トドクロちゃんと山登り

自然が好きで日本アルプスと近郊の山登り。
高山植物や四季折々の花を愛で。
史跡・歴史・ドライブがすきな自由人です。

中山道 鵜沼宿〜美江寺宿

2024年03月23日 | データ
■2024.03.22 今日は日帰りで中山道の鵜沼宿〜美江寺宿間を歩く。
6:02分発の新鵜沼行に乘る。名鉄電車で乗換なしの直通。
7:40新鵜沼駅に到着。
地図アプリで中山道に合流するルートを探す。
歩くこと15分程で前回の到達宿「鵜沼宿」に合流。
先日の寒波で山は雪化粧。そこから吹き下ろす風が冷たく、厚手の手袋に変える。

鵜沼宿は往時を偲ばせる宿場町として景観保護などで再生された町並み。
ここに大垣城本丸の門「旧大垣城鉄門」が移築されている。
関ヶ原の際、大垣城は石田三成の一時的な本拠地になった。
この石田三成が見た鉄門ですね。

中山道を歩いていると必ず芭蕉の句碑に巡り合う。
※中山道鵜沼宿と芭蕉
 貞享二年(# 1685)、「野ざらし紀行 」途中の松尾芭蕉 は、鵜沼を訪れ脇本陣に滞在したと伝えられています。
 その後、貞享五年(# 1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣を訪れ、
 汲溜の水泡たつや蝉の声
の句を詠み、さらに同年八月頃、再度訪れた脇本陣で菊花酒 のもてなしを受けた折りには、主人の求めに応じて楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられて います。
 ふく志るも喰へは喰せよきく乃酒
 その後、木曽路を通って信濃へ更科記行 に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、
 おくられつ送りつ果ハ木曽の秋
と詠み、美濃の俳人達との別れを惜しんだといわれます。

当時の町並みは感じられる。

国宝犬山城をコンデジの望遠で撮影。
歩いていると雲間に雪山が「伊吹山」先日の降雪で冬景色に。
結局今回の踏破は伊吹山に向かって歩き続けることになる。
ここは桜が咲きだしていた。

鵜沼宿から岐阜市の加納宿までは、四理十町(約17km)と離れていたため、幾つか立場がいくつか設けられていた。その中でも岐阜市境に近い新加納の立場は、間の宿 新加納として賑わっていたようだ。 現在では唯一「かぎの手になった街道や石造りの道標」などに往時を偲ぶことができます。

3時間程掛かり加納宿に到着。
少し早いがお昼とする。
いまお気に入りの「ミルキークイーン」のおにぎり。
もっちりして冷めていても美味しいは本当だった。
加納宿
人口:2728人、家数:805軒、本陣:1軒、脇本陣:1軒、旅籠:35軒(1843年)

加納宿は城下町の宿場なので規模が大きかったようだ。
この辺りは秋葉神社の多いこと多いこと。城下町なの火防(ひぶせ)の神様が多いのでしょう。
中山道加納宿まちづくり交流センターに立ち寄り。
先日「水戸黄門」で岐阜和傘の話が出てきた。
岐阜和傘は、江戸時代後期に加納(現在の岐阜市南部)藩主が奨励し、江戸末期には年間50万本もの和傘生産があったようです。
「開いて花、閉じて竹」と謳われる、和傘の美しさ。
ここで和傘の開き方を係の人に教えてもらった。
閉じている状態で手首をひねると開きます。
斎藤道三や織田信長ゆかりの金華山「岐阜城」も見える。
今回は素通りです。

加納宿から河渡宿までは6km。
長良川を渡ります。
岐阜城、御嶽山、伊吹山、野郷白山など見えます。

橋を渡れば河渡宿
河渡宿。
人口:272人、家数:64軒、本陣:1軒、脇本陣:なし、旅籠:24軒(1843年)

「河渡の渡し」

独立峰の「御嶽は目立ちます」
河渡宿から美江寺宿までは4km。
伊吹山がでかくなるに連れて風が冷たい。
もう手が届く感じです。

美江寺宿
人口:582人、家数:136軒、本陣:1軒、脇本陣:なし、旅籠:11軒(1843年)

この地には奈良時代、養老年中に建立された美江寺(美江寺観音)がありました。しかし、戦国時代、斎藤道三によって岐阜へ移されましたが、地名だけは残りました。

今回の目的地はここまでです。
ここから樽見鉄道、JR、名鉄と乗り継いで帰ります。
今回の区間は往時を偲ぶものは少なく、歩き主体でした。
距離27km、歩数42,000歩、所要時間6時間。


次回はこの宿場を歩きます。
美江寺宿 [瑞穂市美江寺]
赤坂宿 [大垣市赤坂町]
垂井宿 [垂井町(その他)]
関ヶ原宿 [関ケ原町関ケ原]
今須宿 [関ケ原町今須]
柏原宿 [米原市柏原]

ここまでくれば中山道岐阜十七宿もコンプリートです。

その先はまた考えます。


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