古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

デジカメを買いました。

2015年04月30日 02時40分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 デジカメが具合わるくなってよく買い換えましたが、手元には幾つ残ってるだろう。
「デジカメ集合!」と号令を掛けたら、写真のようにゾロゾロ集まってきました。
                     
 これに現役のペンタックスのデジカメを加えて5つあります。ところがそのペンタックスのデジカメをどこかに置き忘れてしまいました。4日ほど心当たりを探しているのですが見つかりません。「あのペンタックスは調子がよくて愛用してたのに、どこに置き忘れのだろう」と残念がっても仕方ないし、アマゾンで買いました。

 ぼくは中学生から高校生にかけてカメラに憧れる<カメラ少年>でした。
 中学の修学旅行は、鳥取県倉吉市から夜行の汽車に乗って <京都→奈良→大阪> と見てまわるコースでした。鳥取駅を夜行列車が通過するとき、まだ鳥取大火の火がくすぶっていました。昭和27年(1952)4月のことです。
 そのとき生徒の中に「スタート」とかいうオモチャみたいな黒いカメラを持っている生徒が一人いて、みんなの注目を浴びていました。大事そうに首にぶら下げていました。ぼくもカメラに憧れるようになり、毎日写真屋のウインドウに並べてあるカメラを眺め、本屋でカメラ雑誌の広告を眺め、日記に自分の理想とするカメラのデータを書き出し、虫メガネの凸レンズと馬糞紙(ボール紙)でカメラを作ろうと思ったり、寝ても覚めてもカメラ熱にうかされていました。
 見かねたのか高校1年生のとき、母がカメラを買ってくれました。<オリンパス・シックス> という蛇腹式の高級カメラでした。当時はブローニー・フィルム(幅の広いフィルム)のカメラが幅をきかせていました。
 学校から帰ると毎日カメラの蛇腹を繰り出して、息のかからないようにこっそり眺めました。そのうち「自分がカメラを持っている」ことを友だちに話したくなり、とうとう我慢できなくて仲の良かった友だちに内緒で話してしまいました。その日のうちに知られることとなり、数人が連れ立って家にカメラを見に来ました。「見るだけだぞ」と言ったのにみんなカメラを構えてファインダーをのぞきたがり、ハラハラしました。
 大人になり、「レンズ付きフィルム」というか「使い捨てカメラ」が出るような時代になり、デジカメ時代になり、携帯電話で写真が撮れる時代になり、ぼくの写真熱は冷めてしまいました。でもブログ用に写真は撮っています。
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『オオデマリ』が見事に咲いています。

2015年04月29日 01時16分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                     
 部屋から裏山を眺めると目の前にオオデマリの木があります。去年まで枝ばかり茂って、花は咲きませんでした。「枝ぶりが気になって強剪定してしまったから」とひそかに反省していました。今年は写真のようにいま「咲き誇って」います。眺めると「この植物に感謝の気持ちがわいてきます」。
 オオデマリの横にはこの地に移住した頃(8年まえ)いただいた「ハナミズキ」が育っていました。この樹が去年台風で傾いてしまいました。傾きを直そうと、杭を打ってひもで引っ張りました。傾きは直りましたが、春になっても樹の3枝のうち2枝に蕾ができません。「引っ張り過ぎた」からです。そういえば大きく育った沈丁花を、姿勢を直そうと引っ張って枯らせてしまったことがあります。「沈丁花は特に根が弱くて力を加えてはいけない」と知らず無智でした。反省。
 今年の冬、池を掘り、メダカを泳がせ、アメンボを招来し、花見台(裏山座敷/裏山デッキ/裏山テラス)をつくり、山道階段をつけ、手すりをつけ、粘土の山道にバラスを入れ、眺望をよくするため竹を伐り、階段横に花を植え、知らなかった樹の名前がわかり(アズキナシ) …… といろんなことをして裏山への愛情がさらに深くなりました。
 しかしいつまでも裏山だけにかまけているわけにはいきません。畑があります。きのうは材木を買いに行って、防風ネットハウスの骨格を作り上げました。今日ネットをかぶせます。
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「ルール」の健康フライパンにしました。

2015年04月28日 02時53分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「油なしで焦げつかない」を売り文句に「セ」とか「フ」のつくフライパンをやたらにテレビで宣伝しています。かなりの値段です。でも何度も見ているうちに「焦げつかないのはいいことだ」という気持ちになるから不思議です。凡人のぼくもその気になってインターネットで調べてみました。
 どちらも「スグレモノ」のようです。ドイツ製の「ルール」というのもあります。「ルール」って聞いたことのない名前でしたが、ドイツ製というので心が動きました。こちらはコーティングにチタンもつかい、焦げつき10年補償となっています。焦げついたときはコーティングを塗り替えてくれるという補償です。
「今から10年というと、えーと、何歳かな」なんてよく考えないで注文してしまいました。そして製品が届いて使ってみました。
 なかなかいい。いまのところ。
「油なしで焦げつかない」と称するフライパンはいままでにも買ったりもらったりしましたが、どれもしばらくすると焦げつくようになります。「世の中はそんなもんだ」と思っていましたが、このドイツ製はどうでしょうか。
 
 さて畑のイチゴネットハウスはできましたがもう一つ仕事が。防風ネットハウス。中で小豆/トウモロコシをつくるので、アワノメイガ/アズキノメイガをシャットアウトします。こちらは年中そのまま使用するネットハウスで頑丈につくる必要があります。きのうはその仕事にかかりきりでした。その間に草は伸びるし、雨が降らないので水やりもしなければ。
 しばらく山仕事はおあずけにして、畑仕事に精を出します。龍神さまにもお願いしないと、当分雨が降りそうにないし。
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「イチゴ・ネットハウス」が完成しました。

2015年04月27日 03時29分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                        
 連休明けには <イチゴ摘み> ができるでしょうか。
 実が大きく、赤くなりはじめました。ヒヨドリやカラスも「連休明けにはいただくとしよう」と眺めているでしょう。金谷のローソン近くに、赤いイチゴネットを張っておられるお宅があり、うちの畑もそろそろ。
 日曜日に萌ちゃん一家がネット張りを手伝ってくれるというので、おじいさんは柱8本を立て、マイカ線を張って準備万端。きのうの日曜日、少々風がありましたがうまく「ネット張り」ができました。ヒヨドリはちょっとしたすき間からも入りますから地面と接するところを点検してふさいでおきます。
 今年イチゴの畝は「二条植え・二畝」にするつもりでしたが、ランナーから移植した苗が余ったので「一畝・一条植え」をプラスしました。「イチゴ! イチゴ!」とよろこばれるとつい増やしてしまします。
 錦織圭のテニスの試合をテレビ応援しています。深夜12時半に試合が始まるので夕食後寝て、12時に起き出して試合を見ました。野球だと応援する選手がいても出番はわずかだし、ゴルフだって70振りほどで勝負がつくのに対して、テニスは何百本と打つわけですから見ごたえがあります。錦織は「バルセロナ・オープン」で優勝(連覇)しました。おそらく錦織ファンは去年の夏から一挙に増えて、日本ではみんな深夜テレビ応援しているでしょうね。
 これからもつづくから試合全部を見て応援するのは無理ですけれど、たのしみは増えました。
 三木の市会議員の選挙、うちの村の青年も当選しました。よかったよかった。
 当分天気がつづくので畑仕事に精を出します。
 
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三木市会議員選挙がありまして……。

2015年04月26日 05時29分55秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 先週は三木市会議員選挙がありまして、うちの村から青年が立候補しました。市会や町会の議員といえば、元農協の組合長とか地元小・中学校の元校長とかが立候補して、隠居仕事みたいなイメージもありますが、20代の若者が立候補し、自分の村の未来を考えようとする心構えに感心しました。少子高齢化で衰退する村や町をなんとかしようとする意欲を感じ「若者に託すしかないんだ」という思いです。
 うちの村をあげて応援することになり、選挙事務所の前で通過する「車に手を振る」作戦を行いました。
                       
 走る選挙カーから候補者が手を振るのでなく、通る車の運転者に朝夕こちらが手を振るのです。ウイーク・デーは「手振り隊」が高齢者中心になりましたが、顔見知りの地元の人も通り、手応えもあって、それなりに貢献した気持ちになるようで、代わる代(が)わる頑張りました。ぼくらも事務所に出掛けて、手振り隊をしたり村の人たちと交流したり。
 市会や県会の選挙といえば40年ほど前にしんどい仕事をしたことがあります。遠いむかしですがいまだに「あのときはしんどかった」と思い返します。ですから選挙といえば腰が引けるのですが、このたびは村の人たちの <まとまり・つながり> にふれて、「ここではまだ人と人がつながっている。互いに支え合って生きている」のを実感しました。
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『アズキナシ』と教えてもらいました。

2015年04月24日 04時25分10秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうのブログでアップした写真は『アズキナシ』という木でした。『この木何の木』サイトに写真を投稿して教えてもらいました。ネットで検索していろんな写真を見ると「アズキナシ」で間違いないようです。10~15メートルの高木になり、街路樹・公園樹・シンボルツリーにされるそうです。裏山の樹も10メートル以上の高木で、生長は早くないそうです。ぼくが生まれるより前から生えていたのでしょうか。
 いま白い、小さい花が咲いてます。秋には小豆のような赤い実になり、山の紅葉に彩りを添えるそうです。下からは見えないので、そんな立派な樹があることを知りませんでした。
「竹藪ばっかりだ」と思っていた裏山が竹を伐ってみるといろんな木が生えており「自然の豊かな里山だったんだ」とあらためて思いました。
 
 またまた何の変哲もないうちの畑を、「大サイズ」でアップしてすみません。畑のそばが裏山の南端で、若葉が本格的な緑に変わろうとしています。山に入るとほとんど竹ですが、クヌギ・コナラのほうが背が高くて山は若葉でおおわれています。イチゴのネット枠をつくる作業をしていて、ふと顔をあげると春の日をあびる裏山が目に入り、「いいなー」と仕事の手を休めて見とれました。
 また自慢になってしまいました。ごめんなさい。
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草刈りにいそしんでいます。

2015年04月23日 03時37分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 山仕事の合間に「気持ちが畑に向きかけると雨が降る」の繰り返しで、畑の作業が遅れています。やっと好天がつづくので、畑の草刈りに精を出しました。77歳という年齢を考えて「一日の草刈量はガソリン・タンク一杯」までにしているのですが、きのうは朝から「タンク2杯」刈りつづけました。約4時間の作業量です。
 高齢者は翌日でなく三日後四日後に疲れが出るので、残りはボチボチ刈ります。
 イチゴの「ネットハウスづくり」にも着手しました。3年前までは木の杭を打ち込み、それに竹の柱をビス止めしてネットハウスをつくっていましたが、ここ3年ほどは「多少費用をかけてもらくなほうがいい」と材木の柱にしています。今年は45ミリ角の垂木で8本柱を立て、それにマイカ線をタッカー止めして枠をつくります。張る防鳥ネットは50坪用(数百円なので毎年換えます)。全周の下は竹の棒にくくりつけ、入口は<ドラえもん>の「どこでもドア」風に気の向いたところにつけます。「垂木の柱は5年くらい使える」と思ってますがどうかな。
 今年は「スズメノカタビラ」が大きな株になり、しっかり伸びて種をつけています。雨がよく降ったし、草抜きをサボったからです。オランダミミナグサ/ギシギシ/ツボミオオバコ/コメツブツメクサもびっしり。5月になればツボミオオバコが勢いよく生え広がり、そのあとはハマスゲがはびこります。また草刈りに追われるなー。
 ところで写真のような花の咲く「木」が裏山に一本生えています。幹は直径30センチくらいで、天を衝くように高く伸びています。それが毎年5月はじめに花をつけるのですが、地上遥かな梢なので双眼鏡で見てもどんな花かわかりませんでした。
 先日の強風で小枝が吹き飛ばされ、写真の花を拾いました。何という木でしょう。
                    
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我が家は若葉にかこまれています。

2015年04月20日 01時24分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                       
 我が家が真ん中になるように遠景を撮りました。後ろの山(隣村)と重なって裏山が高く見えますが、実際は中央の黒っぽいところの上がうちの裏山の頂上です。元は竹藪でした。竹は一本残らず伐り、しかし斜面が急で太い木の育っていないところです。この空間があるお蔭で、裏山の頂上に登ったら村の景色が見渡せます。
 いま全部の景色が若葉色です。この色合いは5月までもちません。深い緑になってしまいます。
 毎年同じ、こころ満ちる眺めで「ここに暮らせてよかった」という思いを声に出さないで反すうします。
 ″見事な景色″でなく、どこでも見かける、ありふれた田舎。それがいい。実にいい。実際に何日も何ヵ月も何年も暮らしてしみじみ感じます。
 世の中の「田舎暮らし志向」はずっと上昇傾向です。
 ぼくらは2000年の少し前くらいから(阪神大震災の少し後)「田舎暮らし希望」が強くなりましたが、具体的に動き出すには相当な時間が必要でした。実際に「空き家探し」を始めたのは2005年で、11年前になります。ぼくは68歳になっていました。
 あの頃から見るといまは情報が増えてきました。不動産屋さんの扱う「田舎の空き家」物件が増え、価格がこなれてきました。あの11年前の苦労を思うといまは「随分情報に恵まれています」。でも「田舎暮らし」は簡単には実現しません。
 今年の冬は裏山を「公園風な庭にしよう」といろんなことをやりました。畑仕事の季節になり、そちらに精を出すことになりますが、裏山をちょっと歩いては満ち足りた気分になります。そして「ここまであれこれ考えて田舎暮らしに踏み切ったわけでないけど、恵まれてる」と思い返します。
 ひとは一生懸命生きる。そしてなにかと出会う。 
 そしてどうなるか。
 いずれにしろ、どこにいても、どんな目に遭っても、ひとは一生懸命生きる<生き物>なんですね。
 
 
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野草たっぷりの『手作り野草酵素飲料』を仕込みました。

2015年04月19日 03時11分06秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 4月に入って雨が多かったので、畑の野草たちはよく生長しています。畑の遊歩道にはレンゲ・クローバー・ヨモギ・ギシギシ・コメツブツメクサ・カラスノエンドウなどがびっしり生えています。いま採れば雨に洗われてきれいです。裏山の木々の芽も膨らんできました。柿の若葉も採れます。申し分のない <手作り野草酵素飲料づくり日和> です。
 野草はうちの畑だけでほとんど採集しましたが、軽トラでワラビも採りに行きました。今年の春の野草酵素は、野草の割合を多くしました。8割。こんなに多くしたことはありません。どんな味の飲料になるでしょう。
 なお、いままで室内で仕込んでいましたが、今年はオーニングを繰り出してウッドデッキで作業しました。簡単に掃き出せます。野草が床に散らばるのを気にしなくてもいい。気分がらくでした。来年もウッドデッキで作業します。
                     
 若葉の季節です。写真手前の若葉は「友禅ケヤキ」高いほうは「コナラ」です。玄関先から裏山を見上げて撮りました。
                     
 花見台のデッキに寝ころがって若葉を見上げる。冬の梢を見上げたときとはちがう気分になるでしょうね。試してみます。
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三木市の<新図書館>オープンがたのしみです。

2015年04月18日 02時17分25秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                     
 用事で市役所の駐車場に行ってみたら新しい図書館の建物がすっかり完成しています。市の公報ページを見たら開館は7月1日ですって。
 上の丸の図書館には「なかなか」辿り着けませんでしたが、新図書館は市役所の前でわかりやすく駐車場も広い。しかも新築ですから最新の図書管理がなされるのでしょう。三木市に移り住んでからもずっと図書館を愛用してきただけにオープンがとってもたのしみです。
                     
 写真はうちの畑のレンゲです。畳一枚ほどの大きさで過去の落ちた種が生えているだけですが、ミツバチが集まっています。道子さんと軽トラで可燃ゴミを出しに行き、ついでに30分ほどかけて口吉川町を一周することがあります。しかしレンゲ畑は見かけません。
 来年は10坪でもいいからレンゲ畑をつくろうと思います。ぼくらの世代は幼い頃レンゲ畑で遊んだ思い出があります。レンゲを摘んで花輪をつくったり、花束をつくっておかあさんにあげたり、寝転んだり、跳んだり跳(は)ねたりした、こころのフワッとひろがる思い出です。いまの畑もそんな思い出につながるレンゲ畑にしようと、レンゲを播いたことがあります。孫たちは遊んでくれました。一度だけ。麦を播いたときは麦踏みをしてくれました。一度だけ。おじいさん・おばあさんのノスタルジア押しつけはよくないけど、レンゲ畑を見るとやっぱり自分がうれしくなります。
 秋にはレンゲの種を播きます。来年の春レンゲの海で寝転ぶために。
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『長い道』(柏原兵三・著)を2日で読みました。

2015年04月15日 09時54分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 左は裏山に咲いている『花海棠』(ハナカイドウ)です。花が下向きなので桜ほど満開の感動がありません。右は『ガマズミ』です。三カ所に自生しており、白い花が咲きはじめました。秋には赤い実がなります。ガマズミ酒は最高の果実酒ですが、うちでは野鳥たちが赤い実を食べます。
            
 ソメイヨシノは散っても、コバノミツバツツジ・ヤマザクラが咲き、オオデマリ・ハナミズキ・ライラックなどが「咲く気まんまん」で控え、6月には色鮮やかな百合が咲きます。
 風邪引いてるし、雨で裏山も畑も仕事ができないので『長い道』を読みました。
 目が字を追っても中身が頭に入りにくくなっています。大型活字本で800ページ余り、読む速度が相当に遅くなっていますので、3、4日かけて読むつもりでした。しかしぐんぐん引き込まれて、2日で読了しました。三度目です。また読む気になることがあるか。わかりません。でも文庫本のほうは最期まで手元に置きます。
 『長い道』は「あの戦争」をめぐる文学作品の中で、3点リストアップしている中の1点です。
 (『長い道』/『ルソンの谷間』/『帰らざる夏』)
 東京から富山県の海辺に縁故疎開した少年(国民学校5年→6年)の一年を描いています。少年の世界が活写されていて、読むたびに引き込まれます。ぼくは戦時中疎開したわけではありませんが、戦後、小学校のとき何度か転校して同じようないじめを経験しており、ドキドキして読みました。
 子どものしたたかな存在感が、見事に描かれています。いまの大人は、多かれ少なかれ、こんな子どもの世界を通り抜けて大人になったのです。子どもの存在 / 大人の存在、さらにいえば「人間の存在」は、哀しい、胸の痛む、宇宙の現象かもしれない。足もとの深淵を見ないで、「明るく楽しく」生きるのが <しあわせ> かもしれない。
 もやもやしたものをしばらくかかえたまま、畑仕事にいそしむことにします。
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畑と裏山に『ポイズン・リムーバー』を常備します。

2015年04月14日 11時43分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 このたび我が家の <畑> と <裏山(登り口の軒下)> に『ポイズン・リムーバー』を常備しました。いろんな製品がありますが、フランス製のこのポイズン・リムーバーが一番扱いやすいようです。
                     
 去年、ぼくは裏の竹藪で笹を刈っていてオオスズメバチに刺されました。手の甲に激痛が走りましたが、どうしようもなくそのままにしていたら、翌日3倍くらいに腫れ上がりました。数日で腫れが引きましたが、すぐ吸い出していたら症状が軽かったかもしれません。そんなときに活躍するのがポイズン・リムーバーです。
 ムシ・蜂刺され/蚊/ムカデ/蛇・マムシ噛まれ/ などでも効果があるそうです。使い方は簡単で、刺され(噛まれ)口の大きさに合わせてキャップを選び、注射器の先端に取り付けます。注射器を引き出しておいて、刺され(噛まれ)口にキャップを押し当てピストンを押し込みます。数回押し込むと皮膚がプクッと膨れ、毒を吸い出すのです。
 刺されたとき口で吸い出すのは、力が弱く、ほとんど効き目がないそうですが、リムーバーはかなり強力です。マムシの場合はすぐに腕・脚など噛まれた付け根をしばって、ポイズン・リムーバーで数回吸い出してから医者に行きます。医者の治療はもちろん必要ですが、症状が軽くなるかもしれないそうです。
 ポイズン・リムーバーの置き場所は、畑は <肥料置き場> の天井裏にします。写真のピンクのカゴに入れておきます。刺されて(噛まれて)数分以内なら効果があるそうですから、遠くの方は無理ですが村の方には利用していただけるかも。
 裏山の置き場所は、登り口の横の軒下(柱の裏側)にします。
 なお、薬局などで売っているかどうか知りませんが、ぼくはアマゾンで買いました。
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『あの戦争』を,そのまま語れる人がいなくなります。

2015年04月13日 01時43分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 風邪気味でした。大事をとって家でコタツにあたり、「もりたなるお」(森田成男)という作家の『虐殺 ……  一巡査の告白』という本を読みました。評判の本でも読みたかった本でもありませんが、終わりまで読んでしまいました。
 その理由。「<支那事変>から敗戦前後にかけての庶民の生活をありのまま伝える描写」に惹かれたのです。
 ふつうあの時代(昭和元年 ~ 昭和25年頃)を作家が書くときは、何かメッセージを引きずっています。「こんな酷い目に遭いました」とか「散々やられました」とか「愚かな軍隊の上層部が戦争へ、戦争へと舵を切った」とか。それはあとで味付けされたメッセージであって、当時の庶民の心情をそのまま描写したものではありません。
 中国との戦争で戦線が拡大し、現職の警察官まで出征するようになり、昭和元年生れの「もりたなるお」は少年警察官になって、庶民の生活をつぶさに見たから描けたのです。特にこの本の半分以上を占める『 銃後 …… ある兵事係夫妻の ″聖戦″ 』は、″あの時代″の庶民の生活や心が、とてもよく伝わります。<支那事変>から太平洋戦争、そして敗戦にかけて、村役場の兵事係が召集や戦死公報の任務をこなしていく描写がいい。修飾や情緒を排して、伝える力をもっています。
 そんなふうに描ける人がもういなくなります。
 
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『ペリリュー島の戦い』で言いたいこと

2015年04月11日 06時10分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 新聞やテレビのニュースで「ペリリュー島」という文字を目にすると、これだけは言いたいと思うことがあります。
「あんな小さい島は3日で占領してやる」とアメリカ軍は雨のように砲弾を降らせました。もう占領する価値も意味もなくなっていましたが指揮官たちの功名争いと意地で。アメリカ軍は上陸して2カ月以上かけて、たくさんの戦死者を出してやっと占領しました。
 日本軍は1万人の守備隊が果敢に戦い(時間稼ぎをし)、玉砕しました。
 その最後の日本軍の電報の「やりとり」を『ペリリュー島 玉砕戦』(船坂 弘 著・光人社NF文庫)より引用します。


 最後の決戦に備え、中川大佐は11月5日夕刻に、ペリリュー守備隊の戦闘人員を掌握した。軽傷者を含む350名、ほかに重傷者130名、計480名。 …… パラオ司令部に戦況を送るため、暗号士に電文を組ませた。
「 …… 中川地区隊長以下壕内に於て陣頭指揮に徹し、将兵の士気旺盛にして全員敵飛行場に斬り込まんとする状況なり。水筒は2日より5日迄制限、糧食は食い延ばし炒米、塩と粉味噌とを以ってする忍苦の生活を送る事既に幾十日、 …… 状況最悪の場合に於いては、軍旗を処置したる後、おおむね3隊となり、全員飛行場に斬り込む覚悟なり。 ……   」(カタカナはひらがなに替えてます)

 …… 「この際、武人の最期を飾るため総攻撃を実施したいが、許可して頂きたい」と訴えるペリリュー島守備隊全員の気持が伝わってくる。 …… ペリリュー島大山洞窟では、中川、村井両指揮官は返電をじりじりと待ちつづけた。「直ちにパラオに撤退(転進)すべし」 / 「永い勇戦に感泣、感激す。心置きなく全員斬り込むべし、武運を祈る」返電はおそらくそのうちの一つであろう。どちらにしても敵に包囲された現在、ただあるのは玉砕のみ。(囲まれていて撤退は不可能)
 中川大佐はサイパン戦の持久を考えた。あの島には、31000名が6月15日に敵を迎撃して以来、7月7日の玉砕にいたるまで、その持久は23日間であった。つぎにテニアンの5000名はわずか7日間、グアム島は18000名で、20日間。これらに比べて考えても、ペリリュー島1万余人で約2カ月余の持久に耐えたのだ。一万余りで2カ月余ならば、サイパンの3倍の持久に耐えたことになる。敵に与えた損害も莫大であった筈だ。
 待ちに待った返電は、その日のうちに受信された。

「 …… 難局に堪え、寡兵良く衆に対し健闘を続けつつある事は、全軍讃仰の的にして、 ……。 損害逐次累積し、弾薬、糧食、飲料水等また逐次窮迫するの実情察せざるにあらざるも、地区隊がいかほど小兵力となるも、軍旗を奉じてペリリューの中央に厳乎健在しあることのみにより、いかほど我が作戦の全局に貢献し、全軍を奮起せしめ、一億の敢闘精神を鼓舞したるか、これ何人も疑うの余地なし。すなわち灼熱の闘魂に更に拍車し、あくまで持久に徹し、万策を尽くして神機到るを待つべし。全員斬り込みは易く、忍苦健在健闘するは難しかるべきも、宜しく ……  」
 
 
この後も11月24日まで戦闘はつづき、全員が戦死しました(時間稼ぎもしました)。
 ぎりぎりまで追い込まれ死を決した者への返電の「カタチだけの美辞麗句」・「過酷さ」に、なんとも言えない気持ちになります。
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いろんな方々の気持ちが寄り合って。

2015年04月10日 05時18分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                    
 きのうの朝、埋立ゴミを出しにゴミ・ステーションに行ったら、生ゴミの袋が3個ほど置去りにしてあります。2日前の生ゴミ回収のときに取り残された袋で「市の規定の袋に入れて出し直す」よう警告シールが貼ってあります。腐敗臭もします。このままだと次も取り残されていまう。「規定の袋に入れておこう。ついでにゴミ置き場への道の草も刈ろう」と夕方道子さんとゴミ・ステーションに行きました。
 ブロックの囲いに入ってみると、取り残された生ゴミ袋は規定の袋にちゃんと入れてあります。村のどなたか「放置できない」と袋を持ってきて入れられたのでしょう。それにステーション前の穴ぼこだらけの道は、土砂を入れてブルドーザーでならしてあります。雨水がたまってぬかるんだ道でしたが、これで気持ちよく歩けます。建築関係の方がされたのでしょうか。
 道子さんが世話しているステーション前のミニ花壇は、いまチューリップが咲いています。カラスノエンドウなどで盛り上っていた道ばたは、草を刈ってすっきりしました。補修した道も見えます。
                        
 ブロックの囲いのそばに、石ころがセメントでとめてあります。この村に住みはじめたころ、村のおじいさんに「あれは那須与一やで」とききました。でもその後別の人に確かめたら「大日如来」だそうです。なんでこんなところにあるのかわかりません。どなたか拝む方がおられるのでしょう。花が挿してあります。ぼくらも知らないときは失礼しましたが、いまは道子さんがときどき花を挿して拝んでいます。なんでも拝むのが好きなほうですし。
                        
 軽トラで帰りながら「人人の気持ちが寄り合って世の中はできてるんやなー」と思いました。
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