味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

『酔古堂剣掃』より紹介。

2011-03-23 13:55:28 | ブログ

タイトル----『酔古堂剣掃』より紹介。第789号 23.03.23(水)

 安岡正篤著「人間至宝の生き方」への箴言集

 『酔古堂剣掃』

 『酔古堂剣掃』は、明末の読書人・陸紹こうが長年愛読した典籍の中から、会心の名言・嘉句を収録した出色の読書録です。

 私がこの書を購入したのは平成十四年のことでした。安岡先生の著書は案内されるたび購入し続けてきました。私の書棚は安岡先生の書で埋め尽くされています。難解ですが読み続けて行く内理解できるようになってきますので、是非購入しお読み戴くようお勧めします。

 足るを知る虚無感

〈居処は我が生を寄す。但だ其の地を得んのみ。高広に在らず。衣服は吾が体を被う。但だ其の時に順うのみ。紈綺に在らず。〉

 「居処は我が生を寄す」、居住する所は自分の生活・生命をちょっと預けておく所であるから、ただ良い土地でさえあれば足りるのであって、敢えて見晴らしのよい高い広い土地など必要としない。「衣服は吾が体を被う」、その時に順うのみで紈綺にあるものではない。贅沢な絹だとか美服というような、そんなものではない。時に順うものである。」

 とにかく贅沢をせず、生きていける程度であればいいではないかと言うのです。

 最近、しきりに宰相論というものが話題になり、いろいろな会合で話が弾んでいるが、古来の名宰相と言われたような人を深く観察してみると、共通して良い意味の無常観がある。良い意味の虚無感を持っています。

 例えば、宰相になって得意になるような人、宰相になって非常に派手にやるというような人は、名宰相の中には入らぬ。本当の宰相は共通して、宰相たることに淡々としておる。

 日本の近代で言えば、明治維新を成し遂げた西郷南洲が最も代表的な人でしょう。西郷という人は、名誉だとか地位だとか権勢だとか、そういうものを誇るということが一つもなかった。淡々として、どうかすると、非常に虚無的であった。

 現代の日本の政治家とか経営者はその地位に就くと、嬉々としてうれしがる。---田中角栄さんが宰相学を学んでいたら、これは偉くなったと思う。国民の大人気になる人だった。惜しいかな、彼はそういう学問をやりませんでした。  (P66)

 以前、自民党の甘野(仮名)大臣が指名を受けた時の姿がテレビで報道されました。その時の顔をみて、これは駄目だと思い、そのくだりをブログで書いたことがあります。

 そして現宰相にしてもニコニコして明日遠足に行くような顔をしていますが、二人とも厳粛さが感じられない。人間としての器の問題といえるでしょう。

 ここのくだりを読み、考えていたことが重なりホッとしたことがあります。思うに「足るを知る」ということは、人生での生きるよろこびにつながると思います。


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