晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

バスで行く大栗峠2-(2) 8/30

2018-08-30 | 山・峠

2018.8.30(木)曇り

 ようやく大栗峠取り付きに着く。気になっていたやっつけ仕事の登山道も何とか無事に残っている。ところがこの取り付きに立てられた立派な立て看板に妙な傷跡を見つける、看板の下側が剥がれているのだ。ここまでの林道にある道標も倒されて、裏側に妙な傷がある。この間大雨もあったし台風もあったので雨風の影響でついたのかなとさほど気にしなかったのだが、後々驚く結果となる。

 アプローチの林道の道標、妙な傷があるが気にもしなかった。杭は簡単に抜けてしまった。
 
4月に下ったときの取り付き部分、看板はきれいなままである。
 和知側のこの尾根道には多くの謎がある。一つは本来の取り付きはどこだろうと言うことだ。昭和55年に整備された道は現在の取り付きから左の谷の林道に入り、300mぐらいで右の斜面に取り付くというものである。2011年にそのとおり辿ったのだが、斜面の道は発見できず無理やり斜面をよじ登った。その当時の大栗峠からの記録を見ると、斜面に下る地点が見つからずに尾根末端まで下ってしまったというのが多かった。実はその尾根末端の道こそ本来の街道道で、明治28年陸地測量部の地図を見ると現在の道よりやや右寄りの所から取り付いたものではないだろうか。55年の整備がなぜ左の谷を選んだのか不思議だが、尾根末端の傾斜がきついこと、植林が進んでいたことなどが予想される。地蔵堂からの谷沿いの旧道と本来の取り付きはいずれ探してみたい。
 二つ目の謎は尾根に上がったところにあったという茶店の跡である。ちょっと広くなった所にかつては茶店の残骸の木材があったというから、本当に存在したのだろう。そのちょっと広くなった所てのが解らない。いつも気をつけて歩いているのだがそれらしき地形には見当たらない。これもいつか見つけたいと思っているのだが、茶碗のかけらでも見つかれば大発見である。
 三つ目は上部の六地蔵である。「北山の峠」の著者、金久昌業氏が「10年程前は六地蔵があったのに、その後他の五体はどこに行ってしまったのだろう」と書いておられる。この地に放置された瓦を見ると、それなりの建物があったと思われる。平地の広さから見ても六地蔵があったと考えられる。人が歩かなくなって、里に下ろして安置すると言うことはよくあるが、それだと一体だけ残すことは無いだろう。これは歩いているだけでは解決しない。里で古老の話でも聞かなければ解らないことだが、そこまでできそうにない。そしてもうひとつ、この地蔵堂は道を挟んで人馬のくぐれる屋根があったと言うことだ。この噂、伝説がどこから出たものか解らないのだが、いくら場所が広いといってもそこまではないだろうと思われる。残された瓦の数からも六地蔵のお堂分はあるが、おおきな屋根には無理だろう。

左:残された地蔵様にはお堂が作られた。倒れた椅子の脚にも妙な傷がある。
中:地蔵様は苔が生えているが、なかなか良いお顔をされている。
右:残された瓦、鬼瓦もあり立派なものである。
 四つ目はこの尾根道の広さと分岐道の存在である。これは前回
山行の際に書いたので略するが、分岐の道は時間があるときに確認してみたい。
 地蔵堂を過ぎると大栗峠は近い。つづく

コメント
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