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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

今年の土手焼きは近くで見ました。

2012年01月30日 02時55分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 孫たちが来て、寒いから畑には行かず裏山で焚き火をしました。まずたきぎ拾い。燃やすものは山ほどありますが、竹ははじけるので枯れ枝を集めました。次におじいちゃんに教えてもらって、ノコギリで長い枯れ枝を切ります。萌ちゃんも大志くんも上手にノコギリで切れるようになりました。そこへママたちがサツマイモを持ってきて焼き芋。おじいちゃんのところではふつうのことですが、街にいたのではなかなか体験できません。
 孫たちが帰ったので散歩に出掛けました。きょうは村の土手焼きです。佐の広池の土手でも、竹に油にひたした布を巻いて待機しておられました。近くで見ようとぼくらも待っていると、村の消防団の人が軽トラにポンプを積んで来ました。火をつける前に、池から水を吸い上げて延焼しないように横の笹薮にかけます。
 写真は池の下の休耕田が燃えているところです。数日前の雨でそんなに燃えやすい状態ではありませんでしたが、風にあおられてかなりの勢いでした。孫たちにも見せたかったな。
 先日タマネギの追肥をしましたが、道子さんが「12月はタマネギに追肥をやらなかった気がする」といいます。ぼくも「どうだったかな」と記憶がありません。というか、追肥をしたかどうか考える手がかりが消えています。若いうちは「どうだったか」と記憶をたどっていくうちに「ああ、やったやった」とか「やらなかった」という確信にたどり着くものです。しかし75歳近くなると12月を振り返っても「城崎に蟹食いに行った」ことくらいしか思い出せません。山道で「何か落としたようだからちょっと戻ってみよう」と振り返ったら、歩いてきた道が消えているようなものです。
「年寄りの『ものわすれ』だから仕方がない」とやりすごしたらいいでしょうか。過去が消えていく。その奇妙な浮遊感と、これからどう付き合えばいいのでしょうか。
 
 
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オランダミミナグサもしっかり生えています。

2012年01月29日 01時27分33秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 散歩のつづきに畑に出て、タマネギに追肥をやりました。風がないし日が差しているので、寒くはありません。久しぶりに畑で仕事をして「やっぱり大地とふれ合うと気持ちががいいなー」と思いました。
 タマネギには、12月に追肥をやったときに上にコープ瑞穂農園の堆肥を数センチかぶせました。その堆肥の層をくぐって春の畑の草が顔を出しています。写真は『オランダミミナグサ』というそうで、このたびネットで調べてわかりました。横にオオイヌノフグリの小さい葉っぱも見えます。生えている草は、スズメノカタビラとオオイヌノフグリ、それにオランダミミナグサですが、数日前に雨が降ったのでいまはどれも抜きやすいです。
 ブログ『谷の向こうに暮らしながら』を見たら、オランダミミナグサのところにこんな説明が出ていました。

 オランダミミナグサ …… キャベツ、ブロッコリー、チンゲンサイなどアブラナ科を食べるヨトウムシを忌避させる。さらに土が湿った状態に保たれるので生育がよくなる。ハコベも同じコンパニオンプランツとしての特徴がある。

 えっ! あの夜盗虫が忌避? たしかに葉にも茎にも毛が生えているので、ヨトウムシがいやがるかもしれないなー。オランダミミナグサを別のところで見たら『強害草』の仲間に入っていましたけど。
 オオイヌノフグリは抜きやすいですが、いくらでも横に伸びてびっしり地面をおおってしまします。スズメノカタビラは、いまはスーッと抜けますがこれから株が太くなり、抜けなくなります。それでも抜こうとするとごっそり土に穴が空いてしまいます。それに野菜さんだって、そばにスズメノカタビラがあんなにびっしり根を張っていたら自分が根を伸ばす余地がないでしょう。どちらも今が抜きどきです。オランダミミナグサだけ残すわけにもいきませんからこれも抜きます。これからキャベツ・ブロッコリーのところだけはオランダミミナグサを残すことにしましょう。
 もうすぐ立春。大寒の寒さに鍛えられたイチゴの苗にマルチをかぶせる時期です。コープ堆肥を梳きこんでジャガイモの畝もつくらねばなりません。今年は寒さ厳しく4月まで霜の用心をする必要があるようです。ジャガイモはマルチを掛けて植えつけることにしましょう。
 四月になればジャガイモの芽が黒いマルチを突き上げる。「こんにちは!」とあいさつをするようにマルチを破り、太陽と会わせてあげる。心の弾む作業です。
 
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三木城下の昔の町並みを歩きました。

2012年01月28日 04時58分44秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 用事で三木の市街地に出掛け、神戸電鉄粟生線の『上の丸』駅付近を散歩してみました。写真は昔の『東条街道』船着場から撮った美嚢川です。川鵜が数羽います。
 びわ湖の竹生島から飛来した川鵜でしょうか。あの島の川鵜は6万羽以上が営巣していて、半径200キロメートルのあちこちに散らばっているそうですから。うちの村のあちこちの池にも川鵜は飛来します。こちらが歩いて池に近づくとすぐに飛び立ちます。羽ばたきが高速なのでわかります。
 竹生島の川鵜をネットで調べたら、6万羽以上が島に住みついており、糞の害で島の木々は枯れ、水は汚染されているそうです。川鵜は一日に七匹の鮎を食します。6万羽で42万匹の鮎が食べられてしまうことになります。ぼくは「『魔弾の射手』株式会社をつくって川鵜を退治する」とおかしな空想物語をこのブログに書いたことがありますが、ほんとになんとかならないものでしょうか。
 東条街道は三木城を築城した時代の道が残っています。敵が攻めにくいよう道は曲がり、細い道に沿って家が建ち、いまではあまり見かけない横丁になっています。写真を撮りましたがあの空気感は写りません。ビデオで撮ったら歩くにつれて細い路地が次々と展開する感じが写るでしょうか。
 タマネギに追肥をしなくては……と思いますが、寒くて家から出るのをためらってしまいます。それならば大工仕事でもしようかと小屋の寒暖計を見たら気温は1度。やめてコタツにあたり本でも読むことにします。
 毎年こんなに寒かったかなー。年をとって寒さがこたえるようになったのかなー。
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今年も味噌を仕込みました。

2012年01月27日 02時34分20秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 前前日寝る前に大豆を水にかしておき、前日は電磁調理器と石油火鉢、携帯ガスコンロ、練炭コンロを総動員して五つの大鍋で大豆をじっくり煮て、今年も味噌を仕込みました。大豆は1,5キロ×5鍋、麹の注文は24キロで、これが一日で仕込む我が家の限界のようです。
 電動ミンサーがあるからできることです。3年前このブログで「どういう了見か自分でもわかりませんが、70歳を過ぎてから年に一度だけ使う《電動ミンサー》を買いました」と書きましたが、これで3回は使いました。あと10回は使いたいと思いますがどうでしょうねえ。なおコメントに「ミンサーを借りて味噌を仕込みたい」と書いていただけばお貸しします。どうぞ。
 ミンサーの部品を組み立てるとき、桶とか鍋をどこに置いてどんなふうに作業していたか、イメージが出てきません。「おかしいな。味噌の仕込みは10数年ずっとやってきたことなのに」イメージを思い出すのにしばらく時間がかかりました。だんだんこうなるのでしょうね。自分の参考のために写真を載せます。ミンサーでつぶした大豆と麹を混ぜてつくった《味噌玉》も写っています。
 そういえば母・妙子さんが下着のシャツを何枚も重ねて着て、それでも寒いから「シャツを買ってほしい」といいます。見るとセーターを着てなくて、シャツの上に直接ジャンパーを着ています。「シャツを着たら、その上にセーターを着る」というイメージが出なくなったのでしょうか。目につくところにセーターを置いて、「シャツを着てセーターを着る」というイメージを思い出してもらいました。98歳の妙子さんのすることを見ていると、これからの『さらなる老い』の参考になることがあります。
 寒くて外の仕事をする気にならないので本を読む時間があります。先日は『「戦争責任」論の真実』(戦後日本の知的怠慢を断ず) - 牛村 圭 著 2006年PHP出版 という本を東条図書館で借りて読みました。中に『木村久夫上等兵』が敗戦後の現地の戦犯裁判で捕虜虐待の罪でBC級戦犯として処刑されたことがくわしく書いてありました。ニコバル諸島の現地人をスパイ容疑で処刑した責任を問われたのです。
 木村久夫は京都帝国大学の学生で召集され、インド洋のニコバル島に行かされました。英語ができたので現地人との通訳としてつかわれ、現地人のスパイ活動を摘発したとしてほめられました。敗戦後スパイ容疑の現地人を処刑した責任を問われたとき、上官たちは木村久夫上等兵に「命令を下した」という真実を話すことを禁じ、罪をかぶせました。
 そのことを、塩尻公明、神谷美恵子、作田啓一、五十嵐顕、鶴見俊輔などの著作を引きながら著者は詳述しています。精読はしませんでしたが気持ちは波立ちました。
 生きてあれば世のため人のために誠実に仕事をして一隅を照らす役目を果たしていたであろう人たちが死地に追いやられ、他人に罪をなすりつけ、ずるく立ちまわった人たちが生き残って敗戦後の社会をつくったのであれば、私たちの暮らす社会はよい社会になれるでしょうか。あの戦争と敗戦後のできごとは、私たちの心と血管がつながっており、まだ歴史に送り込むことができません。
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桾原の住吉神社にお参りしました。

2012年01月24日 05時39分41秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 軽トラで散歩に出て、佐の広池の土手に車をとめて周回道を一周。次に軽トラで桾原に行き、写真の住吉神社の前にとめてお参り。ついでに落葉でふかふかの山道を登ってみたら、小高いところに碑が立っています。明治三十三年とあり、だれか桾原のえらい人を顕彰する碑のようです。だれかがお参りしたような形跡はありません。どんなことをした人の碑か、どなたにたずねたらわかるのでしょうか。
 実は写真の『住吉神社』という名前も、散歩から帰って本を調べてわかりました。『三木市の史跡と神社仏閣』という本で、平成元年に三木市老人会連合会が出しています。それも郷土史にくわしい福本錦嶺さんが生きておられたときだったから出版できたので、いまとなってはこんな本は出せないでしょうね。
 この神社にはお稲荷さんのように赤い鳥居が連なっています。その鳥居には「平成二十二年」と書いてあり、最近立てたものです。村の役員会で相談して立てたのでしょうか。神社の社殿には正月の注連飾りがまだつけてありますから、村で祭っておられるのでしょう。事情のわかる方にたずねてみたいと思います。
 もう一つ、今年してみたいと思っていること。散歩していて村の墓場に出会うと、尖った墓石の墓を見て、書いてある内容を読むことにしています。戦死した兵士の墓です。日露戦争の戦死者の墓はわずかで、ほとんどがあの『大東亜戦争』で戦死した兵士の墓です。若ければ20歳で戦死し、あるいは35歳を過ぎて戦死している方もおられます。たいていは昭和18年から20年にニューギニアとかビルマとか南の島で戦死しています。その生前を知っている人はいま何歳になってこの世に生存しておられるでしょうか。
 実は3年前、口吉川町殿畑の集落を散歩していたとき、尖った墓石の三つ連なった新しい墓を見ました。同じ姓の墓です。ひょっとして三人は兄弟ではなかろうか。ふっとスピルバーグのつくったアメリカ映画『プライベイト・ライアン』を思いました。四人の兄弟が出征し、上の三人が戦死してしまった。そこで四人目の兵士を守る任務の部隊が編成され……という話です。
「子どものとき、かわいがってもらった。村の祭りでも頼りになる勇ましい若者でした」とか、「孝行息子で病気の母親のために骨身惜しまず働く子だった」とか、そんなふうに記憶にとどめている人が生存しているでしょうか。敗戦のとき22歳とすれば大正13年生まれ。現在88歳。またたずねてみます。
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「狂言の会」に行き、コンサートがあるのを知りました。

2012年01月23日 04時40分06秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 先日、桾原の奥の池を散歩したときに撮りました。寒い冬の景色なのに「もうすぐ春になりますよ」という空気が写っています。あと半月もすれば落葉した木々の芽がふくらみ、山々がふっくらと赤みを帯びます。この時季はなぜか気持ちもふっくらしますね。
 土曜日の朝、何気なくテレビをつけたら『サワコの朝』という番組の途中でした。阿川佐和子さんが高嶋ちさ子さんというヴァイオリニストと対談しています。若くておしとやかなヴァイオリニストと、高尚なクラシック音楽の話をするのかと思いきや、高嶋さんはちょっとハスキーな声でよくしゃべる。またそのしゃべり方がおもしろい。ヴァイオリニストにしておくのはもったいない。漫談家になれば大成まちがいなし。引きこまれて10分ほど見ていました。
 金曜日は西宮北口の芸文センターでブラームスの『ドイツレクイエム』を聞きました。合唱が見事でした。この話は後日します。そして日曜日、滝野文化会館に狂言を見に行きました。大蔵流狂言・善竹会の『棒縛』『仏師』それに新作の『勘当息子』です。この催しは東条図書館に置いてあるチラシで知りました。
 身のこなし。声。鍛えられた技の冴え! 堪能しました。
 加東市は、東条町(音響のいいコスミックホールがある)滝野町(滝野文化会館がある……はじめて入りました。立派なホールです)社町(やしろ国際学習塾という名前のホールがある……ここには入ったことがありません)と三つの町が合併してできました。だから文化ホールが三つもあります。それぞれ月に一度も催しがあればいいほうです。もったいない。
 間の休み時間にロビーをうろついていたら『高嶋ちさ子と12人のヴァイオリニスト』というチラシが目にとまりました。ええっ! この近くで公演があるのでしょうか。「2月11日・ベルディーホール」とあります。どこにあるホールかと思ったら西脇の奥の多可町です。早速携帯で電話を入れてみたら、ss席は完売。A席の一番後ろが空いていました。帰ってからネットでベルディーホールを調べたら、2月はこの公演と綾小路きみまろさんの公演があり、こちらは完売でした。
 田舎の立派なホールは、月に一度も公演がありません。全国の田舎町には文化の香るホールがいっぱいあって、あくびしているのでしょうね。
 それにしても高嶋さんのコンサートの人気は凄いですね。田舎の町でクラシック・コンサートで入場料4000円のSS席チケットが完売。
 当日の彼女のおしゃべりがたのしみです。
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『ペリリュー島玉砕戦』を読了しました。

2012年01月20日 05時25分37秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 日曜日に来た孫たちが畑でカートを押して遊んでいる図です。おじいちゃんは、大志くんを乗せて畑を二周、二人を乗せて一周しました。あとは好きなように自分たちで遊んでくれ。
 気になっていた裏山の植木に寒肥を入れてやりました。植えた木は40本以上あります。「まー、いつの間にこんなに植えたのだろう」と自分でも感心しました。ツルハシでまわりを掘り、ふじわらファームの鶏糞を入れて土をかぶせます。12キロ入りを8袋使いきりました。
 サンシユウのつぼみがふくらんでいます。裏山でまず咲くのはサンシュウ、ネコヤナギ。それに今年はフサアカシア(ミモザ)が咲きそうです。コブシ、モクレン、ハナカイドウ、サクラ、コバノミツバツツジ、ツツジ ……。毎朝裏山を歩くのがたのしみな季節になります。
 きのうはほんとに久しぶりに雨が降りました。老人会長さんが、「大島(口吉川町で一番大きい)のとんどを取材に行ったら、タマネギに水をやっていましたよ」と話していました。長い間雨が降らなかったので畑はカラカラです。うちでも「朝のうちに水をやろうか」と話していたところでした。会長さんのところは「いつの間にか植えたタマネギが消えてしまっとるし……」。そんなところが多いようですね。でも降ってよかった。
 いい雨でした。ありがとう。
 机のまわりを整理していたら光人社NF文庫の『ペリリュー島玉砕戦』(船坂弘 著)が出てきました。夏に5分の4ほど読んでそのままになっていた本です。きのうは雨で外の仕事はできないし、その本を読んでしまいました。南海の小島の戦いは何冊か読んだことがありますが、日本軍が飢餓に苦しみ、敗走する記録がほとんどです。しかしペリリューの戦いは凄かった。ペリリュー島というのはニューギニアの少し北方、パラオ諸島の中の小島です。飛行場があり、ここを占領してフィリピン攻略の足場にしようと米軍は考えました。
 昭和19年の秋、アメリカ軍は「こんな小島は三日で占領する」と言って大量の艦砲射撃、爆弾を落としてから上陸作戦にかかりました。しかし水際作戦をとらない日本軍は、サンゴ礁の島に縦横無尽に穴を掘り、70日間にわたって抵抗したのです。アメリカ軍の犠牲は大きかった。なんでこんな小島に大量の物量を投入し、多くの犠牲を払ったか。戦後になっても疑問が残る、とニミッツ(提督)も言っています。
 この本はその日本軍の勇敢な戦いを描いています。船坂弘さんはこの島の戦いには加わっていませんでした。となりのアウンガル島で戦いました。しかしペリリュー島の戦いを調べてくわしく描いたのです。祖国日本の防波堤になろうとする気概に満ちた本で、いままで読んだ敗残の記と傾向がちがいますが、読ませる力はあります。ただしすんなりとは読めません。ぼくも数ヶ月にわたり、難渋して読了しました。
 ぼくはこんな敗残の記をいくら読めば気がすむのだろう。
 南海の小島、ビルマ、ルソン、レイテ、ニューギニア、中国、満州 ……。そんな戦いの記録を読んでなにかしようという気持ちはありません。しかしぼくより10歳ちょっと年上の人たちが追いやられたあの戦争から、一生気持ちは離れたくありません。
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マムシに気をつけましょう。

2012年01月19日 01時04分49秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 きのうは天気がよかったので、開拓した周回道から桾原のほうに農道を散歩しました。この道は東に向かういちばん高い道で南側に眺望がひらけ、口吉川町の数を見渡すことができます。久しぶりに桾原の池に寄って堤防に上がってみました。草が刈ってないのでアレチヌスビトハギがいっぱいズボンにくっつきます。
 静かですが写真のように竹薮が池に迫っています。池の対岸は雑木林が竹藪に飲み込まれ、竹より背の高いクヌギ・コナラは生き残っていますが他の木々は枯れています。こうなってはどうしようもありません。ほんとに竹薮というやつはどうしたらいいのでしょう。
 うちの村に戻って歩いていると花の好きな奥さんと出会い、道子さんとの立ち話になりました。聞けば去年の夏家のまわりの草むらでマムシに咬まれたというのです。すぐに腫れあがって痛くなり、病院で血清を打ってもらいました。おばあちゃんがマムシ(このあたりでは『ハメ』と呼びます)に咬まれたというのでお孫さんたちは気をつけるし、おじいちゃんおとうさんは一生懸命草を刈るし、大変だったそうです。
 だれそれがマムシに咬まれた。という話は聞いたことがありますが、咬まれた本人に話を聞いたのははじめてです。「痛かった!」そうです。想像がつきませんが、ものすごく痛いのでしょう。それにもし咬まれたら、恐怖がそのあと一生付きまといます。田舎暮らしに草刈りはつきものなのに、その草刈りがとても気の重い仕事になります。大袈裟に言えば、田舎暮らしが天国でなくなります。
 去年子どもたちの冒険宿泊施設『てくてく』(細川町原坂の山奥にある)に行ってみたとき、宿舎のまわりには「マムシ注意! 草むらにはおとなといっしょに入りましょう」と立て札がいくつも立ててありました。
 家のまわりをうろついていたらおじさんが出てこられたので、こんな立ち話をしました。
「うちのすぐ裏の山にも、マムシが出るんですよ。どうしたらいいでしょうねー」
「子どもたちに、わたしたちが生きている世界にはマムシもいることを認識してもらいます」
 さすがシュタイナー教育がモットーの『てくてく』は言われることがちがう! でも拝聴して感心してばかりはいられません。もし咬まれたらシュタイナーもペスタロッチも吹っ飛んでしまいます。
 裏の山にも前の草むらにも畑のそばの村の墓場にもいるのは確かですから、「殺そうと思ったけどもたもたしてたら逃げちゃった」なんて言っておられません。今年は遭遇したら絶対に殺さなくてはなりません。いままで腰が引けていましたが、これからお参りするときは「われにマムシをやっつける勇気を与えたまえ」と拝まなくてはなりませんな。あーあ。
  
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『手を合わせる』気持ちを大事にして生きます。

2012年01月18日 03時48分13秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 我が家の裏山の西にある福地池に、いま冬の鳥が飛来しています。散歩で見かけても遠くてよくわからないのですが、道子さんによると『キンクロハジロ』だそうです。写真は5倍ズームにして撮り、トリミングして拡大したのではっきりしません。うちの畑の前には「狩猟はご遠慮ください」と立て看板があり、この一帯は禁猟区になっています。「石を投げたりおどしたりしないから、もっと近寄って仲良しになりましょうよ。キンクロハジロくん!」
 2012年1月5日、今年の最初のブログで、孫のババヌキゲームのことにふれ、「初詣では近くの神社ですませて伽耶院にお参りしなかった」と書いたら、伽耶院行者堂の菜根行者さまからこんなコメントをいただきました。


 何より神仏は、神社仏閣にのみおわすわけではありません。山でも里でも、どこで手を合わそうともその手の向こうにあなた様の心を感じ取って、ともに悩んだり喜んだり笑ったりして下さる神や仏があるのではないでしょうか。


 田舎暮らしをはじめる前は、30年近く須磨のニュータウンに住んでいました。定年退職してからは散歩が日課の一部になり、毎朝ニュータウンを歩きまわりました。ちょっと空き地があると年々家が建っていきました。散歩をはじめた頃は公園に仮設住宅が残っており、「この住宅がなくなるときがくるだろうか」と思ったりしましたが、いつの間にか元の公園に戻りました。
 前にもこのブログに書いたことがありますが、須磨ニュータウンは快適な街です。計画的な街づくりが行われ、ここで暮らす人々が永住したいと感じるほど、便利でしかも緑の豊かな街です。家を出て立体交差になった街路樹の豊かな散歩道を歩き、ひとつの信号も渡らずに1時間歩いて家に帰ってこれるようになっています。はじめて名谷に来た人は戸惑うでしょうが、車の道も立体交差になって混雑や渋滞が起こりにくくなっています。
 菜根行者さんのコメントを読んで気づきました。あの快適な街には、手を合わせるところがない。
 たしかにニュータウンにもお寺が建っています。教会もあります。しかしすべてが新しく、きれいで、昔から人々が生きてきた痕跡がない。お墓や祠や小さな社や神社がない。田舎暮らしをはじめて気づいたことです。行者さんのコメントを読んでそのことをあらためて思いました。
「手を合わせるところがない」ことくらい、たいしたことではない。そんな風潮が殺伐とした事件の背景にあるような気もします。東京の『日本橋』はすべての起点であり、由緒ある橋です。なのに頭の上は高架橋が圧し、何の風情もありません。日本中こんな風にモノをそしてココロを壊してしまって、いまや辛うじて田舎の祠に心が残っている。そんな気がして、祠の前を通るときは手を合わせることにしています。なにより自分のこころのために。
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大将軍神社にお参りしました。

2012年01月17日 03時09分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 ぼくらが二人で切り拓いた池を周回する散歩道ですが、ブログを読んだ娘たちと連合いが、日曜日に歩いてくれました。孫たちは先に駈けていってしまい、大人たちが連なって歩いている写真です。敬老の精神が伝わっているようでうれしく思いました。
 きのう16日は、畑の神さん・大将軍神社の月例祭というか、村の当番がお参りする人たちを接待する日です。農繁期の6月と10月を除いて毎月、この日の朝神社の前に幟(のぼり)を立て、神社のまわりに三宝にのせて御餅を供え、参拝者にお神酒と切り餅を供します。ぼくらがお参りすると聞いて、娘たちは自分の家族の袋を用意したので、きのうは5人分の奉納袋をお供えして拝みました。「奉納」と書き、どんな願い事があっても「家内安全」とだけ書き、名前を書かず干支と年齢だけ書き、12の倍数のお金を入れてお供えするのです。
 寒い日で、当番の家の方と村の人が焚き火にあたっておられました。お参りしてから焚き火のまわりでしゃべっていると、畑のあのカートのことが話題になり、おじいさんが「えらい器用やな。あの車もなんぞに使えるやろ」と言ってくださいました。不審がられたり不安がられたりするようなことは避けようと思いますが、ぼくらがたのしんでいることが伝わればうれしいです。
 経済小説『虚像』下巻(驕りの代償)を読みおわりました。リース業の会社が、ファイナンスの会社になり、不動産や生命保険に手を伸ばし、郵政民営化の甘い汁を吸って会社がのし上がろうとする様子、村上ファンドの栄光と失脚などいろいろ経済事件が出てきます。しかし実際の人や事件を知らないのでだれがモデルなのかわかりません。わかるのは「大泉純太郎」「竹井金融大臣」がだれのことかくらいです。
 世の中には金儲けのことばかりを考えて生きている人がいるんですね。世のため人のためになるか。人間としてやり甲斐のある仕事か。そんなことは考えないで、上司の顔色をうかがい、お金というモノサシだけで世の中を計る。別世界のことのようでした。それと気になったのは、経済小説では人間が話の筋に都合よく使われたり死んだりすることでした。ミステリー小説でもいえることですが、出てくる人にいのちを吹き込む誠意がほしい。やっぱりぼくはなじめませんでした。
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頑張り過ぎないようにしましょうね、 おじいちゃん。

2012年01月16日 02時21分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 孫たちがカートに乗ってくれたので、おじいちゃんは張り切って車を引いて畑の周回道をまわっています。でもあまり頑張るとまた膝が痛むからやめましょう。孫たちと一生懸命遊ぼう、なんて考えないほうがいいですよ。子どもはきまぐれですからね。
『ゴパン』は土曜日に届きました。そこで夕方グルテンやドライイーストを買いに出て、マニュアルを見て計ったりして、なんとかお米でパンをつくる仕込みをしました。予約で日曜日の朝できます。
 朝起きてみると台所はパンのにおい。昨夜はミルの音がした筈ですが寝室まで聞えませんでした。改良型のゴパンは60デシベルの音がするそうですが、耳の遠くなりかけた年寄りにはまったく問題ないことがわかりました。米のパンは、皆さんが書いておられるように、もっちり、しっとりしています。「これが米でつくったパンか。なかなかうまい! 毎朝でも食べられる」
 神戸はパン屋さんの多い街です。須磨のニュータウンに住んでいたときは、家から歩いて5分のスーパーの横にパン屋さんがありました。パンの好きな道子さんはそこでよくパンを買いました。その近くに『ホルス』という新しいパン屋さんができて、そこでも買うようになりました。また地下鉄の名谷駅まで15分歩いて(あるいはバスで)いくと、須磨パティオにそれぞれ個性のある数軒のパン屋さんがありました。
 田舎暮らしをするようになったとき、道子さんの一番の気がかりはパン屋さんのないことでした。それを友だちに話すと、パンを宅急便で送ってくれたりしました。実際に暮らしてみると三木市街のスーパーにはパン屋さんがあり、コープの『個配』も利用していたので、不自由を感じませんでした。そこにこの『ゴパン』! アメリカからの輸入小麦なんかでなく地元のお米でつくれるのがいい。味もいい。とても気に入りました。
 いまは地元の農家から30キロ入りの玄米を分けてもらい、家で精米して食べていますから、今度は玄米パンにチャレンジしてみます。
 
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うちの村でも盛大にどんどをしました。

2012年01月15日 04時53分55秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは、まず村の鎮守の八幡神社で、『厄神さん』の神事(11:00) ⇒ 直会(なおらい)(12:00)⇒ 餅まき(1:00) があり、お正月の注連縄を燃やす〝とんど〝が4時からありました。
 厄神さんの神事は、毎年1月18・19日(厄神さんのお祭りの日)の直近の日曜日に行うことになっています。しかし、このあたり一帯の無人の神社を受け持つ神主さんが手いっぱいで、今年は土曜日になりました。去年ぼくは村の役員会に顔を出していたので神事・直会・餅まきに顔を出しましたが、今年は行きませんでした。この日『ゴパン』が宅配便で届くことになっていたので。
                 
 でも〝とんど〝で燃やす注連縄は集めておかねばなりません。朝の散歩は裏山の愛宕さん・祇園さんに登ることにしました。写真は広場の左側の愛宕さんの祠(ほこら)です。注連縄は去年の暮にぼくがつけました。その後どなたもお参りしておられないようですが、お供えしたサツマイモはなくなっていました。どなたか動物さまが食べられたのでしょうか。裏山では野ウサギ、狸、狐を見たことがあります。池にはヌートリアがいますが彼が山に登って食べることは考えられませんし……。
 老人会でお世話する〝とんど〝は4時に火をつけるので、3時にゲートボール場に行って用意しました。竹の束をくくるヒモがいるというのでうちの畑に取りに行って、使ったマイカ線をもってきました。丈夫なヒモなので竹はしっかり立ちました。
                 
 4時近くなると村の人たちや子どもたちが注連縄や習字を練習した紙を持って集ってきました。習字の紙は長い竹の先に突き刺してとんどの火で燃やします。そうすると字が上手になります。老人会の人が長い竹を持って燃やしているところが写っています。
 うちの村でもとんどを復活させようと老人会がお世話しはじめて三年目。去年は子どもゼロ。老人会のメンバー数人だけのわびしいとんどでしたが、今年はなんと老若男女の村人が25人も集結しました。この復活の芽が育って、とんどが次の世代に伝えられるように来年も努力します。反省点 ① とんどの土台は薪を井桁に組んで竹が倒れないようにする。 ② 餅を焼く大きな網を用意してふるまえるように準備する。(机を出して砂糖、醤油などの皿を置く) ③ 他の木材の残りなどはいっしょに燃やさないで竹と注連縄、習字だけにする。竹を増やしてボンボン弾けるとおもしろいな。④ 回覧板だけでなく老人会で声を掛けて、もっと注連縄を持って参加してもらう。
 いずれにしてもわたしたちが来年も元気にとんどのお世話をできますように!
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キジが道を歩いていました。

2012年01月13日 22時34分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 買物をすませて昼過ぎに帰ってきたらキジ(雄)が道を歩いています。自動車でそっと近づき、写真を撮り、トリミングで拡大しました。日光を受けると羽根がもっときれいに見えるのですが、日の当たるほうに回り込めませんでした。
 4年前に借りたいまの畑には、キジがよく来ていました。放置されて雑草生え放題だった畑で、巣づくりをしていたのでしょう。そこで我が家ではこの畑を『キジの畑』と呼ぶことにしました。でも畑を耕して野菜をつくり土手の草を刈るようになったので、キジも住みにくくなったのでしょう。来なくなりました。
 キジはときどき鳴き声を聞き、遠くの畑に姿を見ることがあります。でも近づくと足早に歩いて立ち去り、ときには飛びあがって逃げてしまいます。きょうはうまく写真を撮れました。
 こちらの写真は、散歩しているときズボンにくっついてしまった草の種です。いまネットで調べたら『アレチヌスビトハギ』のタネでした。戦後北米から日本に入ってきた植物で、急速に各地に広がっているそうです。きょうは草刈りをした池の周回コースを散歩したのですが、上のほうの池にも上がってみました。池の堤の上は草が刈ってありません。長靴で枯れ草を漕いで堤を歩き、上から散歩道の写真を撮りました。そのときに『くっつきムシ』がくっついてしまったのです。
               
 軍手や毛糸の手袋でこすると種はとれますが、今度は手袋にくっついてしまいます。いまではうっかり丈の高い草むらに入るとこの種がくっつきます。よほど広く生えているのでしょう。
 なお散歩で上の池にのぼったとき、道子さんが青いきれいな小鳥を目撃したといいます。カワセミみたいだったというのですがね。
 
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新春囲碁ゴルフ大会に出ました。

2012年01月12日 03時54分23秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 きのうは口吉川町老人クラブの『新春囲碁ゴルフ大会』があってうちの村も参加しました。はじめて『囲碁ゴルフ』と聞いたときはどんなことをするのか見当がつきませんでしたが、写真を見てもらったらわかるでしょうか。五人一組がチームになり、白と黒の球を10球交互に打ち合って点数を競う競技です。
 室内競技だし、一つのゲームで打つのは二球だけだから運動量はほとんどゼロ。それだけに自分で動ける人ならできるゲームです。そしてやっているうちに熱が入る。
 かつて老人のスポーツといえばゲートボールが盛んでしたが、いまはグランドゴルフのほうに人気があります。でも真夏や真冬に屋内でひとときたのしむゲームとしては、囲碁ゴルフもおもしろいです。相当な高齢者になってもできますし。これからどんな老人向けスポーツやゲームが流行るでしょうね。
 高杉良の経済小説『虚像』下巻(驕りの代償)を読みはじめました。あの『村上ファンド』はどのように仕掛けたのかというところを読んでいます。退職金を貯金してもほとんど利子がつかない時代に、日銀総裁になった人は1000万円を出資して倍以上になってかえってきた。あーあ。なんだかわけのわからない世界です。でも下巻まで読んできたのだから最後まで読みます。
 
 
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昼下がりに施無池でヌートリアを見ました。

2012年01月11日 03時45分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 写真は西中の山と桃坂の間の谷を登ったところにある池です。口吉川町の谷の北側はゴルフ場が連なっており、どの谷を登っても池に突き当ります。そしてその向うはゴルフ場になっています。どの池にもそれぞれにシーンとした表情があり、池の堤に立つとしばらく静かな空気に身をひたしていたくなります。
 きのう、真昼間にヌートリアを見ました。畑と家の間に小さい施無池があるのですが、ヌートリアが冬の日をあびて池面で枯れ草を食べています。この池は夏ガマが生えていました。その枯れたガマが、ヌートリアが上がっても沈まないほど折り重なっているのでしょう。
 車で通りかかり、姿を見たので車を止め、静かにカメラを出して構えました。じっとしています。もっと近づけそうです。もっといいアングルで撮ろう。三歩ほど歩いたところでヌートリアはスルッと水にもぐってしまいました。成猫ほどの大きさの大人のヌートリアでした。残念! また撮ります。
 ヌートリアをはじめて見たのは、篠山の雲部車塚古墳のお濠でした。1995年、神戸に大きな地震があった年でした。夕方ビーバーのような生き物が水面を泳いでいるのを見、岸辺で草を食べる姿を見て、その哲学者のような風貌に魅かれました。
 ところが2009年3月、このブログを立ち上げたとき、うちの畑がヌートリア一家に食い荒らされ、市から檻を借りて一網打尽に捕まえて農政課に突き出してしまいました。今度はそんなことはしないつもりです。内心は、このヌートリアが結婚して、子どもが生れて、かわいい子どもたちが昼間から草を食べ、2メートルくらいのところからじっくり見れたらいいな、と思います。勝手な思いですが。
 ヌートリアの所作には人間をそんな気持ちにさせる可愛さがあります。“you tube”を見たら、淀川をヌートリアが泳ぎ、おじいさんが姿を見せると、真っ直ぐおじいさん目指して土手を登ってくる。おじいさんがあげる食パンを両手ではさむようにして食べ、食べおわるとまた手を出しておじいさんにせがむ。見ているとおじいさんとヌートリアの気持ちがかよっているのがわかる。……そうそう日本ヌートリア交流協会とかいう会を勝手に一人で立ち上げて動画をアップしている人もいましたね。
 ヌートリアは害獣にはちがいないのですが、この前は大根や野菜をひどくかじられて冷静さを失い、檻を仕掛けてしまいました。しかしもう檻を仕掛けたりしませんから、どうかヌートリアさん、婚活して、結婚して、赤ちゃんを見せてください。お願いします。
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