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「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」

2019年11月28日 19時06分59秒 | 映画レビュー

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」

 
 
2019/11/28 19:05
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「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」


旅先で映画館に行くのが好きだ。
以前ユナイテッドシネマの上映前のCMムービーで
英語のナレーションでアメリカのセールスマンが、セールスの長い旅に出ている時、映画館に行く、そこは慣れ親しんだ自分の家のようだから、というものがあって、それがとても素敵だった。

で、高崎に出張になったので、検索したら「ドリーミング村上春樹」というドキュメンタリー映画をやっていたので見たのだった。
村上春樹の小説は世界中で翻訳されているが、ポーランド語版は一人の女性によって訳されている。その訳者のドキュメンタリーだ。

良くできたドキュメンタリーかどうかはわからなかったが、映画中にカエルくんが出て来たり、月が2つあったりとさりげない上品なユーモアが素敵だった。短い映画だったが、出張中で仕事も詰まっていたので、それも良かった。

で、本論だが、翻訳の有用性と不可能性という相反することを強く感じさせられたのだった。

冒頭の「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」を訳するのに、訳者は非常に苦労するが、その文章は英語で、センテンスなのか、リタラチャーなのかでずっと悩んでいる。映画の最後の文学、小説に相当するリタラチャーを採用するようだが、それはちょっと違うなと思った、ただし一文だけを意味するセンテンス、もフィットしない。つまり、やはり訳すことはできないのであって、これは賽の河原を積んでは倒されることによく似ている。

ポーランドの人にとって村上春樹の小説を読むには、ポーランド語に訳されることは非常に大きな有用性がある。
しかし、本質的には書かれた言語でしか、本質はつかむことができない。

私は下手なジャズボーカルを歌うが、やはり英語の歌詞は、英語でしか表現できない、心の中の歌、動き、感情も英語がネイティブになっている。
ちなみにこれが出来ていないジャズボーカルを聴くことが多々あるが、これはとてもきけない。
同時に、ポルトガル語で歌いたいボサノバがあるが、めくらめっぽうカタカナでおぼえて歌うのは、お経を暗記してただ言うだけの門前の小僧のようで、それもできない。せめて歌う歌詞の分だけではポルトガル語の意味を知りたいと思う。


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