ようこそ石の華へ

鉱物の部屋へのいざない

              【お知らせ】

【定休日は毎週水曜日です。】【7月も毎週日曜日は休業します。】【7月6日(土)は店主不在です。店は通常通り営業します。】

閏年

2016-02-29 14:14:02 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「閏年(うるうどし)」です。今日2月29日は4年ぶりなので、念の為、このブログのバックナンバーの4年前の2月を見てみました。すると、2012年2月29日は水曜日で、定休日だったので、ブログもお休みしていました。今日の話題はダブりません。それと、4年前はほとんど毎日ブログ更新をしていたのだ!と我ながら少し驚きました。最近はお店もブログもだれ気味なのでしょうか?そろそろ初心にかえらなければならないのかもしれません。

さて、サラリーマンだった頃は月給だったので、今日のような日は一日損をしたような気になっておりました。自営業となった今は一日得をしている事になるのですが、なかなかそんな気になれません。どちらかとそのような特別の日は休日にしたいところですが、そういう訳にはいきません。

そんな事を考えていると、その昔、私が中学生だった頃、「閏年」の日はカレンダーから外して休日にしてしまう、というアイデアで1年365日を固定化した万年カレンダー案を考案した事を思い出しました。それは、1年間の曜日も固定でき、毎年同じように使えるという便利なものでした。今思えば、それは世界暦や国際固定暦という太陽暦改暦案に近いものだったと思います。それは自分ではナイスアイデアだと思って、友達にその話をしたところ、思いがけない返答があり、ガッカリした思い出があります。その友達曰く「毎年、曜日が変化する方が良い。固定しまうとカレンダー業者や手帳メーカーが困ってしまう。」と言うような内容だったと思います。私はその時に人によって価値観の違いがある事を理解し、また、無駄が経済を動かしている、というような教訓を得た事を憶えています。万年カレンダーのような合理性は経済原理には合いません。ある意味、社会は非合理的な経済原理で動いているのです。

現実的には暦の変更は簡単にはできません。今日のような日を社会全体で休日にする事も非現実的な事です。都合の良い自分勝手な妄想だったと思います。

思えば、暦とは地球と太陽と月との天体運動と密接な関係があり、それは地球史の中では常に変化しており、厳密に言うと、現在も微妙に変化しております。1年365.2425日としたとしても、それは未来永劫の数字ではありません。それを人の都合で数字を固定してしまう事自体に無理があります。そう言う意味で、厳密な万年カレンダーなるものは存在しません。

このブログは石のブログです。太陽のような恒星は別として、惑星や衛星や小惑星のような天体は巨大な岩石でもあり、そのような関係から今日は暦の話題としました。




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遊色

2016-02-25 12:03:43 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「遊色」です。このブログでは、これまでに「遊色」という文字が何度か出て来た事がありましたが、タイトルになるのは初めてです。

「遊色」とはオパールに見られる美しい虹色の遊色効果の事です。「遊色」は構造色の一種で、その仕組みは科学的に解明されております。ただ、「遊色」の不思議な魅力は、そのような科学的な理解を超えたところにあります。それはその神秘的な美しさにあるのだろうと思います。

オパールの「遊色」は生き物のように変化します。単に白っぽいだけだったものが水に入れるだけで美しい「遊色」を発する事があります。それも時間の経過と共にその「遊色」部分が広がっていくケースもあります。また、逆に「遊色」が薄まったり、場合によっては消えてしまうケースもあります。それはオパールの顕微鏡サイズの粒の隙間への水の浸透具合や光の具合によっても変化するのだろうと思います。そのような現象に遭遇すると「遊色」という言葉の妥当性に納得してしまいます。

先日、Kさんからフロリダ旅行のお土産としてシーズニングを頂きました。ありがとうございました。昨日、そのシーズニングを使った鱈(たら)の焼き物を食べました。その際に、鱈の白身の部分に「遊色」が見えました。その部分を食べるのがもったいないような気がしてしまいましたが、あまりにも用意した白ワインに合っていて、美味しく食べてしまいました。

その鱈はスーパーで買ってきた焼き物用の大型の切り身でしたが、その形状をどこかで見た事があると思いました。そう言えば、昨日の朝、録画していたNHK-BSプレミアム「長谷川博己が秘密を探る!地下住居に住む人々の不思議な世界」という番組を見ました。その番組は南オーストラリアのクーバーピディを紹介したドキュメンタリーだったのですが、その中でオパール掘りの現場が出てきました。そして、巨大な白っぽいオパールも登場しました。実は、そのオパールがスーパーで見かけた鱈にそっくりなイメージだったのです。そして、面白い事に、その鱈にもオパールのような「遊色」が見えたのです。

私は食事の際に虹を見つけるとうれしくなります。それはグラスの中にある氷のクラックに見えるレインボーであったり、鰹(かつお)のタタキの切り身に見える虹であったり、今回は鱈の焼き物に見えた「遊色」でした。そのような「遊色」に出会うと得した気持ちになるのは私だけでしょうか?




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VR

2016-02-18 16:10:46 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「VR」です。「VR」とはバーチャルリアリティ(仮想現実)の事で、このブログでは過去に1回(「クーロンズ・ゲート」2015.05.22)の時に登場しておりました。

ここ最近、Web上でヘッドマウントディスプレイ(HMD)によるVRの話題が多くなって来ているような気がしております。どうも、今年はVR元年になるそうで、私的にはソニーのPlayStation VRの発売が待ち遠しい今日この頃です。

従来の3D映像は2次元画面と人の錯覚を利用した疑似的な3Dに過ぎませんでしたが、VRは一人称視点でありながらも現実的な奥行きなどの空間感が感じられるところが大きく異なります。それは映像体験で言えば、4Dのようなアトラクション的な大掛かりな装置は必要なく、HMDだけで可能というところが良く、いよいよ、3DからVRに進化した時代が来たような気がします。

VRの可能性は非常に大きいと思います。それはTVや映画のような受動的な映像体験を越えて、能動的、インタラクティブな映像体験が可能となります。それはNHK-BSプレミアムの「体感!グレートネイチャー」という番組のタイトルのように、「体感!」と言うに相応しい映像体験が可能となります。それはただ単に見るという行為を飛び越えて、見る側の方で思うがままにその作品世界に没入する事が出来ます。それは視覚・聴覚体験に過ぎないのですが、人の五官による知覚の割合は視覚・聴覚で9割以上の大半を占めるので、リアルな現実感を感じているようになるようです。

私も早く体感してみたいと思っております。その体験は単なるゲームの世界に留まらず、大袈裟に言うと、人の知覚に変革を及ぼす可能性もあります。影響力が大きいと思われるだけに、今後、良い方向に行って欲しいと思います。

想像するに、初期にはVRポルノとかVRペットとかが流行るのだろうと思います。私的には滝とか洞窟とかダイナミックな自然ものをVR体験したいと思います。例えば、普段は入れないレチュギア洞窟やナイカ鉱山をVR体験したいと夢想しております。それから、「パワーズ・オブ・テン」のような作品のVR版のようなものも欲しいと思います。それは人間サイズから宇宙サイズやミクロサイズまで途切れなくズームしてゆくものですが、VR版では直線的なズームだけではなく、それぞれのスケールで方向を変える事ができ、思いのままにコスモス世界を動き回る事が出来るというものです。恐らく、私が没入するのは掌サイズからルーペサイズの結晶世界だと思うのですが、そのようなVR作品が出れば即買いです。

VRの事を夢想すると妄想が広がってしまいました。
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新鉱物3

2016-02-14 15:47:54 | 日記・エッセイ・コラム
小説「斜方晶系」のストーリーに直方晶系(小説では斜方晶系)の新鉱物が登場しました。今日は「新鉱物3」とします。(過去に「新鉱物」2012.05.06、「新鉱物2」2013.04.04というタイトルを使っておりました。)

「新鉱物」と言うと、鉱物好きにとっては新しい鉱物と言う意味で何となく魅力的な響きを感じられる気になる存在だと思います。ただ、それはその意味する新しい鉱物と言うよりも、古くから自然界に存在しながら、人の世界、特に鉱物学的な世界で初めて独立種と承認されたと言う意味での「新」という文字が付加された「鉱物」であって、何も特段新しい訳ではありません。それはただ学問的に知らなかっただけの事であります。自然界にはまだまだ未知の鉱物は沢山あるはずだと思います。「新鉱物」だからと言って、それほど有難がる存在ではないと思います。実際、それらは肉眼的な見た目に魅力的なものは少なく、結晶美を愛でるという観点からはそれほど面白いものは少ないと言えます。

それでも、私のようなアマチュア鉱物愛好家にとっては「新鉱物」という存在は縁遠い存在で、それを発見するという機会はなかなか得る事が出来ない事なので、無視する事もできない存在だとも言えます。

そのような「新鉱物」は日本産でも多くのものが出てきておりますが、残念ながら石川県産の「新鉱物」はまだありません。(富山県、福井県もありませんので北陸3県には無い事になっております。)

石川県産でも「新鉱物」の発見を期待したいところですが、はたしでどうなのでしょうか?

ところで、「長手石」の存在を忘れてはなりません。「長手石」とは1931年に飯盛里安、吉村恂、畑晋の三氏が発表した新鉱物だったはずですが、「日本産の新鉱物」には出て来ません。それはどうしてなのか?少し調べてみました。

すると、日本で最初に新鉱物として承認されたのは轟石(1934年)で、「長手石」の発表よりも後です。新鉱物となるには学会による承認が必要なのです。因みに石川石は1922年に福島県石川郡で産出の報告がありましたが、独立した鉱物種として認められたのは1999年になってからでした。また、当初は独立種として報告されたものの、その後に否定されたものも多数あるそうで、どうも「長手石」もその中のひとつだった可能性が大です。

どうりで「長手石」は鉱物の本には出ていませんし、これまでに標本としても見た事がありませんでした。私はそれほど放射鉱物に興味がある訳ではなかったので、「長手石」の産地が石川県羽咋市長手島という比較的近い場所にあるはずの産地にもかかわらず、これまでそこに行った事がなかったのは関心が薄かったからなのかもしれません。

「新鉱物」、特に肉眼的に結晶を愛でる事のできる石川県産の「新鉱物」の登場を期待したいところです。






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斜方晶系

2016-02-04 12:10:55 | 日記・エッセイ・コラム
先日、もしかすると既に死語になってしまっているのかもしれませんが、ネットサーフィン中に「斜方晶系」に出会ってしまいました。

石好き、特に結晶鉱物好きにとっては「斜方晶系」というタイトルにはどうしても反応してしまうと思います。そして、それは小説でした。思わず「えっ?」と思ってしまいましたが、気になってすぐに購入して読みました。

非常に面白かったと思います。私は大学は文学部でしたので、理学部的な授業や発表には実体験がないのですが、それでもこの小説の中に自然に入り込んで行けました。

読む前に「斜方晶系」(木ノ内嗣郎 作 2014.10.26発行 郁朋社)の目次を見ると「黒鉱の起源」とか「黒鉱鉱床の後生説」や「黒鉱鉱床の同生説」となっており、花岡鉱山の鉱床図や鉱床形態図も載っており、さらに巻末には参考資料のページもあったりして、風変わりな小説だと思いながらも読み始めました。私はどちらかというと産業的な鉱床学にはそれほど興味がある訳ではありません。さらに肉眼的に結晶を愛でる事が出来ない資源的な黒鉱にもそれほど興味はありません。そんな私でしたが、この小説はどこまでが現実でどこまでが虚構なのかが良くわからないままにその虚実皮膜の世界に引き込まれていきました。

前半は軍国主義時代の花岡鉱山が舞台となっており、その暗い時代背景がリアルに伝わって来ました。後半は戦後の鉱床学の研究者達の世界が描かれており、黒鉱鉱山開発という日本の昭和における金属鉱床学の歴史を垣間見たような気がしました。そして、そこには秘めたラブロマンスもあり、読後の印象も満足感が残りました。

ただ、恐らく、作者がプロの研究者だったせいなのか?学術的な表現が多く、文学的に鉱物愛を感じられる表現が少なかったように思えます。唯一好感が持てた部分としては、大学の銀杏並木を「歩道はさながら黄鉄鉱の坑道のように輝いていた。」という部分だけで、この小説には鉱物愛的な表現を期待してはいけません。

それから、偶然なのかもしれませんが、この小説が出版された直後に、日本結晶学会の総会において「斜方晶系」という用語の使用はやめて「直方晶系」という用語を使おう、という提案が決議されたようです。(その事自体は私も納得です。)

小説「斜方晶系」の題名の起源がなくなってしまったのです。面白い現象だと思いました。



斜方晶系
木ノ内 嗣郎
郁朋社



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