きょうは「春分の日」ですがいま午前2時。日の出がどうなるかわからないので、前日19日朝6時半の写真をアップします。太陽が昇って少したったところです。「きょうはどんな遠望だろう」と想像して毎朝シャッターをあけます。きのうは春霞の朝でした。
図書館で本を漁るとき、書棚の間を歩いて、何気なく知らない本に手にし、借りることがあります。そんなふうにして借りた本に、小説家・森山啓の『谷間の女たち』という本が入っていました。読み飛ばすのがためらわれる本です。じっくり読みます。
森山 啓 明治37年新潟県生まれ。戦後は石川県で作家活動を続け、1991年没。(87歳)この作品は1989年単行本として新潮社より出ていますが、彼が作品として書いたのは1972年(68歳)のときです。
彼の母は、あまり豊かでなかった商家の7女として生れ、かたい蕾のうちに片づけられた。14歳で父と結婚し、15歳で子を産み(兄・茂造)……。
彼の母は27歳、次男の森山啓が小学校2年生のときに、子どもの看病に疲れてうつ病になり、自殺しています。その描写を、森山啓の文の〈強さ〉に圧倒されながら、読んでいるところです。引用します。
父は、その夜は、母の様子が怪しいため、未明まで一睡もしなかった。夜明け近くにも、母は寝床から這いだして、狸寝の父の寝息をうかがいに顔を近づけた。父は、睡魔に打ち克って看視しようとした。母は、台所へいって飯を焚きはじめた。柴がパチパチはじけ燃える音に、何となく気がゆるんだ父は、ウトウトと眠りこんでしまった。母は、煙を抜くために小窓をあけて飯を焚きあげ、火の始末もしてから、台所のひろい板の間に、あたらしい筵(むしろ)を敷き、その上に正座して、裾が乱れぬように両膝を紐でくくり、日本剃刀(にほんかみそり)で喉笛をかき切った。鮮血にまみれた右手に剃刀を持ったまま横ざまに倒れ、伸ばした二の腕に右頬を寄せて、母の生命の火は消えた。板の間をじかに汚さぬように筵をしいたり、裾が乱れぬように両膝を紐でくくったまま横倒れに絶命した点、明治の女らしい最期だった。
生きる力の源泉の涸渇がはじまった母の危機を前にして、今のぼくなら必ず、普通のバランスの取れた三食のなかに、ビタミンB1も多い蜂蜜やガーリック、またはレバーや葱や玉ねぎ、カルシュームも多い昆布か若め、又は牛乳かチーズ、白魚かゴリ、野菜、果物などを適度にあしらって、過剰にならぬように毎日食べてもらうだろう。そして精神的にも、屈託せぬように、心のふれあう楽しい話題をもち出し、意味のすらりと通った母の短歌の、いささかの長所をほめもして、肩を抱きながら、日光のある野外の散歩へ誘いだし、もどれば足腰まで揉んで入浴させ、一家団欒のなかで安眠してもらうにちがいないのだ。 (中略)
けれども、小学二年生の無知な僕には、疲れ果てた27歳の母が、痛みを訴える肩や腰を、毎にち懸命に拳でたたく以外に何ができただろう。
僕の母恋いの、異常な彷徨がはじまった。
高岡市中の、自家から遠い関野神社や、商店街の御旅屋(おたや)通りや、高岡駅などを、浮浪児のようにうろつきまわって、27、8歳と思われる女を見かけると、いちいちその顔をながめ、ときには犬のように追いかけていって、ふり返ってながめた。母に似る女はいないか、どこかに母その人が、しょんぼりと歩いてはいないか。駅のベンチに、母その人が、髪も乱れてぼんやりと腰かけていそうにも思われた。まだ科学的な物の考えかたができなかった僕には、母の自殺後の行くえが、まったく不可解だった。高岡のどこかを、母が迷いながらさまよっているような気がした。
偶然手にした本です。図書館ではときどきこんな風に「本と出会います」。