のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、京都は宇治の注目寺院「黄檗山萬福寺(おうばくさん・まんぷくじ)」です。
お腹いっぱい「萬福寺」
…と、肌寒くなったところで、名前も覚えやすいこちらの寺院(笑)
境内はどかーんと広く、あちこちに注目仏像などを安置したこちらは、まさにお腹いっぱいなお寺なのでした。
さて、「萬福寺」は「黄檗宗(おうばくしゅう)」大本山の寺院です。
大本山シリーズなんですね。
※萬福寺・大雄宝殿
承応三年(1654)
時は四代将軍「徳川家綱」が治める、江戸時代のこと。
中国におられた「臨済宗」の僧「隠元禅師(いんげん・ぜんし)」は、その名声が日本まで届くほどの有名人でした。
「妙心寺」住持らの度重なる招きに応じて、当時は六十三歳だった体に鞭うって中国福建省より来日。
長崎は「興福寺」へ入りました。
…烏龍茶も持ってきたのかなぁ。
さて、皆さんが知るように、当時の日本は鎖国状態でした。
貿易港長崎なら別でしたが幕府の態度は厳しく、「妙心寺」派の摂津「普門寺」から外出が許されなかったほか、寺内ですら制限がつけられるなど、かなり窮屈な思いをしたようです。
そこで、彼を招いた「龍渓宗潜(りょうけい・そうせん)」らが必死な働きかけをして、ついに将軍家綱へ謁見するチャンスを得たのでした。
…こうして、将軍「徳川家綱」、「後水尾法皇」などより尊敬され、幕府・その他より多くの帰依者を得た「隠元禅師」
彼らの熱心な要請により、当初は三年で帰国する予定を変更し、残りの生涯を日本にて過ごすこととなるのです。
万治四年(1661)
来日して七年目。
幕府より山城国宇治は大和田の地が与えられ、そちらにて「黄檗山萬福寺」は開創されました。
(※開創:初めてその寺を開くこと)
この寺号は「隠元禅師」の故郷福建省の寺院と同じものなんですね。
※卍及び卍くずしの文様です。
禅師の創建した「萬福寺」は協力者も多く大いに流行し、国内に新しい禅がもたらされました。
中国ではもともとの「臨済宗」に含まれておりますが、日本の「臨済宗」はそれと異なっていたため、明治九年に独立して「黄檗宗」となったのです。
(※日本三禅宗の一つが「黄檗宗」、他は「臨済宗」「曹洞宗」です)
なんと、こちら「萬福寺」は創建した当時そのままの姿を残しているという、”建物全体が重文”というお寺なのです。
境内の十六棟は重文で、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置なんだって。
なお、注目の「十八羅漢像」は最大の建物である本堂「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」におわします。
ひでるさんはこれが見たかったんですね~。
凄かったですよー「羅怙羅尊者(らごら・そんじゃ)」
お腹あたりをがばーって開いて、その中から仏が見えてるやつよ。
それを知ったのどちらかのお寺にあったポスター(↑それね)でしたが、衝撃度は絶大なものでした。
ほとんど、これだけのために行ってきました。
オススメです。
ほか、「天王殿」での「弥勒菩薩」の化身とされる「半跏布袋像」も要チェックですね。
お寺の方によると、こちらは全体で龍を表現しているのだとか。
置かれている石がひし形に並んでいるのも、龍の背中を表現したんだって。
[住所]
黄檗山萬福寺 京都府宇治市五ヶ庄三番割三四
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
※評価高かったので掲載してみました。
萬福寺はあるのかなぁ。
本日は、京都は宇治の注目寺院「黄檗山萬福寺(おうばくさん・まんぷくじ)」です。
お腹いっぱい「萬福寺」
…と、肌寒くなったところで、名前も覚えやすいこちらの寺院(笑)
境内はどかーんと広く、あちこちに注目仏像などを安置したこちらは、まさにお腹いっぱいなお寺なのでした。
さて、「萬福寺」は「黄檗宗(おうばくしゅう)」大本山の寺院です。
大本山シリーズなんですね。
※萬福寺・大雄宝殿
承応三年(1654)
時は四代将軍「徳川家綱」が治める、江戸時代のこと。
中国におられた「臨済宗」の僧「隠元禅師(いんげん・ぜんし)」は、その名声が日本まで届くほどの有名人でした。
「妙心寺」住持らの度重なる招きに応じて、当時は六十三歳だった体に鞭うって中国福建省より来日。
長崎は「興福寺」へ入りました。
…烏龍茶も持ってきたのかなぁ。
さて、皆さんが知るように、当時の日本は鎖国状態でした。
貿易港長崎なら別でしたが幕府の態度は厳しく、「妙心寺」派の摂津「普門寺」から外出が許されなかったほか、寺内ですら制限がつけられるなど、かなり窮屈な思いをしたようです。
そこで、彼を招いた「龍渓宗潜(りょうけい・そうせん)」らが必死な働きかけをして、ついに将軍家綱へ謁見するチャンスを得たのでした。
…こうして、将軍「徳川家綱」、「後水尾法皇」などより尊敬され、幕府・その他より多くの帰依者を得た「隠元禅師」
彼らの熱心な要請により、当初は三年で帰国する予定を変更し、残りの生涯を日本にて過ごすこととなるのです。
万治四年(1661)
来日して七年目。
幕府より山城国宇治は大和田の地が与えられ、そちらにて「黄檗山萬福寺」は開創されました。
(※開創:初めてその寺を開くこと)
この寺号は「隠元禅師」の故郷福建省の寺院と同じものなんですね。
※卍及び卍くずしの文様です。
禅師の創建した「萬福寺」は協力者も多く大いに流行し、国内に新しい禅がもたらされました。
中国ではもともとの「臨済宗」に含まれておりますが、日本の「臨済宗」はそれと異なっていたため、明治九年に独立して「黄檗宗」となったのです。
(※日本三禅宗の一つが「黄檗宗」、他は「臨済宗」「曹洞宗」です)
なんと、こちら「萬福寺」は創建した当時そのままの姿を残しているという、”建物全体が重文”というお寺なのです。
境内の十六棟は重文で、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置なんだって。
なお、注目の「十八羅漢像」は最大の建物である本堂「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」におわします。
ひでるさんはこれが見たかったんですね~。
凄かったですよー「羅怙羅尊者(らごら・そんじゃ)」
お腹あたりをがばーって開いて、その中から仏が見えてるやつよ。
それを知ったのどちらかのお寺にあったポスター(↑それね)でしたが、衝撃度は絶大なものでした。
ほとんど、これだけのために行ってきました。
オススメです。
ほか、「天王殿」での「弥勒菩薩」の化身とされる「半跏布袋像」も要チェックですね。
お寺の方によると、こちらは全体で龍を表現しているのだとか。
置かれている石がひし形に並んでいるのも、龍の背中を表現したんだって。
[住所]
黄檗山萬福寺 京都府宇治市五ヶ庄三番割三四
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
土門拳 古寺を訪ねて―京・洛北から宇治へ (小学館文庫)土門 拳小学館このアイテムの詳細を見る |
※評価高かったので掲載してみました。
萬福寺はあるのかなぁ。