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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

<お片づけ>をしました。

2011年02月28日 01時37分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 日曜日のきのう、ご近所のみなさんに寄ってもらって話合いをしました。うちの班から村の自治会に出す役員についての相談です。写真は会場となった我が家のリビングルームです。「特に写真を載せるまでもない」フツーの会場に見えます。しかし実際は相当の<お片づけ>をしなければなりませんでした。
 まず前日に床にワックスをかけ、テレビの前にひょいと置いていたモロモロのモノを片づけ、ホコリを払い、なんとかここまで見栄えよくすることができました。<お片づけ>をしながら絶えず頭にあったのはダン・シャーリーちゃんです。
 ところでみなさん、『断捨離』って≪やました ひでこ≫さんという方の登録商標だってご存知でしたか。個人的に『断捨離体験』を発信するのはかまわないけど、商業目的・営業目的に使うのは厳密な基準をクリアーしなければならないそうです。
『断捨離セラピー』というマンガの本が去年の秋、青春出版社から出ました。≪あいかわ ももこ≫さんという片づけ下手の漫画家兼主婦が断捨離と出会う本です。彼女は断捨離と出会って三年、いまもダンシャリアンとして断捨離を実行中だそうです。 ※ ≪ダンシャリアン≫って断捨離セミナーを受けて「片づけの深い意味に目覚めた人」っていうところでしょうか。
 その人の描いたマンガに≪ダン・シャーリー≫ちゃんが登場します。マンガには「断捨離を広めるためにやってきた謎の生物(妖精?)」とあります。親しみのわく名前だと思ったら『赤毛のアン』の女の子と一字ちがいです。この妖精とおしゃべりしながら片づけられたら気持ちが弾むかもしれません。
 さて、片づけはいつも「しなければ……」と思うけど「そのうち……」とやりすごしていく仕事です。ぼくは4年前に30年近く住んでいた神戸から質素な田舎暮らしをしようと三木市に引っ越してきました。引っ越すにあたってはモノを捨てました。でも「生きる」ってモノが増えることですね。知らない間にたまっています。衣服なんて野良着と寝巻きと散歩着があればいいと思っていたのに整理がつかなくなりました。収納容量の大きな小屋をつくったのに大工道具が山積みになって、なにか探すのに一苦労します。
「これではいけない。近いうちに整理整頓しよう」と毎日のように思いながら時が流れていきます。いまネットで見たら『断捨離セミナー』って全国で大流行りなんですね。みんな困っているんだなー。
 伝えたいことの片づかないブログ発信になりました。
  
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老人クラブで桜の苗木を植えました。

2011年02月25日 02時34分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 三木市は『日本一美しい町』にしようとこのたび桜の苗木を全市の各町に配りました。うちの村にも八本の苗木が。それを老人クラブで植樹することになり、きのう作業をしました。苗木だけでなく、肥料の油粕、バーク堆肥、排水をよくするパーライト、粒状の混合肥料、それに三本の杭(杭はぼくが裏山の竹を切って〈3本×8〉本用意しました)で支えるときにしばるヒモ、苗木に巻くシュロもついています。
 老人クラブでは総勢七人が朝から作業にかかりました。まず「どこに植えるか」相談です。ゲートボール場の周辺で田んぼが桜の木の日陰にならないところに四本、八幡神社に二本、西のお大師さんに二本植えることになりました。
 写真は向うになだらかな山が見え、早春の寒くない日に『西のお大師さん』で老人たちが植樹作業をしている図です。八幡さんで植樹してから、それぞれ軽トラにツルハシやクワを積み、西のお大師さんに走ってきました。写真の先頭に見える軽トラは我が愛車。「この村の仲間に入れてもらい、かなりなじんできたなー」という感慨が胸をかすめました。
 桜の木が生長して〝お花見〝ができるようになるのは10年先でしょう。うちの村には桜の花見ができるところがありません。美嚢川沿いのとなりの桾原との境に数本の染井吉野が咲き誇りますが、交通量の多い県道20号線のそばです。ゴザでも敷いて花見をする雰囲気ではありません。あと一本はうちの畑の下にある民家の染井吉野です。
 この桜の花見はうちの畑がいちばんいい場所です。それに畑からは公民館裏のゲートボール場、八幡さん、西のお大師さんが見えます。それぞれに桜が咲くようになるとおらが村の花見ベストスポットになるなー。
 4月中頃になるとうちの畑でレンゲが咲きます。去年播くのが遅かったので菜の花は咲きそうにありませんが、レンゲは盛り上がって冬を越しました。きっときれいに咲いてくれるでしょう。孫たちに、通りがかりの人に、墓参りの人に、柴犬を連れて散歩する村のおじさんに「ああ、レンゲ畑だなー」としばしたたずんでもらう。たのしみです。
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頼りになる助っ人出現!

2011年02月22日 23時37分26秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 この冬の『裏山の竹切り倒し作戦』第一段階は終了しました。第一段階は「立っている竹をとにかく切り倒す」ことでした。竹薮は裏山全体に広がっていますからどこまで切り倒して終了とするかはこちらの体力との相談です。そこで我が家の裏窓から痛む肩をさすりながら眺めて「これくらいにしておこう」と思ったところで終了としました。
 鋸を引く時間は一本切り倒すのに1分とかかりません。傾く竹が鋸歯を噛まなければ。でもそれを「ドサッ!」と地面に倒すのが大仕事です。オープンスペースのほうに倒れれば問題ないのですが、途中で引っ掛かったり、まだ切っていない竹のほうに倒れたりします。それを押したり引いたりしてなんとか地面に横たえます。急な斜面で切り株につかまりながらやるのですから、力がうまく使えません。一本の竹を倒すのが大仕事でした。いまその状態で何百本という竹が折り重なっています。
 ここから竹薮開拓の第二段階です。倒れた竹を引きずり出し、2~4メートルくらいに切って取り回しやすくします。切り倒した竹をどこに仕舞うかあれこれ思案しましたが、結局竹薮に突っ込むことにしました。もうスペースを広げる気はありません。来年からは生えてくる竹を切ってスペースを維持し、里山らしくしようと思います。
 その竹切りに頼れる助っ人が現れました。写真の『電動レシプロソー』です。「ギーコギーコ」を電動でやってくれるのです。充電式だと高価なのでコードをつないで使う電動鋸ですが、これが使ってみると実によく切れる。竹にあててトリガーを引くだけで簡単に切れていきます。去年の暮から五十肩を患って夜は痛みに悩まされていましたが、これなら大助かりです。3月中には片付けられるように無理はしないけど頑張ります。
 陽射しがつよくなりました。畑仕事がはじまります。まずジャガイモを植えてマルチをかけることにします。そろそろタマネギに二度目の追肥をあげる時期です。こんなに細くてつくだろうかと思いながら植えたネオアースの苗が、相変わらずマッチの軸の太さですがしっかり立っています。
 麦茶の麦を我が家でつくろうと播いた六条大麦はいましょぼくれているように見えます。何度か踏みましたが勢いがありません。でもおそらく地下の根は深く広く伸びているでしょう。「一粒の麦の根をつなぐとシベリア鉄道の長さになる」と読んでから、ぼくは麦を尊敬することにしています。先日図書館で借りた『麦の一生』という写真ブックには地中に張りめぐらされた根の写真がついており、「寒い地方では地下二メートルまで根が伸びることがある」と書いてありました。
 
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『道しるべ』に歴史をいつくしむ民衆の気持ちがこもっています。

2011年02月21日 01時43分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は殿畑にある昔の『道しるべ』です。桾原から口吉川小学校に行く山すその農道にあります。
先日散歩で歩いたときに撮った写真ですが、この道しるべは、圃場整備(田んぼを整備して機械が入れるようにする)のときにいまの場所に移されました。三木図書館で借りた平成四年(1992年)教育委員会発行の『三木の道しるべ』という冊子には、この道標の写真が載っており、こんなメモがつけてあります。
 
 <メ モ>   殿畑の山すそへの路傍にひっそりと一基の道標がやや傾きながらも立っている。少し風化しているが、まだしっかりしている。ただ文字が草書体で欠落もあってどうしても全部読めないのが残念だ。なお近い将来、その周辺も圃場整備がされるとのことであるが、若干位置が変わっても残してほしい。

 この冊子発行後に行われた圃場整備で、道標は北に移されましたが、碑のよこに御影石の解説がつけられました。写真では読めませんので全文を載せます。

               舌  たらず

 街道脇に建つ右の碑は、旅行く人に道案内をかい、右に行くは蔵の谷(東条町)左は人・物行き交う要所・高砂港有り、と知らせ、時には農耕牛馬を繋ぎとめ、人々の憩いの場を提供し、或いは碑の頭上にある窪みが示す通り、幼子の「ままごと」遊びの場となり、街道筋に建つこと200年、『樹齢行童女』の供養と刻まれているが建人知れず……。今日に至るが、時の流れ、この度の土地改良事業で役目を終える。寄って30メートル北の位置に移し、多くの人々の記憶にとどめるべく記す。

 民衆が歴史をいつくしむ情感のこもった碑文解説です。三木に移り住んで4年。三木には歴史のある祠や碑がたくさんあります。そしてそれが民衆に大切にされ、子孫に伝えられていく歴史の流れを感じます。先日紹介した東中にはじめて学校をつくった国嶋先生の碑も、消えてしまった碑文(昭和17年発行の兵庫県教育史には全文載っている)がこの案内板のように顕彰されるのがいいか。歴史の落葉が降り積んで自然に埋もれるものなのか。
 いましばらくは、三木の史跡をときどき訪ねるのをたのしみにします。


 
 
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『日本の独立』を読んでいます。

2011年02月20日 01時06分41秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 2月8日の朝、散歩のときに撮った蛇ガ池から福地池方面の写真です。我が家の裏山も西中の山も木の芽がふくらんで、寒くてもどこか春めいてきました。
≪現在の日本の政治≫なんかに心わずらわせるのは田舎暮らし志向の老人には似合いませんが、あまりひどい状況なので黙っておれません。夜中に起きてネットをのぞいてみたら、そんな日本の政治状況を心配して書き込みしている人がいっぱいいます。
 国家権力や政府が武力や御用マスコミでいくら押さえ込んでも、中東では民衆が立ち上がり、国家権力を追い詰めています。「インターネット」で情報交換をしながら。
『日本の独立』(植草一秀著・2010年12月刊行・飛鳥新社)がベストセラーになり、広く国民に読まれ、その衝撃の波がネットを通じてじわじわと広がっています。その本を隣町の東条図書館で借りていま読んでいます。(居住地に隣接する市の図書館では本を借りることができます)
 夕方のテレビでニュースなどは見るほうですが、それにしても生命保険のコマーシャルが多い。日本にも保険会社くらいあるだろうに外国の保険会社のコマーシャルばかり。ダイレクトメールで送ってくる保険案内も外国の保険会社ばかり。小泉(純一郎)・竹中(平蔵)は抵抗精力を排撃して規制緩和をして、日本になにをもたらしたか。
 むかし厚生大臣をしていた頃は、菅直人をもう少しましかと思っていましたが、どうしようもない人だとわかりました。そういえば村上龍の小説(中学生が反乱を起こすという話)を取り上げて国会で教育のことを質問したのは確か菅直人でした。「実にくだらんことをする」と思いました。信念や情熱に裏打ちされて質問するのでなく、時流におもねてわけのわからんことを質問し、点数を稼ごうとするパフォーマンスに嫌気がさしました。
 それでもその後反省して(頭を丸めて四国遍路もしたことだし)国民のためになる政治を目指すのかと思ったら……。あーあ。
 さて植草一秀という名前を聞いただけで「あー、あの痴漢まがいのことをした……」と思われますか。そう思われるとしたら国家権力とマスコミ(『マスゴミ』と呼んでいます)のやり方が功を奏しています。彼にそんなレッテルを貼り、彼がいかに正論を言おうと、国民が聞く耳を持たない状況をつくり出すことに成功しているのです。
『日本の独立』がベストセラーになり、対米追随を断ち、いまの日本がすすむべき道を示しても、マスコミは無視しようとしています。大きく取り上げることはしません。でも「いまの日本にはネット社会がある」。
 愛知では民主党も自民党も知事や市長の選挙で敗れました。地殻が動いています。それなのにマスコミはいつまでも『小沢叩き』の旗を振り、菅は総理のイスにしがみつこうとしています。
 言いたいことがまとまりませんが、とにかく『日本の独立』の書評をネットで見ください。そしてこの本を読まれることをおすすめします。 
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竹を切り上がって頂上に到達しました。

2011年02月19日 02時13分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは一日中竹切りに精を出しました。去年のように一日に100本は切れませんでしたが。なにしょろ足場のわるい急な斜面ですから。それでも今年、竹薮開墾の一番すすんだ日にします。写真を見ていただくと、下から切り上がって上の竹が折り重なっているのがわかります。これを頂上に引っ張り上げて切り分けるか、あるいはその場で数メートルにして、どこかにしまわねばなりません。
 その作業の大変さを思うと、切り倒す意欲が鈍るのでとにかく頂上まで切り上がるのを目標にしてひたすら切りまくったのです。写真では頂上の左寄りにまだ何十本か竹が見えますが、これは朝撮った写真です。その竹を切って、ブランコが家の窓から見えるようになりました。それを撮ってアップしようと思いましたが、もう暗くなりかけていたので後日見てください。
 写真中央の倒れた竹の下にシイタケの原木置き場があります。上に竹が折り重なっていますが、いまもシイタケが出てきますのでなるべく早く竹を片付けます。
「それにしてもよく切り上がったなー」と自分で感心して眺めています。去年は、はじめは頂上までの竹を全部切ることは考えてませんでした。少しずつ切っていくうちに「とにかく頂上まで道をつけよう」と思い、そのうち「周回山道にしよう」ともう一本山道を切り上がり、作業をすすめるうちに「周回でなく二つの山道の間の竹を全部切ってオープンスペースにしよう」と気持ちが拓けていきました。今年ははじめからオープンスペースを倍に広げようと竹切りにとりかかったので、しんどかった。
 替え刃式の木工用鋸刃を使っていましたが、コーナンなどで売ってる三枚800円ほどの刃は竹を切ると一日で鋸目が欠けてきます。上等の鋸刃にしても竹が刃を噛んでしまえば同じです。そこで先日ホームセンター・ナフコに行ったときに made in Japan の竹切り鋸を買ってみました。これがなかなか具合がよくて、三日使っていますがまだよく切れます。(ただしもう一本買った安いほうの竹切り鋸ははじめから切れませんでした)道具がいいと仕事の出来がちがいます。
 三月になると畑仕事に手がかかるようになるので、二月中に竹薮を整備します。クヌギやコナラの枝先がふっくらしてきました。オープンスペースにはシロハラ、カケスなどの野鳥も見られるようになりました。間もなく、毎日ナワバリを主張しているジョウビタキはカムチャッカに飛んでいき、ウグイスの初鳴きが聞えるでしょう。寒い冬でしたが春の足音が聞えます。
 
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竹切りに精を出しています。

2011年02月16日 02時27分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 我が家の裏山はびっしり真竹の生い茂った竹薮でした。うちの宅地まで竹が頭を垂れていました。そこで山の持ち主にお願いして竹を切らせてもらいました。家の建築に取り掛かるまでに宅地に近いところの竹を切り倒し、宅地に引きずり出して山と積み上げ、宅地を整備する業者にダンプカーに二杯の竹を持ち帰ってもらいました。
 それから家を建て、年の暮れに神戸から移り住み、裏山を借りてさらに竹を切り、二年目には木を植えるようになりました。あの頃は写真に見えるクヌギやコナラの木はまだ竹薮の奥にかすかに見えるだけで「あの木の根元まで竹を切り進む日が来る」とは思いもしませんでした。あの木たちはそんな遠い存在でした。
 ところがここに暮らして4年目の去年の冬、なにを思ったか猛然と竹を切りはじめました。切った竹を置く場所はないけれど、とにかく空いたスペースに竹を積み上げて切り登っていきました。「細い道でもいい。とにかく山のてっぺんまで切って道をつけよう」そんな気持ちでした。
 すると竹薮の奥にあってどこか神秘的に見えていた木が、身近に感じられるようになりました。幹に手を当てて見上げると、竹の上に枝を張ってしっかり立っています。でも幹のまわりは竹に取り囲まれ「竹の枝や葉にいつもさわられて、うっとうしいだろうな。竹に邪魔されず自由に枝葉を伸ばしたいだろうな」と木の気持ちを思います。
 そこでコナラやクヌギの木のまわりの竹を切り倒していきました。「こんなに大きな木だったか」と思う立派な姿が現れます。春にはこの木が芽吹き、山が若葉色になり、夏は木陰を与え、秋には紅葉し、落葉し、また冬がやってくる。この木はなんと多くの楽しみと癒しを与えてくれるだろう。
 というようなことで去年は山の上にブランコをつくり、みんなで弁当を食べ、孫たちは「拝み場」をつくりました。竹がなくなった空間には狐が通りかかり、野ウサギが現れ、野鳥が訪ねてくるようになりました。
 今年の冬はこの竹のない空間を幅20メートルに広げよう。
 きのうはこの冬で一番多く竹を切り倒しました。折り重なって倒れている竹を片付けるには二日以上の手間がかかりますが、それでもとにかく早く竹のない空間を家の窓から眺めてみたかったのです。半分は切り上がったでしょうか。2月も半分過ぎました。2月中にはてっぺんまで切り上がります。
 
 
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『口吉川町の山を歩く会』ウォークに参加しました。

2011年02月14日 23時14分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 口吉川公民館の『楽しい郷土史講座』受講生に声を掛けられて、きのうはちょっとしたハイキングをしました。蓮花寺から細川町の法輪寺までの往復コースです。声を掛けてもらった人は都合で参加されませんでしたが、講座の講師の方、地元の方、口吉川町に移住してこられた方とぼくら夫婦の五人でタラタラ山道を歩いてきました。
 竹の杖は前の日に5本つくって軽トラに積み、蓮花寺公民館にいきました。しかしみなさんそれぞれに杖を持っていました。杖の似合う年齢の人たちが集まったということです。一応タイトルに『口吉川町の山を歩く会』と書きましたが、そんなはっきりした会を設立したわけではなくて、講座をきっかけに二、三回山を歩かれたようです。
 きのうは蓮花寺の山門前から山道に入り、細川町の谷に出る山道を歩きました。口吉川町の谷と細川町の谷の間は300メートル足らずの山が連なっています。谷の向うに車で行くには、三木寄りの豊地まで行って細川の谷の道に入るか、殿畑まで北上してオリムピックゴルフ場のところで山を越えて細川の谷に出るかです。
 しかしむかしから、山を越えて向うの谷と交流はあったはずです。その山道はいまも健在でした。蓮花寺の山門前を通って山道を登ると尾根に出ます。落葉が降り積もっていますが、道幅は60センチ以上あり、倒木や枯れた枝のあまり落ちていない、歩きやすい道です。通る人はなくても地元の人が整備するのでしょうか。細川町の「下芝原」というに出るまでの数百メートルの山道は、両側の雑木林が10メートルくらい刈り込まれ、里山道として整備されていました。県の事業としてやったのではないか、という話でした。
 下芝原からは村の中の道を歩き、山の中腹にある法輪寺に着きました。立派なお寺です。ここにはおととし車で来ました。お寺までの登り道には竹薮があり、手入れされず荒れ放題で、太い孟宗竹が倒れて折り重なっています。(その竹薮の様子は一度紹介したことがあります。2009年12月5日ブログ)
 帰りは「鍛冶」というからちがう道を登って尾根に出ました。この道も歩きやすく、雪のちらつきはじめた頃には無事に蓮花寺に戻ってきました。3月は「東」というの公民館に集り、「山の神社」にお参りしようという話になりました。第一月曜日の3月7日午前8時集合で、だれでも参加できます。解説も交えておしゃべりしながらゆっくり歩きます。午前中に終る予定ですが、おにぎり程度の軽食を各自用意して参加することになっています。ぼくらは参加しようと思います。
 
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強引にソリ遊びをしました。

2011年02月12日 03時45分13秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは雪が積もるかと思いましたが、朝起きてみたら5センチ足らず。「これでは大志くんが来てもソリ遊びは無理だな」とがっかりしていたら、大志くんから電話があって「ソリ遊びに三木に行く」というのす。おじいちゃんの気持ちのわかるいい孫だなー。
 写真に見える池は福地池です。路面の雪はありませんが、家から50メートルほど上った農道の草の生えたところには雪が残っています。そこにソリを持って行き、強引にソリ遊びをしました。これで先日買ったソリもなんとか面目を保ちました。
 裏山の竹を切っています。去年のように一日100本を切るのは無理です。連日10 ~ 20本ずつ切っています。去年は切り倒した竹を引きずってそのまま積み上げる谷間のようなスペースがあったのですが、今年は斜面の下にシイタケの原木置き場があり、その上に倒れた竹を片付けてからでないと次の竹が切れません。この片付けに時間がかかります。倒した竹を3メートルから5メートルくらいに切って取り回して積み上げるのです。頂上までの三分の一切りあがったでしょうか。二月中にはめどをつけたいと思っています。
 ブログに「イメージ」という場所があり、本人の写真を掲載するようになっています。ここにどうしたら自分の写真をアップできるかわかりませんでした。きのうあれこれさわっていたら、去年2月に撮った写真がはまりました。畑の横の溝に入って、長靴を洗っているところです。白髪はかなりあるのですが写真に撮ると黒い髪のように見えます。70歳のときには向かいのおじさんに「若いですなー。70歳には見えませんよ。私は65歳くらいかと思ってました」といわれました。そういわれたらうれしい?
『蓮花寺の鬼踊り』に『ふじわらです』さんからコメントをいただきました。クリックして見たらよそのお寺の鬼追い式の動画が出てきました。なんと燃えている松明を、そのままお参りした人たちの上に投げています。蓮花寺みたいに柱に叩きつけて炎を消し、バケツの水につけて「ジュッ!」といわせてから投げるなんて生ぬるい! あれでは消防士のような完全防備の服装でないとこわくて拾えません。住んだところが蓮花寺の近くでよかったなー。
 
 
  
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因美線土師駅の写真です。

2011年02月11日 02時57分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 駅のプラットフォームから撮った『因美線・土師駅』の写真です。因美線は因幡(いなば)と美作(みまさか)を結ぶ鉄道で、津山から鳥取まで走っています。時刻表を見ると、例えば「鳥取行」なら朝7時44分に一両編成の気動車が出たら、次は12時35分です。その間5時間ほど「上り」の列車はありません。なおこの線では鳥取方面に行く気動車を「上り」というそうです。
 この写真は、去年の9月に智頭町『板井原集落』を見て、吉岡温泉に泊ったときに撮りました。帰りに智頭インターチェンジで下り、津山方面に車で少し走ってみました。「土師駅」(はじえき)と「那岐駅」(なぎえき)に寄ってみたかったのです。
 稲刈り直前の駅からの眺めです。線路は単線で電化されていません。線路にスギナが生えていますが走行に支障はないでしょう。駅舎はたたみ一畳大の吹きさらしの雨よけがあるだけで、改札口も便所もありません。自由にプラットフォームに出ることができます。そして駅前には数軒の家があるだけで人の姿はありませんでした。
 実はこの「土師駅」「那岐駅」にはぼくの思いがあります。駅に降り立ったことはありませんが。むかし倉吉に帰省していた若い頃は、山陰線の倉吉駅から鳥取駅まで汽車に乗り、鳥取駅で因美線に乗り換えて津山に行き、その列車が津山から姫新線で姫路に出る。そして山陽線に乗り換えて阪神間に出てきました。特急か急行か忘れましたが、そのルートで『みささ』という列車が走っていた時代もあります。
 むかし蒸気機関車の引く因美線の列車は鳥取駅を出ると快調に走り、やがて中国山脈にさしかかってスピードが落ちてきました。県境が近づく「土師駅」では止まらないで通過してもはっきり駅名が読めます。やがていまにも止まるかと思うほどのろのろ走るようになり、「これなら線路を歩いてこの汽車にとび乗れる」と思うほどのスピードで「那岐駅」を通過します。県境の長いトンネルの途中から列車はスピードを出します。そして岡山県に出ると快調に走って津山に着きます。
 トンネルを出ると気候も空気も沿線の景色もちがいます。山陰と山陽のちがいを体感しました。暗いところから明るいところへ出ていくような、寒いところから暖かいところへ出ていくような、寂しいところからにぎやかなところへ出ていくような、ふさがれたところからひらかれたところへ出ていくような、そんな路線でした。
 この駅はいま深い雪に埋もれているでしょう。この地の人たちは、なにを思いながら春を待っているでしょう。それにしてもプラットフォームからこんな景色が見られる駅には、心ひかれます。
 
 
 
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「おらが村の小学校」の礎を築いた先生の碑です。

2011年02月09日 02時58分10秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 口吉川町公民館で『楽しい郷土史講座』第四回があり、二人で参加して十数名の生徒とともに勉強しています。月曜日の講座では東中に美嚢郡里郷という郷学(私塾)があったことを学びました。兵庫県教育史に出ている資料では、「播磨の国は気候温暖にして地味亦沃え、海陸の交通便よきため、その文化的水準は概ね高かりし模様である。」とあり、東中と久次の学校が出ています。
 その資料を載せておきます。

 塾名  学科      所在地  開業    廃学     生徒数        塾主       身分
 里郷  読方 算術  東中   文化元年 嘉永五年 男30名 女5名   国嶋 尚謙     医者

 口吉川町には二つの郷学があり、その一つが我が東中にあったこと、尚謙の死後、子・三左衛門が大庄屋になり職務の傍ら郷党の育英に当る。助教として長谷川長兵衛あり。先代尚謙の弟子である。

 長兵衛の子孫にあたる方も講座に参加しておられました。この塾が明治の学制で小学校となり、口吉川学校になっていったのです。これは昭和17年に出た『兵庫県教育史』からの引用です。
 講座が終って帰りに八幡神社の横にある国嶋尚謙先生の碑に寄ってみました。資料には碑の先生をたたえる教え子(筆子)中の碑文が載っていますが、石のほうは風化して碑文が読めません。なお「筆子中」の字はいまは石碑の前に花立てが置かれて写真では見えなくなっています。
 医者として眼科の名医でもあり、質素で倹約家であり、金持ちに屈せず貧しい人にやさしく、立派な人であったと漢文の碑文にあります。
 時間の落葉が降り積もり、生身の人々が歴史に埋もれていく現場を見た気がしました。でも碑のそばに碑文と訳を書いた看板でもあるといいですね。
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松明をゲットできませんでした。

2011年02月06日 23時44分23秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは昼の食事をすませてから、孫たちの一家と勇躍『蓮花寺』の『鬼踊り』見物に出発!
 カメラは道子さんに渡し、ぼくはビデオを撮りました。実は「ビデオを買うのはやめる」とブログに書いていましたが、その後買ってしまいました。旅をしたり祭りを見たりしたとき、写真では動きが伝わらないし、以前 DVD テープで撮った旅のビデオを見て「やっぱりビデオは見るのがたのしい」と思い直したのです。いまのビデオはきれいに写るし、撮影は簡単にできると感心しています。
 さて蓮花寺に着いてみると、もう車を止めるところがないほど。それでもなんとか止めて本堂に行ってみると人がいっぱい。撮影はちょっとだけにしてビデオカメラは肩掛けカバンにしまい、松明ゲットに備えました。去年はみんなで三家族分の松明をつかんだので、今年はおじいさんも一本くらいはゲットしようと手袋をはめ、松明投げを待ちました。
 ところが待ち構える場所がわるかったようで、今年はどの鬼も中央の群集に投げています。そのうちこちらに投げてきそうな気がして鬼の踊るたびに構えましたが駄目でした。結局三家族で一本だけ。仕方がない。我が家の裏山で松明をつくってくすべ、それを撒いて拾うことにします。だれか負け惜しみで「世の中八百長ばやりだし、今年の鬼は松明撒きで八百長したな」とぼやいてました。
 次は餅撒き。これはしっかりキャッチしようとカバンを空にして構えましたが、そんな甘いものでなく、餅が飛んでくると押されてよろよろ。一つもゲットできませんでした。カバンでなく手でキャッチすべきでした。あるいははじめから地面に落ちたのを拾うつもりで構えたほうがよかった。それでもみんなで拾った餅は一人一袋ずつありました。(紅白の餅がビニール袋にセットされていました)
 家に帰ると、孫たちが「裏山の上にお墓つくったからお参りして」とたのみます。あの子たちが「お墓」というのは「拝むところ」ということです。萌ちゃんや大志くんに「畑に農業繁栄のお墓をつくったから拝んで」とたのまれたこともあります。そういう遊びをする時期でしょうか。おじいちゃんとおばあちゃんは途中で一息入れながら裏山にのぼり、拝んできました。
 そういえばあの孫たちは、田舎のおじいちゃんおばあちゃんのところに来ると、裏山の祇園さん・愛宕さん、西中の山の龍神さん、大将軍神社、衣笠神社、篠原神社、あるいはお大師さんの祠、お地蔵さんの祠、と散歩を兼ねてよくお参りに連れていきました。「拝む」のがどんなことかわからなくても、大人が「拝む」姿を見て、子どもは子どもなりになにか感じるのでしょうか。
 ふだんえらそうにしている大人が、真剣に頭を下げて拝む姿を子どもに見せることは、きっといいことなのでしょうね。
 
 
 
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今年は雨が少ないかもしれません。

2011年02月06日 05時34分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 大阪の一月の降水量は0,5ミリです。このあたりもまったく雨が降りません。あちこちのため池も水位がぐっと下がっています。先日、高速道路を走り神戸の呑吐ダムの斜張橋を通ったら、見たことのないほど水が減って湖底が見えそうでした。
 乾燥注意報が連日出され、土手の草もよく乾いており、例年より早く土手焼きが行われています。写真は先週の日曜日に土手焼きをしたうちの村の田んぼです。そのむかし、お坊さんが人柱になって築いたと言い伝えのある福地池の堰堤も向うに見えます。どの土手も「よく焼けたね」とほめたいほどしっかり焼けています。
 2月の役員会で、水利組合から「今年はため池の水位が下がっており、菜種梅雨もないかもしれないし、水不足になることが予想される。節水につとめてください」と言われている報告がありました。こんなにカラカラだと畑に水をやったほうがいいかなと思っています。気温の上がったときに少しだけやってみます。
 2月1日のブログ『緑台を掃除する人』の写真を見られて『ノッペ』さんという方がコメントをくださいました。 …… 「寒そうですが雪がなくて綺麗な風景ですね」  
 エッ? 「ノッペ」をクリックしてブログをのぞいたら、能登半島・輪島の上田農園で野菜をつくっておられる方です。 …… そうか。いま日本は冬で、年末に大雪が降って根雪になり、道も田んぼも雪におおわれているんだ。 
 2月6日・日曜日は近くの蓮花寺で節分の『鬼踊り』があります。我が家は娘たちの二家族がやってきて松明(タイマツ)を拾うのが恒例になりました。三年前の松明拾いで穴のあいてしまったコートを、「松明拾い専用コート」として着込み、今年も体を張って頑張ります。(娘たちが。ぼくは見物します)
 須磨水族園の「ピラニアの餌やり」は一瞬のハヤワザでよくわかりませんが、鬼が踊りながら松明をばら撒き、それを拾う人間の迫力は、あのピラニアに負けていません。今年は松明をゲットできるでしょうか。
 
 
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脇川の教海寺と三木合戦

2011年02月04日 03時54分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 毎月1日には市報が新聞に折り込まれていますが、『くらしの情報』らんを見たら3月21日に文化会館で演劇の公演があります。演目は『もうひとつの三木合戦』……脇川と青竹の筒 (みき演劇セミナー公演)となっています。
 写真は脇川の教海寺です。ここの僧徒は攻囲された三木城になんとか米を届けようと青竹の筒に入れて川に流します。青竹は秀吉が本陣を敷いた平井山のふもとを流れ、三木城内の井戸に流れ着くようになっていました。ところが秀吉軍の兵士が青竹を拾い上げ、栓に槙の木が使われていることから足がつき、三木城の籠城軍に味方した僧徒が処刑されます。それが演劇になるのでしょう。ぜひ見たいと思っています。
 この教海寺の横に『脇川の念仏水』の泉があります。ここの水は『ひょうごの名水』(厳選55ヵ所)- 神戸新聞総合出版センター刊 にも載っており、先日訪ねたときも車を止めて水をくんでいる人がいました。この本にはこう紹介してあります。

 その昔、弘法大師が修行でこの地を訪れた際、老婆に水を所望したところ乏しい水を快く差し出してくれた。大師はそのお礼に杖で山すその窪みを突き刺したところ水が湧き出し、それまで水に困っていた村民を助けたという伝説が残っている。
 
 きのうは裏山に植えた木木に寒肥を入れました。竹を燃料に野菜くずを燃やしてつくった草木灰と鶏糞を混ぜ合わせ、ツルハシで掘った穴に施していきました。木を植えるようになって三年目ですが、竹薮に植えるのは感心しないと植木屋さんにいわれていました。でもほとんどの木は根付いています。今年もまた3月には何本か苗木を植えることにします。
 去年は裏山の竹を切り倒して頂上に達しました。そしてブランコをつくり、孫たちと弁当を食べました。でもハンモックにのって本を読んだり昼寝をしたりはまだできていません。「流し素麺」もまだです。そのためにも冬の間に竹を切らなくては。
 ところが切った竹を置くところがなくなりました。畑で草木灰をつくる燃料にしようと先日から丸鋸で切って運び、もう充分です。切った竹はまだ伐採していないまわりの竹薮に突っ込んでいますが、それもいっぱい。あと500本切ってどこに置くかなー。
 
 
 
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緑台をきれいに掃除する人に会いました。

2011年02月01日 05時23分37秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 毎日寒いですが、それでも2月になります。そろそろ散歩を復活して運動しようと、きのうは軽トラックで散歩の下見に出掛けました。気が向いたところに軽トラを置いて30分ほど歩くつもりでした。車に乗ってから、なんとなく「緑台に行ってみよう」という気分になりました。
 緑台は口吉川町を通り抜け、吉川町の旧・町役場を通り過ぎたところから山に上る新興住宅地です。バブル前に開発され、いくつか家が建ち、『緑台』という素敵な名前をもらい、その後空き家が増えた町です。その頂上に、大阪城の石垣にも使ってもらえそうな巨大な石を積んだ空き家があります。去年の春に一度見たあの廃屋にだれか入居しただろうか。
 石垣のそばに軽トラをとめて、道を歩いてみました。やはり空き家のままです。でも空き家らしい家がポツポツあるのに、だれかが斜面を掃除したようで、道を歩くと空気が清清しい。
 初老の女性が溝の落葉を掃き寄せて燃やしています。道子さんが声をかけると「自分が住んでるところはきれいにして気持ちよく暮らしたいから」。写真のような斜面をご夫婦で上まで草を刈り、道路左の下り斜面もずーっと下まで草を刈り、刈った草や笹を掃除してあります。ぼくがうちの前の50坪の空き地(だれかの土地だけど長年放置してある)の草を刈り、耕運機で耕し、菜花の種を播いたのとスケールがまったくちがいます。
 女性は自宅前の空き地を指して「ここも主人が掃除してます」。ひな壇状のいくつかの宅地は、ツツジが植え込まれ、プロの庭師の仕事のように見事に丸く刈られています。だれに頼まれたのでもなくただ「気持ちよく暮らしたいから」。たったそれだけのために他人の土地をこんなに丹精込めて手入れできるのだろうか。道子さんは「これが全部『あの世貯金』になるのでしょう」と納得してるようです。こんな人を見たら、ぼくの貯金なんて子ども銀行貯金程度だな。
 帰りに緑台入口の空き地を見たら、90坪250万円と看板が立ててありました。値切って200万円か150万円かでも買う人はあるでしょうか。バブルの頃の10分の1にもならない値段でしょうが、それでも売れることはまずないでしょう。そういえばぼくが5年前に我が家の土地を購入したときは、不動産屋さんのいう値段で買いました。「値切らずに買う人ははじめてだ」と10万円負けてくれました。そんな世間知らずのぼくたちが、大きなダマシにもぶつからずにいま田舎暮らしができているのは、なにか大いなるものに守られているからでしょうね。とりあえずまた裏山の愛宕さんにお参りしときましょう。
 緑台から旧の街道まで下りてきたら、なんと『嶋田百貨店』と看板のかかった店があったので丁稚羊羹とサインペンと豆腐を買って帰りました。15年前、篠山をウロウロしていた頃、一番山奥の村に大芋(おくも)百貨店という万屋(よろずや)と出くわしたことがあります。ビー玉とかモンペとか駄菓子を売ってました。いまでもあるかなー。
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