それは、暗闇祭りとして知られる地元の大国魂神社のお祭りの為、町内の準備をしていた先週の祝日の朝、年番頭に指図を受けた言葉だ。町内の班単位に数年おきに回ってくるお祭りの奉仕の役割のことを、「年番」という。その取りまとめ役を年番頭といって、前週の集会で指名された年長の方だ。
退職した時から地元の活動には嫌がらず参加する積りでいたが、それまでは仕事一本で連休といえば登山や旅行をしていた。急に顔を出しても馴染みの人達は数人で、何も知らないのかという顔をされても、指示されたことを黙ってやるしかない。
お祭り現役の高齢化
見回すと周りの人達の多くは引退された年長の方ばかりで、私は若手ということになる。「シニア・若いの」とはうまいこという。年番は10年に一度程度周ってくるのだが、近年人口がもっと減った2丁目は5年に一度になったという。殆どは古くからの家で人の出入りが無い上に、新しいアパートの住人は、地元の行事には殆ど参加されないので、年番の高齢化が進んでいるのだそうだ。
準備といえば、町内の倉庫から子供神輿や太鼓を引き出し、旧甲州街道沿いに会所を作り、提灯をぶら下げる仕掛けを作る。更に、その近くに神輿や太鼓を祭りの間収める小屋と、寄付を張り出すボードを作る程度の半日仕事だ。旧道の交通を一時止めないと作業が出来ないが、お祭りとなれば自然と威張って公道を歩いて作業をした。
昨日3日からいよいよお祭りの本番、タンスの奥に10年間しまってあったハッピを着て会所に出向いた。先ずは景気付けにビールを飲まされた。午後からの子供神輿と太鼓の町内巡行にお守り役として同行、必要に応じて提灯を上げ下げして交通整理役をやった。途中お囃子保存会の大きな山車と一緒に進み、笛や太鼓で祭りらしくなった。
お祭り子供人口の減少
途中の広場に来ると予め準備してあったお酒を飲み、それを3,4回繰り返して休みを入れながら町内巡りを続けた。10年前には神輿の後を何十人も子供が続いた。しかし、今は子供達が殆ど来ない。子供の絶対数が減ったのと、お祭りより他に楽しいことが沢山あるのではと長老は言う。結果として、神輿は台車に乗せて引き回し、所々で担ぎ上げ揺らすのは全員お年寄り。
小学校の横を進むと、サッカーのユニフォーム姿の大勢の子供達を見かけた。私の子供がこの年令だった頃、私もそうさせていた。というか、子供の好きなようにさせた。お囃子の山車に乗って太鼓や笛を吹き踊っている子達はまだ員数が揃っていたのだが、子供用の神輿や太鼓は余り興味が無いのかもしれない。
普段、ウォーキングやバドミントンをしている割には、3時間も町内を隅々歩くとすっかり疲労感が残った。それも束の間、4時半にはもう飯を食えといわれ、公会堂の台所で奥さん達が作った夕食を頂いた。そして、又、ビール。夜の行事の競馬式までには時間があるので、一旦自宅に戻りテレビを見ているうちにウトウトし、気がつくと7時近くになっていた。集合時間をとっくに過ぎていた。
競馬式(古式競馬)に沸く
慌てて神社に行くと、集合場所には誰もいなかった。既に駒(馬)を借りに東京競馬場に向かい、そこから市内を行列していた。遠目に烏帽子を被った古装束の騎手が沿道一杯の人の頭から突き出て進んでいく。近づくと、その前にシャンシャンと地面を敲く金棒役が二人、駒の後に烏帽子をつけ警固提灯を持った行事役の年番が従っていた。
遅れて行ったので烏帽子も提灯も無いが、行事の列に紛れ込んだ。今まで見物客の一人として外から見ていたが、行列の中に入って歩くのは思ったより気分がいい。神社に入り駒が御祓いを受けた後、行事が駒の先にたって市内目抜きのケヤキ並木を進み、当日最大のアトラクションである競馬式が始まった。
かつてはケヤキ並木の広い側道は舗装されておらず、4頭の競馬馬が疾走した。近くで見ると、物凄い迫力だった。聞くと最近は6頭の馬がケヤキ並木の本道を滑走するようになったという。それでも、いざ走り始めると中々勇壮だった。わが宮の駒の騎手は乗馬クラブの先生だそうで、古装束の良く似合う彼女が上体を全く揺らさず飛ぶ様に走る姿にうっとり見とれた。通り過ぎる度に拍手が舞い起こった。3往復して競馬式は終了、そのまま会所に戻り散会、今回の役目を終えた。
今日午前中のバドミントンの練習に顔を出し、メンバーに聞くとお祭りには殆ど関心なし、競馬式があったことも知らない。まあ、そんなものだ。私もそうだった。連休といえども渋滞を予想して遠出を避けた人が多く、お祭りも関係なし、体育館には何時もと同じ顔ぶれがいた。■
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