古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

〝コヤマロール〝を買いに行きました。

2013年03月31日 06時03分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                 
 裏山に植えた「フサアカシア」(ミモザ)が満開です。長く咲いている花で、寝室の窓からいつも見られるのがうれしい。黄色の花にはよくムシが集まります。春はミモザ・レンギョウ・エニシダ。
 お祝いとお見舞いにケーキを買いたいので三田の「パティシエ・エス・コヤマ」に行きました。車で40分くらいかかります。はじめて行ったのですが、10時半に着いたら店の後ろのほうまで行列が伸びています。
 でも店の人が出てきて「この辺の人は、30分待ちで入店でき、その場で渡せます」と言われたのでホッとしました。ぼくたちの前に並んでいた、高齢のちょっと前屈みの女性は〝コヤマ・ロール"を8本買っていました。あちこちから頼まれたのでしょうか。みんな一様に両手に紙袋をさげて、うれしそうに帰っていきます。人にこんな「しあわせな顔」をしてもらえる。「コヤマ」さん、うれしいでしょうね。
 さっきからネットで"コヤマ・ロール"を読んでいたら「食べるときはフォークで直角に刺して食べる」とありました。生地がつぶれないで、食感がいいそうです。
 午後は畑を耕しました。ナズナがいっぱい生えています。あまり草が茂ると去年のようにマムシがひそんでたりするので、草刈機で刈ってから耕運することにします。
 おやつに〝コヤマ・ロール"を食べました。
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放置竹薮は困りものですが、私たちは何をすればいいのでしょう。

2013年03月30日 04時24分37秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                  
 写真は、東条町のコーナン裏に広がる〈農道・田んぼ・山すその民家・裏山〉です。なんでもない景色なのに、買物に行ったとき「ああ、田舎だなー」としばし立ちどまって眺めてしまいます。でも写真ではわかりにくいですが、竹薮が裏山の上のほうまで這い上がっています。
 いまはクヌギ・コナラがまだ緑色でないので竹薮が目立ちます。しかしあとひと月たって木々が芽吹いてしまうと、竹薮はわからなくなります。実際に山に入ってみるとほとんど竹ばっかりなのですが。
 そんな放置竹林を、このブログではたびたび問題にして、アッピールしているつもりです。
 こんなことがありました。
「友だちが竹を少し欲しいというので、もらいに行ってもいいか」知人が電話を掛けてこられました。
「どうぞどうぞ。いくらでも自由に切ってください」
 待つことしばし、その友だちと知人が来られ、きけば。
「油絵を描くのに、絵具を練る竹のヘラをつくりたい。竹を10センチほど欲しい」
「10センチといわず、沢山持ち帰ってください。鋸でいくらでも切ってください」
「そんなにいっぱいもらっても仕方がない」
「しかし、たった10センチの竹のために、ここまで来られたのですか。竹はどこでもあるのに」
 知人の返事に「なるほど、いわれたらその通り。どうしようもないなー」と思いました。
「田舎はどこを歩いても竹薮がいっぱいあるけれど、誰のものともわからない、よその竹薮に入って竹を切るわけにいかんでしょう。見知らぬ人が竹薮に入って竹を切ってたら、家の人が見ればとがめるでしょう。とがめなくても、こっちがそんなことはできません」
 ぼくにしたところで、裏が竹薮という田舎に引越して、自分が竹を切るようになってはじめて「放置竹林は大問題だ!」なんてえらそうにいうようになりました。長年この問題にとりくんできたみたいな口ぶりですが、わずか5年ほど前のことです。
 どうすればいいかな。
 
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生ゴミ箱のふたをつくりました。

2013年03月29日 04時00分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 2008年5月から5年間、家の生ゴミを新聞にくるんで投入してきた箱が、そろそろいっぱいに。そこで先日「生ごみの土」を掘り出しました。この「生ゴミ入れ」は、製材所(元)で野積みしてあった廃材をもらってつくったのですが、空にしてみると枠はまだ丈夫です。内側に張っていた「厚い銀色シート」も大丈夫。このまま5年くらい使えそうです。
 そこでフタを作り直すことにしました。このフタはいろいろ歴史があって、最初はブルーの防水シートをフタにしました。枠の後ろにブルーシートを止め、竹の棒で全体にかぶせるだけのフタです。凹まないように横に棒を渡していました。でもシートはすぐ駄目になります。雨水が入り放題。そこで合板でフタをつくりました。
 ホームセンターの人に尋ねたら、「〈OSB合板〉が防水にはいい」といわれ、それに塗料を塗ってつくりました。その合板が、カタカナで「ポーランド・ザリ」生産と書いてあり、どんなところで製造したのだろうと調べたをことを覚えています。結局わかりませんでしたが。
 いまから思えば、この助言は間違いでした。この合板は外のフタなどを作るのには不向きです。糊で木屑を固めたような合板ですが、耐水性はありません。そこで今度はトタンの波板でつくることにしました。中央のスライド式フタは「塗装コンパネ」です。
                 
 つくるのにずいぶん時間がかかりましたが、これで5年は大丈夫です。道子さんは「EMをつかって醗酵をうながし、ちゃんとした堆肥作りをする」といっています。これでしばらく生ごみ処理はできます。
 写真に赤い電気柵の機械が写っています。電源の〈アルカリの単一電池8本)は12月末に替えました。だからまだ大丈夫のはずです。マニュアルには「夜だけ通電する場合は120日もつ」と書いてありますし。それに一旦スイッチを切って入れてみると、[電池OK]のサインが点滅しますから。
 でも念のため電池を取り出してチェッカーで調べたら、「黄色のサイン」が出ました。「交換せよ」です。まだ90日ですが。冬は夜が長く、長時間通電することになるからでしょう。交換しました。
 あしたはフタの木部にクレオソートを塗ります。
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『山道』を歩いてみたいので、切ったケヤキをもらいました。

2013年03月27日 03時26分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 東条町のコスミック・ホールは、音響のいい、ゆったり音楽をたのしめるスペースです。入ってシートにすわるだけでなんだかホッとします。「アマデウス・ホール」とか名前をつけて、10日か2週間おきにモーツアルトの音楽を演奏するような〈癒し空間〉だったら毎回でも聴きに来たい。
 このホールには町の図書館もくっついているので、ときどき本を借りに行きます。先日軽トラで本を借りに行ったら、5本ほど並んでいるケヤキが「剪定」してありました。写真のような太い枝が切り落とされ、細かく切って並べてあります。
 ここのケヤキたちは、大人が抱えてやっと両手がまわるほど太くて立派でした。1本は枯れて根元から伐採されていましたが。このケヤキが「筒切り」というやり方で〈強剪定〉され、まるでサボテンになったような姿で幹が立ち並んでいます。で、ぼくの関心は「この枝もらっていいだろうか」でした。
                 
「この枝を裏山に並べて階段風の山道にしたら似合う」と思ったのです。もらってもいいか尋ねたらホールの人が、「どうせ捨てるのでしょうね。いいんじゃないですか」といわれたので軽トラに10本ほど載せて帰りました。少しひまになったら野趣あふれる山道をつくろうと思っています。
 ところでコスミック・ホールのプロムナードには枝垂桜が並んでおり、花の頃に訪れるとこころがふわっとなります。その頃には東条川沿いの桜の若木たちも精いっぱい咲いているでしょう。今年もまた、吉川町の吉井川沿いと東条川沿いの花見散策をたのしもうと思います。
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きょうの目標「イモムシ100匹とるぞ!」で、結果は?

2013年03月25日 01時30分57秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 生ゴミ入れの大きな箱(1メートル×2メートルで高さ90センチ)を畑に設置して5年になります。底はありません。家で出た生ゴミを新聞紙にくるんでもってきて、毎日のように投入します。生ごみは底のほうから土になるようで、なかなかいっぱいになりません。米ぬかを入れて醗酵させたときは60度以上になり、虫がいなくなりました。でもまたいろんな虫が発生します。(この冬は投入せず「燃えるゴミ」に出しました)
 いくらカサが減るといっても丸五年。もういっぱいだから土になったゴミを掻き出したい。
 というわけで、前日フタをとっておいた「生ゴミ入れ」にレーキを持ってとりつきました。目標は「きょう中にイモムシ100匹をとる」にしました。
「イモムシ」と呼ぶのはまちがいで、カナブン(コガネムシ)の幼虫なのですが、うちでは「イモムシ」といえ
ばあの白い、モゴモゴと土にもぐるムシのことでした。
「生ゴミ箱の土を掻いて、白い幼虫がいたら火バサミで100匹つまみとろう!」
 実に遠大な目標を立てて、とりあえず仕事にとりかかりました。
 いざ仕事をはじめてみると、幼虫がいるいるいるいるいる。ひと掻きするとあっちにもこっちにも。火バサミでは間に合わないので手袋をした指で2匹3匹とつまんでバケツに集めます。15分もしないうちに「本日の目標達成!」。まだ10センチほど土を掻いただけなのに。ところで、その「イモムシさんたち」の写真は省略します。
                  
 結局夕方までかかり、イモムシを数えるのはやめましたが、とったのは1000匹や2000匹どころではないでしょう。写真右端の畝間に灰色の点が見えますが、そこが手前に積んでいる竹の薪を燃料にしてイモムシさんたちを火葬にしてさしあげたところです。遺灰は、土手につくっている「ムシ塚」に撒くことにしましょう。
 掘りあげたゴミの土は、生ゴミ堆肥箱の向こうの畝に置きました。中央に黒く見えている土がそうです。ここは作物はつくらず、畑の残宰を積み上げる畝にしているのですが、未熟堆肥になり、カナブン幼虫の温床になるのでどうしようかなー。また考えます。
 きょうの結論としては。
○ 去年はカナブンの幼虫にサツマイモをこっぴどくかじられた。アライグマ・イノシシに安納芋・シモン芋はやられるし、ひどい目にあった。それはぼくらがわるかった。生ゴミ堆肥箱を管理できず、かなブンを飼育しているようなものだった。ネットを見ると、カナブンの幼虫は「1匹見ると10匹おると思え」といわれるそうですが、地中にいるからでしょう。でもきょうは薄く土を掻いてはとり、掻いてはとり、を延々としました。黒い土の中に白い幼虫がいるのだし、すばやく土にもぐったりしないから、90パーセントはとったでしょう。途中から交代した道子さんが大働きでした。ぼくは火葬係りにまわりました。
 
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ゴボウの種を播きました。

2013年03月24日 03時46分24秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                 
 大豆畑トラストで畑をつくっていたときは、45センチ幅のコンパネで[コ]の字型の枠をつくり、ゴボウの種を播いていました。枠の畑の土が薄かったので、ゴボウは真っ直ぐ下に伸びて田んぼの粘土層に当った後、直角に横に曲がっていました。三木市口吉川町に引越してからは、ウッドデッキ前の菜園にやはり45センチのコンパネでゴボウの枠をつくり、そこに種を播きました。しかし枠は3年目には腐ってくるし、いつとはなくつくるのをやめてしまい、ゴボウは買っていました。
 でも家でつくるゴボウは、色白でおいしい。道子さんは、やっぱりゴボウをつくりたいと思い、畑のほうに去年ゴボウの種播きをしました。肥料袋の底を抜き、土を入れて円筒形の畑にします。これを3つ畝の上に並べて種を播いていました。それが順調に芽を出し、根を伸ばして2年目になりました。
 でも広い畑で野菜をつくっているのですから「ゴボウをつくるなら本格的な枠をつくりたい」。それには「アゼ板」がいい。ホームセンターのアゼ板は、幅[120センチ]×高さ[30センチ]・[40センチ]のなみ板が多く、JA豊地にもそれしかありません。ホームセンター「ナンバ」には高さ60センチのアゼ板が置いてあるので、それを4枚買ってつなぎました。
 このアゼ板は「草刈り歯が当たっても大丈夫で10年はもつ」と宣伝文句にありますから、プラスアルファー(もつ)とすれば、「生きてるうちは大丈夫」でしょう。4枚つないで120センチ×4=480センチ。それを[U]字型に畝の上に置いて、[4,5センチ角×1メートル]の垂木を8本打ち込んで支えました。粘土層までは40センチ以上田んぼの土があるし、上に50センチ土を入れたら90センチくらいのゴボウはつくれるか。
 収穫はコンパネで土を止めているほうの口を掘ります。連作できないから[U]字のアゼ板を移動しながらつくることにします。アゼ板が横にふくらむ「おそれ」がありますが、そのときは補強板を垂木にビス止めします。
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「することがいっぱいある」。たのしみです。

2013年03月21日 05時36分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 急にあったかくなって、寒さで縮かんでいた雑草が「ワッ!」と生えてきました。写真は、ホトケノザに似ているヒメオドリコソウです。「これから伸びてやるぞ!」草が気迫を放射しています。畑に行って草抜きをしようと思うのですが、雨が降ったりするとつい裏山のほうに足が向いてしまいます。
 さて、小屋の屋根を直さねばならなくなりました。2008年3月に、[3メートル×6メートル]の小屋を、足場パイプを柱にして建てました。屋根にはコンパネを張り、その上にルーフィングの下地シートを張っただけで防水していました。それが劣化して強風で剥がれたのです。また下地シートを張り、ホチキスで止めることにします。その上にトタン波板を張ればいいのですが、どうするかまた考えます。
「冬になったらウッド・デッキにキシラデコールを塗ろう」そう思って3年たってしまいました。いや4年かな。とにかくしばらく塗った記憶がありません。もう限界です。春になってからでも、とにかく今年は塗ります。ペーパーをかけて少しずつでも塗っていきます。
 〈断・捨・離〉という言葉が流行り、モノをどんどん捨てて片付ける風が我が家にも吹いていました。どうもその風が最近弱まって、またモノが溜まりかけています。小屋の大工道具の棚も。衣類も。文具も。本も。それに引越しのとき思い切り捨てて、少しだけ屋根裏部屋に持ってきた本も、いまでは「お荷物」になっています。
 例えば『原色・日本の美術』ですが、初版本をたしか昭和42年頃にとりました。あれからずっと我が家にあり、捨てられないでいるのですが、実は引越してから6年間、一度も開いて見ていません。これから見るつもりもありません。だったら捨てればいいのに、まだ捨てる気になれません。
 考えてみると、家の中にも、家のまわりにも、裏山にも、畑にも、することがいっっぱい。
 それを《たのしみ》と思うことにします。
 
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森山啓『谷間の女たち』を読んでいます。

2013年03月20日 03時34分35秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                 
 きょうは「春分の日」ですがいま午前2時。日の出がどうなるかわからないので、前日19日朝6時半の写真をアップします。太陽が昇って少したったところです。「きょうはどんな遠望だろう」と想像して毎朝シャッターをあけます。きのうは春霞の朝でした。
 図書館で本を漁るとき、書棚の間を歩いて、何気なく知らない本に手にし、借りることがあります。そんなふうにして借りた本に、小説家・森山啓の『谷間の女たち』という本が入っていました。読み飛ばすのがためらわれる本です。じっくり読みます。
 
 森山 啓 明治37年新潟県生まれ。戦後は石川県で作家活動を続け、1991年没。(87歳)この作品は1989年単行本として新潮社より出ていますが、彼が作品として書いたのは1972年(68歳)のときです。
 彼の母は、あまり豊かでなかった商家の7女として生れ、かたい蕾のうちに片づけられた。14歳で父と結婚し、15歳で子を産み(兄・茂造)……。
 彼の母は27歳、次男の森山啓が小学校2年生のときに、子どもの看病に疲れてうつ病になり、自殺しています。その描写を、森山啓の文の〈強さ〉に圧倒されながら、読んでいるところです。引用します。

 
 父は、その夜は、母の様子が怪しいため、未明まで一睡もしなかった。夜明け近くにも、母は寝床から這いだして、狸寝の父の寝息をうかがいに顔を近づけた。父は、睡魔に打ち克って看視しようとした。母は、台所へいって飯を焚きはじめた。柴がパチパチはじけ燃える音に、何となく気がゆるんだ父は、ウトウトと眠りこんでしまった。母は、煙を抜くために小窓をあけて飯を焚きあげ、火の始末もしてから、台所のひろい板の間に、あたらしい筵(むしろ)を敷き、その上に正座して、裾が乱れぬように両膝を紐でくくり、日本剃刀(にほんかみそり)で喉笛をかき切った。鮮血にまみれた右手に剃刀を持ったまま横ざまに倒れ、伸ばした二の腕に右頬を寄せて、母の生命の火は消えた。板の間をじかに汚さぬように筵をしいたり、裾が乱れぬように両膝を紐でくくったまま横倒れに絶命した点、明治の女らしい最期だった。

 生きる力の源泉の涸渇がはじまった母の危機を前にして、今のぼくなら必ず、普通のバランスの取れた三食のなかに、ビタミンB1も多い蜂蜜やガーリック、またはレバーや葱や玉ねぎ、カルシュームも多い昆布か若め、又は牛乳かチーズ、白魚かゴリ、野菜、果物などを適度にあしらって、過剰にならぬように毎日食べてもらうだろう。そして精神的にも、屈託せぬように、心のふれあう楽しい話題をもち出し、意味のすらりと通った母の短歌の、いささかの長所をほめもして、肩を抱きながら、日光のある野外の散歩へ誘いだし、もどれば足腰まで揉んで入浴させ、一家団欒のなかで安眠してもらうにちがいないのだ。 (中略)
 けれども、小学二年生の無知な僕には、疲れ果てた27歳の母が、痛みを訴える肩や腰を、毎にち懸命に拳でたたく以外に何ができただろう。

 僕の母恋いの、異常な彷徨がはじまった。
 高岡市中の、自家から遠い関野神社や、商店街の御旅屋(おたや)通りや、高岡駅などを、浮浪児のようにうろつきまわって、27、8歳と思われる女を見かけると、いちいちその顔をながめ、ときには犬のように追いかけていって、ふり返ってながめた。母に似る女はいないか、どこかに母その人が、しょんぼりと歩いてはいないか。駅のベンチに、母その人が、髪も乱れてぼんやりと腰かけていそうにも思われた。まだ科学的な物の考えかたができなかった僕には、母の自殺後の行くえが、まったく不可解だった。高岡のどこかを、母が迷いながらさまよっているような気がした。


 偶然手にした本です。図書館ではときどきこんな風に「本と出会います」。

 
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みなさん、『火の用心』をしましょう。

2013年03月18日 01時02分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                    
 母はショート・ステイ、ぼくたちは「蟹と仲良し」旅行をしている間に、すぐ近くで山火事がありました。消防車が三木と吉川の消防署から来るし、うちの村・両隣の村の消防団が来るし、パトカーは来るしという「山火事」だったそうです。
 きのう散歩で焼け跡を見に行きました。下草が燃えています。立ち木や竹も燃えています。燃えた幅は50メートルくらいあるでしょうか。何十年も前に購入した宅地を見に来た人が、自分のところの枯草を燃やそうと火をつけたら、燃え広がったそうです。風向きによってはうちだって危なかったでしょう。ぼくは裏山で焚き火をするので、「火の用心」はしています。これからはさらに気を配って焚き火をします。
 うちでは焚き火をするときは、そばに水道のホースを引っ張ってきて、元栓を開けておきます。もし火が広がりかけたらすぐに水をかけられるように。なんといっても初期消火です。
 それにしてもぼくの留守に火事があったのか。残念だったなあ。地域貢献もしたかったし……。
                   
 このところシイタケがバンバン採れます。ある日採れたシイタケを皿に盛って、田舎の景色をバックに記念撮影しました。今年購入した10本のホダ木はまだ伏せて、ときどき水をかけてます。
 そうそう、これから陽射しが強くなるので、ホダ木置き場の上のカバーも修理しなければ。風で遮光ネットが飛んでしまいましたから。
 することがいっぱいあるけど、命令されてやるのでなく「気の向く仕事を気の向くペースでやる」のがたのしいです。
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ブルックナーの交響曲第9番を聴きました。

2013年03月16日 04時57分14秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                 
 2010年1月、裏山の竹薮を<皆伐>したときの写真です。10メートルほどの細い幅でしたが、とにかく竹薮の竹を切り倒して頂上を目ざしました。下に見える平屋が我が家です。その手前には伐採した竹が積み上がっています。竹より背が高くて生き残ったクヌギ・コナラの林の向こうに、冬の西日があたる田舎の遠望。
 びっしり生えた竹林に新しい世界が拓けた気分でした。
 あれから3年しかたっていないのか。いまもこのスペースは生えてくる竹を全部切り、この空間・眺めを確保しています。
 さてきのうはPACオーケストラの定期演奏会があり、西宮芸文センターまで出掛けました。
 日が長くなったので車で直接行ってもいいのですが、長年住んだ神戸の名谷に車を置き、<地下鉄・阪急>で行きました。この行き方になれてくると、少々費用と時間が余分にかかっても自分で車を運転して行くのがおっくうになります。「頑張らない」のが「いい老い方」だと思っています。
 きのうのプログラムは、まずヴォーン・ウィリアムズの『オーボエと弦楽のための協奏曲』でした。弦楽だけのやわらかい音に、オーボエののどかな音がのり、実にいい気持ちです。完全に眠っていました。でも耳と魂は、休んだりしないで聴いてくれていたでしょう。
 ブルックナーの交響曲第9番は1時間ちょっとの大曲です。CDで全曲を聴くのは難儀ですが、生の演奏だと張りつめた気持ちで聴けました。いい音を浴びて気持ちよく帰りました。
 
 
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ひどかった竹薮に手が入っていました。

2013年03月14日 04時16分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                  
  <松葉蟹> のシーズンが終るまえに、一泊で蟹を食べる旅をしました。行き先は城崎。
 このたびは舞鶴道から和田山に出る道でなく、中国道を西に走り、福崎から播但道に入って和田山に出ました。なぜそのルートを走ったか。「フレッシュあさご」という播但道のパーキン・グエリアで、「放置竹薮」を見たかったからです。
 パーキング・エリアは、高いところから、一般道・民家・裏山を見下ろすようになっています。問題は「裏山の竹薮」です。数年前通ったとき、竹薮は民家におしかぶさるように盛り上がっていました。おそらく竹薮に危機意識を持たない人でも、あれを見ると「これはひどい!」と思うでしょう。
 で、「あの竹薮はいまも放置されているのか」。
 写真のように「皆伐」されていました。
 左に少しだけ残っていますが、急な斜面の竹が全部切られ、そのあとに雑木が生えています。大変な作業だったでしょう。タケノコが生えてくるので、毎年維持するのも手が掛かります。でも頑張っておられるようです。
 数年でいい眺めの雑木林になるでしょう。応援してますよ。
 12日は朝から「蟹の旅」に出るつもりでしたが、「苗木を裏山に植えておこう」と少しだけ作業をしました。でもだんだん作業に熱が入り、出発は11時になってしまいました。力を込めて土を掘ったりしはじめると結構たのしい。道子さんも「土いじりしてると、わざわざ出掛ける気がしない」といいます。
 家でなにかしてるのが一番たのしい。ほんとうは、それが <しあわせ> なんでしょうね。
 
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『聴いておきたい究極のクラシック80曲』という本

2013年03月12日 04時06分20秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                  
 我が家の庭先から山のほうに人家はありません。ゆるやかな坂道を100メートル登ると、<山の田んぼ>があります。ここは田んぼと土手ばかりで、電柱も立ってない広々したスペースです。写真の農道を200メートル進み、突き当りを右に100メートル下ると我が家です。
 この道に先日、電気柵がつけられました。両側の支柱が見えるでしょうか。2年前からイノシシが出没して稲田を転げまわるので、田んぼに入らせないためです。
 東条図書館で借りた『聴いておきたい究極のクラシック80曲』(珠玉の小品ガイド)という本を「買って手元に置きたい」と思い、<book off> に注文しました。夜中に起きたとき <you tube> でヘッドホンで聴きながら、見開きページのその曲の解説を読むのにちょうどいい。
 またその解説がいい。ほとんど全部知ってる曲ですが、「この曲にはそんな背景があったか」と思ったり、「そうだったなー」と共感できるのです。著者を見たら「宮本英世」という人で、1937年(昭和12年)生れ。ぼくと同い年。「もう本は買わないことにする。タブレットで購入して読む。図書館で借りる」。そんなつもりでタブレットにしたのに、やっぱり本が欲しくなって買ってしまいました。
 本は20年前の1993年・音楽之友社発行で、著者は東京・池袋で名曲喫茶「ショパン」を経営していると書いてあります。
 "名曲喫茶"? そんなもの、いまでもあるのでしょうか。
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『口吉川地区・戦没者追悼』の式に参加しました。

2013年03月11日 06時46分37秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                   
 きのう・3月10日(日)『口吉川地区戦没者追悼式』があったので、黒い服を着て参加させてもらいました。こんな会があるのを知ったのは「口吉川町公民館だより」です。「小学校裏の<忠魂碑>前で行う」とありましたが、天候不順で公民館の大会議室(体育館)に変更されていました。
 散歩して、墓碑の先端の尖った「戦死者の墓」を見かけると、消えかかった文字を読もうとしたりしてきました。でも各地の「遺徳顕彰会」が戦没者追悼式を行っていることに注意が向きませんでした。敗戦後営営と続けられて、いま消えかかっている式なんですね。
 三木市の「遺徳顕彰会会長」は市長で、役所の人たちや議員が来賓として列席し(写真左の来賓席)、口吉川町の各地区長や消防団役員などが列席し(正面向き左側の席)、遺族は右側の席になっていました。ぼくは右の遺族席にすわって式を見守りました。
 みなさん、おごそかに小声で献辞を述べられるのでよく聞えませんでした。昭和20年代から延々と続いている行事で、遺族の参加が年々少なくなり、10人余りだったでしょうか。
 このブログでは「あの戦争」のことをときどき書いています。口吉川町殿畑を散歩して、戦死した兵士の墓が三つ並んでいるのを見たとき、スピルバーグのアメリカ映画『プライベート・ライアン』を思い出しました。

※ <映画のあらすじ>  ライアン家では三人の兄弟が出征。相次いで戦死した。そのたびに戦死の公報がライアン家で待つ母親に届けられた。「一家の男兄弟3人が戦死し、4人目もヨーロッパ戦線で<ノルマンジー上陸作戦>に参加している。もし4人目が戦死すればライアン家には子どもがいなくなる」それをたまたま知った軍・上層部のはからいで、「〝この兵士を守る〝という特別任務の8人の部隊が秘密裡に編成された」。それが<プライベート・ライアン>であった。……。冒頭の「映画史に残る」といわれるノルマンジー上陸作戦・戦闘シーンには圧倒されます。
 
 殿畑の戦死者の墓碑は〝三人兄弟〝ではありませんでした。(それぞれ親の名前が異なりました)この戦死者たちの生前を知る方に話をききたいと老人会長さんにお願いしていたのですが、それが叶うことになりました。追悼式のあと、その方を紹介していただきました。近く訪ねます。
 
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老人クラブで話し合いました。

2013年03月10日 01時38分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                   
 妙子さんは朝日をあびて花バサミの入ったカゴをかかえて、裏山に出掛けます。そして竹の枝を切るときは見事にその「仕事」に没頭します。ケア・マネージャーの方にその姿を見てもらったら、「ほんと見とれてしまいますね」といわれました。あまり「字を読んだり書いたり」しなくなった妙子さんには、これが夢中になれる「仕事」です。裏山に感謝です。
 うちの村の「老人クラブ」も役員交代の時期になり、きのうは「みんなで協力しましょう」と話し合う会をもちました。PTAの役員・町内会や村の役員・老人クラブの役員などを <選出する時期> ですが、どことも苦労があるようです。この苦労が生きて、組織が生きて働きますように。
 ぼくはまた「会計係り」をすることになりました。公民館まわりの掃除とかグランド・ゴルフのとき「おやつ」を買ったりする「係り」だと自分では思っています。老人になっても「おやつを買う」のは「たのしい仕事」ですね。ワクワクする初心を忘れず頑張ります。
 話し合いのあと畑仕事をして、イチゴの黒マルチをかけおわりました。
 雑草が勢いづいてきました。ナズナ・オオイヌノフグリ・オランダミミナグサ・スズメノカタビラ・ホトケノザなどが目立ちます。これから電気柵の下の草も伸びてくるでしょう。
 また春が来て、春の仕事が待っています。
 元気に春を迎えたことを感謝して、畑仕事に精を出します。
 

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春です。畑仕事をしました。

2013年03月07日 02時15分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ちょっと寒いと散歩を「お休み」にするのですが、きのうは天気に誘われて周回道を歩いてみました。ずっと寒かったのにもう土筆(つくし)が生えています。もう少し伸びたほうがハカマをとって茹でやすいので、数本だけ摘みました。今年も孫たちが来たら「土筆摘み」をしましょう。
 午前中から畑に出て、まずジャガイモを植えました。畝はつくって黒マルチをかけていたのですぐ植えられます。4月上旬までは霜が心配なのでまた黒マルチをかけておきます。
 その後ぼくは草刈りの足場を直しました。この畑の土手を刈るようになって6年目になります。足場の板が細く感じられるようになったので、少し太い木材に取替えました。といってもこれも製材所(元)の廃材ですから腐り掛けています。次は足場が先にへたるか80歳を越える刈る人が先にへたるか。
                 
 実は先日から「無施池」の水が抜いてあり、底のほうにわずかに水が残っていました。水を抜くのは数年ぶりです。(前回はぼくがヌートリアの檻を仕掛けたときでした)村の係の人がドライバーを借りに来られ、「鯉や亀がおります」と知らせてくださいました。そこで道子さんに声をかけ、カメラを持って見に行きました。50センチ超の大きな数匹の鯉が泥のなかではねています。亀やザリガニもいます。写真に撮ったのにうまく写りませんでした。残念! で、仕方なくいつものこのアングルの写真ですみません。
 春になりました。畑仕事に精を出します。
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