古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

2014年の我が家の一枚を選ぶとすれば……

2014年12月31日 05時52分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 パソコンでいつもお世話になっている人に便利な「写真整理アプリ」を入れてもらい、今年一年の写真を時間を追って見ていました。『2014年の一枚』を選ぶとすればこれです。

 裏山のキウイの棚をデッキ風にしました。高齢の村の大工さんに足場板をもらい、床と柵をつけました。なだらかな坂をちょっと上ればデッキです。その下ではじめてバーベキューをしました。名付けて『林間バーベキュー』。6月の昼ですがまだやぶ蚊に襲われず、クヌギ・コナラの葉は緑が濃くなって快適な木陰です。
 表のウッドデッキでのBBQ / 晩秋から冬、早春にかけてのたき火BBQ / もいいですが、夏の『林間BBQ』はまたひと味ちがった雰囲気です。たき火場から数メートル離れているだけすが。
 また1年が過ぎてゆきました。この地に暮らして9年目のお正月を迎えます。
 今年撮った写真を見ていたら、田舎の景色や畑ばっかりでした。「よくもまあ飽きもせず撮ってるなー」と自分で感心してしまいました。でも写真では田舎の空気感は伝わりません。あらためてことさら感動したりしない日常の風景になっていますが、素朴な、なんというか自然のままの景色にかこまれて生きるのがうれしい。街には街の素敵なスポットがあり、日々洗練された雰囲気になっていくでしょう。そこで生きてもそれなりにたのしいでしょう。でもぼくは「田舎に引っ越してよかったなあ」とときどき自分に話しかけています。

 ぼくはもともと「自分の人生はワープロ(文豪・書院・ルポなど)どまりにしておこう」と「パソコンというもの」にはノータッチで65歳まで生きてきました。それがちょっとチラシのようなものをパソコンでつくることになり、また田舎暮らしをはじめて3年目には「ブログというもの」を教えてもらい、71歳からブログ発信するようになりました。世の中には「フェイスブック」とか「ツイッター」とか、ようわからんものがありますが、そこまで手を出すつもりはありません。「ぼくの人生はブログまで」にします。
 今年もブログをのぞいていただき、ありがとうございました。来年も「古希からの田舎暮らし」を発信するつもりです。よろしくお願いします。  
 よいお年をお迎えください。
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『特攻と日本人の戦争』より引用します。

2014年12月30日 04時56分25秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ☆ 荒れる特攻基地 - 自暴自棄と反発と
 荒む隊員の意識は、士気の低下や規律の乱れとなって表れた。沖縄戦の頃には、基地を飛び立った飛行機から「バカヤロー」の無電が打たれ、あるいは離陸後司令官室めがけて突入の姿勢を示してから飛び去る特攻機もあったと伝えられる。目標海面に達しながら攻撃を行わず、まるで失神したようにふらふらと墜落する特攻機が米側に観察されている。故障と称して途中の離島に不時着する機も増加した(但し、器材や整備の不良から真の故障機も多かった)。特攻機を護ることよりも、その行動監視を目的に掩護機が随伴する場合もあった。引き返してきた特攻隊員が参謀に「卑怯者。命が惜しいか」と罵られ、殴られ、次の出撃ではたとえ敵を発見できずとも自爆し、基地に戻らなかった例も枚挙に尽きない。
 隊員の意識変化は、次の川柳にも現れている。  (略) 別れ酒もう一杯と強い奴 / 特攻へ新聞記者の美辞麗句 / 特攻隊神よ神よとおだてられ / 帽を振る手のくたびれた整備員 / ジャズ恋し早く平和が来れば良い
 これは特攻隊員となった海軍第十三期飛行予備学生四人(及川肇・盛岡高工、遠藤善雄・米沢高工、福知貴・東京薬専、伊熊二郎・日大)の合作川柳である。彼らは一九四五年四月、南西諸島方面で全員特攻死を遂げた。

☆ 特攻関係者の自決
 大西の自刃に先立ち、玉音放送が流れた十五日の午後、陸軍航空本部長寺本熊市中将(元第四航空軍司令官)が本部長室で自決した。同夕には陸軍航空技術審査部総務部長の隈部正美少将(元四航軍参謀長)も自決したが、これは富永四航軍司令官の台湾逃亡に対する補佐責任を取っての自決といわれる。同じく一五日夕、第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将が沖縄に向け私兵特攻を敢行した。宇垣は七〇一航空隊大分派遣隊長中津留大尉(海兵七〇期、隻大尉と同期)に艦爆五機の用意を命じたが、彗星一一機、二二名が彼に従った。夕刻、中津留機に同乗した宇垣は沖縄に向けて大分を離陸。中津留機は沖縄本島伊平屋島の海岸に突入したと思われる。突入直前、機上から打電された訣別の辞には「過去半歳に亘る各隊の奮戦に拘らず驕敵を撃砕し神州護持の大任を果たすこと能はざりしは本職不敏の致すところなり……」とあった。既に終戦となった段階で若い将兵を死の道連れにした行為には、いまも強い批判がある。小沢治三郎連合艦隊司令長官も「自決するなら一人でやれ。若者を道連れにするな」と激怒した。しかし、特攻出撃の度毎に「あとに続く」と叫びながら、敗戦時、実際にそれを実行した海軍の特攻関係幹部が、指揮官、幕僚を合わせても大西と宇垣だけであったことも事実だ。
 宇垣特攻出撃の報は第六航空軍にも忽ち伝わった。司令官菅原道大中将は沖縄作戦中、「最後の特攻機で自分も出撃するつもりだ」と日々繰り返し、陸軍特攻機一六七三機を送り出していた。最後の出撃によって死ぬ機会を与えてほしいと訴える搭乗員に押されて、高級参謀鈴木京大佐は重爆一機を用意するよう命じ、菅原軍司令官の部屋に向かった。参謀長川島虎之助少将と会話中であった菅原は、「重爆一機用意いたしました。鈴木もお供します」の申し出に動揺を露わにし、「死ぬばかりが責任を果たすことにならない。それよりも後の始末をするほうが大切だと思う」とこれを退けたという。

 長い引用ですみません。wikipedia で「菅原道大」を調べたら、昭和58年(95歳)まで生きた人でした。次男の「父は自決すべきだったが、前途ある若者を道連れにしなかったことがせめてもの救い」というコメントが載っていました。
著者の筆は「多くの若者を死なせたのだからせめて自決せよ」という論調にも聞こえますが、死ねば申し訳が立つわけではありません。いや、そんな決着のつけ方で特攻をごまかしてはいけない。日本の国家が「特攻」という狂信状態に陥った。当時の戦況に流されるまま抵抗しなかった。最後は惰性だけで若者の命を道端に捨てた。
 どうして特攻を止められなかったのだ! どうすべきだったのだ!    この項おわりにします。
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裏山の祠にお参りしました。

2014年12月29日 02時05分10秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 我が家の年末恒例行事になっている「裏山の祠(祇園さん/愛宕さん)」にお参りしました。
 サラエ(ガンジキ)を持って登り、参道や頂上の広場の落ち葉を掃き寄せます。ぼくは細い綱を張って注連飾りをつけ、お酒・塩・お米を供えます。榊の小枝を一本挿してペットボトルの水を入れ、ロウソク立てに火をつけて「この一年お守りくださったことに感謝します」。
 大志くんが来たのでいっしょに登って拝みました。なんでもないけど子どもの心にはなにかのこるかな。
 それから「門松」づくりをしました。材料は全部我が家で調達したものです。竹は裏山で伐って丸鋸で整形し、南天も小枝を折り、葉牡丹は畑で育て、花は庭で咲かせ、松はちょっと散歩してとってきました。
 大志くんのところも持ち帰ります。これも年末恒例になりました。『田舎のおじいちゃん・おばあちゃん』は「することがあってうれしい」。ずっとむかしから『田舎のおじいちゃん・おばあちゃん』だったような顔して、孫の記憶に残る。いいね。

 
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もうしばらく、こんな日々がつづきますように。

2014年12月28日 01時34分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 夜中の1時。いつものことですが、先ほど目覚めてオーバーを羽織り、ウッドデッキに出てみました。
 晴れた夜空に星が見えます。冬の大三角がちょうど真上。プレアデス星団は西寄りに。
 年の暮れになってから風邪を引き、しばらく家の中でゴロゴロしています。
 いまはパソコンの〈 you tube 〉でバッハを聴きながらブログを書いています。バッハは読書やちょっとした思考や「ぼんやり」にとてもいい。楽器を演奏する人にききました。「バッハは演奏するほうも気持ちがいい」そうです。
 今年もちょっとした畑仕事をし、ちょっとした山仕事をし、ちょっとした大工仕事をし、老人会の方々と交流し、田舎の景色になじみ、退屈することなく、なんとなく一年が過ぎていきました。
 いつかはおわりになりますがもうしばらく、こんな日々を。
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「特攻隊はつくらない」とみんなが決意すること。

2014年12月27日 02時11分35秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 特攻隊がどのようにしてできたか。読んでいくと東条英機(当時彼は首相/陸軍大臣/参謀長を兼任)まで行き着きます。

(昭和19年の)5月4日早朝、陸軍士官学校を抜き打ちに視察した東条(英機)は、生徒に「敵機は何で落とすか」と試問、機関砲で墜しますの答えに、「違う。敵機は精神力で落とすのである。従って機関砲でも落ちないときは、体当たり攻撃を敢行してでも撃墜するのである。即ち、精神力が体当たりという形になって現れるのである」と説諭した。   『特攻と日本人の戦争』より

 ネットで特攻隊批判を見ると、こんな一文もありました。

 陸軍第六航空司令官・菅原道大中将は「お前たちだけを行かせはしない。必ず最後の一機であとを追う」と特攻隊を送り出し、エンジン不調などで特攻機が戻ってくると、「卑怯者! 死ぬのが怖いか!」と殴り倒した。敗戦で参謀が自決をすすめると「死ぬだけが責任を取ることではない」と逃げ回り、…… 96歳で極楽往生。17歳で特攻戦死した少年航空兵はあの世でなんと思ってるでしょうネ。

 もう一つ特攻隊の設置では「陛下に責任が及ばないように(上官である自分たちにも責任が及ばないように)、あくまでも本人の意志で特攻隊として出撃させる」線を周到にめぐらしていることです。そんな責任逃れの軍隊内官僚主義がいまもこの国にはのさばっています。
「自分も死ねば言い訳が立つ」ことにはならない。自決しても免罪にはならない。「特攻という戦術を日本はこれから絶対に採らない」と日本人みんなが決意し、そんな事態が起こりそうになれば阻止に立ち上がる。その国民の意志がいま求められています。

 ぼくは退職してから『満蒙開拓青少年義勇軍』のことを調べ、体験された方々に聞き取りをしました。
 農家の二・三・四男を中心に「日本にいたら食い詰めてしまう」と満蒙開拓に志願した少年たち85000人が満州に渡りました。そして敗戦後の混乱に巻き込まれて死亡し、25000人の少年は日本に還れませんでした。
 生還できた少年たちも心に深い傷を負ってその後の人生を生きました。彼らは敗戦直前兵隊として狩り出され、爆弾を抱えてソ連の戦車の前に身を投げ出すよう訓練されました。そのとき日本軍は、鉄砲も行き渡らないような弱兵と開拓民をソ連軍と対峙する前線に残して、後退していました。棄民です。どれほど悲惨な地獄絵になったか。
 いつまでたっても、口を開けば彼らの苦境を訴えたくなります。ぼくの想像の何百倍もの「地獄絵の苦しみ」を抱えて長い人生を生きてこられた青少年義勇軍の方々の心を思うと、せめて日本国民みんなが「特攻隊や棄民はもう絶対にしません」と決心することです。     
 まとまりませんが結論はいつも同じです。
 
 
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『特攻隊』で言いたいこと …… その2

2014年12月26日 02時51分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 年末の買い物に明石の魚の棚に出掛けました。まだごった返す人出ではありませんが空気は歳末でした。

 きのうふれた本『特攻と日本人の戦争』を読みはじめました。きのう「もし山本五十六が戦死してなければ……」なんて書いたことが恥ずかしくなりました。特攻への流れはもっと組織的で、日本だからやったことだと思い知りました。
 この本の「はじめに」にこんな文が見えます。


 しかし、日本軍のように戦線の各地で玉砕を繰り返し、それが作戦の常態と化した軍隊は他にはない。人間自身が武器となり、敵に体当たり攻撃を敢行する特攻も人類史上稀有な戦法である。 …… (中略) ……出撃の前から帰還を否定し、あるいは帰還を許さず、十死零生の体当たり攻撃を大規模かつ組織的に実施し、しかもそれを軍が正規の戦争計画に取り込んだのは洋の東西古今の中でも日本軍だけである。第二次世界大戦末期、神風特別特攻隊に刺激されてドイツでも米軍機への体当たり攻撃部隊(エルベ特別攻撃隊)が編成されたが、生還の途も顧慮され、しかもたった一度の実施で打ち切りとなる等わが国の特攻に比肩し得るものではない。


 「インパール作戦」では牟田口廉也が悪者ですが、ほんとうはそんな指揮官の存在を許した軍部全体が悪かった。弁解なんか聞きたくない。特攻への流れも個人を悪者にしても仕方のない、組織的な「悪」でした。
 多くの若者を死地に追いやった上官は「彼らは志願して出撃してくれた」と口をぬぐおうとします。「彼らの国を思う〈誠〉のお蔭で今日の平和と繁栄がある」と美化しようとします。
 だれが、どこが、わるかったのか。どのように改めるのか。きちんと詰めないでダラダラしたまま。
「小泉純一郎が総理のとき知覧特攻記念館でむせび泣いた」とニュースになるとか、「特攻を扱った映画がヒットした」とか、そんな日本人の精神的体質はあの時代そのままで時が過ぎていきます。  〈つづく〉
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『特攻隊』で言っておきたいこと ……  その1

2014年12月25日 03時01分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 敗戦後、山陰の山奥に住んでいた子どもの頃、村に「あの人は特攻隊がえりだ」という人がいました。ちょっとおかしくなったというか、ふぬけになったというか、近寄りがたい雰囲気をまとっていました。特攻隊として出撃したけれど、飛行機が故障して帰ってきたといううわさでした。知人のお兄さんは「特攻隊だった。敗戦後郷里に還って学校の先生になったけど自殺してしまった」と聞いたこともあります。
「命の盛り」の心身とも健康で頑強な青年が、自分を鉄砲玉にして敵艦に突っ込んでいく。こんな理不尽なことを、あの戦争で日本は、なぜしたのか。
 昭和16年12月8日、日本が真珠湾攻撃をしてアメリカに戦争を仕掛けたとき、魚雷で敵軍艦を沈めようと親潜水艦から特殊潜航艇が出撃しました。「鉄砲玉のように体当たりする(死ぬ)のは駄目だ」と連合艦隊司令長官=山本五十六はこの作戦に反対したといいます。そのことが気持ちに引っ掛かっていて、一度山本五十六について本を読もうと思っていました。思い立ってから長い時間が過ぎましたが、このたび図書館の大型活字本で、阿川弘之の『山本五十六』を読みました。
 文庫本ですと上下二巻(850ページ)、大型活字本では5巻です。その中で、特殊潜航艇について書いてある部分をコピーします。

 (ハワイの真珠湾攻撃の様子を描写したあとに)

 尚南雲中将の機動艦隊のほかにハワイ作戦に参加したものとしては、7日夜までにオアフ島周辺の隠密配備についた先遣部隊の潜水艦群があり、そのうち「伊号第十六」以下五隻の潜水艦から放たれた五杯の特殊潜航艇は、敵味方双方の国で大きな反響を呼びおこした。戦死した九名の乗組員は二階級特進の栄誉を与えられ、翌年の三月六日にその氏名が海軍省から発表された。
 この豆潜水艦のことに関しては、戦中、岩田豊雄の「海軍」と題する文学作品があり、戦後、ジャイロ・コンパスの故障で艇をオアフ島の岸に乗り上げ、最初の捕虜となった酒巻和男の戦記があるが、山本は初め、収容が不可能だというので、ハワイでのこれの使用を容認しなかった。それを、乗員たちのたっての希望で、艇の航続距離を増す工夫をし、収容のめどを立てた上で出すことになったが、結局五隻とも親潜水艦に帰って来ず、戦果もほとんど挙げ得なかった。
 特殊潜航艇は甲標的とも格納筒とも呼ばれ、山本は内輪の者には「坊や」とも称していたが、全艇未帰還の報を聞くと、彼は痛心の様子で、
「航空部隊だけでこれだけ成果があると分かっていたら、あれはやっぱり、出すんじゃなかったなア」
 と言っていたそうである。

 阿川弘之の『山本五十六』は偉人や勇者の伝記でなく、できるだけありのままの人間・五十六を伝えようと書かれたものです。昭和四〇年に出版されたときは、「元帥(山本)の遺族から抗議が出て、訴訟問題にまで発展した。」(村松剛のあとがきより)特殊潜航艇は2人乗りのバッテリーで動くもので、9名が戦死、1名は捕虜になりました。(9名は『九軍神』に祀り上げられた)
 海軍の軍人だった阿川弘之は抑えの効いた文でこの特殊潜航艇にふれていますが、ぼくは心に引っ掛かっていることがあります。もし山本五十六が昭和18年4月に、米軍に暗号を解読されて戦死してなかったら、彼は飛行機による特攻隊を許さなかったのではないか。
 そんな個人の声で流れを止めることは多分できなかったでしょう。でも国家の正式な戦争の作戦として「飛行機による特攻」を容認したことを、その罪を、考えてみたいのです。
『特攻と日本人の戦争』 …… 許されざる作戦の実相と遺訓 …… 西川吉光 著 (2009年10月出版・芙蓉書房出版)という本を図書館で見つけました。おそらくぼくには、そんな機会はめったにないので、この際しっかり読んでみます。
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「火の用心」 カチカチ。

2014年12月23日 23時17分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 放火犯が出没するとかで、町内を老人会の方々が「火の用心。カチカチ」とまわっておられる場面をニュースでやってました。道子さんとそれを見ていて「そういえば昔は夕方になると子どもたちでまわったなー」と話題になりました。
 以前コマーシャルで「焼肉焼いても家焼くな」というのをおばさんがやってましたが、そんな文句はありませんでした。「マッチ一本火事の元。火の用心」とやってました。
 で、ぼくが「それから『雨は天から涙は目から火事は心の油断から。火の用心。』っていうのもあった」と言ったら、道子さんが「何それ! そんなのはじめて聞いた」といいます。そうかなー。
 70年も前のことなのに、この文句はしっかり覚えてます。
 そこで試しに「雨は天から涙は目から」という文句で検索してみました。すると水戸黄門の主題歌にこの文句があるとか、諺にあるとか、彩雲国物語にあるとか、出てきました。もっと見ていくと……「ありました」。
「とっとり教育メルマガ」52号というのに、「火の用心の掛け声」として出ています。
 やっぱり記憶は間違ってなかった。というかとっても覚えやすい掛け声で、一度唱えたら忘れられないほど調子がいい。
 全国的には流行らなかったのでしょうか。
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これが〈オオスズメバチ〉の巣です。

2014年12月22日 05時02分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうの日曜日〈オオスズメバチの巣〉をついにあばきました。積もった落ち葉をかき分け、竹の棒をのけてみると、土管の切れ端が出てきました。直径は30センチあるでしょうか。60センチほど奥に何か見えます。スズメバチの巣でしょう。

 オオスズメバチは地中に巣をつくるそうです。オオスズメバチの群れが活発に出入りしていた秋、入口前になにか捨てている姿をよく目撃しました。あれは地中に穴を掘った土だったようです。それにしてもこんな土管の切れ端が捨ててあり、それを利用してオオスズメバチが巣をつくったとは。あばいて見るまで想像できませんでした。いまは空き家になっていますが、来年この巣が利用されることはありません。でも念のため竹で巣をつついてこわし、土管を移動しておきます。
 オオスズメバチには、巣の存在に気づいた秋以降、こわがったというか、緊張したというか、たのしんだというか、ま、いろいろでした。無くなってみると淋しい気もしますが。
 クヌギ・コナラの葉が落ち尽くしたので恒例の道路掃除をしました。街でいえば『団地清掃』というところです。いつもの年末風景なので、清掃のあとうちのデッキでぜんざいを食べて一服している写真をアップします。

 清清しい道路になり、いい気分で新年を迎えられます。
(写真はクリックすると大きくなります)
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『人生の店じまい』どきは。

2014年12月18日 04時09分13秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 手元に100ページほどの本(随筆集)があります。その本の「あとがき」はこんな風に書き出してあります。


 この世を去るにあたって、お世話になった方々、語り合った友だち、そしてわが親族のみなさま、子たち孫たち曾孫たちに御礼申しあげます。みなさま方の愛念により楽しく生きさせて頂きました。我が儘な私と長くつき合って下さいましてありがとうございました。
 往時をふりかえり、私は今こころ満たされております。  ……


 そして「あとがき」最後の一文は ……  ″ではみなさま御機嫌よう。"
 「人生を店じまい」して、服装を整え、草鞋を履き、杖を握って、あの世とやらに旅立とうと腰をあげたところです。
 でも当人の思惑通りに展開しないのが『人生』というもの。
 実はこの本は、わが母・妙子さんが書きました。
「あとがき」の日付は、2000年9月1日。彼女87歳のときです。その3年前に逝った夫のあとを追って旅立つつもりだったのしょう。
 あれから14年。101歳になりました。店じまいのときはまだ先のようです。
 年賀状の時期なので、妙子さんにも出すかどうかききました。
「出す!」。
 例年通り文学仲間や親族に出す心意気です。こちらで用意して、本人が「一言と名前」を書き添えます。
 終活ブームで「エンディング・ノート」とか「散骨体験」/「棺桶体験」などあの世に旅立つ〈準備運動〉が盛り上がっています。でも「ふつうの人が長生きする」時代です。自分の「死にどき」をうまく演出しようとしてもなかなかそのときは来ない気がします。
 ではいつ来るか。わかりません。
 気分だけ先走りしないように待ちたいですね。必ず来ますし。
 
 
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「たのしんで仕事をする」のがいいと思います。

2014年12月14日 02時16分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は2012年つまり2年前の12月に撮りました。うちの村の<左の広池>を周回する山すその道です。「<田舎暮らし>はこういう道を散歩するのがいい」。そう思って草を刈りました。何度か散歩し、お正月には子たち孫たちもいっしょに歩いてくれ、野鳥も見かけました。でも去年は草を刈って、道をつけませんでした。今年も道をつける気になりません。草が生えたままです。
 関心がなくなったら無理して「道をつける」ことはない。たのしめる間はたのしむ。でもその「たのしみ」にこだわらない。
 畑「仕事」・山「仕事」・大工「仕事」と<仕事>をつけて、何かしている気になっていますが、たのしめなくなったらやめる。「仕事」をして生活しているわけではないのですから。仕事と名付けても「とらわれないように」たのしみます。
 母・妙子さんがショートステイから帰って、家で車イス生活をします。家はバリアフリーですから少し離れた洗面所に行くのもスイスイです。「ボタンを押したらチャイムが鳴る」器具も買いました。と順調のようですが、夜中に起きて様子を見に行ったら、一人で便所に行き、また一人で洗面所に行って口をゆすいでます。
 こけたら大変。必要なときは介助を。そんな思惑を越えて、母は自分の思うように動きたい。ボタンを押さないで動く。骨は丈夫でいまのところ骨折していませんが、いずれ自分だけでは動けなくなるでしょう。
 用心のために「ボタンを必ず押すように」やかましく言うのはやめます。「動く気力・体力」がある間は、頑張って動いてしまうのでしょう。それで転んで骨折しても「そのときはそのとき」。
 身近な高齢の人が去年転んで、大腿骨頸部を骨折・手術しました。リハビリして退院し、またすぐに転んでもう一方の大腿骨頸部を骨折・手術しました。またリハビリして退院。介助をうけながら暮らしています。
 起こることは受け入れて生きる。達観できてませんがその方向に少しずつ。
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来年はクララの根でムシ退治をしたいです。

2014年12月12日 01時59分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真のクララは11月のはじめに撮ったものですが、いまは枯れて葉が一枚も残っていません。2メートル以上になった茎も枯れて、ポキポキと簡単に折れます。このクララ、5年前に植えたときは、茎一本で高さ50センチになっただけです。2年目からだんだん茎が増え、高く伸びてきました。今年の茎は15本以上。台風や強風で倒れるので杭と竹にマイカ線を張って囲んでいます。

 小さい写真ですけれど、ほんとうは大きなサイズの画像をアップしました。クリックすると大きくなります。実はいろんなブログで小さい写真がアップされており、よくわかりません。ところがクリックしたら、大きくなるのでびっくりしました。ぼくもやってみようと試したのです。これからは写真をそんな風にアップします。写真に写っている後ろのクヌギの木の左に、スズメバチの巣がありました。(暗くなっているところ)
 さてそのクララですが、地上部は枯れますが根は大きくなっています。この根を少し掘り出してムシ退治につかいたいと思うのです。
 いま黒豆を干しています。プックリふくらんだ、いい黒豆ができています。でも半分はムシが食ってます。ぼくたちはムシの食い散らかした残りを収穫するようなものです。
「ムシくん、あんまりじゃないか。ぼくたちは種を播き、移植し、杭にマイカ線を張って台風でも倒れないように保護し、大風の後は土を寄せて根を固めたし、草削りもしたし、まわりの草も刈ったし、葉落としもしたし。…… 半分も食ってしまうとは」
 ぼやいても、ムシはもうあの世で「おいしい黒豆だったなー」と思い出して爪楊枝でもつかっているだろう。せめて苦い思いもしてもらわんと気がすまん。
 修業が足りんのかなー。
 ところでクララの種、まだありますのでご希望の方はコメントで連絡してください。送ります。
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天橋立に電車で行きました。

2014年12月10日 02時40分19秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 8年前の12月4日に三木の新しい家に引っ越しました。田舎暮らしは9年目に入ります。「自分へのご褒美」として、今年も天橋立に蟹を食べる一泊旅行をしました。
 今年は12月はじめに冷え込み、日本海側は凍結したり雪が降ったりしました。車のタイヤはスタッドレスに履き替えていますが、それでも冬の初めは、準備不足や慣れてない人がいて事故がよく起こります。用心して電車で行くことにしました。
 福知山から北近畿丹後鉄道に乗り換えました。写真のような観光列車が天橋立まで走っています。
                    
 板張りの床で洒落たベンチの車内。一輌だけのディーゼル・カーです。ほぼ満員になって出発し、1時間近くかかって天橋立に着きました。コーヒーを飲めるし、車内放送で沿線のお話もあるし、景色はゆっくり見られるし、「電車で来るのもええなー」と思いました。どこかのテッチャン(「撮り鉄」さん)が車内や沿線の写真を撮りまくってました。
 天橋立駅からは海上タクシーでホテルに向かいました。『宇宙戦艦ヤマト』の音楽がかかり、天橋立の松並木を横に見ながら、海上を疾走します。わずか数分でしたが「一度乗ってみたい」とホテルの窓から見ていたタクシーに乗れてうれしかったです。
 写真はホテルの船着場で、海上タクシーが帰るところ、向こうに天橋立の松並木が見えます。
                    
 車は「新三田駅」の駐車場に置きました。電車を降りて車に乗り、駐車券を入れて精算したら料金は<1000円>。一泊したけど24時間以内だったのです。でも電車賃はいろいろかかりました。特急「はしだて」や「こうのとり」にも乗ったし。
 で、わたしたちの結論は、「もうしばらくは車で行くことにしよう」。
 それにしても直前に母・妙子さんが部屋で転んで車イスを借りることになり、でもショート・ステイをお願いして、「なんとか来れたなー。帰ったら龍神さまにお参りしよう」と風呂につかりながら思いました。
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車イスを借りました。

2014年12月08日 01時35分26秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 母・妙子さんがトイレに行こうとして転びました。脚は骨折してなくて、伝い歩きできます。でも車イスで移動するほうが安心です。ケア・マネージャーさんにお願いして借りることにしました。
 いままで妙子さんは「まだ歩ける! 怠けたらいけん!」と車イスに乗ろうとしませんでした。これからは乗ってくれるでしょうか。
 ふつうの人間は、赤ん坊のときオシッコやウンコをオムツにします。やがて自分で便所に行くようになり、そのうち年老いてまたオムツが必要になるときが来ます。そのとき心はどう動くのか。自尊心とどう折り合いをつけるか。妙子さんは失敗してもなかなか折り合いがつかないのかもしれません。
 生命体のもつ「生きる意志」は、自分で意識したり考えたりするより奥のほうで、生命体を支えている。「もう死んでもええ」と生命体の意識が思っても、無意識は「生命体のほんとうの意志」を知っていて、生命体を支えつづける。
 寿命は決まっているけれど、自分にはわからない。
 いまのぼくが、さらに老いて生きてゆけば、どうなり、なにを思うか。
 目の前で実地に教えてもらってるようです。
 この車イスのレンタル料は、介護保険のお蔭で「月200円」ですって。日本は「いい国」です。
 道子さんの誕生日が近いので、子たち孫たちが、日曜日にケーキや手紙をもってお祝いに来てくれました。
                   
 今日12月8日は、ハワイ真珠湾攻撃・日本がアメリカに宣戦布告した日です。ぼくは4歳でなにも覚えていません。
 もし12歳の少年だったらじっとしておれないほど、ドキドキ・ワクワクして走りまわったことでしょう。
 あの日、国民はみんなワクワクした。 …… 政治は大事です。
 総選挙、初めて棄権しようかと思うほど「関心を持ちたくない!」ですが、やっぱり投票します。
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吉村 昭 『破獄』 を読みました。

2014年12月07日 04時13分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                       
 オオスズメバチの巣はクヌギの落ち葉にすっかり埋もれてしまったのに、まだきのうも一匹巣に戻ってくるのを見ました。仲間は死んでしまったのにまだ生きてるオオスズメバチに「なにかご馳走をあげよう」と畑の葉っぱをさがしたら、菜っ葉にアオムシがいました。(写真)巣の近くにおいたけど、蜂は気づいてくれたかな。
 吉村 昭の『破獄』を図書館の大型活字本で読みました。4分冊になっていたので「もし引き込まれなくて、読まなかったら重いだけだし」と1・2巻を借りました。ところが実におもしろい。すぐ読んでしまい、続きを読みたくて仕方がない。続き2冊を借りに行き、それも読んでしまいました。
 城山三郎/藤沢周平と同じく、吉村昭も昭和2年生まれの作家です。彼らが15歳のとき日本は『大東亜戦争』を仕掛けました。15歳の少年も、ハワイ真珠湾攻撃とかシンガポール陥落とか「緒戦の勝利」にわくわくしたでしょう。城山は海軍の予科練に志願して散々殴られてすごしました。敗戦後彼は「私は廃墟となって生きた」と書いています。(『そうか。もう君はいないのか』)敗戦の年が19歳。多感な少年たちの目に、あの戦争は、そして大人たちは、どう映ったでしょう。
『破獄』は4度脱獄を繰り返した囚人と刑務所職員との物語です。1回目の脱獄は昭和11年。4回目は昭和22年。日本が戦争を仕掛け、負け、アメリカに占領された11年間で、刑務所も食べ物不足や労役や空襲で戦争に巻き込まれます。その時代を見据えて吉村は脱獄の事実を映し出します。筆が走りすぎたり、足りなかったりしない。見事です。
 寒いです。畑仕事をちょこっと。道子さんはイチゴ150株を本植えしました。ぼくは6条大麦を播きました。
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