味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

敏なれば則ち功あり。

2015-10-22 10:04:29 | ブログ
第2490号 27.10.22(木)
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敏なれば則ち功あり。『論語』陽貨第十七。
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 敏速に事を処理する。それは為政者の心得の一つである。事にあたって怠らず、処理することに敏速であれば、その成績はあがるものである。94
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 【コメント】上の原文は、
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 子張仁を孔子に問う。孔子曰はく、「能く五者を天下に行ふを仁と為す。」之を請ひ問ふ。曰はく、「恭・寛・信・敏・恵。恭なれば則ち侮らず。寛なれば則ち衆を得。信なれば則ち人任ず。敏なれば則ち功あり。恵なれば則ち以て人を使うに足る」
 であります。諸橋先生の辞書には「堯曰」となっていますが、「陽貨第十七」であります。(ここはブログ706号.23.01.2でも紹介しています。)
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 これは独り為政者だけでなく、各人が出来ればその時その時、敏速に処理したいものです。
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 今朝のテレビニュースでお店屋さんとか企業に対するクレームが横行しているとのことです。企業等に対する嫌がらせを直接言わないで、インターネットで書きこむのだそうです。インターネットだと何もわからないからです。上にある〈信なれば則ち人任ず〉とあるように、偽りでもって人を困らせるやり方は天の制裁をうけるでしょう。
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 数年前、納豆を買いました。その納豆を開けたら少しおかしかったので、製造元に直接お送りし、出来ればきれいなものを送って戴けないでしょうかと懇切なお手紙を添えて、書留でお願いしました。早速、新品と、郵送料、商品代が送られてきました。
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 私は正直な会社だな、と思いました。そして、郵送料、商品代は送り返しました。拙著『礼節のすすめ』も添えて。
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 そういう嫌がらせでない親切心と、正直な姿勢とがどう関係するかわかりませんが、とにかく危ない処で命拾いすることがあるのです。 
 天風師の本で学ぶ、『南洲翁遺訓』で学ぶ正直に勝るものなしは、本当のような気がするのです。どんな人でも過ちはあるものです。それを人がみていないから、として性質のわるいことはしてはならないと肝に銘じています。そして空手にくる子供たちにもお話しているのです。高木先生、どう思われますか。
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 連日、菅原兵治先生、臥牛先生をご紹介しながら、兩先生方の教えに違背してはならないと自らを戒めているのです。『南洲翁遺訓』を広めたいとして、いろいろ実践している団体から要請がありますが、邪な所には絶対行かないことに決めています。

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『臥牛菅実秀』(第28回)
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 この好学心に燃えた善六の進境は、目をみはらせるものがあった。元朗は善六のために江戸から多くの書籍を取り寄せて、さらにその視野を拡めようとはかっていた矢先に、善六は不幸にして病を得て没してしまった。
 実秀は、この血につながる身近な人の話を、父から聞かされるたびに、好学求道の尊さを、全身で受けとめていたのである。
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 実秀の祖は九州肥後の人であった。実秀にも九州隼人の豪放、竹を割ったような気性が受けつがれていたかも知れない。竹を割ったといえば、南方原産の竹が北に移植されるにつれて緻密さと強靭さをましていくように、実秀の気性も、北方の風土と、荘内藩の重厚沈潜の士風、そして父母の温い訓戒によって、次第に緻密強靭なものに鍛えあげられていつたのである。頁16

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『論語』(第423)
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 孔子曰はく、益者三友。損者三友。直を友とし、諒を友とし、多聞を友とするは、益なり。便辟を友とし、善柔を友とし、便侫を友とするは、損なり。
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 孔子が言うには、友には益友が三種類、損友が三種類あります。隠さず直言してくれる友を持てば、己の過ちを聞くことができる。諒、いわゆる誠の友を得れば己も誠にすすむことができる。多聞を友とすれば己の知識が広まる。体裁ばかり飾って率直でない者、顔つきだけをよくするへつらい者、口先ばかりで腹のない者を友とするのは損であります。
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『農士道』(第305回)
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 彼は種々の官途について行政官の仕事もし、又、時に三軍を率いて逆徒の平定に遠く山野に戦い、又、或時は流謫の夷地に自ら耕転もした。彼は実に生死の間に事上磨錬を積める行政官であり、軍司令であり、而して偉大なる哲人であり、時にまた懐かしき野人の父でもあった。壮年の時彼は中央政府に在って兵武主事の職にゐたが、時の天子側近奸臣共が余りにも我が儘な振舞をなすのに憤って自ら上疎してこれを痛論した為、奸臣共の怒に触れて投獄さられ、後獄より出されて、思切って辺鄙な貴州龍場の驛丞に左遷せられた。我国でいうと和気清麿や菅原道真にも似ている。時に彼は三十六才であった。然もこの間に於て彼は従容自適、常に天を楽んでいた。左に驛出する何陋軒記は其時に於ける彼の心情の活ける記録である。
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 10月22日、おわりです。

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