第3524号 30.08.24(金)
夫れ民、血気心知の性有りて、哀楽喜怒の常無く、感に應じ物に起りて動き、然る後に心術形(あらわ)る。是の故に急微噍殺(きゅうびしょうせい)の音作(おんおこ)りて民思憂(たみしいう)し、嘽諧(せんかい)慢易(まんい)繁文(はんぶん)簡節(かんせつ)の音作りて民康樂(たみこうらく)し、粗厲(それい)猛起(もうき)奮末(ふんまつ)廣賁(こうふん)の音作りて民剛毅に、廉直勁正(れんちょくけいせい)荘誠(そうせい)の音作りて民肅敬に、寛裕(かんゆう)肉好(じゅうこう)順成(じゅんせい)和動(かどう)の音作りて民慈愛に、流辟(りゅうへき)邪散(じゃさん)狄成(てきせい)滌濫(できらん)の音作りて民淫乱なり。『礼記』574
さて人には血気や知覚の機能があって、時を定めず哀楽喜怒の情が、感覚に応じ、外物に接して発動し、それによって人それぞれの心情が明らかになる。従って世に、音調の急速で繊細、抑え弱められた感じの音の多い樂曲が行われるのは、人民に憂慮の多いことを示している。音調が緩徐として柔和に、伸び伸びとして華やかに章節の長い感じのする樂曲が行われるのは、人民の安楽していることを示している。音調が荒々しく、始めは激しく末は湧きあがり、全体として雄壮の感じのする樂曲の行われるのは、人民が剛毅であることを示す、単調で力強く、荘重の感じの樂曲が行われるのは、人民が恭敬であることを示す。ゆったりとして潤いがあり、柔らかに静かに流れてゆく感じの樂曲が行われるのは、人民が慈愛ぶかいことを示す。音調がしばしば変転し、散漫で、軽快で、踊り狂うような感じの樂曲が行われるのは、人民が放縦であることを示すのである。574
【コメント】人民が醸し出す音調は、人民が剛毅であることを示すのも、恭敬であることを示すのも、ゆったりとして潤いがあり、慈愛ぶかい事を示すのもいいことでありますが、散漫で、踊り狂うような感じになり放縦になるようなものであってはならないと思います。
その為には私が毎日発信している漢籍を学ぶことが最良だと信じます。
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『善の研究』第10回
今なお少しく精細に意識統一の意識を定め、純粋経験の性質を明にしようと思う。意識の体系というのは凡ての有機物のように、統一的或者が秩序的に分化発展し、その全体を実現するので、ある。意識においては、先ずその一端が現われると共に、統一作用は傾向の感情としてこれに伴うている。我々の注意を指導する者はこの作用であって、統一が厳密であるか或は他より妨げられぬ時には、この作用は無意識であるが、しからざる時には別に表象となって意識上に現われ来り、直に純粋経験の状態を離れるようになるのである。即ち統一作用を働いている間は全体が現実であり純粋経験である。而して意識は凡て衝動的であって、主意説のいうように、意志が意識の根本的形式であるといい得るならば、意識発展の形式は即ち広義において意志発展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的あるといわねばならぬ。
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『菜根譚』四
勢利紛華は、近づかざる者を潔しとなし、これに近づきて而も染まざる者を尤も潔しとなす。智械機巧は、知らざる者を高しとなし、これを知りて而も用いざる者を尤も高しとなす。
〔訳〕権勢名利や豪奢華美のたぐいに、近づかないように心掛ける者は潔白な人である。然しそれらに近づいても、その悪習に感染しない者こそ、最も潔白な人物である。権謀術数のたぐいを、全く知らない者は高尚な人である。然しそれを知っていても、自分では用いない者こそ、最も高尚な人である。
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夫れ民、血気心知の性有りて、哀楽喜怒の常無く、感に應じ物に起りて動き、然る後に心術形(あらわ)る。是の故に急微噍殺(きゅうびしょうせい)の音作(おんおこ)りて民思憂(たみしいう)し、嘽諧(せんかい)慢易(まんい)繁文(はんぶん)簡節(かんせつ)の音作りて民康樂(たみこうらく)し、粗厲(それい)猛起(もうき)奮末(ふんまつ)廣賁(こうふん)の音作りて民剛毅に、廉直勁正(れんちょくけいせい)荘誠(そうせい)の音作りて民肅敬に、寛裕(かんゆう)肉好(じゅうこう)順成(じゅんせい)和動(かどう)の音作りて民慈愛に、流辟(りゅうへき)邪散(じゃさん)狄成(てきせい)滌濫(できらん)の音作りて民淫乱なり。『礼記』574
さて人には血気や知覚の機能があって、時を定めず哀楽喜怒の情が、感覚に応じ、外物に接して発動し、それによって人それぞれの心情が明らかになる。従って世に、音調の急速で繊細、抑え弱められた感じの音の多い樂曲が行われるのは、人民に憂慮の多いことを示している。音調が緩徐として柔和に、伸び伸びとして華やかに章節の長い感じのする樂曲が行われるのは、人民の安楽していることを示している。音調が荒々しく、始めは激しく末は湧きあがり、全体として雄壮の感じのする樂曲の行われるのは、人民が剛毅であることを示す、単調で力強く、荘重の感じの樂曲が行われるのは、人民が恭敬であることを示す。ゆったりとして潤いがあり、柔らかに静かに流れてゆく感じの樂曲が行われるのは、人民が慈愛ぶかいことを示す。音調がしばしば変転し、散漫で、軽快で、踊り狂うような感じの樂曲が行われるのは、人民が放縦であることを示すのである。574
【コメント】人民が醸し出す音調は、人民が剛毅であることを示すのも、恭敬であることを示すのも、ゆったりとして潤いがあり、慈愛ぶかい事を示すのもいいことでありますが、散漫で、踊り狂うような感じになり放縦になるようなものであってはならないと思います。
その為には私が毎日発信している漢籍を学ぶことが最良だと信じます。
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『善の研究』第10回
今なお少しく精細に意識統一の意識を定め、純粋経験の性質を明にしようと思う。意識の体系というのは凡ての有機物のように、統一的或者が秩序的に分化発展し、その全体を実現するので、ある。意識においては、先ずその一端が現われると共に、統一作用は傾向の感情としてこれに伴うている。我々の注意を指導する者はこの作用であって、統一が厳密であるか或は他より妨げられぬ時には、この作用は無意識であるが、しからざる時には別に表象となって意識上に現われ来り、直に純粋経験の状態を離れるようになるのである。即ち統一作用を働いている間は全体が現実であり純粋経験である。而して意識は凡て衝動的であって、主意説のいうように、意志が意識の根本的形式であるといい得るならば、意識発展の形式は即ち広義において意志発展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的あるといわねばならぬ。
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『菜根譚』四
勢利紛華は、近づかざる者を潔しとなし、これに近づきて而も染まざる者を尤も潔しとなす。智械機巧は、知らざる者を高しとなし、これを知りて而も用いざる者を尤も高しとなす。
〔訳〕権勢名利や豪奢華美のたぐいに、近づかないように心掛ける者は潔白な人である。然しそれらに近づいても、その悪習に感染しない者こそ、最も潔白な人物である。権謀術数のたぐいを、全く知らない者は高尚な人である。然しそれを知っていても、自分では用いない者こそ、最も高尚な人である。
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