3254号 29.11.27(月)
曰く、古は文を為(つく)るを學びしや否や、と。曰く、人は六経を見れば、便(すなわ)ち以て聖人も亦文を作ると謂ふ。聖人亦胸中に蘊(つ)む所を攄発し、自ら文を成すを知らざるのみ。謂ふ所の徳有る者は必ず言有るものなり、と。『近思録』111
「昔は作文の稽古をしたのでしょうか。」「人は六経を見ると、聖人も文を綴ったと思うのだが、聖人が胸中に蓄えたものを述べ、それが自然に文章になったことに気づかない。『徳あるものは、必ずりっぱなことを言う。』ということである。」112
【コメント】現代の考え方とは相いれない部分もあるような気も致します。それでも、ただ真面目に学び続けることが大事ではないかと思います。
どんなに名を馳せている人でも、最初から万全であったということはないでしょう。だから、せっせと飽くことなく努力することが大事だと思います。
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『不動心』(第118回)
この人生においてかけがえのないものはただ一つ
人生を生き抜き死んで名を忘れられてしまった者にしても、それはそれでどうということもない。この人生においてかけがえのないものはただ一つ、それは正しく考え正しくふるまい、虚偽や不正に対しても慈愛の心を失うことなく日々を生き抜いていくことなのである。
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『臥牛先生遺教抄』(第76回)
何事も難き事は我真先に引き受け、易き事は人をしてなさしむべし。たとえば旨酒嘉肴の席に出ずる時、心なく人より先に手を出す者は徳に入り難し。
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歴史群像シリーズ「西郷隆盛」--幕府軍決戦に臨むも緒戦で潰滅す--鳥羽・伏見の戦い
幕軍ついに薩軍と対戦を決意
慶応二年(一八六六)薩長同盟が成立、その核である西郷隆盛・大久保利通は「武力による討幕」を目論む。だが翌年十月徳川慶喜の大政奉還で、討幕派は開戦の機を逸した。
二か月後の王政復古のクーデターでは会津・桑名両軍を御所から追い、小御所会議で慶喜の「辞官・納地」を決定させたが、あまりにも無理押しな討幕派の策はうまく進展しなかった。それどころか山内容堂ら公議政体派の動きが功を奏し、慶喜の新政権参画という気配まで現れたのである。
こうした状況下、江戸で薩摩藩邸焼討ち事件が起こった。かねてより西郷の策謀で江戸市中を騒がせていた浪士の巣=薩摩藩邸を、堪り兼ねた幕府方が襲撃したのである。
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荘内での吟詠大会の興奮未だ覚めやらずという気分です。とにかく素晴らしい荘内への旅でした。お世話になりました関係者の皆様、本当に有り難うございました。
『南洲翁遺訓』素読会を一緒にしてくださった中澤先生から携帯への電話がございましたので、夕刻私の方から電話をしてみました。
ところが東恵美子先生と秋田へ行っての帰りだと伺いました。西郷隆盛、そして『南洲翁遺訓』の普及に真摯にお勤めして下さるお二人に頭の下がる思いです。是非頑張ってくださいませ。西郷先生もお喜びになられていることと存じます。
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曰く、古は文を為(つく)るを學びしや否や、と。曰く、人は六経を見れば、便(すなわ)ち以て聖人も亦文を作ると謂ふ。聖人亦胸中に蘊(つ)む所を攄発し、自ら文を成すを知らざるのみ。謂ふ所の徳有る者は必ず言有るものなり、と。『近思録』111
「昔は作文の稽古をしたのでしょうか。」「人は六経を見ると、聖人も文を綴ったと思うのだが、聖人が胸中に蓄えたものを述べ、それが自然に文章になったことに気づかない。『徳あるものは、必ずりっぱなことを言う。』ということである。」112
【コメント】現代の考え方とは相いれない部分もあるような気も致します。それでも、ただ真面目に学び続けることが大事ではないかと思います。
どんなに名を馳せている人でも、最初から万全であったということはないでしょう。だから、せっせと飽くことなく努力することが大事だと思います。
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『不動心』(第118回)
この人生においてかけがえのないものはただ一つ
人生を生き抜き死んで名を忘れられてしまった者にしても、それはそれでどうということもない。この人生においてかけがえのないものはただ一つ、それは正しく考え正しくふるまい、虚偽や不正に対しても慈愛の心を失うことなく日々を生き抜いていくことなのである。
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『臥牛先生遺教抄』(第76回)
何事も難き事は我真先に引き受け、易き事は人をしてなさしむべし。たとえば旨酒嘉肴の席に出ずる時、心なく人より先に手を出す者は徳に入り難し。
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歴史群像シリーズ「西郷隆盛」--幕府軍決戦に臨むも緒戦で潰滅す--鳥羽・伏見の戦い
幕軍ついに薩軍と対戦を決意
慶応二年(一八六六)薩長同盟が成立、その核である西郷隆盛・大久保利通は「武力による討幕」を目論む。だが翌年十月徳川慶喜の大政奉還で、討幕派は開戦の機を逸した。
二か月後の王政復古のクーデターでは会津・桑名両軍を御所から追い、小御所会議で慶喜の「辞官・納地」を決定させたが、あまりにも無理押しな討幕派の策はうまく進展しなかった。それどころか山内容堂ら公議政体派の動きが功を奏し、慶喜の新政権参画という気配まで現れたのである。
こうした状況下、江戸で薩摩藩邸焼討ち事件が起こった。かねてより西郷の策謀で江戸市中を騒がせていた浪士の巣=薩摩藩邸を、堪り兼ねた幕府方が襲撃したのである。
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荘内での吟詠大会の興奮未だ覚めやらずという気分です。とにかく素晴らしい荘内への旅でした。お世話になりました関係者の皆様、本当に有り難うございました。
『南洲翁遺訓』素読会を一緒にしてくださった中澤先生から携帯への電話がございましたので、夕刻私の方から電話をしてみました。
ところが東恵美子先生と秋田へ行っての帰りだと伺いました。西郷隆盛、そして『南洲翁遺訓』の普及に真摯にお勤めして下さるお二人に頭の下がる思いです。是非頑張ってくださいませ。西郷先生もお喜びになられていることと存じます。
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