西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

泰斗、空師、空書・・

2007-01-05 | 言語・字・言語遊戯
先のブログで吉武泰水先生は建築計画学の泰斗(たいとう)であると言った。この泰斗即ち大家を辞書(例えば『広辞苑』第五版)で調べても出てこない。同じく空師(そらし、木を伐採する人、空に近いところで仕事をするために言う)、空書(くうしょ、空で空気に字を書いて示すこと)も『広辞苑』に載っていない、まあかって私には『広辞苑』第四版になかった「散骨」「敗着」を第五版に載せさせた実績がある。これら三つも『広辞苑』編集部に言ってみようかな。第六版に載るかもしれない。

吉武泰水先生のことー歴史との「つながり」-

2007-01-05 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
建築計画学の泰斗(Great Authority)・吉武泰水(よしたけ・やすみ)先生(東大教授、筑波大副学長、九州芸工大、神戸芸工大学長歴任)は2003年5月26日に86歳で亡くなられた。3年半以上前である。で、今日、たまたま吉武先生の弟子の鈴木成文先生(昭和24年1949年に東大建築学科卒、東大教授、神戸芸工大学長歴任、現80歳か)の「文文日記」をネットで見ていて吉武先生を思い出した。私が吉武先生に親しく話をしたのは何時だったか建築学会・建築計画委員会の懇親会で、その時は夢の話をしたと思う。当時、夢の研究もされていた。ところで吉武先生は1916年のお生れなので私より25歳上である。今生きておられるなら90歳である。で、その追悼文をネット検索で読んだ。鈴木先生は西(京大)の西山卯三先生が社会派・行動派だったとしたら東の吉武泰水先生は自然派・環境派ではなかったか、と言っておられる。それらを見て思ったのは、現実的な建築計画の研究において以後の道を切り開かれた業績をおいておいて、吉武先生のその後の晩年の取り組みを見て、鴨長明の「方丈記」の方丈の(京都での)探索、九州芸工大キャンパス計画は中国の四合院の伝統を踏まえる、漢字に造詣深い、ギリシャ神殿にも病院の関係で関心あり等を考えてみると、最終的に「東西の歴史とのつながり」を意識していた、と思わざるをえません。西山先生の最後のまとまった業績も『すまい考今学』で住宅の歴史的研究でした。私は、人間とのつながり、環境とのつながりに加えて歴史とのつながりの重要性を言っていますが、最終的には、歴史とのつながりに落ち着くのかな、と改めて思いました。
(写真は、吉武先生のスケッチ)
偲ぶ会アドレス:http://www.slis.tsukuba.ac.jp/~uematsu/yoshitake/index.html

右回りと外回り

2007-01-05 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
2日、3日と娘家族のいる名古屋に夫婦で行った。正月に行くのは初めてである。現在、こちらが「身軽」なためである。住所は熱田区で最寄り駅は地下鉄名港線沿線である。この線は名古屋の副都心ともいうべき金山で「環状線」(名城線)につながっている。帰りは、これで栄まで行って又「東山線」に乗り換えて名古屋駅まで乗り、近鉄特急に乗り換えて西大寺まで戻った。で、この名古屋の名城線は何時出来たのか、良く知らないが大曽根や名古屋ドーム、名古屋大学も通っている。この金山から栄、名城、大曽根、名古屋大学と回るのを「右回り」と言っているようだ。大阪のJR環状線では、鶴橋から天王寺に行くのと同じ方向だが、大阪では「外回り」と言っている。確かに環状線にある4本のレールのうち外側2本が、左側通行で、この「外回り」となり、分りやすい。名古屋も確かに時計をイメージすると「右回り」となる。東京の山手線は、どう呼んでいたっけ。