古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

もう埋もれてしまったのですね。『おひさま』を見て。

2011年07月30日 08時37分09秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 長さ180センチの低い長いすです。四年前に道子さんのリクエストでつくりました。うねの草を抜いたり追肥をしたりするときに、すわっておしりをずらしながら作業できるスグレモノなのですが、上のプラダン(プラスチック段ボール)がぼろぼろになったので張替えました。いまはぼくがときどき使う程度ですが健在です。
 さてNHKの朝の連続ドラマは、退職した頃に『あぐり』というのをやっていて、よく見てました。以来見ていなかったのですが、『ゲゲゲの女房』は見ました。ぼくの郷里山陰が舞台でしたし、水木しげるの戦争体験や彼の書いた文になじんでいましたから。
 いまの『おひさま』は、戦時中、そして戦後が舞台になっているので見ています。でも「明るくたのしければいいってもんじゃないだろう」と反発する気持ちが頭をもたげます。そして「あの戦争も、あの時代の様子もすでに歴史に埋もれてしまったんだなー」と感じています。
 ドラマでは兄の春樹だけが戦死したことになっており、あとの男たちは無傷で復員し、心に負った傷も見せず明るく生きています。陽子は敗戦後も勤めたまま妊娠・出産して、小学校の教員をつづけています。夫が赤ん坊をおんぶして、授乳のために連れてくる。働く女性の気概と夫の並々ならぬ協力を描くつもりでしょうか。
 高田なほ子(1905年<明治38年> ~ 1991年)という参議院議員がいました。彼女はあの戦争前、小学校の教員をしており、結婚・出産しました。のちにその体験を本に書いています。
 女性教員の産休が認められるようになったのは敗戦後、女性議員が誕生して発言するようになってからです。それまでは教員に産休はありませんでした。生れる日まで勤め、お産でわずかに休む数日は学級を解体して生徒たちは机とイスをさげてよその教室に行かされました。女性は、自分の学級の生徒たちがお世話になる先生方に、一席をもうけてお願いするのがならわしでした。
 中国を舞台にしたパールバックの小説『大地』には、畑で仕事をしていて産気づいた女が、家に帰って赤ん坊を産み、処理をしてふたたび畑に出て働くすさまじい場面が冒頭にありますが、同じような状況でした。高田なほ子さんは臨月になっても学校に出ていましたが、冬のある日お腹が痛み、一人で帰宅しました。しかし途中で産気づいて雪道に倒れてしまいました。学校出入りの文具屋さんが通りかかり、文具屋さんの家で「先生のくせにはしたない」としかられながら出産しました。
『産休』の項目でネットのやりとりを見ると、いまだに「先生の産休はけしからん」とか「要領よく休まれてうちの子に迷惑がかかる」とかいう親の投稿が見られます。自分もお産をしたのに人のお産に冷淡なようです。でも女性が産休をたたかいとり、育児休業をたたかいとるまでには長く、苦しいたたかいの歴史がありました。男女同一賃金とか選挙の投票権を手にするまでのたたかいと同じように。当時の状況を伝え、思いを伝えるとてもいい機会だったのに、こんなにやさしく、善意にあふれた人たちだけが出てきていいのでしょうか。
 若い頃に読んだ本を思い出しながら見ているとドラマが絵空事にみえてきます。それも年寄りのくりごとで、いまはやっぱり「明るくたのしい」のがいいのでしょうか。過去の苦しみは、歴史の落葉に埋もれてしまい、もうかえりみられなくていいのでしょうか。
 
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老人クラブのイス運搬機です。

2011年07月27日 05時00分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
              
 うちの村の老人クラブは、名簿上のメンバーは50人いるのですが(60歳以上)活動に参加する人は一桁です。だからぼくも貴重な戦力になります。というわけで今年は老人クラブの役員の端くれになりました。会計係です。グランドゴルフのときにおやつやお茶を用意するのも仕事です。
 きのうはグランドゴルフ大会があって、先日6人分のおやつを買いに行きました。遠足のおやつを買う小学校一年生のようにワクワクします。店の手押し車を押して見てまわり、あっちの品物をカゴに入れたり、こっちの品物を入れて前の袋菓子を戻したり、時間を掛けて納得する買物ができました。
 またうちの村のクラブ長にいわれていた携帯イスも買いました。写真のイスを6脚。少し大きめの鉄製パイプのイスなのでちょっとした重さになります。そこで運搬機もつくりました。ちょうど6脚入る木製の箱をつくり、旅行の荷物を運ぶ運搬機にとりつけました。黄色のペンキを塗ったのでよく目立ちます。多少とぼけるようになっても「あー、これだこれだ」と思い出せるように配慮したつもりです。
 末長く役立ってね。
 
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クロメンガタスズメ蛾の終齢幼虫です。

2011年07月26日 03時14分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 ゴマの葉にはこの幼虫がついて、葉っぱをバリバリ食べまくります。これはサナギになる前の終齢幼虫ですが、体はまだまだ大きくなります。体を縮めて眠っていてもそばの単三電池くらいの太さがあり、色は鮮やかで、幼虫の中では最大級だし、人気というか、注目というか、があります。
 これはクロメンガタスズメという蛾の幼虫です。クロメンガタスズメという蛾は蝉と同じくらいの大きさで、ブログによっては『人面蛾』と書いてあります。止まっている羽の模様が髑髏(ドクロ)に似ているので『髑髏仮面』という人もいます。おまけにこの蛾は「鳴く」そうです。ブログによっては「幼虫も鳴く」と書いてあります。かように異彩を放つ幼虫ですから、〝you tube" にもヒキガエルに食べられてる動画とか葉っぱを食べる動画がアップされています。
 むかーし、むかし、高校生だった頃、『虫めずる姫ぎみ』というのを国語の時間に習いました。なんでも毛虫や蚕(かいこ)の好きな身分の高い姫がいて、侍女たちが気味悪がるような話でした。その姫がクロメンガタスズメの幼虫を見たら、手足をバタバタさせてよろこぶでしょうね。おまけにその虫が鳴いたりしたら、卒倒しそうなほどうれしがるでしょう。なんという世界だ。
 ぼくは、“虫愛ずる”ほうではありませんが、でももしぼくが夜盗虫だったら、あの強烈な存在感に魅かれ、白鳥に憧れる醜いアヒルの子のように、クロメンガタスズメの幼虫に見とれるかもしれません。
 さて問題は『糞』です。この幼虫は体が大きいから葉っぱもたくさん食べます。そして実にたくさんの糞をゴマの葉っぱの上にします。この幼虫を捕殺しようと思うなら、葉っぱの上の糞をさがして歩けば見つかります。その糞ですが、直径二ミリ足らずで丸く、黒い色で、コロコロしています。丸い糞には模様のようなスジが入っています。それが乾燥して縮むとちょうどゴマのように見えます。
 ゴマは1,5メートルくらいの高さになり、根元から上までたくさん葉っぱがつきますから、少々食べられても平気です。しかしゴマを収穫するときに、乾燥した糞が混じると黒ゴマと区別がつきません。道子さんは黒ゴマはつくらず、金ゴマばかりをつくり、最後にはピンセットで糞を選別します。黒ゴマは終生作らないでしょう。
でも糞は混じらないほうがいいので、この幼虫はできるだけ捕殺しています。
 台風のあと雨が降らないので、40ミリホースにつけかえて畑に水をまきました。水をやりかけるとどれも水を欲しがっているように見えて、あっちにもこっちにもということになり、ホースと格闘です。疲れました。
 
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愛宕さんのお祭りにお参りしました。

2011年07月25日 02時46分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 きのう(7月24日)は裏山の『愛宕さん』のお祭りでした。お祭りといっていいかどうか、とにかく年に一度灯明を上げて、村人がお参りする日でした。裏山には『祇園さん』と『愛宕さん』の祠(ほこら)があり、7月14日が祇園さん、24日が愛宕さんなのです。ついでにいうと、参道から頂上の広場に出て、左側(西)が愛宕さん、右(東)が祇園さんだそうで、80歳を出た当番の方に確かめました。
 去年の年末に我が家の孫や娘たちが、一年の感謝をこめてお参りしたときの写真でごめんなさい。カメラはきのうも14日も持っていったのですが、夕闇でいい写真が撮れなかったものですから。写真は東の祇園さんの祠です。左50メートルほど先に愛宕さんの祠が小さく写っているのですが見えますでしょうか。
 なおマスクをした娘の後ろにある朽ちた柱は、祇園さんの祠です。去年の6月に石で新調する前は、この柱が立っているだけでした。いまもそばに置いてありますが拝む気持ちになれません。これでは村の人たちが先祖代々拝んできた祇園さんに申し訳ないから、素人大工で祠をつくろうかと思ったほどです。
 この祠の当番は10年に一度まわってくるそうです。二軒が当番になるのですが、まず数日前に参道をととのえます。草を刈り、参道に生えた竹を切り倒し、落葉を掃き、頂上までの道を確保します。道子さんの計算では参道のとりつきから頂上まで7階建てのビルの階段を登るくらいだそうです。この写真のときは孫たちの後を登りました。「滑るとあぶないからゆっくり登りなさいよ」とかなんとかいいながらおじいちゃん顔でついていこうとしましたが無理でした。頂上で走りまわっている孫を見て、同じ生き物という気がしませんでした。
 14日は当番の二人以外に二人の村人がお参りしておられ、ぼくら二人も加わって6人でおしゃべりしました。みんながワラを一束ずつ持ってあがり、それを尻に敷いてすわります。おしまいにワラを燃やして下りるのですが、乾燥したときだったので火はやめました。そのまま真っ暗な道を懐中電灯を頼りに下りてきました。きのうは、畑仕事のあとシャワーして着替えて二人で登りました。でも当番の方は「だれも来ないからしまって下りよう」とされているところでした。もう一度灯明のロウソクをつけてもらい、拝んでビールとおつまみのおさがりをもらって下りてきました。
 参道の入口で昔の祭りの様子をきくと、村人がたくさん登ってきてにぎやかだったそうです。田んぼの水の配分をここで話し合い、豊作を心から祈る場所でした。立ち話をしているところに区長さんが来られ、ふもとから拝んでおさがりをいただいて解散となりました。
 毎月16日の大将軍神社(畑の神さん)のお祭り、年に一度ずつの祇園さん・愛宕さんのお祭り、それに八幡さんのお祭りにはできるだけお参りしようと思っています。
 
 
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セスジスズメは今年もコイモの葉っぱを食べてます。

2011年07月24日 03時23分31秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
             
 朝露もコイモの葉っぱの上では水玉になってころころ転がりますが、写真中央のみどり色の卵はしっかりくっついています。「かわいい卵を一つだけそっと産んで、なんて奥床しい産み方でしょう。どんなかわいい虫になるでしょうか」なんて感慨にひたってなんかいられませんぞ。これがコイモの葉っぱをがばがば食べるセスジスズメ(幼虫)の卵なんです。
 どんな幼虫になるかというと、この写真です。(去年撮った写真にしました)いまも毎日数匹ずつ見つけては踏み潰しています。太さは鉛筆くらいで10センチ以上の長さです。素手でとる気がしないので手袋をして捕り、踏み潰すか水たまりに落とします。
             
 体が大きいから食べる量も多く、ひと晩で大きな葉っぱをごっそり食べてしまいます。ですから畑に行くとコイモの葉っぱの表面を見てまわり、この卵を見つけては指先ではじき落とします。地面に落ちたら卵はかえらない、と勝手に思っているのですがどうでしょうか。毎日10個や20個の卵をはじき落としていますから、それをしなかったらコイモなんか育たないでしょう。
 移植した大豆も黒豆もしっかり育っていますが、葉巻虫などがつきはじめています。道子さんがアセビの煎じ薬などとふりかけていますが、今年も豆は虫にねらわれています。うちで採った大豆や黒豆で煮豆をつくると味がちがいます。ぼくらがそう思うだけでなく、あげた人が異口同音にそういわれます。葉っぱやサヤにつくムシもおいしいと思うのでしょうね。
 去年道子さんは一生懸命世話をして小豆をつくりました。ところが夜盗虫なども大豆や黒豆でなく小豆のおいしさにひかれて寄ってきました。小豆は無農薬でつくるのは絶望的な作物です。蛾は茎に卵を産みつけ、ウジムシになってすべてのサヤに食い込み、おいしい小豆を食べまくります。そこで今年はなんとか蛾が卵を産みつけるのを防ごうと新作戦を準備中です。蛾類は地上120センチくらいの高さのところを飛んできます。そこで200センチの高さの防風ネットで小豆を囲んでみよう、という作戦なのです。防風ネットは4ミリ角の目のものを購入しました。2メートル×50メートルのネットで4000円程度です。蛾が「あそこにおいしい小豆がある」と目の色を変えて高く飛んだらこの作戦は失敗します。(天井はネットを張りませんから)
 とにかくやってみることにします。
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『森の湯』に入ると肩こりがらくになります。

2011年07月23日 04時21分46秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
             
 台風のあと、曇り空だったので朝から土手の草刈りをしました。この角度からの土手の写真を久しぶりにアップします。この土手の草刈りも四年目になりました。ぼくがとりつけた足場は打ち込んだ木の杭がガタガタしている箇所もあります。草に埋もれるまえに一度点検します。草刈りは4月から11月までは毎月するのですが、夏場の7、8月は二度したほうがいいでしょう。ムシ防除のために。
 それにしても草刈りをすると、小さい蛙がいっぱい跳びます。「こんなにたくさんの蛙が食べて生きていけるほど小さい虫が草むらにいるんだな」と感心します。虫もいっぱい飛んでいますが。
 草刈りは相当に疲れるのでその日はグリンピアの『森の湯』につかることにしています。ここの湯にひたると肩こりのブロックがはずれ、疲れがはやくとれる気がするのです。もっとも年をとると「きょうは草刈りをしたからあしたも疲れが残る」ほど単純でなく、「なんか疲れがたまった感じだなー。えーと、どんな仕事したんだったかなー」と湯につかって考え、「そうか。四日前に草刈りしたんだ!」と思い当たるほど折れ曲がっています。
 さて『森の湯』ですがグリンピアの無責任経営のつけを兵庫県が背負い、委託を受けた業者が背負い、いまは入浴券を出したりして顧客を獲得するために、まことに涙ぐましい努力をしています。その顧客獲得作戦にぼくらもハマっています。
 まず月曜日は夫婦の日。夫婦で行くと三枚たまると一枚の入浴券になる補助券をもらえます。火曜日はシルバーデー。600円が400円になります。(65歳以上だったかな)水曜日はファミリーの日。子連れ狼でないから関係なし。木曜日はレディースデー。女性にはなにかくれるらしいけど関心なし。
 金曜日は『くじの日』。もし10を引いたら入浴券がもらえるし、出た数字だけスタンプを押してくれます。この前はぼくが10を引いて入浴券をゲットしたし、その前は道子さんも10を引いた。だからこの日行くときは入浴券を使わず券を買います。さらに11日と26日は「いい 風呂 の日」で入浴券をくれます。スタンプカードは30回満タンになると入浴券を4枚くれます。
 また『落語の日』が毎月第二第四水曜日にあり、露の吉次さんとだれか新人落語家さんの落語をただできけます。これがなかなかおもしろい。閉店した畳の食堂がいつもいっぱいになるほど人気があります。落語をきいて湯につかる。下のレストランとタイアップしたメニューもあるようです。
 そんなこんなで田舎に移り住んだ頃は『よかたん』温泉によく行っていましたが、この一年ほどは『森の湯』によく行くようになりました。いまでは月に5回くらい行っています。『よかたん』には月に一度も行かなくなったかな。東条町の『とどろき荘』も車で10分ほどですが年に一度か。『ぽかぽ』のほうによく行くかも。『ゆぴか』『湯庵』も年一くらいか。温泉好きですから神戸に住んでいたときは『しあわせの村』の温泉によく行きましたが、田舎に暮らすようになってからは『森の湯』で一件落着したようです。
 
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しずかに、隠れるように、うずくまるように、生きるのも大事なことかも。

2011年07月22日 03時49分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
              
 背の高さより高く積み上げていた古い竹の山を片付け、写真のような通路を出現させたことはブログに書きました。横はシイタケのホダ木置き場です。この写真から二ヵ月半。いまこの通路はどうなっているかというと、もう通れません。竹や笹が繁り、向うも見通せません。竹薮の勢いはやっぱりすごい。脱帽します。
 さて『白寿』をお祝いした妙子さんは、先日20枚ほど暑中見舞いを出しました。といっても庭で撮った自分の写真と印刷した文で「元気に暮らしております」と書いただけのハガキでしたが。その反応がぼちぼちあり、考えさせられました。「長生きはめでたいことだから『白寿』を祝ったという暑中見舞いは、もらったほうもよろこんでくれるだろう」というのはぼくの勝手な思い込みでした。
 90歳近い男性からは電話がありました。「ハガキをもらったけど返事はよう書きません。昔はさっそうとしていましたが、いまでは背中が曲がり、腰が曲がり、両手に杖をついて歩いています。だから下ばかり見て歩き、前が見えず、外に出られません。電話でもしようと思い、そのことを忘れ、また思い出し、また忘れ、やっといま電話しました。」
 その電話を、妙子さんは耳が遠くて聞えないから、ぼくが聞いて妙子さんの耳のそばで大声で伝えました。また93歳の女性の娘さん(ということは70歳くらいの人でしょうか)からは「母は、私も暑中見舞いを出したい。誰に出したらええか。名簿はないか。どんな文を書いたらええか考えてくれ。」と孫に頼み込んでいるとメールがありました。
 人騒がせなことをしてしまいました。おそらく暑中見舞いが舞い込んだ高齢の方々は、「ほーう。あの人も元気に長生きしておられるか。結構なことだ」とは思わなかったでしょう。どう反応するか困惑されたのではないでしょうか。
 長い人生の終着駅近くでは、「しずかに、隠れるように、うずくまるように」存在することを願っておられる方もいるでしょう。そこにわざわざ「老いの発信」を押しつけるようなことは遠慮したほうがいいかもしれません。発信する立場にばかり目が行き、受信する者は「どう反応すればいいか」に気くばりができませんでした。
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気合を入れて草刈りをします。

2011年07月21日 00時13分13秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
             
 この写真は去年の畝間潅水です。ちょうど今ごろ第一回の畝間潅水をしています。太いほうのパイプを全開して、田んぼのように水を入れます。いわば畝間を全部水びたしにしています。写真でいえば右上の丸い水栓から畑の全部の畝間を水が流れ、手前の溝から外に流れています。
 今年はちょうどいい時期に台風が来て、畝間潅水をしなくてすみました。それとこの畝間潅水をすると、下のおうちの畑が水びたしになるのです。この田んぼは水が漏ってしまい、水を支えきれません。そこで今年は太いパイプでなく、40ミリのパイプで畝間ごとに走り水をする部分畝間潅水にします。今年は大豆、黒豆などの畝が水栓に近いのでやれそうです。
 大豆・黒豆の苗を移植し、水をやり、畝間の草を削ったりレンゲ堆肥の切り返しをしたりで、7月の草刈りが遅れていました。きのうの夕方から土手の草刈りに手をつけました。畑のまわりの土手内側を幅1メートルの遊歩道にしているのですが、そこを刈るとバッタなどいろんなムシがいっぱい飛びます。「ムシの巣窟になってる。こりゃー、草刈りに気合を入れないと大豆などがムシにやられるぞ!」と思いました。
 鳥取県の浜村温泉の近くに鹿野温泉があり、国民宿舎の山紫苑があります。そこに泊ったとき、おいしいと評判のお米を売っていました。「毎月2回畦の草刈りをして減農薬でつくっている」と書いてありました。いま(7月20日)に刈る。15日たった8月5日に刈る。そしてお盆過ぎの8月20日に刈る。9月5日に刈る。……。なかなかきびしいですなー。
 去年の冬植えた彼岸花の球根が二年目の今年は増えているはずで、10月はじめには咲くでしょう。だからお彼岸過ぎに草を刈ると土手に映えるはずです。草刈りに精を出すことにします。なお道子さんはアセビを煎じてそれでヌカを練り、『アセビ団子』をつくって畦間や草むらに置いています。それが食べられているのでコオロギなどが食べているものと思われます。
 コイモの葉っぱを食べるセスジスズメは相変わらず出没しています。鉛筆大の太さのムシも毎日のように見つかり、見つけ次第踏み潰しています。ゴマが生長し、50センチを越えてきました。もうすぐ100センチを越え、150センチくらいになります。そして鉛筆の太さのクロメンガタスズメガの幼虫がとりつきます。これは見るとゾクッとするような姿をしています。いまネットで調べたらこんなかわいい質問をしている人がありました。
「ゴマにつく大きな幼虫はアゲハチョウになるのでしょうか。もしそうなら近所の子にあげようと思います」⇒『クロメンガタスズメガ』とちゃんと答えている人がいました。この幼虫はフンをし、それをゴマと選別するのは大変なのです。だから道子さんは黒ゴマをつくりません。金ゴマをつくって、最後はピンセットで選別します。なおぼくらがご近所を散歩して自家菜園を見まわっている範囲では、このあたりで今年ゴマをつくっている人はいません。わずかに東条町のとどろき荘の裏に一軒。
 有機無農薬で家庭菜園をやる人には、草もムシも勢いの盛んになる夏です。
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ハスの花が咲きました。

2011年07月20日 00時03分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 17日(日曜日)は、同じ口吉川町内の善祥寺でハスの祭りがありましたが、畑仕事が忙しくて行けませんでした。でも三年前に善祥寺でいただいた『天上漣』が今年はつぼみをつけました。そのつぼみを入れて、我が母・妙子さんの写真を撮りました。
 妙子さんは98歳になるので、この世には知人がほとんど居残っていません。それでもいくらかの文学仲間や子らや兄弟に暑中見舞いを出そうと思いつき、写真を撮ったというわけです。写真と文を入れたはがきに、「暑いですね」とか「お元気でね」とか一言自筆で書くといいよ、とすすめたのですが、「メンドクサイ!」ということで印刷しただけの暑中見舞いを出しました。
 書くことが好きで、まわりに気を配る人だったのに、いまでは自分のことしか考えません。「あー、年をとると自分のことしか見えなくなるんだなー」と〝老い"の参考になります。それでも98歳になるいまも自分で食事をとり、自分で便所に行き、身辺自立ができているのはありがたいことです。
 なおハスの一輪だけのつぼみは、台風の最中に咲いてしまい、いい写真が撮れませんでした。
 
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いい雨にホッとひと息つきました。

2011年07月19日 02時42分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
              
 十日ほど前に撮った白鳥の写真です。口吉川町の一番東の村『久次』の池には白鳥がいます。広い池に一羽だけポツンといるのですが、人間が通るとかならず岸辺まで泳いできます。ですから白鳥のアップ写真を容易に撮ることができます。泳いできてくれたお礼に食パンでもちぎってあげるといいですね。
 このところ毎日『水やり』に時間をとられていましたが、久しぶりのしっかりした雨でホッとひと息です。よく降ってくれました。ありがとう。でも台風がやってきそうで気になります。伸びてきた若い大豆、黒豆とかゴマはもし強風が直撃すれば痛めつけられるでしょう。天災ですから仕方ありません。やられたら手当てを考えます。
 いま『皇軍兵士の日常生活』という本を図書館から借りて読んでいます。(2009年発行・講談社現代新書・一之瀬俊也著)題名だけ見ると「あの戦争」に兵士として狩り出された庶民の体験談のように思えます。しかし著者は1971年(昭和46年)生れ。いま40歳になる学者で、埼玉大学教養学部の准教授。あの戦争は『体験記』の時代から『学問』の時代に移行しつつあるのですね。ぼくの関心の向く方向はもう懐古趣味でしかないのですね。すべてのものを押し流してゆく圧倒的な『時の流れ』を体感しています。
 
 
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消えた『投稿ボタン』が復活しました。ブログ再開です。

2011年07月18日 01時48分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 朝5時半のウッドデッキです。デッキの真正面前方が東ですが、いまはそれより北寄りの、写真では左にはずれたところに太陽が昇ります。ふつうに撮ったらまぶしすぎたけど、『トワイライト』に設定して撮ったらいい感じになりました。コーヒーを入れ、朝刊を置いて、朝日をあびながら新聞を読みます。田舎暮らしのしあわせにしばらくひたる時間です。
 さて、ブログをお休みしてすみませんでした。『古希からの田舎暮らし』を訪問していただいている方に、どんなふうに連絡すればいいかわからず困っていました。突然ブログがアップされなくなって、どう思われたでしょう。「じいさん、畑仕事に精を出しすぎて、熱中症で倒れたかな」「土手の草刈りして転んでケガでもしたかな」「裏山でマムシにでも咬まれたかな」……。ロクなことが浮かびません。あの老犬と同じですね。
 実はなにごともありませんでした。ただ、ブログ編集画面の『投稿』ボタンが消えてしまったのです。だから書いてもアップできず、どうしたらいいかわからないまま日が過ぎていきました。きのうパソコンお助けマンに来てもらい、『投稿』ボタンが復活しました。知らぬ間にあちこちさわって消えてしまったようなので、今度はグーグル・クロームで編集画面を出すことにします。
 夏草の勢いがすごく、畑の草取りと土寄せに毎日手をとられています。それに猛暑で『水やり』に時間をとられます。全部に水をやると半日かかるので作物によっては畝間潅水をすることにしました。ふつうの水やりのホースをはずし、40mmのホースに付け替えて畝間に水を流します。すぐに畝間に水が行きわたりますから、一旦水を止めてとなりの畝にホースを移動します。畝間の水は見る間に土にしみこみ、畑の底(もともと田んぼですから粘土でしめてあります)に溜まります。その水が作物の生長をささえてくれます。
 道子さんが苦労したゴマは50センチを越える高さに生長し、もう夜盗虫なんかに食い倒されることはありません。大麦のヒゲを集めたあの『チクチク』がよく効きました。これから白菜などをつくるときも『チクチク』のお世話になって夜盗虫を撃退したいと思っています。六条大麦の麦茶は香ばしくおいしいですが、お盆頃にはなくなります。来年は六条大麦の作付けを増やすことにします。孫の『麦踏み』はおじいちゃんのノスタルジーでしたが、チクチクと麦茶は苦労する値打ちがあります。
 これからはなるべく毎日アップしますのでまたよろしくお願いします。
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『あの戦争と日本人』を読みました。

2011年07月10日 11時31分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 去年はカボチャが不作だったので今年は遊歩道の端に植えて、ツルを土手の斜面に這わせてつくることにしました。いまのところ写真のように土手の斜面を気ままに這いまわって、実をつけています。カボチャくん、まだまだ下まで伸びてもいいんだよ。
 さて図書館に行くと「あの戦争」関係の本に目が行きます。このたびも半藤一利の『あの戦争と日本人』という本を見つけて借りました。部厚い本でしたが一気に読みました。半藤氏がわざわざ「あの戦争」といったのにはわけがあります。
 右寄りの人のように『大東亜戦争』と呼ぶ気にはなれない。『15年戦争』とか『太平洋戦争』あるいは『第二次世界大戦』はかなり一般的な呼称になっているけど、それぞれに主張があるようで一般庶民という感覚にフィットしない。そこで半藤氏はわざわざ『あの戦争』という言葉を使っています。
 彼は昭和5年(1930年)生まれで敗戦のとき15歳でした。昭和20年3月の東京大空襲で焼け出され、新潟に疎開し、勤労奉仕の工場で敗戦の玉音放送を聴きました。その半藤氏は敗戦時の大人を見て、次のように感じました。
 

 とにかく敗戦後の日本の大人たちの変わり身の早さにはキモを潰しましたからね。 …… 「これからは民主主義だ。われわれは新日本民主化のための先頭に立たねばならない」。まわりはそんなことをいう大人がいっぱいでしたから。…………。
 一億玉砕の旗を振っていた軍国おじさんが、赤旗を風になびかせて「民主化、民主化」の絶叫です。息もつまるような驚きを感じ、同時にその日まで勝利を信じて働いていたわたくしは、戦争に積極的に協力したバカな少年ということになる。これは余ッ程しっかりしなければならないと思ったことでした。


 ぼくは2010年2月27日のブログに作家・城山三郎の『そうか。君はもういないんだ』という本の感想を書いています。城山氏は昭和2年生まれで、予科に志願して入隊し、敗戦のときは17歳になっていました。


 私は …… 徴兵猶予を返上し、七つボタンの制服への憧れもあって、海軍に志願し、少年兵となった。 …… 「人の嫌がる海軍に志願してくるバカがいる」と朝から夜中までただひたすら殴られ続けるだけの毎日。
 戦後になると、…… 「あんなものを信じて海軍を志願するとは、子供のように幼稚で低能だ」などと批判され、…… 論戦となると歯が立たない。そこから立ち直るのは一苦労であった。 …… 私は廃墟になって生きていた。私はすべてを疑うことから始め、すべてを自分の手で作り直さなくてはならなかった。 


 半藤氏が「キモを潰した」といい、城山氏が「廃墟になって生きていた」という少年たちの昭和20年8月15日以降の日々。あのとき少年だった人たちは、その後の人生を何歳まで生きようと少年の日に直面した不条理は生涯消えないし、記憶の彼方に埋め込んだふりをして自分をごまかそうとも思わないでしょう。
 あと7年早くぼくが生れていたら、ぼくもその不条理とぶつかっていた。キモを潰し、廃墟になっていた。そう考えると他人ごととは思えません。戸惑いつつ立ち往生しています。(つづく)
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ピンクタイガーくん、がんばってね。

2011年07月06日 04時21分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
         
 ホームセンターで見つけて道子さんが買ってきました。孫たちは空気を吹き込んで畑にもってきましたがあまり関心はなさそうです。でも道子さんは虎の威を借りてなんとかスイカやトマトをカラスなどから守ろうと苦心しています。ピンクタイガーの足もとにはスイカが実りつつあります。
 移植した黒大豆と(白)大豆はどちらも全部活着しました。でも「新芽の枯れた苗は植え替えよう」と見てまわりました。茎を食いちぎられて苗がなくなっている大豆が二本あります。苗の根元をていねいに掘っていくと犯人の夜盗虫が出てきました。200本超のうちで植え替えた苗は三本でした。黒豆は新芽のあやしい苗を二本植え替えました。
 作業を終えて畑の作物を見まわりながら「草の勢いの一番盛んなこの時季に、これだけきれいにできたら立派なものだ」と自分で感心しました。そんなふうに自分でひそかに感心して、自分を励まして生きるのも、年寄りには大切な「しあわせに生きる術」です。
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犬も人間もだんだん年寄りになっていきます。

2011年07月04日 04時53分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 5月20日のブログで、無事に飼い主の元に帰った犬のことをお伝えしました。その後はあの老犬も平穏な余生を送っているだろうと思っておりました。ところがきのうの朝、道子さんがウッドデッキであの犬の名前を呼んでいます。どうしたのでしょう。
 庭に出てみると、あの犬が、例の未練がましいような、うらめしいような、なつかしがるような目でこちらを振り返りながら、ゆっくり山のほうに上っていきます。泊りに来ていた大志くんのお母さんが「名前なんか呼んでなつかれたらどうするの!」と心配します。ご近所の奥さんも出てこられました。
「また逃げ出したんでしょうか」
「乞食は三日したらやめられんって言いますけど、あの自由が忘れられんのか」
「犬の認知症になって、徘徊してるんでしょうか。それとも何か事情があるのか……」
 いろいろ論評してからぼくにお鉢がまわってきました。
「前のとき飼い主さんから電話が掛かった番号があるでしょ。電話で報せてあげてよ」
 ぼくの責任でもないと思うんだけど、なんとなく気の重い任務です。でもあのときは飼い主さんがわざわざお礼に来られたし、いただいたクッキーとかは食べちゃったし……。
 耕運機を畑に持っていこうと歩いていると何かの気配を感じます。振り返るとあの犬がつかづはなれずついてきます。犬にしてみれば多少は気に掛けてもらっている人間だと思うのでしょうか。
 でも「可愛いな!」という親しみは小指の爪の先ほども起こりません。見るからに老いぼれの犬で、この前よりどこか病んでる眼つきで、足にも怪我しているみたいです。年寄りは、犬でも人間でもこんなふうに避けられる。自分の老いを鏡で見るようです。
 夕方畑仕事を終えて帰ろうとしたらまたあの犬が。軽トラのあとについて来ます。そこで川向いのお宅までお菓子を落としながら誘導しようとゆっくり走っていると、老人会のグランドゴルフをいっしょにしている女性が、声を掛けてくださいました。
「またあそこの犬が逃げたんやな。私が電話しといてあげるわ」
 夜、電話がありました。「あの犬はいま医者にかかっているのだけど、クスリを飲むのをいやがったり、庭を掘って掘って石灯籠を倒してしまったり……。連れ戻しに行きます。」だって。
 やれやれ、一件落着です。   
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大豆、黒大豆を移植しました。

2011年07月03日 01時39分51秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
         
 珍しくキュウリに卵を産んだ虫がいます。そこで写真に撮って様子を見ることにしました。道子さんが害虫図鑑で調べて「どうも夜盗虫みたいだ」といいました。害虫図鑑には卵とか幼虫とか蛾の写真などがズラーッ! と掲載してあり、一生懸命調べてくれたのです。でもウジムシぞろぞろの写真を根を詰めて見ていくのはあまり気分のいいことではないので、そのあと裏山や庭を歩いて花を愛で、気分を回復するといいます。ぼくはムシ研究の本は無視しています。
 その卵ですが「二ミリくらいのウジムシになってる」と前夜言われたので見に行ってみるといません。幼虫はキュウリはかじりません。夜盗虫は柔らかいものしかかじれないのです。どこかに行ったか。ムカデかだれかに食べられてしまったか。
 ちょっと雨が降って畑は苗立てした大豆・黒大豆を移植するにはちょうどいい状態です。植える畝を耕運機で一度耕しました。これをしておくと今の時期でも雑草を十日は遅らせることができます。苗は播いて12日目でしっかり育ち、移植にちょうどいい高さ太さです。去年は雨が降り過ぎて苗立てに失敗しましたが今年は理想的です。
 去年並みに黒豆は100本超、大豆は200本超を植えて水をやりました。畝幅は150センチ。苗は大豆が40センチ、黒豆は50センチ間隔で、一本植えです。大豆をこの畑でつくりはじめた最初の2年は、直接二本播きしました。(100坪のハトの防鳥ネットを張りました)収穫も30キログラム近くありました。でも味噌をつくり煮豆にして食べる程度なら15キログラムで十分です。枝豆用も植えてあります。
 さてもう一つの豆『小豆』ですが、これは道子さんが毎年大変に苦労する作物です。畝は去年並みに10メートルで二畝つくり、これから播きます。今年は2ミリ角のムシを防ぐネットを張ってみようかと言っています。というのは小豆は特に無農薬栽培がむずかしいのです。無農薬有機の小豆は、小豆の味がなんともいえずおいしいですが、つくるのは不可能に近いです。
 それでも去年はずいぶん頑張っていささか収穫でき、ゼンザイをつくってお客さんにも食べてもらいました。並々ならぬ苦労を披露しながら。ところが春先になって保存しておいた小豆を出してみたら……。ムシが食い荒らしています。あれだけ苦労して収穫し、豆はしっかり日に干し、トウガラシを入れた瓶に保存していたのに。どこに卵が潜んでいたのか。三合余り残っていた小豆は捨てるしかありませんでした。道子さんがどんなに落胆したか。ぼくに『必殺誘蛾灯』でもつくる智恵があれがいいのだけど……。
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