味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

其の身に楽しみあらんよりは、其の心に憂いなきに孰若ぞ。

2016-05-24 10:38:15 | ブログ
第2702号 28.05.24(火)
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其の身に楽しみあらんよりは、其の心に憂いなきに孰若(いずれ)ぞ。(「韓文公『送李愿帰盤谷序』文章軌範)
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 からだに楽しみがあるのがよいか、心に憂いのないほうがよいか。むしろ、心に憂いのないほうがよい。516
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 【コメント】原文に云う楽しみは数々あるでしょうが、今の私は『南洲翁遺訓』を書きつづけるか、漢籍を書きつづけるかが、一番没頭できることでありますので、無心になれていいと考えています。凡ての憂いが吹っ飛ぶのです。
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 大した人間でもない私が、大したことが出来る筈はありませんので、子供たちに只管『南洲翁遺訓』等々を教えることのみが私の使命だと考えています。
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 昨日は、神戸自動車・宇都影義会長様が、腰の手術(狭窄症)をしたので、日赤病院へお見舞いに行ってきました。半年の長きにわたり、痛い痛いを繰り返しており、手術に踏み切ったとのことでした。
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 術後の経過はよく、背すじを伸ばして歩いていたため、お慶びを伝えてきました。仲間の中島先生もお連れしたかったのですが、仕事の関係で私一人だけにしました。指宿の先生にも伝えたかったのですが、遠いため遠慮しました。
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 『西郷隆盛』より、-----
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〈-----久光の復古策二十個条に対して、
「久光、これを実行したからと言って、日本のためになるわけではなかろう」
「いえ、ぜひとも実行していただかねば、日本は滅亡いたします」
「わたしは、そうは思わぬ」-----そして陛下は徳大寺宮内卿に、
「もう、あの男には会いたくない」(第21巻 23頁)----と記されています。〉
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 一八七五年十月二十七日、左大臣島津久光、参議板垣退助は依願免官となった。-----岩倉の背後に大久保利通がいたことは言うまでもない。---------
 翌九年三月、木戸孝允もまた参議を辞して内閣顧問の閑職につき、後藤象二郎も元老院副議長をを辞して野に下った。
「内閣の権力は再び逆転して大久保の掌裏に帰し、ますます寡人専制の風を馴致し、中央集権の勢を助長するを見る」
 大久保は好むと好まざるとにかかわらず、独裁専制への道を歩かざるを得なかった。36-----
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 僧月照は吉之助の胸に生きている。明治七年の十一月、月照と相抱いて真冬の薩摩潟に身を投じた時から数えて十七年目であった。その時の詩である。
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  相約して淵に投ず先後なし
  豈はからんや波上再生の緑
  頭を回らせば十有余年の夢
  空しく幽明をへだてて墓前に哭す。

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『臥牛菅実秀』(第238回)
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 その実秀は西郷を、
「南洲翁は偉大な徳量と卓越した力倆を兼ね備えた賢人であって、権力や謀略をもって一世を圧倒する豪傑とは本質を異にする人である。」
といった。そして、
「この人を信じてこそ、堯・舜・孔子によって明かにされた道徳も窺い知ることができるであろう。」
と洪嘆している。
 西郷もまた、
「荘内の菅殿の愛国心に富めることは、世に見るところもまれである。」
と、弟の従道にいったという。

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『農士道』(第514回)
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 桀溺は更に語を次いで、
  「孔子はあの人も與に為すに足らん、この人も輿に為すに足らんと言って人を毛嫌いしては諸国を周り歩いているようだが、どうだね、   そんなに人を避けて歩きまはる人に従うよりは、いっそのこと、世の中をすっぽりと避けて自然を相手にして大地に耕す吾々に従った   方がよいではないか。」 
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   津の事など教えようともせずに、黙々としてたねまきをしている------。
   之に対して孔子が「この乱世に、苟も人間と生れた以上は、どうしても世道人心の改革に従はねばならぬ」ことを子路に説いている。   勿論孔子の態度は尊い一つの行き方であると同時に、長沮傑溺の態度も亦一つの行き方である。(殊に支那の国体に於いては然るものが   ある。)

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