味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

夫れ禮は、疑を章かにし、

2018-10-19 09:20:54 | ブログ
第3573号 320.10.19(金)

子云く、夫れ禮は、疑を章かにし、微を別ち、以て民の坊を為す所以の者なり、故に貴賎等有り、衣服別有り、朝廷、位有れば、則ち民譲る所有り。『礼記』792

 孔子が言った、「礼という物は、物ごとの差等や区別の疑わしい点を明らかにし、細かい所まで示すためにあり、これによって人が過ちを犯すことを防ぐ。それゆえ身分に差等があり、衣服に相違があり、朝廷における位階に上下があれば、すべて礼によって明示されるから、人はそれをわきまえて、下は上に譲るのである」。

 【コメント】「礼という物は、物こどの差等や区別の疑わしい点を明らかにし」とあるように人間社会に不可欠の存在だと思います。
 私の母は、学問的な資格はありませんでしたが、通常言う礼と言葉遣いにはとってもうるさい人でした。お蔭で有難かったと思っています。

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『善の研究』第51回

 凡て意識は体系的であって、表象も決して孤独では起らない、必ず何かの体系に属している。同一の表象であっても、その属する体系に由りて知識的対象ともなりまた意志の目的ともなるのである。たとえば、一杯の水を想起するにしても、単に外界の事情と聯想する時は知識的対象であるが、自己の運動と聯想せられた時は意志の目的となるのである。ゲーテが「意欲せざる天の星は美し」といったように、いかなる者も自己運動の表象系統に入り来らざる者は意志の目的とはならぬのである。我々の欲求は凡て過去の経験の想起に因りて成立することは明なる事実である。

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『菜根譚』46

 徳に進み道を修むるには、個の木石的の念頭を要す。若し一たび欣羨あれば、便ち欲境に趣かん。世を済い邦を経するには、段の雲水的の趣味を要す。若し一たび貪着あれば、便ち危機に堕ちん。

 〔訳〕徳に進む修養や道を体得する修業には、世俗の富貴に対して、ひとつ、木や石のように冷淡な思いを持つことが大切である。もし一度、それを羨み願う心を持ったがさいご、忽ち欲界に走り去ってしまい、修養も修業もあったものではない。また、宗教家として世を救い政治家として国を治めるには、その去就に対して、ひとつ、行雲流水のように無心なおもむきを持つことが大切である。もし一度、その去就に執着する心を持ったがさいご、忽ち危地に陥って、救世も治国もあったものではない。

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