不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

畑仕事は真剣な遊びです。

2012年10月31日 01時41分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 きょうはコスモス・白蝶草など草を刈って畑で燃やしました。抜いたばかりの燃えにくい草や剪定したばかりの生の枝を燃やしますから、炎よりも煙が出ます。こんな白い煙を出して燃えると、いい『草木灰』ができます。それを畑に撒きます。いい肥料になります。
 ときどき思うのですが、畑の土にさわるのは「土・泥遊び」水をやるのは「水遊び」豆殻や草を燃やすのは「火遊び」みたいなものです。ちょっと年寄りすぎるけどいい大人が、真剣に、三文にもならん、こんなことをやる。仕事と称しているけれど「遊び」ですね。それが「こころ」にはとてもいい。長年生きて心のひだにたまった垢を掃除してくれます。
 大豆はかなり葉が落ちましたが、緑の葉っぱも残っています。まだサヤのはじけた大豆はないので刈りとって干すのは来週の作業にします。今年も去年したように、刈りとっても稲木に架けず、ブルーシートの上で干して夜はシートでおおい、カラカラになってから足で踏んで脱穀します。去年やってみて思ったより簡単に脱穀できましたから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田舎に暮らしているのだから、直接体験を大事にして生きます。

2012年10月29日 06時07分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 土曜日にもらった渋柿は100個以上ありました。道子さんは夜なべ仕事に皮を剥き、小屋の軒下に吊るしました。(小屋をつくるとき、この軒下は80センチ屋根を出しました。軒が低いし深いので、吹き降りでないかぎり雨は大丈夫です)しばらく「干し柿暖簾」をくぐって小屋に出入りします。
「辻井伸行さんのコンサートのチケットをゲット」とブログに書いたら、アメリカから「よかったね」とコメントがあり、びっくり。で、投稿者の名前をクリックしたら『辻井伸行ファンクラブ』の英語版が出てきました。日本語はそのままの文と英訳がついています。
 ハハーン。そうか。《 辻井伸行 》という名前が出たら、このサイトに情報が集まるようになってるのか。あらためて情報世界の凄さを実感しました。Facebook だか Twitter とかも繫がってて、見ず知らずの人とどんどんつながるんだ。
 でも、だからといって、情報社会の「前途洋洋」を感じたのではありません。むしろ「ぼくはもう歳だし、そんなモノに首を突っ込みたくない。このブログまでで止まろう」とあらためて思いました。
 ぼくたちの日々は直接体験で得る情報が極端に少なくなり、さまざまなレベルで情報が入ってきます。でも生れたばかりの赤ちゃんは直接体験のみで生きています。田舎に暮らすとなれば、その《直接体験》が中心の生活になるはずです。畑では、土を耕し、種を播き、収穫し、草を刈る。裏山では、竹を切り、木を植え、剪定し、草花を植える。小屋で木を削り、磨き、家具を作る。どれも直接モノにさわる仕事です。村の人とは、軽トラで出掛け、来てもらい、顔を合わせてしゃべる。メールは皆無だし、電話もめったにしません。
 しかし情報化社会では、直接顔を合わせてしゃべるとか、モノに手を加えて自分でつくることが少なく、携帯電話とお金で間に合ってしまうことが多い。
 そんな風潮に流されない田舎暮らしをしようと思いました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『柿外交』で交流を深めています。

2012年10月28日 03時15分37秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「桃栗3年柿8年」。「モモクリサンネンカキハチネン」。
 なんて「音の流れ」のいいことばでしょう! 口にするだけでなんだかたのしい。何度も言いたくなる。だれが言いはじめたのか。人間って愉快な存在ですね。
 引っ越してから植えた5年目の裏山の栗は、今年かなり実をつけました。栗ご飯も栗きんとんもつくれます。道子さんは苦労して「渋皮煮」もつくります。動物にやられたけどそれでも豊作の安納芋と混ぜると実においしい栗きんとんになります。
 桃はまだ小さい木です。そして柿ですが、これが難物。2本植えたけれど枯れてしまいました。いま3本が一応育っていますが、生長が遅く、一人前の柿の木になりそうにありません。
 でも道子さんはいいます。「うちの柿はならなくても、村の人にもらえばいいじゃない。柿の木のあるおうちはあちこちあるし、柿は自然になるんだから。柿をもらって交流は深まるし、いい外交になるわよ」
 というわけで我が家は『柿外交』方針で暮らしています。
 きのう畑仕事をしていたら村の方が「干し柿をつくりませんか」と声を掛けてくださいました。そして軽トラに段ボールを積んで持ってきてくださいました。ぼくは夕食後8時には寝てしまうし、道子さんが夜なべ仕事に柿をむきました。
                
 コマバエ締め出しのどんな干し場をつくろうかと思案しています。
 ところできょう28日は、4月の辻井伸行さんコンサートの一般チケット発売日。うちは会員の先行予約ができたので、ホッとしています。ネットで見たらいまも彼は全国ツアーをしているのですが、チケットはずらっと完売ばかり。よくも入手できたものです。そうそう、アメリカ在住の方から「チケットがとれておめでとう」とコメントをいただき、びっくりしました。ありがとうございます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『辻井伸行』くんのチケットをゲット !!!!!

2012年10月27日 01時06分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのう26日は、兵庫芸文センターの会員が来年4月の《BBCフィルハーモニック・オーケストラ》(佐渡裕・指揮 / 辻井伸行・ピアノ)コンサートのチケットを先行予約できる日でした。ぼくはパソコンに向かい、道子さんは電話機を持って待ち構え、10時とともに申し込みました。ところがインターネットは芸文センターの公演カレンダーにつながらないし、電話は通話中がつづきます。
 駄目かもしれないと思いながらパソコンを操作しつづけたら、10時20分頃うまく注文ページにつながって2枚チケットを予約することができました。辻井伸行さんのコンサートは全国どこであってもすぐ完売になって入手困難なのにラッキー!! いまチェックしてみたら会員の先行予約分は完売でした。
 大いなる存在みたいなものが、彼のピアノの音を直に聞くチャンスを、ぼくたちに恵んでくださったのでしょう。感謝いたします。
 写真は3年前にブログに載せた「蛇が池」の土手です。11月にはセイタカアワダチソウが黄色の帯みたいに咲きます。でも今年はこんなに見事に咲いていません。勢いが衰え、かわりにススキがところどころ生えています。
 セイタカアワダチソウは地中50センチのところの肥料で大きくなり、繁栄してきました。ところが年々その深さにある肥料を消費してしまい、衰えたのです。かわりに地表近くに根を張るススキが繁るようになりました。
 一番大きく伸びたセイタカアワダチソウは4メートル50センチだったそうですが、蛇が池では50センチ余りしか伸びていません。やがてススキにとって代られるでしょう。
 こんなことを調べてブログに書く人がいます。「えらいなー」と感心して読み、紹介しました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電気柵に感謝感謝の日々です。

2012年10月26日 03時46分42秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 道子さんが山芋を掘りあげました。いい形、いい大きさの芋が次々と出てきて、うれしそうです。写真の手前が食べる芋で向こうは種芋にします。今年は長いほう(20メートル)の畝の半分もつくりませんでしたが、来年はひと畝全部でつくりたいと意欲的です。ツルは高い竹の棒を這い登らせましたが、来年はぼくが立派な《門構え》の棒を立てることにしましょう。山芋くんだってツルが5メートルも這い登ったら気分がいいから、美味しい芋になるでしょうし。
               
 畑でサツマイモ・コイモ・黒豆の枝豆などを収穫していると、「電気柵のお陰で何の心配もなくなったね」と声をかけることが日に何度もあります。「動物に荒らされてひどいことになった」のを何度も体験しているので、立派な収穫があるとつい「電気柵はありがたい」と口に出して言いたくなるのです。
 きのうはグラウンドゴルフの三木市の大会がありました。88チームが出場したといいますから、《記録員1名選手6名》とすると600人以上の老人が集ったことになります。そこでも口吉川町の他の村の人と顔を合わすとつい動物の話になってしまいます。どこともイノシシに荒らされているのです。
 うちの村あたりは美嚢川が東から西に流れています。「川の南側は六甲山系につながる山でイノシシが出没するけれど、川の北側(うちの村など)はゴルフ場が連なっておりイノシシは出ない」と数年前に聞いたことがあります。でもここ3年ほど出没し、被害もひどくなりました。となりの村は営農組合総がかりで電気柵をつけました。
 それだけに電気柵が、アライグマ、イノシシ、キツネなどをしめ出してくれてつい感謝したくなるのです。ぼくも電気柵の効果をきかれることがありますが、「夜だけつけると単一電池8本で120日大丈夫」ときくと一様に驚かれます。ぼくも設置する前は「電気の供給が大変だろうな」と心配していましたから。
 もっと早くつければよかったなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『クララ』が発芽しました。

2012年10月25日 01時52分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 石みたいに固く、仁丹の粒より少し大きい、あのクララの種(サヤに入ったマメ科の)が発芽しました。ぼくがペンチではさんで、カッターナイフで切りつけた種(豆)です。二晩水にかして「ちょっとふやけたかな」と思う頃に、道子さんがポットに埋めました。それが芽を出して2センチほどに伸びてきました。
 来年の春には数十本の苗ができるでしょうか。
 一方、道子さんは傷つけてない豆(種)も庭に直に播いてみました。それは発芽率が50パーセントもないようです。やはり長野の道の駅の人に教えてもらったように、傷つけてから播いたほうがいい。
                
 昼は畑仕事に精を出すもので、片付けのほうに手がまわりません。畑仕事をしながら自分の気持ちを見つめています。でも書いたものを残そううとか、資料を一部でも残そうという気は起きてきません。数年前まで取材に一生懸命だったあの情熱は、どこに消えてしまったのでしょう。残り火をかき集めようにも、全部灰になってしまいました。
 いまは深夜に起きたら本を読んでいます。なぜか田辺聖子の『おかあさん疲れたよ』。大型活字の本では4分冊になっており(文庫本では2分冊です)、三分の一読んだところです。
 いままで田辺聖子を読んだことはありません。大阪弁の出てくる軽妙な書き方は敬遠していました。でも母の本を借りるために、図書館で大型活字本の棚を漁るうちに、ある日ふと『おかあさん疲れたよ』ってどんな意味だろう? と思ったのです。
 いままで読んだところでは本の題の意味はまだわかりません。そしてなかなか作品に気持ちが入っていきません。でも1928年(昭和3年)生まれの田辺聖子が、彼女の世代の「結婚できなかった女の人」を見つめた作品だとしたら、そして昭和へのレクイエムだとしたら、最後まで読もう、と思いつつ読んでいます。
 敗戦の玉音放送の前日・昭和20年8月14日に大阪砲兵廠は、アメリカ軍B29の大編隊によって爆撃されました。そのとき逃げまどった学徒動員の中学生・女学生がこの小説に出てきます。その描写はやはりすごい。この世代の人でないと描けない。
 加賀乙彦の『終らざる夏』の東京大空襲の場面描写と同じ迫力を感じました。一生のうちでも一番観察眼の冴えた10代に体験した人の描写は力があります。
 満蒙開拓の取材で、開拓に参加し、シベリア抑留後生還された小林伝さんに聞いたことがあります。彼は敗戦のとき20代でしたが、10代で義勇軍に参加した青少年についてこんなふうに語りました。
「義勇軍の少年だった人たちと話すと不思議ですなー。まるで壁に映画が写るように場面が浮かんできます」

 本は最後まで読むつもりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『森の湯』にひたって骨休めしました。

2012年10月24日 02時52分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 電気柵をする前、安納芋は動物ネットでガードしていました。しかし下から侵入され、50本植えていた芋がかなり食い荒らされてしまいました。アライグマとイノシシの両方にやられたようです。ツルばかり繁っているので放置していましたが、先日試しに数株掘ってみました。
              
 バケツにいっぱい大きな芋がとれました。残りも10月中に掘ってみます。動物に襲われなかったらできすぎだったかも。甘味がつよいので蒸してホシイモにし、それを焼いて食べるのがうちでは人気です。
 雨が降ったので散髪に行き、グリンピア三木の森の湯にゆっくり入って骨休めしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

片付けながら考えています。

2012年10月22日 05時26分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 コンバインで稲刈りをすると、藁は機械が裁断して田んぼに撒きます。そこで毎年お願いして長い藁を少し残してもらい、それを束ねてうちの畑の稲架に干していました。でも長いままで使うことはありません。裁断して使います。それなら田んぼに撒いてある藁を集めて使うがいい。ということで隣の田んぼの藁を70リットル袋に5杯もらって干しているところです。
 昼は畑仕事、夜は本棚を整理しています。
 ぼくは50歳から急に魔が差したように、自分では『創作』と称して、童話や小説みたいなものを書きだしました。軽々しく思いついてするようなことではないのに、なぜか自分を駆り立てる力が、そのときはあったのです。そうこうするうちに『満蒙開拓青少年義勇軍』の聞き取りに身を入れるようになりました。資料を集め、一番多くの青少年を満州に送り出した長野県まで話を聞きに行きました。
 書いた作品や取材の手紙や資料はファイルに整理して保存しています。かなりの量です。引っ越しするときに他の本はほとんど捨てましたが、創作や義勇軍関係の本は大切に保存して本箱に並べてきました。一段落したらまた取材や創作にかかるつもりでした。
 しかし75歳になり、畑や山の仕事、大工仕事をしているうちに、いつの間にか火が消えているのです。ひとが「そろそろ人生の店じまいにとりかかろうか」というときに、もう一度、「一時休業」のつもりだった店をあけるようなものだと気付きました。
 いまでは780回になるこのブログが唯一の発信です。いまさら<twitter>や<facebook>というわけのわからんものに首を突っ込もうとは思わないし、たまに入選した書き物を本にまとめてみようとも思いません。思いつくのは、過去の書き物に手を入れて、手直ししてみよう、ということくらいです。
 その思いが邪魔になっているのにやっと気付きました。そこで一度リセットすることにしました。リセットが店じまいの整理かもしれない。『終活』かもしれない。でも自分としては「この道を進むとこの先になにかがある」と思いながら生きたい。そんな心境かな。
 そんなことを思いながら、いま一枚一枚捨てています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老人会の新聞に『田舎暮らし』を寄稿しました。

2012年10月21日 05時00分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 いまの地に移住してひと息ついた頃、三木市老人会の新聞に寄稿を頼まれました。その文をそのまま載せます。


   日々、「散歩と畑仕事」をたのしんでいます   (2009年3月号掲載)

 3年前(2006年のことです)の12月、私は神戸の市街地から引っ越してきました。見ず知らずの口吉川町東中に移り住んで最初に感動したのは夜空の星でした。冬の空にオリオン座がくっきり光り、天の川が見えます。
 月のきれいな晩に公民館で全戸集会があり、農道を歩いて出席しました。月明かりの夜道は、子ども時代に体験しているはずですが、初めて歩くように新鮮でした。
 今では家の周りにウッドデッキや物置をつくり、趣味の日曜大工に毎日はまり、田んぼを借りて畑仕事に精を出しています。
 定年後の田舎暮らしは一つのはやりになっていますが、私もその1人です。漠然と考えていた田舎暮らしを実現しようと空き家を探し始めたときはもう70歳近くなっていました。不動産屋さんに案内してもらって空き家を見てまわりましたが、ぴったりの家がなく、結局小さい家を建てました。
 はじめは、見ず知らずの土地に移り住んでうまくなじめるかと不安でした。引っ越して3ヶ月目に村の伊勢講があって夫婦で参加したり、老人会に入ってグラウンド・ゴルフや公民館の清掃に参加させていただくうちにこの土地になじんできました。
 朝の散歩では、近くの集落を毎日コースを変えて歩いています。少し離れた口吉川町のほかの集落、吉川町や細川町の集落に軽自動車で出掛け、公民館に車を置いて散歩するのも楽しみになりました。
 散歩道で出会った人との立ち話で、近くの福地池は堤を築くときに福寿坊というお坊さんが人柱になっとという言い伝えを聞きました。それから三木市の歴史に興味を覚え、郷土の歴史冊子を見てはあちこち歩き回っています。
 引っ越して2年目には家の近くの田んぼを借りて、畑仕事に精を出すようになりました。一反余の畑は広すぎると思いましたが、いまでは落花生、胡麻、こんにゃく芋などもつくって家庭菜園を楽しんでいます。
 山々のふっくらする若葉の季節。木々が色づき落葉する晩秋。畑からの眺めは夏も冬も趣があり、子や孫もこの田園風景が気に入ってよくやってきます。
 車で走れば1分もかからず通過してしまう集落ですが、住んでみると深い味わいがあります。そのささやかな田舎暮らしの様子を今年(2009年)3月からブログで発信しています。……『古希からの田舎暮らし』

 この原稿を書いた年からまた3年が過ぎました。いまも同じような暮らしぶりです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老人が『田舎暮らし』をはじめるまでのとりくみ (2)

2012年10月20日 02時07分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 畑の大豆の落葉がすすんでいます。11月の『文化の日』前後に刈りとって干します。去年と同じようにカラカラに干して、踏んで脱粒するつもりです。それからイチゴのランナーですが、10月末に草刈り機で刈り、耕運します。苗をとられる方がありましたら、いくらでもありますのでそれまでによろしく。品種は『宝交早生』です。
 きのう、『田舎暮らし』のための空き家探しをしたチラシを載せました。そのチラシ作戦は駄目でした。畑仕事をしている人に声を掛け、チラシを渡して頼みましたが連絡は1、2件あっただけです。中味を聞くと、まだバブル時代の夢を見ておられるようでお話になりませんでした。
 そこで不動産屋に頼むしかないと思い、片っ端から電話を掛けて、田舎暮らし物件の情報をお願いしました。するとファックスで空き家情報がどんどん入るようになりました。それを見て、よさそうな物件を不動産屋さんに案内してもらって見てまわりました。でもほとんどは『古民家風の農家』でなく、田園の山すそに拓かれた新興住宅地の空き家でした。バブルの頃に辺鄙なところにも家が建ち、それが空き家になっている物件でした。
 その流れを要約します。
○ 10月 神戸市北区の農家の話が消滅する。 ⇒ すぐにチラシをつくり、神戸市北区、三田市などの田舎に行って畑仕事をする人に声を掛け、チラシを渡す。 ⇒ 11月 ~ 12月 不動産屋さんに連絡をして田舎暮らし物件を紹介してもらい、見てまわる。同時に田舎に住む知人友人に空き家物件を紹介してもらう。 ⇒ 12月 篠山の知人宅を訪ね、不動産屋にも来てもらって相談する。篠山の山奥の『競売物件』を入手して丹波に住むことにする。 ⇒ 年が明けて1月 その物件をあきらめる。 ⇒ 1月~2月、それこそ必死になって空き家物件を見てまわる。 ⇒ 小野市の浄土寺近くの空き家に決め、『重要事項説明』を受ける。 ⇒ 巨大鶏舎が近くにあること・市街化調整区域で改築が難しいことでやめる。 ⇒ 三木市口吉川町の土地を見て気に入り、家を建てることにする。2006年3月中旬のことでした。
 片付けていたら手紙のコピーが出てきました。暮れに競売物件を購入することに決めたときお世話になった知人宛てです。長い手紙ですが……。

 2006年3月19日 
 やっと本格的な春になりそうですが、いかがお過ごしでしょうか。
 さて、田舎暮らしの場所探しではお世話になりました。ようやく決まりましたので、報告しようと手紙を書いています。
 年が明けて早々(2006年)、競売物件をインターネットで検索して、実際に見てまわることにしました。お宅の近くの競売物件を買う際にも参考になると思って。(知人と相談して「そうしよう」と決めていました)物件はユニトピアの近くでした。
 外観から見ると、そう古い家という感じではありません。家のまわりを見ていると、裏の戸が開いていました。競売物件を見に来ただれかがこじ開けたのでしょうか。とにかく中に入ってみました。中はまさに夜逃げの跡のように衣服が散乱していたり、汚れたままになっています。あのあたりは下水工事が完了しているようですが、あの家だけは汲み取りのコエタゴやヒシャクが置いてあり、便所や風呂はひどい程度に荒れています。外観と違い、内部は汚れも荒れもひどいと思いました。
 そんな室内を見回していると、ふと「兵どもが夢の跡」というコトバが浮かびました。戦をしたのではなく、意味が違いますが、借金に借金を重ね、あれこれ悩み、ここを捨てて逃げざるを得なかった人の苦悩が漂っている気がしました。とても内部の改装だけでは住めないと感じました。その後柏原地裁に行って、競売物件の資料を閲覧しました。競売物件があんなに詳しく調べてあるのを、はじめて知りました。土地の評価、家屋の評価、借金と本人の現状が載っています。また「兵ともが……」がよみがえり、とても素人の自分たちが手を出せないと感じました。
 それ以来、お宅の近くの家(競売になる予定の)に対する意欲が失せ、なんとか自分たちの足で田舎暮らしのできる場所を見つけようと走り回ることにしました。
 知事認可の不動産屋のリストをインターネットで検索して、片っ端から電話を掛けて資料を送ってもらい、現地を見にいく作戦に出ました。社、三田、篠山、谷川、淡路島に渡って一宮町、津名町、神戸市北区、三木、西脇、小野など数十の物件を見てまわりました。デジカメ写真がアルバムになるほど撮り、整理しました。
 そうしてようやく決めようと思ったのが、小野市の物件でした。浄土寺近くの古家です。3月はじめには「もうこれにしよう」と妻と話して、小野市の不動産屋で《重要事項説明》を受けるまでになりました。ところが現地は市街化調整区域であり、まわりには建築条件で売れなくなった新築のややこしい家があります。なによりも近所の人に聞いたのでは、大きな鶏舎があり、臭いが相当きつい日があるということでした。これで買う気がなくなり、「振り出し」に戻ってしまいました。
 そんなときに小野市の物件を紹介した業者が、「土地を買って家を建てるのはどうか」ともちかけてきたのです。その不動産屋の案内で現地を見たのが3月5日。いいところだったので、予算オーバーになるけど家を建てる話になり、土地を買うことにしました。重要事項説明を受け、相手方と契約支払いをしたのが17日。トントン拍子というか順調に売買は終りました。これから建築申請をして家を建てることになります。夏までには建築を完了して移住したいと思っています。(実際は大きくずれ込み、移住は12月になりました)
 家を建てるとなると大ごとでいままで敬遠していたのですが、このたびは意欲が出てきました。「ことがうまく運ぶときはすんなり運ぶものだなー」と妙に感心しています。それにしても昨年秋、神戸市北区の農家の話が駄目になってからの半年間がずいぶん長かった気がします。特に1月から2月にかけてはほんとによく走り回りました。
 あのあたりは耕土改善がすすんでおり、田んぼにパイプが入っていますから、一反ほど借りて黒豆や大豆も作れるかな、と夢を広げています。(その通りになりました) …… 人との出会いと同じで、縁があればそこに住むようになるのだな。そう実感する場所に出会った気がします。お宅付近のように、いわゆる「絵になる里山」ではありません。里山というよりなだらかな丘です。この歳になって田舎暮らしをするのだから、これくらいがちょうどいい。そう思います。
 少し先になりますが、家が建ったらまたお知らせしますのでお立ち寄りください。
 このたびは心にかけていただいて、ありがとうございました。 ……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老人が『田舎暮らし』をはじめるまでのとりくみ (1)

2012年10月19日 03時16分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
『田舎暮らし』は、そんな名前のテレビ番組や雑誌もあったりして一つの社会現象になっていますが、実際はそんなに簡単な夢物語ではありません。ぼくのブログを見て訪ねてこられた方もありますが、それぞれに苦労されているようです。
 実は『終活』(この世に別れを告げる準備活動みたいなものと思っています)というほどの自覚はないのですが、部屋を広く使うために、本棚を1本捨てることにしました。当然入っていた中身も捨てることになります。ということで書類や本を整理しはじめたのですが、75歳にもなるといっぱい《ゴミ》が溜まっています。
「引っ越しのときに整理した筈なのにまだこんなにあるのか」
『田舎暮らし』をはじめる前の苦労の跡も出てきました。それを三回にわたって紹介します。

(1) 田舎暮らしをはじめるための場所探しに《チラシ》をつくりました。
 神戸市北区で農家を処分する話が伝わってきたので、その話に乗って農家を譲ってもらうことになりました。そこで子どもの無かった高齢のおじいさんの親類が集り、親族会議をしました。親類といってももう親はもちろん、兄弟はだれも生存していません。全国のあちこちに散らばっていた《甥や姪》9人が集ってまず農家を相続し、それを売るということで話がまとまりました。
「さあ、田舎暮らしをするぞ!」とこちらはすっかりその気になっていました。ところが親族の一人が「待った! これは私が相続する」話が消えてしまいました。がっかり。
 それでも「老い」は待ってくれません。急がなくては。
 まずやったのは自分たちが田舎を歩き、農家を訪ね、こちらの希望を伝えて、近所の空き家情報を入手することです。前のブログで簡単なチラシを紹介しましたが、このたび本棚を整理していたら、こんなチラシが出てきました。それを全文載せます。いまから思えば「よくもまー、こんなことを〝開けっぴろげ〝に書いてチラシを渡したもんだ。でも、田舎暮らしを実現しようと必死だったんだなー」

 
    ☆☆☆ 里山に囲まれて畑が出来る住処を探しています ☆☆☆

私たち夫婦は現在 神戸市のニュータウンに住み、この7年余、クルマで往復1時間かけて 郊外に5反の農地を借り、仲間とともに協同で農作業を楽しんできました。又、個人として 百坪余りの畑で野菜を育てています。しかし、夫婦ともに60代後半にさしかかり、このままいつまでも毎日クルマで畑を往復するわけにもいかないだろうということで、いわゆる 田舎暮らし の物件を探し始めています。
できたら 里山の風情が残る 閑静なところで、集落の方々とも積極的に絆を深め、地域に根付いた暮らしをしたいと考えています。
以下の希望条件をお知らせしておきますので、もし 適当なものがありましたら、是非 ご紹介ください。よろしく お願いいたします。
 
場所  神戸からクルマで 1~1,5時間以内
環境  静かな里山の眺望があり、家のすぐまわりに深い木々の緑、裏山やわき水のある
     たたずまいが理想です。
土地  住居用としては100坪ぐらい、隣接する畑があればもう少し狭くても可。耕作用
     の畑はできるだけ 家の近くで 100 ~ 200坪 くらい使わせてもらえたら。
建物  中古。 3~4LDK以上。しっかりした作りなら少々古くても OK。
      内装等はこちらで 趣味の範囲で リフォームできます。
予算  リフォーム(当方負担)費用を込みで 1000万円前後。

私たちは 田舎に隠遁するという気持ちではなく、里山保全、自然環境保護などにも関心を寄せて 積極的に地域の人たちと交流を深め、農村と都市に住む 知人友人たちとのつながりを活性化する方向での田舎暮らしをイメージしています。
多分 これから 団塊の世代の方々がこういう方向でUターンされて田舎に戻ってこられることが多くなると思います。その呼び水として 何かお役に立てたらという思いもあります。また、子や孫達の いずれ帰るふるさとを残してやりたいという希望もまります。どうか 私たちの気持ちをくみ取っていただいて、良いお知らせがあれば よろしくお願いします。
      (神戸の住所・氏名・電話番号・メールアドレス)
 
 実際に配った記憶がありませんから下書きかもしれませんが、それにしても2005年のことです。わずか7年前にはこんな尊大な心構えだったなんて。恥ずかしいです。




 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹の枝切りだけは死ぬまでする気でしょう。

2012年10月17日 03時29分14秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
              
 秋の空気を吸って、我が母・妙子さんがハサミをもって裏山に登ってきました。彼女はベンチにすわって、おもむろに竹の枝を引き寄せ、ハサミで切り刻んでいきます。ケアマネージャーにこの姿を見てもらったら「ほんとに作業に打ち込んでおられますね」と感心していました。
 後期高齢者になっても孝行息子役を演じるぼくは、あまり自分の足腰の負担にならんように、細めの竹を切ってベンチの横に引きずってきます。そして母が切り刻んだ竹の葉は、熊手で掃除しておきます。でも今年の4月末に母が<ぎっくり腰>になったときは、「これで寝たきり・全面介護になるだろうな」と覚悟しました。
 健康のための運動など一切しなかった母が、100歳になっても自分の力で立ち座り、風呂に入り、山に入って竹を切る。体重30キロだからできるのでしょうが、それにしても元気に長生きしています。
 いまでは書き物もしないし、図書館で借りる大型活字本を読むだけの生活です。竹の枝を切り刻んでどうするわけでもありませんが、彼女にとって一番やり甲斐のある「仕事」になっています。
 母は死ぬまで竹の枝切りをつづけるでしょう。ぼくはできる範囲で手伝うことにします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『末期がん宣告を受けとめて』(石本左智子・著)を読みました。

2012年10月15日 04時32分28秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 日曜日、萌ちゃん・大志くんのそれぞれの一家が、黒大豆の『枝豆』収穫にやってきました。畑でたんまり枝豆を採っていたら、おじいちゃんが畑の草などを燃やしてダッチオーブンで焼き芋をつくってくれました。みんなでアツアツを食べながら記念撮影でーす。秋ですねー。

 何気なく図書館で借りていた本を一泊の旅に持っていき、夜中に目覚めて読みました。借りても読まずに返えしてしまう本は多いのですが、この本は途中を40ページほど読み、なぜか最初からもう一度ていねいに読みはじめました。昼は畑仕事や部屋の片づけをして、夜目覚めたときブログを書こうと起きても、気が本のほうにむいてしまいました。

 『末期がん宣告を受けとめて』 - 女性外科医の遺したメッセージ ー
 著者: 石本 左智子  2002年 エピック社(神戸) 発行 
 著者略歴  1955年(S.30年) 大阪市生まれ  天王寺高校から神戸大学医学部卒業
       1982年 神戸大学医学部第一外科に入局 ⇒ 済生会中津病院勤務時 がん発病
       1995年3月29日 死去

 30歳代の外科医として大きな病院に勤務する人が、10月に「がん」とわかって手術を受け、新年には余命数ヶ月と宣告され、そしてあの阪神大震災があり、2月にホスピスに移り、3月に39歳で死ぬ。ちょうどサリン事件のあった頃です。
 彼女は入院と同時に克明に日記をつけはじめ、医師の処方や自分の思いをつづっています。彼女の残した半年の日記が、父親や友人の手で凝縮されて本になったのは、8年後の2002年でした。いまから10年前です。ネットを見るといまも読み継がれているようです。
 がんの「闘病記」は山ほどありますし、特におすすめする本でもありませんが、なぜか村の人の「死」と重なって、ぼくにはこたえる本でした。
 人間は死ぬ。どんな形容詞をつけて飾ろうと飾るまいと「死ぬ」。
 しばらく、この思いを抱えて、秋をすごします。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

温泉で骨休めをしました。

2012年10月11日 03時14分44秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 母がショートステイのお世話になっている間に、骨休めに温泉に出掛けました。車で2時間ほどの岡山県西粟倉村のあわくら荘に。道子さんの母親が生前よく出掛けていた、ひなびた温泉の国民宿舎です。西粟倉は杉や桧が植林され、生長した木々でおおわれている、木の村、森の村です。村立の宿舎で使っている箸は村の杉でつくったものでした。
 写真の、杉の丸太を使って建てられた、瓦葺きの建物は何でしょう。
 散歩していたら、道端にこんな建物が。鍵がかかっていないので戸を開けてみたら、何もありません。ガランドウ。瓦葺きのガッシリした建物です。入口脇にゴミ分別の説明が貼ってあります。
 エッ? これがゴミステーション? さすが木の村・森の村ですね。鹿やイノシシが出没するし、冬は雪が積もるからでしょうが、それにしてもごとにこんな立派な建物を建ててゴミステーションにするとは。なお来る途中「下水道100パーセントの村=西粟倉村」と看板が立っていました。
 帰りに「道の駅・あわくらんど」で、柿や梨、キノコや柑橘類を買い込みました。これで秋の酵素飲料を仕込みます。夏は清涼飲料水のかわりに春に仕込んだ「手作り野草酵素飲料」をよく飲みました。畑仕事で汗をブルブルかいて飲む酵素飲料は、夏一番の清涼剤でした。今度はどんな味の酵素飲料ができるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満珠沙華がようやく満開です。

2012年10月08日 07時00分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 道路沿いの一番よく日の当たる(ゆえに地温の高い)土手の満珠沙華が、お彼岸から半月以上たってようやく咲き揃いました。これで今年の満珠沙華は全部咲いたことになります。花の数を数えたり、冬に向って生える濃い緑の葉を数えたりするのはもうやめます。満珠沙華はこれから年々赤い帯を見せてくれるでしょう。
 きのうは孫たちがやってきてサツマイモを全部掘りあげました。アライグマやイノシシに荒らされて、かなり収穫が少ないです。でもとにかく収穫できたのですから「ヨシ!」。安納芋の二うねが残っていますが、ここは一番ひどく動物に荒らされたので無傷の株はほとんどないでしょう。来年からに期待します。
 孫たちが芋掘りをしている間に、おじいちゃんは畑のゴミを焼きながらダッチオープンで焼き芋をしました。新聞紙で包み、芋の間を大きめの砂利で埋めて火にかけます。30分ほどで焼き芋ができました。来週は、きょう掘った芋でまた焼き芋をします。
 夕食はおばあちゃんが山芋をすり下ろして、天ぷらにしました。食卓には、おじいちゃんが焼いた焼きナス、三度豆の胡麻和え、キュウリやニンジンの入った春雨のサラダ、ゴマ味噌をかけた里芋、キュウリの甘酢漬け、大豆の枝豆、送ってもらった栗でつくった「栗ご飯」が並び、8人がワイワイいいながら食べました。(母・妙子さんはショートステイ中です)
「うちの畑で採れたものばかりだ」「栗は送ってもらったけど」「春雨はちがうよ」などとおしゃべりしながら。なおきのう写真で紹介した山芋は750グラムありました。それに前に買っていた山芋をたしましたが、それは270グラムでした。採れた山芋がいかに立派だったかをおばあちゃんが話し、みんなは感心して聞きながら、天ぷらを「おいしいおいしい」とたくさん食べました。
 田舎のおじいちゃんおばあちゃんを、きのうも演じることができてしあわせでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする