ほぼ週刊イケヤ新聞ブログ版

コピーライター・ミュージシャン池谷恵司の公式ブログです。
私的メールマガジン「ほぼ週刊イケヤ新聞」のブログ版です。

高円寺の阿波踊りで、泣きそうになった。祝祭の熱狂は人生の本質に感応する。

2007年08月26日 07時24分07秒 | Photo&エッセイ
東京に来て、どうだろう、もう25年なのか……。四半世紀東京に住んだが、高円寺の阿波踊りは今日(8月25日)はじめて見たのだった。とはいえ、25年前にはおそらくまだ阿波踊りはなかったのではないか。

阿波踊りはもちろん徳島のもので、高円寺なんてバッタものだなどと息巻いていて見たこともなかったが(そのくせ徳島の阿波踊りだってみたことはないのだ)が、今日は子連れで、新宿まで自転車で行った帰り、それこそほんとにフラリと帰り際に寄ってみたのだった。

たくさんの連が、踊っているのが遠くできこえる。大太鼓の低い音、金物の甲高いシャッフルビート、笛や三味線の音。それを聴いているだけで、DNAが騒ぎはじめるのが自覚できる。俺は生粋の祭りバカなのだ。元はといえば浜松祭り。ここで生後4ヶ月程度で祭りの手荒い歓迎を受けそれ以来毎年浜松祭りを指折り楽しみに生きるわけで、毎日が祭りまでのカウントダウンデーだった……。ま、こんな感じの祭りで、しかも僕の音楽の(ラッパを吹くことの)ルーツだったりしますが。

JR高円寺の駅前通につくと、そこは人でいっぱいであり、音しか聞こえない。しかし踊りの波動は充満している。しばらく子連れでさまようと、偶然だが終了地点の路地でふと坐ってみられることができた。

3つか4つ見ただろうか、それこそ足を踏まれそうな間近である。ものすごい迫力と躍動感で、生命の爆発がそこにあった。まったく無意識、無条件に涙が出そうになった。なぜかわからないが、文化的な意味での感動ではないな。もっと原始的な生命感の共振という感じか。

祝祭の高揚感は、脱自。エクスタシーにあるとよく言われるし、エクスタシーという言葉から分かるように、セックスを比喩に持ち出されることが多い、もちろん、それは正しいだろう。

でもそれは涙をよばないよね。むしろ、ぼくは祝祭は人生を象徴している→それゆえ遺伝子レベルでお互いの生命が共振する→エクスタシスを感じる、それが原始的ななにがしかの名付け得ない感情を呼ぶ→涙が流れる、ではないか、思うのだが、いかがだろうか。                                     
思えば、人生とは80年に引き伸ばされたお祭り、阿波踊りみたいなものかもしれない。地球が生まれてから今までという時間感覚で見てみれば、一人の人間の生涯など、アワが生まれてはぜるまでの、祝祭。生物となって生まれたものは、祝祭であり、また次の世代には鉱物とか、そういう無機物になる、そしてまた、次のカーニバル、つまり生物の分子となるのを待つ、そんなイメージか。


って、阿波踊りでそこまで考えるのもどうかと思うが、生物の分子が持つ爆発的な祝祭感が、共振するように思うのだ。遺伝子が僕に言う。「人生は、祝福された祝祭なのだ。それを堪能せよ。ライフ・イズ・ア・カーニバル、と、ザ・バンドも歌っているだろ」。




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