明治から太平洋戦争後まで
廣島と呉を中心に
廣島県産業奨励館
↓前回記事は、こちら↓
あのころの廣島・呉(その1)
今年(2016年)の秋、
映画『この世界の片隅に』(監督・脚本:片渕須直)
が公開される。
広島・呉市内で配布中の
ロケーションマップに出てくる場所、
そうでない場所も含めて、
かつての廣島と呉について話をしてみたいと思います。
第2回目の今日は、
廣島県産業奨励館じゃ。
↓映画『この世界の片隅に』については、こちら↓
映画「この世界の片隅に」公式サイト
↓漫画『この世界の片隅に』については、こちら↓
こうの 史代『この世界の片隅に(前編)』Amazon
こうの 史代『この世界の片隅に(後編)』Amazon
廣島県産業奨励館(以下、「奨励館」と略す)
いう名前を聞いても、
ピンとこん方がほとんどじゃろう。
奨励館は、今の原爆ドーム。
この建物、原作漫画では、
第1話(『冬の記憶(9年1月)』)と
第6回(『19年3月』)で奨励館じゃったころが、
第44回(『人待ちの街(21年1月)』)では、
原子爆弾が投下された後
廃墟になった姿が描かれとるんじゃ。
奨励館は、廣島県の物産品の販売促進を図る拠点として
今から101年前の1915年(大正4)
「廣島県物産陳列館」として建てられた。
チェコの建築家ヤン・レツル氏による設計で、
全体は3階建、正面中央部分5階建で、
その上に銅板の楕円形ドームがあった。
こうした建物は当時の廣島では非常に珍しく、
川面に映えるモダンな美しさもあって
廣島名所の一つじゃったそうな。
また、産業の奨励だけじゃのうて、
博物館・美術館としても使われ、
廣島の文化振興の場としての役割を担っとったんじゃと。
そういや、3年前の2013年
全国菓子大博覧会が広島市で行われたが、
菓子博の前身にあたる第4回全国菓子飴大品評会が1921年、
廣島県立商品陳列所(=奨励館)で行われたこともあるんじゃ。
今から71年前の1945年(昭和20年)8月6日、
奨励館の南東約160メートル、
上空約580メートルの地点で、
アメリカが投下した原子爆弾が炸裂。
先ほども書いたが、この建物の上には
銅板の楕円形ドームがあった。
銅は鉄に比べて融点が低いため、
原子爆弾の熱線で、銅製の屋根が最初に溶けてしもうた。
建物のほぼ真上から、熱線のあとに吹きつけた爆風は
溶けた屋根から入って建物内を通過したため、
今のように枠組みと外壁が残ったということじゃ。
その楕円形ドームの鉄骨の形から、
「原爆ドーム」と呼ばれるようになった
と言われとるんじゃの。
注目してほしいのが、
建物と川をつなぐように取り付けられた雁木。
雁木いうのは、川のそばに作られた、階段状の船着き場のこと。
船での輸送が盛んじゃった江戸時代に発達して、
廣島市内には、今も400ヶ所以上の雁木が残っとるそうじゃ。
奨励館があったところには、
江戸時代、廣島藩の米蔵があった。
そのころからここには雁木があって、
川船で運んだ物資の積み下ろしをしていた、
という話を広島城の学芸員の方から聞いたことがある。
雁木を単独で見るんじゃのうて、
建物(この場合、奨励館)と一揃いで見る
というわけじゃ。
↓広島城については、こちら↓
広島城ホームページ
映画『この世界の片隅に』の監督
片渕須直(かたぶち すなお)さんは
次のように書いとられる。
原爆ドームの下の雁木だけが、
この建物と同時に残されたもので、
戦前の形をとどめている。
「第13回 『生きている町』との触れ合い」1300日の記録[片渕須直]
原作漫画の第1話では、
主人公の浦野(うらの)すずが、
川船に乗って川を上っていった。
この建物は、船で川を行き来しよった人たちにとって
今のように地上から見るよりも、
川から見上げるものじゃったんかもしれん。
↓原爆ドームについては、こちら↓
「原爆ドーム」広島市
撮影日:2016年4月17日
今日は、廣島県産業奨励館、
今の原爆ドームについて話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。
廣島と呉を中心に
廣島県産業奨励館
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あのころの廣島・呉(その1)
今年(2016年)の秋、
映画『この世界の片隅に』(監督・脚本:片渕須直)
が公開される。
広島・呉市内で配布中の
ロケーションマップに出てくる場所、
そうでない場所も含めて、
かつての廣島と呉について話をしてみたいと思います。
第2回目の今日は、
廣島県産業奨励館じゃ。
↓映画『この世界の片隅に』については、こちら↓
映画「この世界の片隅に」公式サイト
↓漫画『この世界の片隅に』については、こちら↓
こうの 史代『この世界の片隅に(前編)』Amazon
こうの 史代『この世界の片隅に(後編)』Amazon
廣島県産業奨励館(以下、「奨励館」と略す)
いう名前を聞いても、
ピンとこん方がほとんどじゃろう。
奨励館は、今の原爆ドーム。
この建物、原作漫画では、
第1話(『冬の記憶(9年1月)』)と
第6回(『19年3月』)で奨励館じゃったころが、
第44回(『人待ちの街(21年1月)』)では、
原子爆弾が投下された後
廃墟になった姿が描かれとるんじゃ。
奨励館は、廣島県の物産品の販売促進を図る拠点として
今から101年前の1915年(大正4)
「廣島県物産陳列館」として建てられた。
チェコの建築家ヤン・レツル氏による設計で、
全体は3階建、正面中央部分5階建で、
その上に銅板の楕円形ドームがあった。
こうした建物は当時の廣島では非常に珍しく、
川面に映えるモダンな美しさもあって
廣島名所の一つじゃったそうな。
また、産業の奨励だけじゃのうて、
博物館・美術館としても使われ、
廣島の文化振興の場としての役割を担っとったんじゃと。
そういや、3年前の2013年
全国菓子大博覧会が広島市で行われたが、
菓子博の前身にあたる第4回全国菓子飴大品評会が1921年、
廣島県立商品陳列所(=奨励館)で行われたこともあるんじゃ。
今から71年前の1945年(昭和20年)8月6日、
奨励館の南東約160メートル、
上空約580メートルの地点で、
アメリカが投下した原子爆弾が炸裂。
先ほども書いたが、この建物の上には
銅板の楕円形ドームがあった。
銅は鉄に比べて融点が低いため、
原子爆弾の熱線で、銅製の屋根が最初に溶けてしもうた。
建物のほぼ真上から、熱線のあとに吹きつけた爆風は
溶けた屋根から入って建物内を通過したため、
今のように枠組みと外壁が残ったということじゃ。
その楕円形ドームの鉄骨の形から、
「原爆ドーム」と呼ばれるようになった
と言われとるんじゃの。
注目してほしいのが、
建物と川をつなぐように取り付けられた雁木。
雁木いうのは、川のそばに作られた、階段状の船着き場のこと。
船での輸送が盛んじゃった江戸時代に発達して、
廣島市内には、今も400ヶ所以上の雁木が残っとるそうじゃ。
奨励館があったところには、
江戸時代、廣島藩の米蔵があった。
そのころからここには雁木があって、
川船で運んだ物資の積み下ろしをしていた、
という話を広島城の学芸員の方から聞いたことがある。
雁木を単独で見るんじゃのうて、
建物(この場合、奨励館)と一揃いで見る
というわけじゃ。
↓広島城については、こちら↓
広島城ホームページ
映画『この世界の片隅に』の監督
片渕須直(かたぶち すなお)さんは
次のように書いとられる。
原爆ドームの下の雁木だけが、
この建物と同時に残されたもので、
戦前の形をとどめている。
「第13回 『生きている町』との触れ合い」1300日の記録[片渕須直]
原作漫画の第1話では、
主人公の浦野(うらの)すずが、
川船に乗って川を上っていった。
この建物は、船で川を行き来しよった人たちにとって
今のように地上から見るよりも、
川から見上げるものじゃったんかもしれん。
↓原爆ドームについては、こちら↓
「原爆ドーム」広島市
撮影日:2016年4月17日
今日は、廣島県産業奨励館、
今の原爆ドームについて話をさせてもらいました。
ほいじゃあ、またの。