古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

ことしも味噌を仕込みました。

2014年01月29日 02時40分09秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 去年もいろんな人に我が家の味噌を賞味してもらい、「いい味だ」「いい波動を感じる」とほめていただきました。道子さんの味噌づくりはかなり年季が入っており、それなりのこだわりがあります。
 で、きのうは半日かかってことしの味噌を仕込みました。毎年やっていることなのに、「あれ? どう配置したんだった?」と手順を思案することがあったので、来年の参考にするため写真を載せておきます。
 まず大豆です。前々日の晩、7,5キログラムを5つの大鍋に分けて水にかします。一昨年の古い大豆も残ってたのですが、去年の秋に収穫した新豆にしました。水をどんどん吸うので足しながらひと晩おきます。
                    
 前日は朝から大豆を煮ます。圧力鍋で煮ると早いのですが、うちは「あめ色になるまで10時間以上かけてとろ火でじっくり煮る」というこだわりがあって、一日中鍋を見回りながら水を足していきます。<IHコンロが1口(もう1つは調理用)/携帯コンロ3つ/丸い石油ストーブ1つ>に鍋をかけて、こがさないよう、吹きこぼれないように。(練炭コンロは火力が弱くて、ことしは使いませんでした)
 この煮豆は味付けしませんが甘味があっておいしい。うちでつくった、有機無農薬で、しかも厳密に選別した大豆ですから。むかし子どもらは、煮豆の日をたのしみにして、よく食べていました。
 麹ですが、ことしは口吉川町産の米(ヒノヒカリ)持ち込みでつくってもらいました。24キログラム。これを5つ(鍋の数)に分けてほぐし、塩と混ぜておきます。みなさん、「伯方の塩」とか「赤穂の塩」とこだわりがあるようですが、うちは「皇帝塩」をつかいます。(この塩のことはネットで見てください)
 電動ミンサーは2010年ぼくが72歳になってから買いました。年に1回使うだけなのに。それまでは麹屋さん(稲美町の「母の里」麹)の電動ミンサーを借りていました。その前は手回しミンサーでした。うちのミンサーは5回つかったことになります。10回以上つかうつもりなんですがね。
 配置は写真の通りです。来年忘れてたらこの写真を見ます。
                    
 鍋は作業の流れがよくなるように、台をやめてカウンターに置きました。
 仕込んだ味噌はパントリーに置き、5月には新味噌を賞味します。娘たちも待ち構えています。
 洗い物、あと始末をして、午後は昼寝をしてから久しぶりに「よかたん」温泉に入って骨休めをしました。
○ 反省 …… 来年は日曜日に仕込むよう日程を組み<大豆つぶし、麹と練り込む、味噌玉投げ>を子や孫に手伝ってもらう。 
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階段をつくりました。

2014年01月26日 03時41分44秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ウッドデッキの南側は、いままでブロックや木の台を寄せ集めて降り口にしていました。でもここは高さが68センチあり、「90歳になれば足腰が弱るだろうから、手すりをつけなくては危ない」と感じていました。そんな危ない降り口を母・妙子さんはときどきつかっていましたし。
 ほんとうに危なくなる頃には、階段をつける気力がなくなっているだろう。
 と思いながらまた数年過ぎましたが、デッキを張り替えたこの冬材木(レッド・シダー)で、写真のように階段をつけました。階段は3段でもよかったのですが、材木があったので4段にしました。このほうが高齢者(自分のことです)にやさしいと思って。
                    
 小屋のステレオで音楽を流しながら、あれこれ考えて作業をするのはしあわせな時間でした。
 道子さんは、畑に行ってイチゴの畝の草抜きをしました。
 イチゴは11月はじめに移植するのですが、そのときふつうは草が生えないように黒マルチをかけます。マルチは保温にもなります。しかし「イチゴはマルチをかけないで冬の寒さに耐えさせる。するとおいしいイチゴをつける」と書いてあったので、道子さんはいまイチゴを鍛えているのです。
 寒くても草は生えます。「イチゴの根をいためないようにていねいに草を抜くと、一株に数分かかる」と道子さんはいいます。3畝200株近いイチゴの草抜きにはぼう大な時間が必要です。草を抜いたら苗の上からマルチをかけるという、道子さんにしかできない、物凄く面倒な作業が待ってます。そんな苦労をしてでも、孫たちにはおいしいイチゴを食べさせてあげよう。このうるわしき「婆性愛」。お爺さんは感心して見ているだけです。
 それにしてもわずか一ヶ月足らずたのしむイチゴは、まるまる1年がかりで育てるのですよ。暑い夏はイチゴのランナーを伸ばしながら肥料をやり、水やりに気を配り、草を抜く。10月にはランナーから苗をとって「仮植え」して活着させる。また来年イチゴをつくる畝は深く耕して割肥えを入れておきます。11月にまた移植して「本植え」。そして除草。マルチ掛け。この苦労わかるかなー。
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情緒にはまることを拒否します。

2014年01月24日 04時56分51秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 どこから書けばいいのかわかりませんが、「特攻隊」については言いたいことが山ほどあり、自分の中で突き詰めるとパンクしそうです。
 この国には「白バラの祈り」(2005年・ドイツの映画会社製作)という映画はつくれない。
 日本の特攻隊を映画にすれば情緒で包(くる)んでしまう。いま上映している映画も、かつての「蛍」という映画も。そんな情緒にはまることを、ぼくは拒否します。
 満蒙開拓青少年義勇軍の体験を数年「聞き取り」しました。昭和20年8月、もう、戦争に勝てるなんて思えないときに、当時の満州国でも、たくさんの男が総動員で兵隊に刈り出されました。兵隊として役立ちそうもない高齢の開拓団員も。青少年も。彼らは鉄砲さえ支給されず、爆弾を抱えてソ連軍の戦車の前に走り出て、戦車に轢かれ、爆弾の破裂で戦車を破壊する作戦の訓練をさせられました。そんな体験を語ってくれた人もありました。
 助かったのは爆弾の信管がまだ到着しなかったから。ソ連軍が攻め込んで一週間で日本は無条件降伏しましたから。そんなひどい作戦も、敗戦間近にベニヤ板でつくった人間魚雷も、根は特攻隊にあります。
 青年は遺書を残して飛び立ち、敵艦に突っ込みました。小泉純一郎は知覧の展示を見て涙に咽んだそうですが、「国をおもう至誠の献身」を強要し、「人間」を「鉄砲玉」にしてしまう国家という組織。その根もとの間違いを見逃して、批判を封じ、情緒にはめこもうとする。
 江崎誠到の『ルソンの谷間』という作品には、神風特別攻撃隊のエピソードが描かれています。ある隊員がいくら飛び立っても戻ってくる。それが数回つづいたのでとうとう上官の看視付きで出撃して戻って来なかった。あるいはレイテ島を米軍が艦砲射撃しているときに上官が艦艇に乗って逃げようとして米軍に撃沈されたエピソードが。2チャンネルの特攻隊の項では、飛行機の不調などて戻ってくる特攻隊員を叱り飛ばした上官が、敗戦後90歳を越えて生きたことも書いてありました。
 もう長い年月が過ぎたから特攻隊を美化しようとする人もあるようですが、「人間」を「鉄砲玉」に見られた者の恨みを軽く見ていませんか。50年や60年で消える恨みではありませんよ。
 ぼくのおじさんの友だちは特攻隊帰りで、敗戦後おかしくなったと村でうわさされていました。特攻隊で出撃できず敗戦後自殺した人がいたことも聞きました。
 
 「白バラの祈り」(ゾフィー・ショル 最期の日々)は、ナチスが支配した時代にミュンヘン大学の女学生がビラをまき、逮捕され、裁判にかけられ、5日目に処刑された出来事を、2005年に映画にしたものです。ドイツの若者の間では、いまも若い尊敬する人として彼女の名前がトップにあがるとネットで読んだことがあります。このことは前にもぼくのブログで書きましたが、「一億総懺悔」で、「みんながわるかった」ですませたことにするこの国とのちがいを、ため息をついて眺めます。
  
 まとまりませんが、老人になったぼくの心につかえたままのことを書きました。
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寒くても外志向です。

2014年01月23日 22時31分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 午前のおやつはウッドデッキにセットしました。コーヒーとシフォンケーキ。風がないと陽射しがあたたかく、「よっぽど外が好きなんだな」。窓から外を見ておやつを食べるのと外にすわって食べるのとはあまり変わらないみたいですが、実際やってみると全然ちがいます。外で食べると実にいい気分です。
                  
 裏山に植えた木を剪定し、寒肥を入れるのが遅くなっています。のんびりしていると畑仕事がはじまり、山に手がまわらなくなります。あしたからかかります。
 でもその前にちょっとだけ大工仕事をしたいと思い、ウッドデッキの階段をつくっています。いまの階段をやめてしっかりした階段にします。危なくないように。まだ、現在の階段でも大丈夫なのですが「90歳になってからここを上り下りするのはちょっと危ない」とずっと思っていました。そのときになってから階段をつくろうと思ってももうその力は残っていないでしょうし。
 
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『逝く』という大仕事を考える。 …… その参

2014年01月22日 03時37分57秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「健康寿命」(=生活に支障なく過ごせる期間)は、男が70歳、女は73歳だそうです。平均寿命と比べると男で9年、女は12年の差があります。元気に暮らしていて、ある日ポックリ逝けばいいけれど、世の中はそんなにうまくいくものではありません。終末はだれかの世話になるしかない。その覚悟がいまから必要です。
 で、自分の覚悟を自問してみるとこれが甘い。道子さんと「畑で熱中症になってコロッと逝けたら本望だよな」と話してますがどうも本気度が足りない。

   生れたら死ぬ。みんな必ず通過する。そんなにむずかしく考えなくても大丈夫。
   お金持ちだったら、介護つき高級マンションにでも入れば安心なのでしょうけど。
   みんな「なんとか逝ってる」から、健康な生活を心掛け、あとは運にまかせるか。
 
 子どもたちの思春期の頃、我が家では犬を飼っていました。雑種の柴犬で「トン子」と名付けていました。フィラリアにかかって10年で死にましたが、その「死にぎわ」を思い出すことがあります。
「自分の死を受け入れ、逍遥(しょうよう)として死におもむく」という風貌がありした。腹に水がたまり、動物病院で抜いてもらい、日々弱っていき、自然に亡くなりました。まさに「自然死」でした。

 先日から引用している、精神科医・和田秀樹の『自尊死のすすめ』を読んで、一番気をつけるべきことは「老人性うつ病にならないよう明るく生きる」ことだと思います。
 人間の寿命はそれぞれに決まっている。
 どこかで読んだことがありますが、それならジタバタすることなく、「その日」までできるだけたのしく生きよう。裏山や畑での仕事をたのしみ、小屋での大工仕事をたのしみ、田舎の景色をたのしみ、散歩をたのしみ、おしゃべりをたのしみ ……。
 BS放送ではよく「豪華客船の旅」を紹介します。ある日見ていたら、船に名前を書いたプレートがつけてありました。船上で1000日を過ごした人、2000日を過ごした人を記してあるそうです。豪華な客室で、豪華な衣装をつけ、豪華な食事をし、豪華な時間を過ごし、豪勢にお金をつかっておられるのでしょう。そんな生活もあるのですね。
 ぼくは土のうえで生き、体をつかって土を掘ったり木を植えたり、素朴に人とふれあってたのしむ。そんな行き方を自分でえらんでいるようです。
 もう少し先には、自分のえらぶ「逝き方」がまっているのでしょう。
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田舎の雪景色はいいですねえ。

2014年01月21日 04時01分14秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 あっけなかったけど日曜日の雪景色はうれしかったです。家の窓から、裏山で、畑で、写真を撮りまくりました。まず書斎兼寝室から眺めた裏山です。手前はブログを打っている特製の低い机です。(窓からこんな景色を見られるのを自慢しているショットで、すみません)
                   
 つぎに裏山にちょっとだけ登って、我が家を撮りました。撮りながら「竹を切りまくったら里山風になってよかった」と思いました。
                   
                   
 朝食後畑に行ってみたら、道路の雪はもう消えています。11月に草を刈った土手はきれいなままで、雪が残っていました。ここもいい眺めだなと悦に入ってるショットです。
                   
 ぼくは山陰の山奥の生れ・育ちですから、冬は雪の中で暮らしました。雪を見ると心がなんとなくしっとりします。
そうそう、20年近く使っている石油ファンヒーターがすぐ消えてしまうので、新しく買いました。
 それがなんと、あの〝アラジン〝。アラジンといえば年配の人なら、ブルーフレームであったかい石油ストーブを思い出します。人を訪ねたらつけてもらい、「上等舶来だ。いい値段だけど、あったかさがちがう」とか講釈をききながらあったまったりしたものでした。
 そのアラジンの石油ファンヒーターが、ホームセンターで7980円。どこかまがい物の会社が名をかたってるのかと思ったら、いえいえ、ちゃんとアラジンが出してます。それにしました。
 
 
 
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雪が降りました。

2014年01月20日 06時15分30秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                     
 去年もおととしもこんな写真は撮れなかった気がします。数年ぶりの積雪です。といっても2センチほどでしょう。中央の木はサンシュウで、つぼみがふくらんできました。オレンジ色の点は野鳥用のミカンです。
 冬は木の葉が落ちて野鳥たちがよく見えます。で、道子さんはミカンを半分に切って枝に刺しておきます。ウグイスやメジロやホオジロ、それに知らない野鳥たちが飛んできて、ミカンをつつきます。それを窓から見ることができます。半日もすればミカンはなくなってしまうのでまたつけます。

 きのう紹介した『「自尊死」のすすめ』からいくつか引用します。


 高齢者になれば、なんだかんだと身体に不具合が出てきます。
 健康診断や人間ドックを受ければ、ひとつやふたつ「要精検」(=精密検査を要す)という結果も出るでしょう。でもそれは、「当たり前の話」なのです。
 検査の異常値をすべて「正常値」にするために、医者の指示どおりに薬を飲み、治療をすることが、その人の晩年を必ずしも幸せにするとはかぎりません。

 日本の医療現場では、患者さんが若かろうが年寄りだろうが、検査結果をとにかく「正常値」にしようとするのが大前提になっています。
 とりわけ、コレステロール値、血圧、血糖値などについて、私に言わせれば「医者も患者も神経質になりすぎではないか」というくらい正常値にこだわります。  …… 高齢者の場合、検査値をむりやり正常にすることが、かえって逆効果になることは、あまり知られていません。

 もし、血圧が高いと診断され、処方された降圧剤を飲んで、「検査値は正常になったけれど身体がだるい、買い物や散歩に行くのも億劫だ」なとという症状が出るようなら、その患者さんにとって「世間の正常値は私の異常値」なのです。まじめな患者さんほど「お医者さんに言われたとおりに薬を飲んで、正常値に戻せば元気になる」と強迫観念のように思い込む傾向がありますが、大事なのは「数字」よりも「本人の主観」なのです。

 高齢者が「一秒でも長生きしたいから、ごはんを半分にして、甘い物を食べずにがんばって体重を落とす」のか、それとも「あと何年生きられるかわからないけど、食べられるあいだは好きなものを食べたい」と思うのか。 …… 血圧がちょっとくらい高めだからといって、味も素っ気もない減塩食を我慢して食べなくてもいい。 …… 生活に彩りを与えてくれるもの、いままで楽しんできたものを、歯を食いしばってやめたところで、寿命が劇的に延びることはありえないのです。

 単純に考えても、身長170センチ、体重80キログラムのおじいさんと、身長140センチ、体重35キログラムのおばあさんに、同じ分量の薬を飲ませるのはおかしな話ですが、木を見て森を見ず、つまり検査数値だけを見て、患者を診ない医者は、平気で同じ薬を出すようなことをするのです。


 引用はこれくらいにしますが、たしかに患者よりパソコン画面を見て診察されてる気になることがありますね。さて    
 
 
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『逝く』という大仕事を考える。 …… その弐

2014年01月19日 06時53分36秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 いま読んでいる本の題は『「自尊死」のすすめ』(和田 秀樹 著 / 2012年9月・アーク出版)です。その本をすすめる解説に、こんな文が書いてありました。


 ちょっとした「死に方の本ブーム」ですが、本書の場合は、息を引き取る、その瞬間の話ではありません。死を意識したり、老いを感じたときから、医療とどう関わり、どんな生き方を求め、どうすれば本人や家族が、納得できる死を迎えられるかについて提唱したものです。
 著者は精神科医である和田秀樹氏。東大の医学部を卒業して以来、老人医療に25年たずさわってきた専門家です。  (中略)  苦痛を伴う検査や手術、大量に投与される薬、チューブまみれの延命措置 …… それらは本当に必要なのでしょうか。人生の幕を「自分ならどう下ろすか」を考えるための1冊です。


 そういえば「エンディング・ノートの書き方」という講話があったり、そのノートが売られたり、尊厳死協会とかいうのがあったり、散骨とか樹木葬とかいう活字が新聞に踊っていたり、なんだか「死に方」のあたりがにぎやかです。
 母の読む大型活字本10冊と自分用の本10冊を三木市の図書館で借り、二週間たつとそれを返してまた新たに借りるのですが、母の新しく読む本はもうありません。母の読書は片寄っています。直木賞系の作家の本は読みません。でも大型活字本には直木賞系が多いのです。で、仕方がないから前に借りた本を順繰りに借りています。ぼくのほうは気まぐれで、本棚の間を歩いて「なんとなく」目についた本を借ります。
 このたびはどうしたことか「死に方」とか「ガンで死ぬ」とかいう本に片寄っているのに気づきました。新年早々読んだ本は。
○ 中野 孝次 『ガン日記』 (2004年2月8日ヨリ3月18日入院マデ) 2006年 文藝春秋社
 食道ガンが見つかり、診察・治療の経過が書いてあります。作家の簡潔な文体は、なんとよく伝わることか。
4ヶ月後に79歳で死亡。告知とか検査とか治療とか10年前の最前線の様子を、医療には素人の一般人がどう受けとめているかもわかります。
○ 細郷 秀雄 『わたしは尊厳死を選んだ』 ガンに生きた900日 (日本尊厳死協会推薦)1993年・講談社 
 この本は21年前に出ました。報知新聞文化部・部長だった細郷氏は食道ガンが見つかり、2年余の闘病生活をして53歳で死にました。その間には、手術、職場復帰、転移、入退院、治療方針をめぐる葛藤などがあり、その手記は報知新聞に連載され、後に本になりました。
 まず感じたのは『ガン』に対するわれわれの見方の変化です。
 彼のガンが発見された1989年(昭和64年・バブルの絶頂期)は、本人への《告知》をどうするか、《末期・余命》をどう伝えるか、が大問題でした。いまではたくさんの管につながれたスパゲッティ状態の延命措置よりホスピスを望むのが当たり前のようになっていますが、当時は「なんとしても一秒でも延命を」という考え方が一般的だったようです。(だからこの本が尊厳死協会推薦になったのでしょうが)
 次に「ガンに立向う」というか「闘病」というか〈ガンという病気と壮絶なたたかいをする〉気風が20年前は現在より強かったと思いました。この20年の間に、人間はガンという病気の存在を受容するようになり、どう付き合うか落ち着いて考えるようになった。

 ネットで調べたら「ガン死」の闘病記は大量に出ていますね。
 「ガン」は、そして「死ぬ」ことは、なんとすごい量の人間の叡智と衝突し、切り結ぶことか。
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『逝く』という大仕事を考える。 …… その壱

2014年01月16日 02時19分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 身近な人がホスピスに入ったり逝ったりすると、ぼくも『死ぬ』という大仕事を前にいろんなことを知りたいと思います。
 まずPPK(ピ・ピン・コロリ)です。ぼくの一番感動した〈PPKの話〉を〝一席"。
 10年余り前の年末、ある人から喪中ハガキが届きました。お父さんが97歳で逝ったということで、「男性としては長生きだったなー」と感心しました。後日出会ったとき「どんなふうに逝かれたか」きいてみました。
 その方は九十七歳になっても書道をたしなんでおられ、ある日の朝食後「ちょっと昼まで書道の練習をする」と自分の部屋に入られました。昼の食事時間になっても出てこられないので様子を見に行くと、机に向かったまま「逝って」おられました。
 多くの人がそんな見聞を一つや二つもっておられるでしょう。
 しかし「自分もそうありたい」と願っても、一般に「逝く」のはそんなに簡単なことではありません。〈コロリ寺〉として知られるあるお寺の和尚さんは中風で寝込んでおられる、という話をこのブログでも紹介したことがありますが、どうもこの世の中、なかなか思うようにはいかないようです。 (つづく)

 毎年、年末に「〈一泊の蟹を食べる旅〉をするのが自分たちへのご褒美」なのですが、いろいろあって新年にずれ込みました。宮津の雪景色を期待して出掛けましたが、雪は消えていました。でも「蟹」とはしっかり出会いました。
 また1年、元気に畑仕事・山の手入れ・大工仕事をして、年の暮れに蟹を食べられますように。

 
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ことしの〈とんど〉は盛況でした。

2014年01月14日 04時45分51秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ことしの〈とんど〉は盛況でした。
 4時になると村の衆がそれぞれに注連飾りを持って集まり、2升のお酒は空になり、ちょっとしたおつまみや2升のお餅は、焼いて砂糖醤油をつけてみんなの腹におさまりました。ペットボトルのお茶はやめて、真空調理なべでわかした熱熱の〈ほうじ茶〉4リットルもほとんど空になりました。
 ちょっと強い東風が吹いていましたが、火が大きくなると寒さを感じなくなり、おしゃべりに花が咲き、お餅もさばけていきました。写真は〈村の宝物の〉小学生たちが持ってきてくれた「習字」を竹の先につけているところです。「字が上手になりますように」と火にかざして燃やしました。
                   
 去年は、我が家はろくにとんどの準備をしておらず、餅を焼く「大きな網」も「うちのを持って行きます」と言いながら忘れていました。ぼくは〈深く反省し〉、ことしは紙に必要な物品を、針金/ペンチ/紙コップ/砂糖/醤油/箸/……と書き出して、カゴに揃えていきました。
「ことしのとんどは、うちが一番たのしんだね」と道子さんもうれしそうで、「来年はおしるこを食べてもらえたらいいね」といいます。お餅は〈とんど〉で焼くのですから、それを入れたら簡単におしるこができます。
 老人クラブの集まりで提案してみます。
 なお先日伽耶院にお参りしたら、〈とんど〉は15日午後と掲示してありました。本来そうですね。
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ゆっくり、ゆっくり〈仕事〉をこなしています。

2014年01月13日 03時22分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 いろいろあって年末の大掃除はできませんでしたが、新年になっていろんな〈仕事〉を、ゆっくり、ゆっくり、こなしています。
 おととい・土曜日は、まず「お米」を予約している村の方に、もらいに行きました。30キロ紙袋入りの玄米です。ふだんのご飯は家の精米機で少しずつ精米して炊くのですが、今回は全部を一度に精米しなければなりません。味噌用の麹(こうじ)を、ことしは口吉川町の米でつくってもらいます。
 で、(元)口吉川町農協前の精米ボックスで精米しました。ここの精米機をはじめてつかいましたが、そこら道端の精米機と音がちがいます。装置が大きくて、30キロを苦もなく精米してくれます。
 その米を稲美町の『母の里・麹』店に持っていきました。10年以上この店で麹を買っていますが、ことしは米持ち込みです。我が家の味噌は、ことしも〈大豆7,5キロ / 麹 25キロ / 皇帝塩〉で仕込みます。
 神出町紫合(ゆうだ)の大豆畑トラスト=〈むーな村〉に寄ってみましたが、どなたもおられません。「それではとなりの[北]村の市民農園で昼食をとろう」と寄ってみたらお休みです。(リニューアル・オープンまで当分休み)
 で、レストラン『かんでかんで』を思い出して寄ってみました。7年ぶりです。相変わらず混んでおり少し待たされました。7年もこんな盛況がつづいているのは立派です。食材も味も安心して食べられます。
 きのう・日曜日は、野菜づくり青年と少しだけ畑仕事をした後、〈とんど〉の竹切りを手伝ってもらいました。前老人会長さんもいっしょになって竹を切り、軽トラで公民館庭に運びました。
 午後、薪にしよう畑においていた稲木を運んで、井桁を組みました。
                  
 年末につけた裏山の愛宕さん・祇園さんの注連飾りも〈とんど〉で燃やすので、登ってとってきました。
 寒いですが一度外に出て体を動かすと、やっぱり外仕事は気持ちがいい。家に帰ると裏山で焚き火をし、落葉や小枝を燃やし、ショート・ステイー中の母のために「枝つきの竹」を積み上げておきました。
 きょうは〈とんど〉です。ことしは準備万端です。

 
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〈会計係り〉が〈おやつ係り〉をしています。

2014年01月11日 04時15分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 うちの村の老人クラブでは、〈会計係り〉が〈おやつ係り〉をします。ですからグランドゴルフ大会/囲碁ボール大会/花の植え替え作業があるときは、会計係りがおやつを買って1人ずつ袋に詰めて配ります。ぼくはその会計係りをして4年目になります。
 会計なんて仕事は苦手ですが、老人クラブの扱う金銭はしれてるし、なんといっても「おやつを買ってみんなに山分けする」という気持ちのいい仕事があるので、まだつづけるつもりです。16日には口吉川公民館で〈新春囲碁ボール大会〉があるので、きのうそのおやつを買いに緑が丘の旧サティーに行きました。小学校一年生が遠足のおやつを買いに行くようなワクワク気分です。自分のおやつを買いに出ても気分は弾みませんが、老人仲間のうれしそうな顔を想像しておやつを買うのは実にたのしい仕事です。写真のように1人分はわずかですが、スナック菓子やガムは入れずに老人向きおやつをセットしたつもりです。
                   
 さて田舎暮らしを満喫しているおじいさんは、こんなのん気なことを書いていますが、いま日本は大変なことになろうとしているようです。朝日新聞1月10日付の17面に、『 「満州国化」する日本 』という記事を見てギクッとしました。
 いくつかの部分を引用してみます。


 もともと満州国は関東軍による占領下に置かれて、独自の軍隊を持たず警察組織だけあればいいとして出発した。それがやがて満州国軍として肥大化していき、関東軍に牛耳られるようになった。これはまさに戦後の自衛隊と米軍の関係です。警察予備隊から自衛隊に肥大し、米軍に依存するとこなしには存在できない体制になっている。

 特定秘密保護法はアメリカへの従属と権力の一元化につながっています。情報の偏在は権力を生む。満州国で岸(戦犯で「安保闘争」のときの総理大臣で安倍総理の祖父)がやろうとした統制経済も、基本的に政府に情報が全部集まらないとできない。特定秘密保護法と、岸の日米安保改定が重なって見えます。

 もともとは対米対等をめざして集団的自衛権をと思っていたのでしょう。でも、中国の台頭や靖国参拝による反発などもあって、アジアの旗頭としてアメリカに対抗するという手段はとれない。それどころか、東アジアでの孤立化を招くことで対米従属化を強めるしかなく、特定秘密保護法をつくるなど、政策選択の幅を自ら狭めています。
 

 ぼくは定年退職後の数年間、『満蒙開拓青少年義勇軍』として渡満した少年たち(昭和2年前後生れの方々)に話を聞いてまわったことがあります。何かのかたちにまとめたいと思いながら果たせませんでした。85000人の14、5歳の少年が鉄砲の代わりに鍬の柄をかついで渡満し、25000人の少年は日本に還ることができませんでした。いまのぼくら老人からみると無限の可能性を秘めた少年たちが満州の地に消えました。
 その元凶は関東軍の暴走であり、それを止めようとしなかった「昭和陸軍」です。相手をなめ切って日中戦争をはじめ、大東亜戦争へと舵を切り、叩きのめされて敗北しました。
 アメリカは日本をどう見ているか。
 アメリカにとってこんな都合のよい国はありません。アーミテージだって、声を荒げて怒鳴ったら日本の政治家や官僚は震え上がったという話だし、ちょっと無心したら金は出してくれるし……。
 でも国民はあの戦争を、なぜそんなことになったかを、忘れてはいません。
「なめたらあかんで」
 せめて、虚勢でも、胸を張ってそういえるおじいさんでありたいと思います。 
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新年の始動はもうちょっと先にしようかな。

2014年01月10日 04時46分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 品切れだった〈フジワラ・ファーム〉の堆肥が入荷したので、寒い中を買いに行きました。裏山の追肥にもつかうので20袋もらいました。240キログラムをドサッと軽トラに積んだ写真です。去年と同じく、今年も一袋100円です。豊地農協に売ってあったときは一袋320円。それが直接買いに行くようになったら200円でしたが、さらに安くなったわけです。しかし肥料はできるだけ控え目につかいます。 
                  
 畑に肥料を下ろしたついでに「ちょっと畑仕事をしようか」という気になりかけました。しかし「寒いなー」という気持ちのほうが勝ちました。そして引っ越した頃を思い出しました。
 7年前ここに引っ越したときは、厳冬に連日ウッドデッキの工事をし、つづいて石垣の間をセメントで埋める工事をしました。そんな日が2ヵ月もつづきましたが、「きょうは寒いから外仕事をやめよう」なんてチラッとでも思ったことはありませんでした。
 でもむかしのことをそんな風に振り返るのはそろそろやめます。

 新聞の雑誌広告に『いなか暮らしの本』が出ていました。見出しに「発表! 2014年版日本〈住みたい田舎〉ベスト・ランキング」とあります。ネットで「住みたい田舎」をチェックしたら兵庫県なら〈篠山市・丹波市・豊岡市〉があがっています。でもそんなふうに田舎をブランド化すると、現実とのギャップが大きくなります。ぼくはいま暮らしている三木市のようなところが〈イチバン!〉だと感じています。
                  
 村の小さな鎮守さまからうちの裏山を遠望した写真です。中央に我が家がくるように撮りました。遠くの山すそに白い家が小さく見えます。それがお向かいの「訪問看護ステーション」で、横に平屋の我が家も写っています。自分の体をつかって、裏山の竹を切り、木を植え、たき火をし、近くの広い畑を耕す。申し分のないところです。
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《憧れる力》が夢を実現してくれたのでしょうか。

2014年01月08日 03時10分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 タマネギの追肥が遅れています。フジワラ・ファームの鶏糞がまだ入りません。
 今日は久しぶりに雨が降るという予報だし、追肥をしてから降るのがいい。というわけでホームセンターで鶏糞を買って追肥しました。有機肥料ですからゆっくり効きますが、この雨でしみ込むでしょう。
 肥料をやったあと畑のまわりをぶらぶら歩き、写真を撮り、8年前の「遥かな憧れ」を思い出しました。
 2006年3月のはじめ、道子さんとぼくは不動産屋さんに案内されてはじめてこの村に来ました。2005年秋から半年の間、南は淡路島から北は福知山線「谷川」まで数十軒の中古物件を見てまわり、あの頃の心境といえば「精魂尽き果てた。とにかく早く、住むところを決めたい」でした。
 ぼくらは写真を撮り、家を建てる土地とこの付近を歩きまわって、この景色に出会いました。
                   
 3月の陽射し。そばの山で鳴くウグイス。木立のある墓地。遠くに点在する民家。遠景のなだらかな山山。そして目の前に広がる一枚の畑。
 あのときは枯れた雑草畑でしたが「こんな畑で、まわりの景色を見ながら野菜をつくれたら、しあわせだろうな」と途方もない思いが胸をかすめました。神戸の家に帰ってから写真をプリントしました。「宅地から見た景色」と「この畑」の写真は2L版に大きくして、壁に貼って眺めました。
 いまではその畑で、好きなようにあれこれ野菜をつくってたのしんでいます。そして……、
「実現したのは《憧れる力》がつよかったからだろうか」と〈遠いむかしのこと〉のように思い返しています。
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どなたか散歩道の草を刈ってくださいました。

2014年01月06日 03時51分24秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
「寒いからと縮こまっていては駄目だ。散歩しよう」と村の鎮守さまに散歩に出ました。途中、まだ草刈りをしていない「佐の広池周回道」に立ち寄ってみると、草が刈ってあります。草の海だったところを歩いて渡ることができます。「どなたか」は老人会の先輩約1名の方と見当がつくのですが、ま、〈どなたか〉ということにしておきましょう。ありがとうございました。
 タマネギの追肥がまだ全部はできていないので、鶏糞の有無を〈フジワラ・ファーム〉に問い合わせました。ここの鶏舎の鶏糞は業者が肥料化しているのですが、まだ数日しないと入らないということでした。窒素分が少なく、サラサラで使いやすいので愛用しています。15袋ほどもらって、裏山に植えた木々の寒肥にもしたいと考えています。
 寒くて畑のほうに行く気がしませんが、コタツにあたってテレビ見てるのも「芸が無い」。で、裏山に出てたき火をしました。「たき火をする」だけで、火にあたらなくても寒さを感じなくなるから不思議です。落葉をかき寄せたり、枝や竹をノコギリで切って薪にしたり、笹を刈ったりして火にくべるのですが、家の中でうずくまるのと気分がちがいます。
 たき火のできるところに暮らせてしあわせです。
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