不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

ゴミステーションの草を刈りました。

2011年04月29日 21時28分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きょうは久しぶりに晴れたので草刈りをしました。ふだんは草刈り機のタンクにガソリンをいっぱい入れて刈り、ガソリンがなくなるとその日の草刈り仕事は終りと自分なりに決めていました。でもきょうは晴れ間に仕事をしてしまおうと頑張り過ぎ、ガソリン三杯分の草を刈りました。刈ったところが土手の斜面でなく、遊歩道とか畝間とか平坦な部分だったのでできたことです。でもこんなことはやめよう。なんの自慢にもなりません。疲労が尾を引くだけです。
 ところで写真はうちの村のゴミステーションです。田んぼに入って写真を撮りました。低い土手の草が伸び、せっかく植えたチューリップやプランターが見えなくなりそうなのできのう20分かけて刈りました。ブロックの囲いの右端に縦長の石ころがセメントで固定してあります。以前老人会の人に「あれは那須与一やで」と教えてもらったことがありますが、村の役員の人には「昔から大日如来って聞いてるけど」といわれました。
 どちらにしても長年風雨にさらされてただの石ころにしか見えません。花差しもないし、祀って拝んでいる人もいないようです。ことさら顕彰はしないけど粗末にも扱わないでそのまま見守ることにしましょう。
 去年は4月の終りにサツマイモの苗を買って植えてみました。でも寒くて苗が枯死してしまいました。最低気温が10度以下になると駄目ですね。今年もまだ最低気温が10度を下まわる日があります。今年は5月10日以降に植えることにします。それと一昨年くらいから『安納芋』人気がぐんぐん上昇し、ホームセンターに苗が出ても午前中に売り切れてしまうそうです。たしかに焼き芋にしても甘みがちがいます。今年もたくさんつくることにしましょう。
 それとイチゴを去年は連休の頃に初採りしたと思うのですが、今年は遅れそうです。気温の低い日がありますから。でもイチゴのネットは早急に張らなくては。
 落花生は毎年100株ほど植えています。今年も100株植えることにします。近年産地の千葉県では、生の落花生をゆでて食べる、いわば「枝豆として食べる」ことが広がっているようで、その品種の栽培が盛んになっています。粒が大きい。うちでもその大粒の品種を苗を買って育ててみます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一枚の民家の写真

2011年04月29日 02時40分29秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうの朝は池を周回するいつもの散歩道を歩こうと思ったのですが、風が強く肌寒いので軽トラで川向かいの蓮花寺の集落に行きました。池のまわりでは数本の八重桜が満開です。池の土手が見えますが、これが若葉にかこまれた民家への道です。
 民家をかこむ若葉はソメイヨシノです。家のまわりの斜面をとりかこむように十数本の木が生えています。二週間前の満開のときは、あの屋根が桜にかこまれていたことでしょう。
 ことばでは伝えにくいのですが「ああ、いいなー」と感じるたたずまいが、田舎にはあちこちにあります。ここの景色も車を止めて眺めたいスポットの一つです。
 よく雨が降るので外の仕事がたまってきました。畑の土手の草刈りもはじめる時期になりました。山仕事はしばらくやめて、畑の仕事に精を出すことにします。
(次の日に追加して書いてます)実はこの民家は、三木市口吉川町に引っ越してきた直後に訪問したことがあります。てっきり知った人の家と思い込んで、道子さんと二人で土手の道を歩き、門の中に入り、藁屋根(トタンカバー)の家の玄関で呼び鈴を押し、戸を叩いて声を掛けました。でも留守でした。庭といい、地つづきの山といい、家のまわりの斜面といい、なんともいいたたずまいです。田舎だったらこんな家に住めたらいいなと思います。知った人の家は池のこちらになり、向うの家はふだんは無人で、草刈りに帰ってこられるだけとあとで知りました。
 道子さんはきのうも土手を歩きながら、「お金があったら買い取ってこんな家に住みたいね」といい、ぼくも同じことを考えてました。手入れや草刈りは大変でしょうが、でもこの家はいい。また散歩で訪れることにしましょう。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田舎暮らしをはじめた頃は……。

2011年04月27日 01時11分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 2007年1月17日に撮った我が家の写真です。69歳になった2006年12月4日に引っ越して、まず作ったのが台所のカウンターと作りつけの机でした。それからウッドデッキ工事にかかり、年を越して1月中頃にようやく完成しました。写真を見ると、まだ電動オーニングを取り付けていませんし、手前の石垣の垣根の工事はしていません。家の裏の竹薮は家に迫るように繁ったままで、木を植えていません。デッキの前の土地は、のちに畑になり花壇になりますがまだデッキ工事の木片がちらばったままです。現在家の左に建つ農具や大工道具の小屋は2009年の仕事ですからゼロ。
 引っ越して4年と5ヶ月になりますが、この写真を見ていると「柵をつけたり、小屋を建てたり、竹を切って木を植えたり、いろいろやったんだなー」と自分でも感心してしまいます。30年近く暮らした神戸の家にはもう大工仕事をするような余地はありませんでした。退職後に神戸市西区神出で立ち上げた大豆畑トラスト「むーな村」の農機具小屋に通い、棚をつけたり、流しをつけたり、明かり窓をつけたり、シャワー室をつくったり、便所をつくったりする程度のことしかできませんでした。
 この写真の場面につづくのは『伊勢講』に夫婦で参加したことです。5年ごとにある村の『お伊勢参り』の年に引っ越したのもなにかの縁だったのでしょう。2007年2月のことでした。村の人たちの顔も名前もわからないまま飛び込みました。いまではそれなりになじみになり、散歩していて軽トラとすれちがうと、手を挙げたり笑顔でこたえたりするようになりました。来年2月にはまた伊勢講があります。この村での5年間の自分の足跡が見えるでしょうか。夫婦とも参加するのをたのしみにしています。
 田舎暮らしに踏み切ろうとしても引っ掛かるのが夫婦の意見の相違のようです。長年住んだところにそれぞれ人の心は根をおろしていますから、動こうとすると当然起こることです。それでもうちは田舎に暮らすことになりました。その流れをふり返ってみると、その都度思いつきで動いてきたようでも大豆畑トラストを立ち上げたときからの大河のような流れを感じます。いや、もっと前、退職の二年前に篠山で暮らすようになったこと、そこで三坪の畑を借りて野菜を植えたこと、退職して神戸に戻った二年目に舞鶴道の春日インターで下りて有機農業の里・市島町にちょっとだけ通ったこと。それから道子さんの神出の友だちに畑を借りたこと。いろんなこと、いろんな出会いがずるずると芋づるを引っ張るように浮きあがってきます。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田舎暮らしをはじめるまで (5)

2011年04月26日 01時16分12秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 猪のヌタ場の写真です。先日山歩きの会のときに撮りました。これは「東」の田んぼで、春になりましたから営農組合の馬力の大きいトラクターで耕してあります。雨が降り水がたまったところに猪がやってきて体に泥をこすりつけるのです。田んぼをこんなにされてえらい迷惑です。
 三木の地で田舎暮らしをはじめたとき、同年輩の神戸の知人に「あなたはえらい。わたしたちは歳をとるとみんな<田舎に暮らしたい>という気持ちをもっている。でも実現する人は少ない。それを思い切って実現したところがえらい」といわれました。またいまの家に住むようになってから訪ねてきた友に、「絵に描いたような田舎暮らしがうらやましい」といわれました。
 たしかにストレスのたまるような街の騒音や雑踏は遠く、散歩し、畑を耕し、小屋で大工仕事をし、裏山に手を入れていると、「これもやらなくては」とやることはいっぱいあります。そしてその仕事をするのがたのしみでもあります。歳をとるとそんな<やりがい>と<こころの平安>が大事なのでしょうか。
 テレビの『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』にはいつも悪い奴が出てきて、それを黄門さまや将軍さまがやっつけるという筋書きになっています。若い人なら「バカバカしい!」と見ないでしょう。でもその番組をたのしみにしている老人もいます。その老人の気持ちがわかるようになりました。
 見たり聞いたりしてもどうしようもないことは遮断するしかない、というのは老人の智恵でしょう。幼児虐待とか性暴力とか無差別殺人のようなニュースから注意をそらすようになりました。そんな老人にもどうしようもなく入ってくるやりきれないニュースが原発事故です。襲ってきた自然災害は仕方がない。生き残った者たちで立ち上がるしかない。しかし原発事故はどうすればいいのだ。日本の人たちはそんなやりきれなさをあちこちにぶつけています。ぼくはとんでもない空想をして、その世界に逃げています。それでもやりきれない。
 不安やイライラが嵩(こう)じてとんでもない事件が起こりはしないかと心配します。せめて田舎に住み、野山の若葉に癒しをもらい、あぜ道の道祖神にこころの平安を祈る。
 思いはまとまりませんが、田舎に暮らしてよかった。
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田舎暮らしをはじめるまで (4)

2011年04月25日 02時13分24秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 いろんな木を見ながら散歩していると、一目ぼれしてしまう木に出会うことがあります。写真はこのブログに載せたことのある「保木」の神社の楠です。そばの民家のおばあさんに「昭和天皇が即位した記念に全国の神社に配られた楠ですよ」と教えてもらったこともブログで紹介しました。一本だけ立っているたたずまいがいい。枝ぶりがいい。しばし見とれて、また撮って、またブログに載せてしまいました。
 きのうの日曜日、加東市(東条町)のコスミックホールで地元出身者のクラシック音楽会がありました。「日本でも屈指の生演奏の音響が優れたホール」でフルートやピアノの演奏を聴いてみたくて午後出かけました。よかった! 図書館で本を借り、ホールで音楽を聴いてしっとりした気分で帰ってきました。
 さて『田舎暮らし』をはじめるまでの(4)ですが、半年の間に30軒は空き家を見てまわりました。そのほとんどはバブルの死骸みたいな物件でした。三田市の大川瀬の分譲地、東条湖近くの分譲地、谷川駅から山地に入った分譲地などに建つ中古住宅でした。ときに田舎の古い家もありましたが、すぐには住めそうにないほど荒れていました。
 氷上郡(いまは丹波市になっています)で藁屋根の家をリフォームして優雅な田舎暮らしをしておられる方を、知人の紹介でお訪ねしたこともあります。そのとき感じたことですが、「あのバブルのときは街の土地だけでなく田舎の土地も値上がりした。土地を持つ人はみんなが自分の土地がいくらになるか皮算用した。その夢がまだ捨てきれていない」。その方は1990年代に田舎の廃屋を入手されたのでずいぶん費用がかかったそうです。2000年代に入っても土地の値段はなかなかこなれず、売り手と買い手のギャップは大きかったようです。
 これではいつまで待っても土地は動きません。2010年代に入って最近はようやく価格がこなれてきたようで、ネットで田舎暮らし物件を見ると「値切れば入手できそうな納得できる価格の物件」が出ています。結論からいうと「空き家をさがしたり古民家にこだわるのは高くつく。安い土地を買って小さい家を建てるのがいい」です。
 大方の人はことさら趣味の世界にはまるのでなく、家庭菜園をつくって田舎に暮らすことを考えておられるでしょう。その菜園は田舎に腰を据えるつもりなら借りることが可能です。もっと田舎にいけば耕作放棄地があるでしょうが、荒れて動物の害もひどく、定年退職後の体力だとちょっときびしいかも。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田舎暮らしをはじめるまで (3)

2011年04月24日 01時27分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 
 さもわかっているように写真なんか入れてブログを書いていますが、実は写真とパソコンの関係はよくわかっていません。でも近頃やっとブログの写真の大きさを変えることができるようになりました。きょうはもう一つ大きな進歩があります。写真の中に『お絵かき』をすることです。写真の左とか右とか、いままでは文で位置を示そうとしていましたが、この写真では○印をつけてあるでしょ。これがぼくにとってはすごいこと。これから多用します。
 さて何の○印かというと、先日「東」からスタートして「山の神さん」に登った道の遠望です。この道を歩いて向うの山の頂上にある「山の神さん」に登りました。この写真は「桾原」(「くぬぎはら」と読みます)を散歩しているときに撮りました。街に住んでいたら、この景色を一目見るだけで心がさっと広がるでしょう。散歩をしていると次から次へとこんな景色が立ち現れます。
 田舎暮らしの一歩目は住む家を確保することです。古希近くなってから田舎に家を建てるなんてできるわけない。空き家を見つけて住むしかない。そう思い込んでいました。そして半年間精力的に不動産屋さんから入る情報をもとに空き家を見てまわりました。南は淡路島の一宮町から北は福知山線の「谷川」駅の近くまで。
 いま見てまわった家のアルバムを引っ張り出して見返していました。不動産屋さんに声を掛ける前、「自分たちで空き家をさがそう」と神戸市北区を歩きまわったときに作ったチラシが出てきました。

 《空き家をさがしています》……◎ 現在神戸市須磨区に住んでいる者ですが、こちらに住んで、野菜づくりをしようと、空き家をさがしています。ご近所、お知り合いの方に、「空き家を手放してもいい」「貸してもいい」という方がおられましたら、ご紹介ください。  ◎ 私どもは、定年退職後に西区神出の家庭菜園にかよって、野菜を作りはじめました。しかしできれば家の近くの畑で野菜づくりをしたいという希望があります。こちらに住み、200坪前後の畑を借りて、毎日夫婦で畑仕事をしようと考えております。 (連絡先の電話を付加してました)
 
 農家らしい家を訪問してはこのチラシを渡して、情報をお願いしました。これで得られた情報は、何日も出掛けて歩きまわって一件だけ。いまから考えると太平洋でボートに乗って手桶で水をくみ出しているようなものでした。      - つづく -

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田舎暮らしにあこがれる人人 (2)

2011年04月23日 02時53分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 佐の広池を周回する散歩コースの草刈りをして整備してから、もう十日近くその道を散歩しています。日陰になるところにはまだツクシが生えていたり、キジやイタチの姿を見かけることもあります。でもゴミを出す日は軽トラでゴミステーションに行き、そのついでにまわりの集落を走ってみます。先日のゴミの日は東(ひがし)から保木(ほき)を歩いてみました。
 写真は保木の神社近くにある藁屋根の民家です。いまは藁屋根といってもトタンでカバーしてある家がほとんどで、写真のような藁屋根のままの家はうちのでも一軒だけです。この民家はいいたたずまいですが空き家のようです。不動産屋さんによると「いいたたずまいの空き家があっても実際に売りに出されるのは100軒に1~2軒あるかないか」ということで、塩漬けになった民家が田舎には山ほどあります。この家もそうでしょうか。
 漠然とした思いだった『田舎暮らし』を実現しようと具体的に動き出したのは2005年でした。それまでの数年間は神戸市西区神出で『大豆畑トラスト』を立ち上げ、20人ほどの農志向の市民と出会い、畑づくりや草刈りを覚え、耕運機を使い、農具の小屋を整備し、いわば田舎暮らしへと気持ちの高まる準備期間でした。
 2005年秋、目星をつけ、ほぼ確定していた田舎の民家の話がつぶれてから、急にあわてたように空き家をさがしはじめました。神戸市北区の農家を訪ねては空き家情報をきいてまわり、こちらの住所や要望(畑をつくりたい)を書いたチラシを渡して連絡をお願いし、兵庫県の不動産屋のリストをネットで調べ、片っ端から電話して空き家情報を頼みました。すると毎日のように空き家情報のファックスが入ってきました。
 その体験からいえることは「自分で農家を訪ねたり知人に頼んで空き家をさがすのはむずかしい。不動産屋の情報を利用するのがいい」です。一冊のアルバムになっている当時の田舎の空き家物件見学を振り返ると「なんとか田舎暮らしを実現しようと必死だったなー」と思います。
                                 - つづく -
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田舎暮らしにあこがれる人人 (1)

2011年04月19日 01時30分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「田舎暮らしをしたい」と思っても、いろんな事情で街に住むしかない人は少なくありません。写真の庭を見てくだっさい。道路から小屋まで二メートルちょっとの小径と左右の植え込みを写しました。家の前の道路をへだてた、いわばお向かいさんの庭です。
 神戸の市街地に住んでいる人ですが、いま週に2~3日自動車を運転して庭と畑の手入れに来られます。海岸のほうからここまでは自動車で一時間かかるそうです。50坪ほどの土地に水洗便所と電気・水道のついた小屋を建て、小さな庭に花の苗を植え、木を植え、水をやり、畑をつくり、しばし田舎の空気を吸って帰られます。
 60歳代の女性が、往復二時間車を運転して、週に二、三回通うほどの魅力がここにはある。写真を見ると庭にそそぐ愛情が見えるようです。まわりのたたずまいもいい。話を聞いてみるとこの土地を手に入れられたのは地震前だったそうです。「ここは電気も水道もあったので神戸の地震のときは助かりました。ここに来て米を洗ったり洗濯したりしました」と話されたことがあります。もう二十年近くもここに通って庭や畑の手入れをしておられます。
 このあたりのことがなにもわからなかった足掛け5年前の2006年夏には、家を建てる前に「田舎暮らしをしようと思うなら、事前にしっかりあいさつしないと村八分にあうよ」と大豆畑トラストの人に忠告され、二人で村の数軒にあいさつにうかがいました。一軒ずつ訪ね、それぞれの家の玄関を写してアルバムに整理して名前を覚え、立ち話をして土地の事情をききました。
 我が家から50メートル山のほうに道路を上ると、山の田んぼに行く道とかつての分譲地(いまも分譲していますがだれも見に来ません)に行く道にわかれます。そこに街から畑作りに通う人にもあいさつに行きました。一軒は尼崎の武庫川のほうから時間をかけて軽自動車のバンで通う老夫婦で、小屋を建てて斜面を階段状の畑にしておられました。しかし山を畑にするには土からつくらねばならずずいぶん手間がかかるようです。もう一人は伊丹のほうから畑作りに通う人で、100坪くらいの畑にいろんな作物をつくっておられます。小屋を建て、屋根に降る雨をドラム缶に溜めるようにして、利用しておられました。
 さてこの地に暮らし五年たってどうか。村の人たちとは交流が深まり、散歩で会うと話し込むこともあります。畑に上がってこられ、おしゃべりすることもあります。街から畑作りに来る人とは、お向かいさんを除いて距離感が一ミリも変わりません。
 そういえば神戸の街に住んでいたときもそうでした。街がそうさせるのか。人がそうさせるのか。また考えてみます。 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裏山のシイタケのホダ木置き場を改良しました。

2011年04月18日 03時12分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 毎年10本ずつホダ木を追加しているのでいま60本ほどあります。ところが置き場をおおっていた真竹を全部伐採してしまったので日光にさらされるようになりました。(松、山桜など元の樹木は竹薮に飲み込まれて全部枯れて倒れてしまいました)そこで切った竹を使ってシイタケ置き場のおおいを改善しました。竹を針金でくくって枠をつくり、ヨシズをかぶせて日陰になるようにしたのです。
 写真で朝日があたっているのが右、左は低い裏山になっており、西日はそんなにあたりません。冬は日が低くなるのですが手前の南側には竹薮を残しているのでその陰になります。この置き場を年中木陰になるようにしたい。木の茂る裏山のてっぺんにはちゃんとした木陰があるのですが、後期高齢者近くなるとシイタケをとるために登るのはしんどい。
 
 簡単な仕事ですが、おっかなびっくりで踏み台や脚立に乗り竹につかまってなんとか仕上げました。作業をしながら「そうなんだなあ。『老いる』というのはこういうことなんだなあ」と手足の衰えをつくづく実感していました。「もし脚立が倒れて80センチのところから落ちてもひらりと身をかわすでなく、ボテッと転がって骨を折ると入院して筋肉がさらに衰え……」と思いながら作業しました。
 ぼくはそんなふうに老いを実感するのは大事なことだと思います。
 神戸に住んでいた頃、ある年輩の人にこんな話を聞きました。「いままで元気で医者にかかったことがなかったのにえらい目にあいました」バス停に向かって歩いていたらバスが来た。これに乗ろうと走ったら胸が痛くなって倒れた。それで心臓を手術したというのです。15分待てば次のバスが来るのに走ってしまう。いままで自分では当たり前にやってきたことです。
 それがあるときから思うようにできなくなる。向うから自動車が来る。道を横断する。渡りきれると思ったのに。小さな溝だからひょいとまたげると思ったのに。少し重いけどこれくらいなら運べると思ったのに。そんなふうに限界が日に日に後退するのを知るには、畑仕事や裏山の仕事はちょうどいい試練になります。
 それにしてもいまから木を植えて、このシイタケのホダ木置き場が木陰になるのは何年先か。それともこちらが寝込み、竹薮が勢いを盛り返して置き場を飲み込むか。
 この勝負、結果は見えてるのに見たくない。まだ若いねー。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麦若葉にアブラムシがつきはじめました。

2011年04月17日 00時47分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうはぼくたちが草を刈って整備した池の周回道を散歩しました。気温が上がり、レンゲの花も咲きはじめています。道端のカラスノエンドウを見ると茎にアブラムシがびっしりついています。つきはじめると一日二日で茎が黒くなるほどつきます。テントウムシもどこかにいて、アブラムシをせっせと食べているのでしょうが、こんなにびっしりでは追いつきませんね。
 畑に寄ってみると六条大麦の穂が出はじめました。チラホラと有翅のアブラムシが飛んできています。これが単性生殖によって増殖し、茎が黒くなるほどびっしり無翅のアブラムシがつきます。そして麦の茎が過密になり他の植物に飛んでいかねば、というときにまた有翅のアブラムシが出現するそうです。自然界の精妙な仕組みに神の意志を感じます。
 麦はアブラムシの大好物です。うちの畑では農薬を散布しないのでアブラムシはつきます。わざわざ麦を栽培してアブラムシを寄せつけ、他の作物に行かせない農法もあるくらいですから仕方ありません。びっしりついたところに牛乳を薄めて散布することにします。
 六条大麦は麦茶や麦ご飯に、二条大麦はビールになることをこのたび大麦を播いてはじめて知りました。六条大麦は五月末か六月はじめに刈り取り、干して粒を落として収穫するようです。それを炒って麦茶にします。その土地の種を交換し合って広めようとしている『種の森』でもらった種ですから、これから大切に引継ぎます。ご希望がありましたら声を掛けてください。
『種の森』といえばこのあたりでは加古川市野村というところに『おかげさま』というレストランがあり、種の森の種子をあつかっているそうです。ときどきブログを見ており、先日のバザーには行ってみようと「野村」の信号まで行ってうろうろしたのですがわかりませんでした。また訪ねることにします。
 うちの畑のレンゲはまだチラホラ。あと一週間で「ああ、レンゲ畑だなあ」といってもらえるでしょうかねえ。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「街で暮らしてたら、いまごろなにしてるかな」

2011年04月16日 02時07分02秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 先日、ぼくのブログを読み返していた道子さんが「街の人がこのブログの写真をあれこれ見ると、いいところに暮らしてると思われるでしょうね」といいました。何の変哲もない田舎暮らしなのに、いま一覧表を見たら3年にわたり446回もブログを書いてます。そしてこれからもまだ載せる写真があり書くことがある。これは考えてみるとすごいことです。
 その「すごい」の中身は、ぼくの趣味に打ち込む姿でも、なにか特別な使命でも、写真家の撮るようなすばらしい写真でもありません。平凡な田舎で、畑を耕して暮らす様子を伝えているだけです。「すごい」のは「平凡な田舎」です。「田舎」はただそこに「田舎」として存在するだけでたくさんのなにかを、人間に与えてくれます。
 
 この写真は家から100メートル北東の竹薮です。細い竹なので藪に生えているクヌギやコナラのほうがはるかに背が高く、竹はもうすぐ若葉の陰になってしまうでしょう。竹薮討伐に意欲を燃やすぼくとしては、竹との闘争に勝って胸を張っているクヌギやコナラを撮ったつもりです。でもそんなことに関係なく平凡な緑の風景が、ただこうして「そこにあるだけでいい」。草や竹を刈って整えられた公園でなく、ほったらかしにされた自然がただそこにある。そんな自然をあたりまえのように眺め、きょうも山や畑ですることがいっぱいある。
 もし田舎暮らしに踏み切らなかったら、いまも街に暮らすしかありません。
「もし街で暮らしてたらいまごろなにしてるかな」とふと思います。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花の季節が駆け足で通りすぎていきます。

2011年04月15日 00時50分28秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 11日(月)は『口吉川町の山を歩く会』(とぼくが勝手に名前をつけている)がありました。参加者は郷土史にくわしい講座の講師の人、地元の人、田舎に転居してきた二人(ぼくも)、これに今回から参加された地元の人の五人でした。道子さんは畑の用事が混んできてその仕事に専念。もう一人転居組で植物にくわしい人は花粉症で不参加。三月と同じく「東」(ひがし)の公民館近く(大師堂下の広場)に軽トラを置き(相談したわけではなかったけど全員軽トラでした)、「山の神さん」にのぼりはじめました。
 写真は山の神さんの山のもう一つ南の山からおらが村「東中」を撮ったものです。向こうはオリエンタルゴルフ場で、手前が東中です。右手中ほどの小さい木立ちは八幡神社、左手の端にぼくが竹を切って空き地のように見えるところがあるのですが、わかりますでしょうか。
 細川町の谷の原坂に出るつもりでしたが山道を歩いているうちにまた東に戻ってしまいました。来月は9日(月)8時に東中の八幡神社に集合して、蛇が池 ⇒ 福地池 ⇒ 西中の龍神を祀る山 と歩くことになりました。ぼくのホームグラウンドみたいなものでたのしみです。
 そろそろ龍神を祀る山の道はコバノミツバツツジが満開になり、ツツジのトンネルみたいになっているのではないか。去年はタイミングを逸したので様子を見に13日に散歩で登ってみました。参道両側の茂みの奥には咲いているツツジもありますがわずか。ツツジの木は多く、三枚の小さい葉っぱはツンツンと立っていますが、花のつぼみがないのです。去年は時期を逸したというより、ツツジの木を見て「こりゃ一斉に咲いたらトンネルになるな」と思ったのですが、それが間違いだったようです。花をつけない木が多い。
 それでは桃の花はどうだろう、と午後、社(やしろ)の桃園に軽トラで行ってみました。こちらの桃は五分咲きというところです。例年なら満開になる時季ですが今年は遅い。ユキヤナギも散らないで残っているし桜も遅い。北谷川両岸の桜はどうだろう。稜庵でそばを食べたくなり、14日の昼に寄ってみましたがさすがに散り頃でした。もうすぐ山は若葉色になり、藤の花が咲きます。
 今週の仕事はシイタケ原木置き場のおおいをつくることでした。いままで木陰をつくっていた竹を全部切ってしまいましたから日が当たります。朽ちたスダレを取り除き、ヨシズをかぶせたらいい、と思っていましたがそんなに簡単なことではなく、時間がかかりました。脚立や竹を積み上げた足場をモノにつかまりながら移動し、なんとか仕上げました。
 古希をすぎると筋肉が弱り、足もとがおぼつかなくなりますね。手で竹につかまり、グイッと体を持ち上げるつもりなのに、肉屋にぶら下がる肉のような自分の手足の感覚がショックでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「にいちゃん、おんぶして」 (3)

2011年04月13日 23時45分31秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 30枚の児童用読物の3/3です。

 
 8月になると、篠山の町には『デカンショ祭り』のポスターがあちこちに貼られる。本通りの商店街では、どの店の軒先にも提灯がつけられる。篠山の人たちは、この祭りの提灯を「あんどん」と呼んでいる。
 本通りの三か所には、何十という提灯をつけたアーチが立てられる。近くの公園の広場でも踊りの練習がはじまり、17日18日に行われる『デカンショ祭り』の雰囲気が、だんだん盛りあがってくる。
 ぼくの家にも、踊りの練習をする音楽が聞えてきた。

  デカンショ    デカンショで
  はんとしくらす  よいよい
  あとのはんとしゃ ねてくらす
  よーいよーい   デッカンショ
 
 歌の意味はわからないけど、歌は覚えてしまった。ぼくは、お父さんにもお母さんにも、そのようすを手紙に書いて送った。そしてデカンショ祭りにはぜったい来てほしいとたのんだ。
 お母さんからは、「用事があって大阪に行く。8月7日には篠山に泊まる」と返事が来た。おばあちゃんはごちそうをつくり、ぼくは座敷をきれいに掃除して、ふとんを日なたに干した。
 お母さんから、7日の昼まえに「急用で行けなくなってしまった」と電話がかかってきた。お母さんは電話のむこうで「ごめんね。せいちゃん。ほんとにごめんね。ごめんね」と、何度もいった。泣いているようだった。ぼくは「仕方がない。またこんど来てね」といったが、お母さんはもう来ないような気がした。
 お父さんからは手紙の返事は来なかったけど、8月9日になって「お盆には墓参りに帰るから」とおばあちゃんに電話があった。
 ぼくは、にいちゃんに「お父さんがお盆に来るから、篠山に来てほしい。いっしょにデカンショ祭りを見たい」と手紙を書いた。
 14日は学校の水やり当番だったので、芦田さんや山田くんと学校にいった。当番が終わってみんなと別れ、ひとりでお濠ばたの細い道を歩いていると、後ろからバリバリバリと大きな音をたてて、単車が走ってきた。
 ぼくはビクッとして、道ばたに寄った。単車はぼくを行きすぎてから、キキキーッととまった。単車には二人の男の人が乗っていた。後ろに乗っていた人が単車をおりてぼくに近づいてきた。
 頭の髪を茶色にそめて、鏡のようにキラキラするサングラスをかけている。ジーパンをはいて、派手なもようのシャツを着ている。ぼくはこわかった。その人のほうを見ないで、お濠ばたの桜の木にかくれるように立っていた。
 男の人はそれでもぼくに近づいてきた。そしてサングラスをとった。
 博史にいちゃんだった。
「誠司、いま帰るところか。元気そうやな。またおばあちゃんの家にも行くからな」
「……」
「びっくりした顔しとるな。どうや。にいちゃんのかっこ、似合うか」
 にいちゃんがあんまり変わっていたので、ぼくはなにもいえなかった。にいちゃんはまた単車の後ろに乗った。単車はバリバリッとすごい音をたてて走りだした。やかましいクラクションも鳴らした。
 にいちゃんはどうなってしまったんだろう。とうとう、ぼくはひとりぼっちになってしまったのだろうか。
 家に帰ると、おばあちゃんが「お父さんがあした、この家に来るよ」とうれしそうにいった。それを聞いてもぼくがうれしそうにしないので、おばあちゃんは「どこかぐわいがわるいの?」と心配そうな顔をした。
 ぼくは「大丈夫」といって自分の部屋に入ってしまった。
 お父さんが篠山に来た晩、警察から電話があった。「貝塚博史を保護したので、引き取りに来るように」という連絡だった。
 にいちゃんはふてくされた顔をしてお父さんといっしょに帰ってきた。ぼくは話かけようと思ったけど、なにをいったらいいかわからないから、だまってにいちゃんのそばにすわっていた。
 お父さんはひと晩だけ泊まって高松に帰ってしまったが、にいちゃんは20日まで泊まることになった。でもにいちゃんは座敷でテレビを見たり寝てばっかりで、話ができなかった。
 17日の午後はデカンショ祭りのパレードがあった。昼ごはんを食べてからにいちゃんをさそったが、行かないという。ぼくはひとりで本通りに行った。ブラスバンドの行進のあとに、ミス・デカンショの女の人が乗った自動車がゆっくり通りすぎた。そのあとに、ゆかたを着たたくさんの人たちが行進していった。
 パレードを見てから、城跡にあがってみた。城跡には人の姿が見えなかった。ぼくは大きな木のほうに歩いていった。
 だれか男の人が、大きな木に寄りかかって立っていた。ぼくが近づくと、男の人は歩き出した。リンゴあめ屋のにいちゃんだ。アルミの杖をついた男の子は木の根元にいるだろうか。ぼくは木のまわりをまわってみたが、男の子はいなかった。
 ぼくは大きな木にもたれて、太い枝を見あげた。
 石垣の下の広場では、たくさんの夜店が準備をしていた。小さいトラックから荷物をおろして運んだり、屋根のテントを張ったりする人たちで、広場はごったがえしていた。みんなタオルを首にかけ、汗をふきふき仕事をしていた。お濠に近い広場のすみでは、数人の人が見世物小屋のお化けの看板をとりつけていた。
 リンゴあめ屋のにいちゃんがいるのだから、あの男の子も来ているはずだ。ぼくは夜店の準備をしている人たちの間を、荷物をよけながら歩いた。
 リンゴあめ屋の看板を見つけたが、見たことのない人が準備していた。だいぶん歩いて疲れたころに、見覚えのあるふとったおばさんが、リンゴあめの看板の布を張っているのを見つけた。 ぼくは、おばさんが仕事をするのを、しばらく見ていた。
 前掛けをしたおじさんが通りかかって、おばさんに声をかけた。二人は立ち話をしはじめた。
 ぼくはそばに寄って、ほかの店を見ているふりして話を聞いた。
「てるちゃんは、元気にしとるかいな」
 おばさんは、仕事の手をとめていった。
「輝夫は十日まえに死にました」
「えっ? てるちゃんは死んだか」
「医者は、病気がすすんで、三月まで生きるのは無理やっていうとりましたけど、あの子は五ヵ月も長生きしました」
「そうか。死んだか」
 おじさんはだまって空を見あげ、タオルで汗をふいた。
「てるちゃんは、ようがんばったんやなあ」
 おばさんは、石垣の上を指さした。
「輝夫は、篠山に来るのを、たのしみにしとりました。『あの木はぼくの木や』ってずっというとりました。八月になって、もうじき篠山に行けるっていうときに、死んだです。にいちゃんは輝夫をかわがっとったもんで、泣いて泣いてくやしがりました。『輝夫の骨はあの木の下に埋めたるんや』って、さっき出ていきよりました」
 ぼくは歩きだした。夜店の準備をしている人たちの間を、荷物をよけながら歩いた。
 暑い日だった。汗が背中を流れているのがわかった。おでこから汗が流れて、目に入った。目がぴりぴりした。
 ぼくは、とつぜんわーんと泣きだした。一度泣くと止まらなくなった。あとからあとから涙が出てきて、泣きながら歩いた。
 家に帰って、顔を洗い、部屋に入って昼寝をした。
 晩ごばんを食べていると、花火のあがる音が聞えてきた。
「にいちゃん、いっしょにデカンショ踊り見にいこう」
「行ってもええ。だけど人が多いらしいから、迷子になるなよ」
「篠山だったら、ぼくのほうがよう知っとるから大丈夫や。にいちゃんこそ、迷子になったらちゃんと帰ってきてよ」
 それを聞いて、おばあちゃんが笑った。
 本通りは、人でいっぱいだった。デカンショ節が、大きな音でスピーカーから流れ、たくさんの人が、おどっていた。夜店のある広場は、満員電車みたいに人が多かった。にいちゃんはぼくの手をにぎって、人をよけながら歩いた。
 ぼくはふいに、にいちゃんの手を両手でぐいっと引っ張った。にいちゃんが体をかがめた。ぼくはにいちゃんの耳もとに口を近づけていった。
「にいちゃん、おんぶして」
 にいちゃんはしゃがんで、びっくりした顔でぼくを見た。それから、ニヤッとして、おでこをぼくのおでこにコツンとくっつけ、背中をむけた。
 にいちゃんは、ぼくをおんぶして「よいしょ!」と声をかけて立ち上がり、人ごみの中をゆっくり歩きだした。      
                           おわり 


 長い話を読んでいただき、ありがとうございました。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「にいちゃん、おんぶして」  (2)

2011年04月13日 00時52分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 30枚の物語ですので、3回に分けてアップします。きょうはその(2)です。
 
 桜は一週間で満開になり、たくさんお人がお花見にやって来た。
 ぼくはあの大きな木にさわりたくなって、ある日学校の帰りに、ひとりで城跡にあがってみた。まっすぐ大きな木のそばに行き、手のひらでさわった。それから両手を広げ、木の幹に胸をくっつけて枝を見あげた。
 木をぐるっとひとまわりしてみよう。
 と歩いていくと、地面にアルミの小さい杖がおいてあり、ぼくより小さい男の子が、木の根元に、足を投げ出してすわっていた。
 男の子はぼくを見あげて「にこっ!」とした。ぼくもつられて「にこっ!」とした。
 ぼくは城跡を歩きまわり、ときどき大きな木をふりかえった。はなれて見ると、大きな木はいい形をしている。ぼくは、もし写生会があったらこの木を描きたい、と思った。
 石段を下りかけたとき、まえを歩いていく男の子に気づいた。二本のアルミの杖を両手でついている。さっきの男の子だ。頭にヘッドギアをかぶっている。ふいに倒れたときに頭を守る帽子のようなものだ。
 ぼくは、筋ジストロフィーという病気の友だちを思い出した。
 その友だちはヘッドギアをかぶり、アルミの杖をついていた。ぼくと同じマンションに住んでいて、何年も病院にかよっていた。だんだん手足が細くなり力が入らなくなる病気だ、とお母さんが話していた。
 まえを歩く男の子は、ぼくの友だちと同じように足が細かった。半ズボンをはいている足が、腕の太さくらいに見えた。この子も筋ジストロフィーという病気なのだろうか。
 男の子は両手にもったアルミの杖をついて、どんどん石段をおりていった。
「にいちゃん、待って!」
 男の子が叫んだ。
 あっ、危ない!
 と思ったとき、男の子はもうころんでいた。
 男の子がわーっと泣き出した。
 すると石垣の角をまがりかけていた男の人がふりかえった。高校生くらいの色の白いにいちゃんだった。
 そのにいちゃんは引きかえしてきて、倒れたまま泣いている男の子をだき起こした。そして、アルミの杖をひろい、背中を向けてしゃがんだ。
 小さい男の子は、おんぶしてもらって泣きやみ、にいちゃんになにか話しかけている。
 ぼくはほっとして石段を下りていった。
 おばあちゃんの家の玄関を入ると、子どものくつが並んでいた。
 おばあちゃんが玄関に出てきて、いった。
「どうしたの。遅かったねえ」
「城跡にあがって散歩してきた」
「きょうはお花見に行くのよ。誠司と同じ組の芦田さんと池宮さんと山田くんもいっしょよ。ごちそうつくったから、誠司も運ぶの手伝ってね」
 ぼくはこくんとうなずいて、部屋に入った。
「こんにちわ」みんな大きな声であいさつした。
 ぼくは、うれしいような、はずかしいような気持ちで、落ち着かなかった。
 芦田さんは、ぼくのとなりの席で、字をとってもきれいに書く。髪が長くてすらっとしている。始業式の日に最初に声をかけてくれたのは芦田さんだった。
 池宮さんは芦田さんの友だちで運動の得意な子だ。
 山田君は芦田さんが好きらしい。芦田さんがぼくに親切にするので、仲良しになってしまわないか心配で、ついてきたのかもしれない。だって、芦田さんがぼくに話しかけるといつも山田くんがそばに来てなにかいうから。
 でも花見をするならにぎやかなほうがいい。
 太陽が沈むころにぼくたちはお花見に行った。石垣の下の広場には夜店が並び、石段を上がった城跡では、あちこちに花見の輪ができていた。
 ぼくたちが城跡に上がったとき、あの大きな木の下でお花見をしていた人たちが、ちょうど引きあげるところだった。
「あの木の下がいい」とぼくがいったので、みんなでそこにござをしいて輪になってすわった。芦田さんのお母さんも、家でつくったごちそうをもってきた。ごちそうを食べ、よくしゃべり、みんなたのしそうだった。
 ぼくは木の幹にもたれた。昼間見た、アルミの杖をついた男の子を思い出した。あの子もこの木が好きなのだろうか。いまごろなにをしているのだろう。
 ぼくは、暗くなりかけた空を見あげた。大きな木の太い枝が、切り絵のように黒くくっきりと見えた。
 芦田さんが夜店に行ってみたいといった。みんなが行きたいといい、おばあちゃんは三百円ずつくれた。ぼくたちは石段を下りて、夜店見物に出かけた。
 夜店と夜店の間は通路になっていて、たくさんの人が両がわの店を見ながらうろうろしていた。ぼくたちは自分のほしいものを買ったら石段の下にあつまることにして、人ごみの中に散っていった。
 夜店を見て歩く人たちの中に、細い足が見えた。ヘッドギアをしている。学校の帰りに大きな木のところで見た男の子だ。あのにいちゃんが男の子をおんぶしている。
 ぼくは後についていった。
 にいちゃんは、リンゴあめの店まで来ると、店のうしろにまわった。太ったおばさんが「おかえり」と声をかけた。
 小さい男の子は眠っていた。おばさんはにいちゃんの背中から男の子をだきとって、店の裏にしいてあるシートに寝かせた。男の子のほほには、涙のあとがついていた。にいちゃんはジャンパーをぬいで、男の子にかけてやった。
 おばさんが「水くんできて」とにいちゃんに声をかけた。にいちゃんはバケツをもって、広場のすみにある水道のほうに歩いていった。
 4月20日にお母さんから手紙が来た。住所は仙台になっていた。
「せいちゃん、元気ですか。新しい学校になれましたか。友だちはできましたか。せいちゃんはどうしてるかな、といつも思っています。もうすぐ誕生日ですね。どんなプレゼントがほしいですか。知らせてください」と書いてあった。
 ぼくは、「ほしいものはないけど、一度篠山に来てほしい」と返事を書いた。
 次の日にはお父さんから手紙が来た。お父さんの住所は四国の高松になっていた。
「誠司、元気ですか。学校になれましたか。小学生を見ると、誠司はどうしているかな、と思います。誕生日のプレゼントはなにがいいですか」と、お母さんと相談したみたいに同じことが書いてあった。
 ぼくは、お母さんに出したのと同じ文の返事を書いた。
 ぼくの誕生日は、5月5日の子どもの日で、学校も会社も休みになる。もしお父さんもお母さんも篠山に来て、ふたりが顔を会わせたらどうなるだろう。
 ぼくが小学校一年生になった夏、五年生の博史にいちゃんとお父さんお母さんの四人でびわ湖にキャンプに行った。にいちゃんとぼくが、魚釣りをしてテントにもどってきたとき、お父さんとお母さんがキスしていた。
 夕食のとき、にいちゃんがその話をしたら、「お父さんとお母さんは仲良しだもん。キスなんかよくしてるもん。ね、お母さん」とお父さんがいった。
 そしたらお母さんが、「そうよ。ほらね」といってチュッとお父さんにキスをした。
 ぼくとにいちゃんは「キャーッ」といって両手で顔をかくして、それから拍手してみんなで大笑いした。
 ほんとうにあんな日があったのだろうか。
 お父さんとお母さんはどうしてこんなことになってしまったのだろう。
 5月2日に学校から帰ってくると、お父さんからもお母さんからも手紙が来ていた。ぼくはどきどきして封を切った。
 お父さんの手紙にもお母さんの手紙にも「いそがしくて篠山には行けない。プレゼントは送った。夏休みに行くから、それまでしっかり勉強しなさいね」と書いてあった。
 お父さんとお母さんは、ちがうところに住んでいるのに、どうしてよく似た手紙を書くのだろう、と思った。
 五月の終わりに学校で『ミニ音楽会』があった。五年一組は二つの曲を合唱することになり、一曲目は芦田貴美子さん、二曲目はぼくがピアノ伴奏をした。
 おばあちゃんの家にはピアノがないので、ぼくは学校で練習した。放課後、芦田さんも音楽室に来て、いっしょに練習した。ぼくはうれしかった。芦田さんは、ぼくが弾くのをほめてくれた。音楽会でもうまく弾けた。音楽の先生にもほめられた。ぼくはちょっと得意だった。
 ミニ音楽会の次の日、ぼくが学校の便所でうんこしていたら、便所にだれか入ってきた。小便をしながら話しているみたいだ。
「あいつは親が離婚したからこっちに来たんやって」
「そうか。あいつ、兄弟はおるんやろか」
「どうやろ。でもおるんやったら、いっしょに来てるやろ」
「ひとりぼっちか。かわいそうやなあ」
「うん、かわいそうや。子どもやもんなあ」
 だれとだれが話しているのかわからなかったけど、ぼくのことを話しているのはわかった。だれがそんなことをいいふらしたのだろう。さっきの声は聞きおぼえがなかった。となりの組の子が話していたようだ。お父さんとお母さんが離婚したことはみんなに知られているのだろうか。
「かわいそう」といっていた。ぼくは「かわいそう」って思われてるのか。だからみんなが親切だったのか。
 学校の帰りにひとりで城跡にあがった。
 石垣のすぐ下に中学校が見える。中学校は城跡をはさんで、ちょうど小学校の反対側にある。運動場で中学生がサッカーをしている。ぼくは石垣の上を歩いて大きな木の根元に行った。アルミの杖の子みたいに木にもたれてすわり、遠くの山を見た。
 京都はどっちの方向だろう。にいちゃんは、いまごろ京都の中学校でサッカーをしているのだろうか。にいちゃんも友だちに「かわいそう」って思われているのだろうか。
 アルミの杖をついた男の子は、どこの小学校に行ってるんだろう。あの子も友だちに「かわいそう」って思われてるのだろうか。
 六月の第二土曜日の朝、にいちゃんが着た。ぼくは学校が休みなので、ゆっくり寝ていた。ぼくの部屋のガラス窓を、だれかコンコンとたたいたような気がした。窓を開けてみると、にいちゃんが立っていた。
「京都から自転車で来たんや。5時間もかかったわ」
 にいちゃんは汗びっしょりだった。
 ぼくはおばあちゃんに、大きな声で「にいちゃんが来た」と知らせた。にいちゃんは、朝の4時に京都の家を出て、篠山まで山を越えて来たという。
「丹波は山が多いやろ。坂道ばっかりやからしんどかった」
 おばあちゃんは朝ごはんをつくりながら、にいちゃんの話を聞いた。
「自転車で京都から来るなんで聞いたことがないわ。博史しゃん、体力あるわね」
「いや、もう二度と自転車で来ようとは思わへん。遠かった」
「きょうは泊っていきなさいね。京都のおばあちゃんには、わたしが電話するから」
「にいちゃん。泊まってよ。いっしょにお風呂に入ろう。おばあちゃんのうちのお風呂は大きいから」
「そうしようか」
 ぼくはうれしかった。うじうじしていた心が、いっぺんにすかっとした。
 夕方、にいちゃんと散歩に出た。ぼくはにいちゃんを友だちに見てほしいと思ったが、だれにも会わなかった。
 にいちゃんが、「誠司が元気で安心した」といってじっと見るので、ぼくは照れくさかった。「にいちゃん。こんどの中学校、サッカー部強い?」
「サッカー部はやめた」
 ぼくはびっくりした。
 にいちゃんは、小学校から少年フットボールクラブでサッカーをしていた。中学校のサッカー部に入ってからは、二年生でもうレギュラーになって活躍していた。来年は大阪の大会で勝ち抜いて全国大会に行くぞ、って張り切っていた。
「サッカー部をやめたことは内緒やで」
「でも、なんでやめたん?」
「いろいろあってな。途中から転校してもうまいこといかへんわ」
 よくわからないけど、あれほど好きなサッカーをやめたんだから、きっといやなことがあったのだろう。
 そう思うとなにもいえなかった。
 ぼくは一日中にいちゃんにくっついていた。晩ごはんを食べてからいっしょにお風呂に入り、座敷にふとんを二つしいてもらって、並んで寝た。
 夜中に目が覚めた。なにか音が聞こえたような気がした。耳をすませていると、また音が聞こえた。鼻をすする音だ。
 ぼくはどきんとした。
 にいちゃんが泣いている。泣き声が聞えないようにふとんをかぶっているけど、たしかににいちゃんは泣いている。
  ぼくは、いままでにいちゃんが泣いているのを、見たことがない。サッカーをするときはかっこいいし、背は高いし、ぼくにはやさしい。ぼくは、そんなにいちゃんしか知らない。ぼくは目が覚めているのを気づかれないようにじっとしていた。
 日曜日の朝、にいちゃんはふつうの顔で起きてきた。
「こんどは夏休みだな。手紙を出すから返事をくれよ」
 そういって、にいちゃんは自転車で出発した。帰りはゆっくり走って、いま京都に着いた、と夕方にいちゃんから電話があった。     ― つづく ― 
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

むかし書いた榎の物語をアップします。

2011年04月12日 01時13分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 アルバムの写真をデジカメで撮ってアップしましたのでクリアでありませんがご容赦を。これは篠山城の石垣の北西の角に生えていた榎です。1995年10月に撮りました。残念ながらいまは存在しません。大木でしたから樹齢は数百年でしょうか。
 今年1月8日のブログで榎のことを書き、「つづく」としてそのままになっていました。ぼくの書いた物語をアップするつもりでした。むかし(というほどではありませんが十数年前)の篠山城跡を知っている人なら見覚えのある大木のはずです。この城跡に大書院が建てられ、榎はその敷地に取り込まれていました。しかし建築工事のせいで枯れたのでしょうか。いまは切り株だけになっています。この写真に写っている頃を思い浮かべて読んでいただけたらうれしいです。なお児童用の話なのでルビをところどころうっていますが省略します。


       にいちゃん、おんぶして

「誠司、お父さんとお母さん、いよいよ離婚するみたいや。友だちに盗聴器借りてきたから、おれの部屋に来いよ」
「トウチョウキってなに?」
「人の話をぬすみ聞きする機械や」
 にいちゃんは小さい声でいった。ぼくはだまってうなずいた。
 博史にいちゃんは中学二年生で、ぼくより36センチも背が高い。声は大人の声になっているし、サッカー部できたえているから、強そうに見える。
 ぼくは四年三組では、いちばん小さい。腕が細いし、弱そうにみえる。でも博史にいちゃんは、ぼくをかわいがってくれるから好きだ。
 にいちゃんの部屋は、お父さんたちの部屋のとなりだ。壁に耳をつけてぬすみ聞きするのかと思ったら、にいちゃんはラジカセのまえにすわった。お父さんの部屋にワイヤレスマイクを仕掛けて、ラジカセで聞けるようにしたんや、とにいちゃんはいった。
 ぼくはにいちゃんの横にすわり、耳をラジカセに近づけた。
「篠山のおばあちゃんが、誠司をあずかってもいいって電話してきたぞ」
 お父さんの声だ。声は小さいが、よく聞える。
「京都のおばあちゃんが、博史は高校卒業まであずかりますって。これで子どもたちの落ち着くところはできたわ。わたしは二月の終りに、東京に引っ越しますからね」
 お母さんの声は、ちょっと聞えにくかった。
「あとひと月もないやないか。あの子らの気持ちを考えたら、せめて三月の終りまで、大阪にいてやったらどうや」
「わたし、新しくできる仙台支店の店長になるのよ。忙しいんだから。あなたこそ横浜だ、広島だ、福岡だってとびまわって、このマンションにいたことないじゃないの」
 お母さんの声が大きくなった。
「仕方ないやないか。人事異動だから」
「わたしに顔向けできないことまでして。仕方ないなんて、よくもいえるわね」
「おまえだって、帰りは遅いし……」
「仕方ないでしょ。仕事なんだから」
 あとはいつもの口げんかになった。
 にいちゃんは、ラジカセのスイッチを切った。けんかの声が聞えなくなった。
 ぼくは目のまえの壁を、ぼんやり見ていた。うちの家族が、ばらばらになってしまう。泣きたいと思わなかったが、涙が出てきた。
「誠司、風呂に行こう」
 にいちゃんは、いきおいよく立ち上がった。ぼくが手を伸ばすと、にいちゃんはぐいっと引っ張って、立たせてくれた。
 お父さんとお母さんは、去年の夏から、ぼくたちのまえで口げんかをするようになった。けんかがはじまると、ぼくは心臓がどきどきして、息が苦しくなる。どうしていいかわからず、部屋のすみでちじこまってしまう。
 そんなときにいちゃんは、ぼくをよくお風呂屋さんについれて行ってくれた。
 マンションの風呂にひとりで入るときは、たまに体を洗うだけだった。でもお風呂屋さんに行ったら、ちいちゃんが背中を洗ってくれた。
 ぼくも、にいちゃんの背中を洗った。
「にいちゃんの背中は大きいから、ぼく損やなあ」っていったら、
「よし、ほんなら頭も洗ってやるわ」
 といって洗ってくれた。
 きょうは寒かった。お風呂屋さんに行く用意をして外に出たら、ぶるっと身ぶるいした。
「誠司。きょうは寒いから体洗うのは、なしや」
 にいちゃんは、自転車の後ろにぼくを乗せてびゅーんと走り、あっという間にお風呂屋さんに着いてしまった。
 四月一日に、ぼくは篠山のおばあちゃんの家に引っ越した。
 兵庫県多紀郡篠山町は、田舎の静かな町だ。本通りの両側は店が並んでいるけど、店の横の細い道に入っていくと、田んぼに出る。そのむこうは、どっちを向いても山ばかりだ。
 始業式のまえの日、ぼくはおばあちゃんにつれられて、小学校に行った。五年一組で、担任は男の先生で、石塚先生だった。
 石塚先生は、低い声でゆっくりしゃべった。
「貝塚誠司くんは、何の課目が好きですか」
「図工と音楽です」
「そうですか。何か習っていましたか」
「ピアノを習っていました」
「ふーん、すごいね。何年くらい?」
「四歳からずっと」
「これからも習うの?」
 篠山の家にはピアノがなかった。
 ぼくは「わかりません」といった。
 小学校の校門を出たところで、おばあちゃんはふりかえり、右手の高い石垣を指さした。
「あの石垣の上に、むかしはお城が建っていたのよ。明治時代に、とりかわされたけど」
「お城が建ったのは何年まえ?」
「徳川家康のときだから、三百八十年も前のことよ」
 ぼくは、おばあちゃんについて石垣の上にあがってみた。木造の古い小学校の屋根が、足もとに見えた。
「ほら、これはみんな桜の木。もうすぐたくさんの人がお花見に来るわよ。お店もいっぱい出るし。誠司もおばあちゃんとお花見に来ようね」
 石垣にそって古い木がはえている。枯れ木だと思ったが、おばあちゃんにいわれて枝をよく見ると、桜のつぼみがびっしりついていた。おばあちゃんは、石垣にそって先に歩いていった。
 桜の木の間に、とびぬけて高い木が一本ある。子どもが何人も手をつないで、やっとひとまわりできるほど太い木だ。幹は上のほうで三本の枝に分かれている。その枝は桜の木の幹より太くて、ねじれたり、まがりくねったりしている。
「おばあちゃん。あれ、何の木?」
「エノキって聞いたことがあるけど。とにかく桜じゃないわね」
「あの木は、お城ができた三百八十年まえから、あそこに生えてたの?」
「そんなことわからないわよ」
 おばあちゃんはいった。
 でもぼくはずっとむかしから、この木は町を見おろしてきた、と思った。台風で倒れそうになったり、雨が降らなくて枯れそうになったりしたことがあるかもしれない。でもここから動かないで三百八十年いっそうけんめい生きてきたんだ。
 まだ芽の出ていない太い枝を見あげていると、この木がとってもえらいような気がしてきた。                             -つづく-
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする