石みたいに固く、仁丹の粒より少し大きい、あのクララの種(サヤに入ったマメ科の)が発芽しました。ぼくがペンチではさんで、カッターナイフで切りつけた種(豆)です。二晩水にかして「ちょっとふやけたかな」と思う頃に、道子さんがポットに埋めました。それが芽を出して2センチほどに伸びてきました。
来年の春には数十本の苗ができるでしょうか。
一方、道子さんは傷つけてない豆(種)も庭に直に播いてみました。それは発芽率が50パーセントもないようです。やはり長野の道の駅の人に教えてもらったように、傷つけてから播いたほうがいい。
昼は畑仕事に精を出すもので、片付けのほうに手がまわりません。畑仕事をしながら自分の気持ちを見つめています。でも書いたものを残そううとか、資料を一部でも残そうという気は起きてきません。数年前まで取材に一生懸命だったあの情熱は、どこに消えてしまったのでしょう。残り火をかき集めようにも、全部灰になってしまいました。
いまは深夜に起きたら本を読んでいます。なぜか田辺聖子の『おかあさん疲れたよ』。大型活字の本では4分冊になっており(文庫本では2分冊です)、三分の一読んだところです。
いままで田辺聖子を読んだことはありません。大阪弁の出てくる軽妙な書き方は敬遠していました。でも母の本を借りるために、図書館で大型活字本の棚を漁るうちに、ある日ふと『おかあさん疲れたよ』ってどんな意味だろう? と思ったのです。
いままで読んだところでは本の題の意味はまだわかりません。そしてなかなか作品に気持ちが入っていきません。でも1928年(昭和3年)生まれの田辺聖子が、彼女の世代の「結婚できなかった女の人」を見つめた作品だとしたら、そして昭和へのレクイエムだとしたら、最後まで読もう、と思いつつ読んでいます。
敗戦の玉音放送の前日・昭和20年8月14日に大阪砲兵廠は、アメリカ軍B29の大編隊によって爆撃されました。そのとき逃げまどった学徒動員の中学生・女学生がこの小説に出てきます。その描写はやはりすごい。この世代の人でないと描けない。
加賀乙彦の『終らざる夏』の東京大空襲の場面描写と同じ迫力を感じました。一生のうちでも一番観察眼の冴えた10代に体験した人の描写は力があります。
満蒙開拓の取材で、開拓に参加し、シベリア抑留後生還された小林伝さんに聞いたことがあります。彼は敗戦のとき20代でしたが、10代で義勇軍に参加した青少年についてこんなふうに語りました。
「義勇軍の少年だった人たちと話すと不思議ですなー。まるで壁に映画が写るように場面が浮かんできます」
本は最後まで読むつもりです。