ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

ちょっと寄り道・・・

2008年06月18日 00時52分13秒 | Weblog
「鹿児島へ・・・10」の前に、記憶が曖昧になるその前に綴っておきたい思い出ができた。

大学を卒業して何度か出張の折りに「雄飛寮」へ立ち寄った。と言うより、寮の後輩に連絡し、一泊の宿として利用した。
変わらぬかび臭さと汚さ(笑)が嬉しかった。
夜は「かどの店」へ行き、後輩達と飲んだ。おばちゃんの笑顔がたまらなく懐かしく、学生時代にタイムスリップした気分だった。

そして自分が結婚してすぐの時、女房を連れて東京ディズニーランドへ行った。
前日に寮のすぐとなりにある「ロータス」という喫茶店へ行き、やはり当時お世話になった店のママさんに会ってきた。
夜、かどの店で飲んだ。おばちゃんに女房を紹介し、思い出話に花が咲いた。
そして、すでに情報として知ってはいたことだったが、寮の跡地に行ってみた。
有刺鉄線が張られ、立ち入ることはできなかった。
「ふざけるなよ! 何が関係者以外の立ち入りを禁ずるだと・・・」
鉄線をかいくぐり中へと進んだ。
何もない。何も残されていないまっさらな更地に雑草だけが生えていた。
池の跡があった。
隣のクリーニング店の裏庭にある「びわの木」はそのままだった。

「ここが玄関で、ここが洗濯場。そしてここに俺が入寮して初めて入った5号室があったんだ。」
「そうそう、階段下の倉庫はここ。金が無くなると、この中にあったファンタの空瓶を店に持って行って、換金してパンを買って食べたんだよ。」
「そしてここが俺が4年の時の部屋。最後の部屋だった3号室があったんだ。あったんだよ。ここに3号室があったんだよ!」

地面にひざまつき、草をわしづかみながらその場で泣き崩れた。
女房の前で大声で泣いた。

せめて瓦の欠片でも持って帰ろうと思ったが、それすら落ちてはいなかった。
目を腫らしたままかどの店へ戻ると、現役の学生が数名来ていた。
それは最後の雄飛寮生だった。おばちゃんがわざわざ呼んでくれたのだ。
もちろん自分との面識などない。なのにOBが来ているからというだけで来てくれたのだった。
「初めまして○○先輩。」
「失礼ですが、ひょっとしてこれって先輩が残していった物でしょうか?」
と言って一枚の板を差し出した。
そこには
「一年一年と嘆くじゃないよ。誰でも初めは一年生」
「二年二年と威張るじゃないよ。一年経ったら皆二年」
「三年三年と嘯くなかれ。進級制超えられなくても皆三年」
「四年四年と語るじゃないよ。歳とりゃ田舎へ帰えりゃんせ」
昭和58年3月27日。
栃木県出身○○○○ 雄飛寮を去る。
と、書かれていた。
驚いた。それは自分が寮を去る前日。つまり田舎へ帰る前日の夜、3号室の板に書いた文字だった。
そしてもう一つ。古びたやかんを見せてくれた。
「湯が沸いたら部屋まで持ってこい! 3年○○」と書かれたやかんだった。
間違いない。これも自分が使っていた物だ。

「どうしてこれが・・・」と尋ねた。
「寮が取り壊される前日に、何か思い出にとっておきたくて、これを勝手に持ってきたんです。おばちゃんから○○さんというOBが来てるよと聞いて、ひょっとしたらこれの持ち主かもと思って持ってきたんです。」

まさかの再会だった。よくぞ今までこんな物が・・・
嬉しさと、懐かしさと、どうしようもない淋しさがこみ上げてきた。
泣くまい。後輩の前だけは泣くまいと堪えた。
だが気がつくと笑いながら泣いていた。
みんな泣いていた。
「悔しかったです。情けなかったです。自分たちの寮が取り壊されるのがわかっていても、いろんな抵抗はしましたがだめだったんです。先輩、申し訳ありませんでした。」と言って自分に頭を下げた。
何年か振りでエールを切った。初めて会う後輩達と肩を組み寮歌を高吟した。

あれからもう20年という歳月が過ぎた。
たとえ20年であろうと、何十年であろうと決して色褪せることのない雄飛寮での生活。
今これを書いていながら胸が痛い。
ちょっとセンチメンタルな夜になりそうだ。