味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

位に倹にして欲に寡く、賢に譲り、

2018-11-10 09:25:05 | ブログ
第3593号 30.11.10(土)

位に倹にして欲に寡(すくな)く、賢に譲り、己を卑(いや)しくして人を尊び、小人にして義を畏れ、以て君に事(つか)へんことを求む。之を得れども自ら是をなし、得ざれども自ら是をなし、以て天命を聴く。『礼記』819

 その地位に慎んで欲を起こさず、何事も賢者に譲り、自分を抑えて人を尊び、充分に用心して義務に怠りなく、こうした心がけで君上に仕えようと欲し、得意の時も失意の時も、いつも同じくこの心がけで事に当たり、結果においては天命に任せるのである。

 【コメント】原文にある「位に倹にして欲に寡く、賢に譲り」とあるように、自分の精神を制御出来れば万全の人生が展開できると信じます。兎に角人と競争せず只管漢籍を学ぶことは大切だと考えます。

 西郷南洲翁も安岡正篤師も漢籍を学び自らを練ったと証されています。

--------------
『善の研究』第70回

 意志が外界に実現されたという時は、学問上自己の考えが実験に由りて証明せられた場合のように、主客の別を打破した最も統一せる直接経験の現前したのである。或は意識内の統一は自由であるが、外界との統一は自然に従はねばならぬというが、内界の統一であっても自由ではない、統一は凡て我々に与えられる者である。純粋経験より見れば内外などの区別も相対的である。意志の活動とは単に希望の状態ではない、希望は意識不統一の状態であって、かえって意志の実現が妨げられた場合である、ただ意識統一が意志活動の状態である。たとい現実が自己の真実の希望に反していても、現実に満足しこれに純一なる時は、現実が意志の実現である。

-------------
『菜根譚』75

 心は虚にせざるべからず、虚なれば則ち義理は来たり居る。心は実にせざるべからず、実なれば、則ち物欲は入らず。

 〔訳〕心はいつも空虚にしておかねばならぬ。空虚であれば、道理が自然にはいってくる。また、心はいつも充実しておかねばならぬ。充実しておれば、物欲がはいる余地はない。
-----------
 天風のことば

 汝自身を知れ(ソクラテス)
 この言葉は、学者や識者の多くがいうような、単なる処世上の教訓や道義上の訓戒ではなく、もっと尊い人生消息を喝破したものに相違ない。すなわち、「人々よ人間の本質に目覚めよ!」という、わが人生を目覚めさせるための、一大示唆を含蓄したものである。実際、この言葉を、吟味すればするほど、「人間というものは、多くの人々が思っているよりも、はるかに尊いもの、はるかに崇高なものだ」ということを、切切としてわが心に感じる。(中村天風)

 天風氏がいうように、人々ははるかに尊く、崇高なものだと思います。物事を計画し失敗しても、成功するまで、何回も何回もやり続けましょう。私はそのようにして壮絶な人生に挑んできました、これからも天に召されるまでそのようにありたいと思っています。貴方も共にやりませんか。

---------

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。