題かも知れません。そこは東京駅前の新しい商業施設の中にありました。そこは確かに賑わっていて人もたくさんいました。ただ、博物館に賑わいは似合いません。博物館の持つイメージはひっそりとした秘密の場所というイメージです。

展示方法は19世紀的な博物学のイメージを模していましたが、展示されているものが本物にもかかわらず、そのような展示方法が、返って模造品のような印象を助長しているのかも知れません。

そこで見た若林鉱物標本(若林弥一郎は金沢出身)にもそれほど感動しませんでした。私は「芸術新潮」(1995 11 特集 東京大学のコレクションは凄いぞ!」に載っていた標本棚の写真は見た事がありましたが、実物を見るのは初めてでした。それにもかかわらず、それは自分とは関係のないもので、ただそこに無関係に存在しているような気がしてしまったのです。

展示されていた数学オブジェも奇妙でした。それらはある種の美しさを持っていると思いますが、そのような空間に存在している事自体が奇妙です。たとえば、東京理科大学近代科学資料館に展示してある木製多面体模型はその出来ばえといい、その存在そのものが多くの意味を持っていて見ていて感動してしまいます。それに比べ、謎の数学オブジェの存在は何も物語ってきません。感動しないのです。

その理由を考えてみました。そして、はたと思いました。

そこにある標本は死んでいる。

動物の骨や剥製が死んでいるのは当たり前の事なのですが、鉱物標本からも同じような印象を受けてしまいました。それはどういう事かというと、そこには標本としての意味は無くなっており、さらに流動性も無いという事です。ミネラルマーケットと新宿ショーの直後に来たからかも知れませんが、それらを買う事はできません。その標本はただ見るだけの存在で、自分との関係性が薄いのです。それらは触れる事も許されない高価な美術品のような存在なのです。自分との関係性が薄いものには感情移入できません。そういう事なのです。

自分との関係性、これは重要な事です。

日本の鉱物マニアが国産鉱物を好むのも、そのような理由からかも知れません。

例えば、火星の水晶を手に取ることができる時代が来たとします。最初はその物珍しさの為に高値が付く事になるでしょうが、それが当たり前になるような時代には、我々地球人はやはり地球の水晶の方を愛でるようになっていくでしょう。

インターメディアテクにあるものは、ある特定の意図を持って構成された、ブランドをもったものたちばかりでした。

自分とは関係ないものには違和感を感じざるを得ないのです。

私は短時間で切り上げ、東京駅で列車の予約変更をして、早めに金沢に帰りました。

コメント (4)
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