古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

「寒い!」と焼き芋しただけ。

2023年01月31日 17時42分42秒 | 古希からの田舎暮らし
 
 凍結防止のために少し水を出していたら、鍾乳石のようになりました。
 でも今日は外仕事をしよう。とまず〈たき火〉〈焼き芋〉をしました。たき火はあったかい。いい気分です。
 裏山の仕事がたまっているので、まず「落ち葉を片づけよう」。池のまわりの落ち葉をかき集めて竹藪に捨てました。

 写真のように池のまわりがきれいになりました。この池を掘って、プールライナーを敷いて水をためたのは2015年の冬でした。あれから9年になります。このシートは、穴もあかず、水をためつづけています。ブール・ライナーは〈すぐれもの〉です。
 落ち葉を掃いていたら「フキノトウ」が出ていました。

 今春の第一号フキノトウです。道子さんが「もう2、3日したら春を味わいましょう」。
 そうだなあ。もうすぐウグイスが鳴き、土筆が顔を出し、春になるんだ。裏山に出て「春を感じる」。寒いけど、なんかいい気分です。
 裏山の頂上に登る階段の手すりがこわれました。木の杭が腐ったのです。

 いまでは、手すりが「とれもありがたい」。単管パイプの支柱は用意しているのですが、工事をするのをサボっていました。午後はその工事をしようと思ったのですが、たき火/焼き芋/以外の仕事には腰が引けてしまいます。
 そんなときに「よーし! 頑張るぞ」と立ち上がらないのがぼくの生き方です。長い昼寝をして今日はおしまいにしました。




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温室/夕焼け/カケス

2023年01月28日 22時47分59秒 | 古希からの田舎暮らし
 田舎の新しい家で、母は10年あまり暮らしました。引っ越すにあたって母の要望で「押入れを開けるとトイレだった」(トイレ付部屋)にしました。いまはカーペットを敷いて、小さな仏壇/小型のテレビ/瞑想用の椅子/などを置いています。
 仏壇には生花(胡蝶蘭)を絶やさぬようにしています。あの花は暑くても寒くてもいけません。ですから年中エアコンを入れてます。この部屋が、どうもだんだん温室みたいになっています。

 寒さがきびしいので、道子さんが鉢植えの植物をこの部屋に移動してきます。
 むかしぼくの勤めていた明石の中学校で、植物好きの校長先生がいました。校長室に鉢植えの植物を置いて、めでていました。そのうち植物がだんだん大型になり、増えてきました。「書類に校長印を押してもらおう」と校長室のドアを開けても姿が見えにくかったり、ジャングルをくぐっていく気分になったりしました。まさかあんなことにはならないでしょうね。

 今日は、道子さんが数えたら、アオジが六羽飛んできたそうです。また「カメラカメラ!」と隣の部屋から道子さんが来ました。ぼくは急いで隣りの裏窓からたき火場のほうを見ました。カケスがいるというのです。遠かったけど、ズームアップして撮りました。トリミングした写真です。

 ちょっとわかりにくいですかね。なにしろ落ち着きのない野鳥でしたので。

 東条図書館/スーパー/と夕方出かけ、5時過ぎにうちの村に帰ってきました。夕焼けがきれいです。

 見る見る色がかわります。10枚撮って、これがいちばんきれいでした。
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〈あの戦争〉の『特攻』に思うこと (2)

2023年01月27日 22時01分22秒 | 古希からの田舎暮らし
〇 ぼくのおじさんは召集で中国戦線に行き、敗戦後に生還しました。彼の郷土の親友は特攻隊でした。飛行機で敵艦に突入するまえに敗戦になり、生還しました。しかし思考や行動が無気力でおかしくなり、付き合いがなくなったそうです。
〇 三木市の知人にきいた話です。その人の兄は、特攻隊になり、敵艦突入まえに敗戦になり、郷里の三木市に生還しました。彼は新制中学の教師になりましたが、しばらくして自殺しました。
〇 直木賞作家の江崎誠致は『ルソンの谷間』という作品があります。自分のフィリピン・ルソン島での日本軍の敗走を書きました。その中に、兵士のあいだで「特攻のことを話している会話」があります。ある特攻隊の青年が「いよいよ自分の番になり、何度出撃しても飛行場にもどってきてしまう」。とうとう10回目になり、監視役の上官が別の飛行機で後ろから飛び立った。その青年は仕方なく、敵艦に突っ込んで死んだ。(「敵艦に被害を与えたか」でなく「敵艦に突っ込もうとして確実に死んだか」を確かめたのです。特攻で「死ぬこと」が目的になっています)
〇 小説家・熊井達也に、「特攻隊で何度か出撃しても、もどってくる」小説があります。上官に責められ、最後は自宅近くの地上に飛行機で突っ込みます。

 出撃して敵艦に突っ込もうとした特攻隊員は多くいるでしょう。愛国の心情で突っ込んだことは歴史の事実です。最後には「一億総特攻」という言葉が発せられ、戦艦大和は、特攻で沖縄に出動しようとして攻撃され、沈没しました。
 人類の歴史を振り返っても、これほど「国家が組織的に、多くの兵士を〈確実な死〉に追いやった特攻作戦」をした国はないでしょう。「死」は厳粛に受け止めねばなりません。しかしあの特攻を賞揚するような時代を再来させてはなりません。
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「あの戦争」の〈特攻〉に思うこと (1)

2023年01月26日 22時35分47秒 | 古希からの田舎暮らし
 
 裏山のバードフィーダー下に飛来している『アオジ』です。去年は、多いときは七羽来ていましたが、今日四羽見ました。胸。腹のあたりが黄色っぽくてスズメより少し大きめの小鳥です。
 アオジは、スズメやシロハラがいても知らん顔して粟粒をついばみます。またおどされることもありません。我が家では、好感を持ってながめています。

どこから書けばいいかまとまりませんが、〈あの戦争〉の〈特攻〉には〈思い〉があります。まず山本五十六(連合艦隊司令長官)の考えから。
 
〇 ハワイ・真珠湾攻撃のとき、海軍は〈二人乗り〉の〈特殊潜航艇〉を五艇出動させました。潜水艦で近くまで行き、潜水艦から出動させて、真珠湾に潜り込ませ、軍艦を沈めようという作戦です。乗った二人は潜航艇ごと相手軍艦にぶつかるので帰還できません。そこで山本五十六はこの作戦に「待った!」をかけました。その後海軍では改良工夫して「相手の軍艦をやっつけて帰還できるようにした」と山本五十六に報告し、出動を許可されました。
 実際にはこの特殊潜航艇は不完全で乗組員は帰還できず、潜航艇内で死亡しました。2人乗りで五艇ですから10人です。しかし、一人は気を失って米軍に保護され、捕虜第一号になりました。そこで日本軍では、戦死した9人を『九軍神』として祭り上げることにしたのです。
「無事帰還できるようにせよ」と山本五十六が言ったことは、いろんな資料にはふれられていませんが、阿川弘之の『山本五十六』にはちゃんと書いてあります。 
 山本五十六は、戦死した兵隊に、つよい思いをもっていたことがうかがえます。先日読んだ半藤一利の『山本五十六』に次のように書かれています。長くなりますが引用します。


 昭和13年夏のできごとです。
 山本五十六さんがかつて率いた航空戦隊には、「海鷲の三羽烏」と呼ばれた三人の技量すぐれたパイロットがおりました。そのうちのひとり、南郷茂章少佐が日中戦争の南昌作戦に出撃して戦死してしまいます。弔問に訪れた山本次官(当時)のようすを南郷の父が記しています。
「自分は閣下に対し長男生前の懇切なる指導の恩を謝し、軍人としてその職責を完遂せるを心より満足する旨を述べた。じっと伏し目がちに聞いておられた閣下はただひとことも発せず、化石したかのごとく微動もされなかったが、忽然からだを崩し小児そのままの姿勢で弔問者の群衆のさなかであるにかかわらず大声で慟哭し、ついに床上に倒れられた」
 これのみならず、類する挿話が山本さんにはいくつもありました。山本五十六にとって部下の死は、いったいどれほど重いものであったのでしょうか。
 長男の義正さんは、父の死後それを知ることになります。
 家でくつろいでいるとき、五十六さんは書斎か縁側の椅子によりかかって、じっともの思いにふけっていることがあったといいます。そんなとき、かれの左手には、黒い革の手帖、ポケットに入るくらいの大きさの手帖が握られていました。
 ときどき手帖をひらき、また閉じて、目をつぶる。そんな動作を何度もくり返し、30分も1時間もじっとしていたのです。山本さんは、その手帖を肌身から離したことがなかった。そこになにが書いてあるのかは、家族みんなの疑問でしたが、けっして見せてはくれませんでした。
 死後、遺品を整理していたときに家族らははじめてその中身を見ることになりました。ふちが擦り切れて下地の紙がのぞいていました。表紙をひらくとそこには、ペン書きの細かい字でびっしりと、階級、姓名、艦名、戦死の日、戦死の場所、本籍、現住所、遺族の氏名などが克明に書いてありました。  (中略)
 山本五十六にとって部下の死はけっして忘れてはならないことであると同時に、辛く苦しいことだったのでしょう。山本さんは仏壇や神棚に合掌する姿を見せたことがなかったといいますが、それはせずとも手帖を開き、また閉じて目をつぶり、戦死者の冥福を祈りつづけていたのです。わたくし(半藤一利)は五十六さんのそんな姿に、人情深いなどというレベルをはるかに超える、人の交わりにかける気迫のようなものを感じるのです。

 彼が昭和19年も生きていたら、飛行機で敵艦に突っ込む〈特攻〉を許すようなことはなかった。
 


 
 
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♩ 雪やこんこ霰やこんこん 

2023年01月25日 23時35分30秒 | 古希からの田舎暮らし
 ♩ 雪やこんこ霰やこんこん 降っても降っても …… 犬はよろこび庭かけまわり ……。
 久しぶりに雪が積もりました。三木はほんの少しですけど。でもうれしい。雪景色を見られる。犬でなく81歳のおばあちゃんも庭かけまわりたくなります。でも滑らないように杖を突き、写真を撮ろうとスマホを持って裏山へ …… 。

 三木市口吉川町はなだらかな丘にかこまれた地ですが、雪はなかなか降りません。降るとうれしい。おじいちゃんは裏窓から写真を撮っただけでした。
 昨日見たシロハラは、今日も朝からチョンチョン跳んで、雪の中の粟粒をついばんでいます。スズメたちがそばに飛び降りるとちょっとおどしたりして。アオジもやってきます。いつもの小鳥たちです。

 シロハラが雪の地面をつついています。雪の下の粟粒が見えるのでしょうか。
 ぼくのしたことといえば、裏の小屋で「ツルハシに刃をつけた」です。
 道子さんは「バラの苗を植えよう」とツルハシで穴を掘っていました。説明には「60センチ以上の穴を掘るように」と書いてあります。ところが竹の根が出てくる。ツルハシで切って深く掘ろうとしますが、力がいります。「ツルハシで根を切れるように」とたのまれたのです。

 25年くらい前に買ったベンチグラインダーをつかって、1,5キロのツルハシに刃をつけました。我が家にはこのサイズのツルハシが二本あります。一本は金属ゴミの日に、ゴミステーションから拾ってきて柄をつけました。竹藪の裏山に樹を植えるには、ツルハシが必需品です。
 80歳超になって、ツルハシをふるう。なんかいい。

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〈シロハラ〉くん、おかえりなさい。

2023年01月24日 18時01分13秒 | 古希からの田舎暮らし
 今日は寒い日です。外仕事をしたくない。でも道子さんは外に出て「バラを植えよう」とツルハシをふるっていました。家に入ってきて「シロハラがもどってきたよ。ルリビタキもそばで鳴いてたよ」といいます。
 窓からバードフィーダーを見たら、なんとシロハラが!

「こっち向いて!」 …… なかなか向いてくれません。そのうちチョンチョンはずんで、茂みに入ってしまいました。シロハラは跳ぶように歩いて移動します。
 帰ってきてくれたんだ。シロハラくん、ありがとう。やっぱり、うれしいね。4月ごろまで裏窓から見られます。
 次の写真は裏山の向こうの福地池です。堰堤がきれいに焼けています。

 先週の日曜日に村中総出で草刈り/今週の日曜日に、消防ポンプを持ちまわりしながら、蛇ガ池/福地池/、無施池/の堰堤を焼きました。日曜日まではよく乾燥していたのできれいに焼けてます。
 今頃は、どこの村でも総出で草刈りして、燃やします。
 
 いま、半藤一利の『聯合艦隊司令長官 山本五十六』を読んでいます。心に引っかかっているのは特攻隊のことです。山本五十六が生きていたときは特攻隊はなかった。山本は「そんな戦術は絶対に許さなかった」でしょう。その思いをまた書きます。
 
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小野のエクラ・ホールで音楽を聴きました。

2023年01月22日 20時12分39秒 | 古希からの田舎暮らし
 テレマン室内交響楽団の演奏を、小野市のエクラ・ホールで聴きました。モーツアルトの〈アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク〉は生の演奏を久しぶりに聴きました。聴きながら「この音楽を、この世で聴くのは〈これでおしまい〉かな」と思いつつ。
 小野市のエクラ・ホールは、気持ちがいいところです。

 中庭の写真です。いまの芝生は枯れ色ですが、きれいに広がって、そばに立つだけで気分がいい。この中庭を室内から眺めながら、昼食を食べました。
 音楽ホールの開場までには時間があるので、ホールのロビーでくつろぎました。

〈こころがひろがる〉ホールです。高い、丸い、天井がいい。まわりから光がそそぐのがいい。イスがいい。ホールの敷物がいい。
 テレマン交響楽団の演奏は、前から3列目の席で、いい音で聴こえました。指揮者の延原武春さんは昭和18年生れの80歳。むかしからなじみのリーダーです。指揮ぶりも元気です。口達者のパワーはちょっと落ちたかな。
「もし、東条のコスミック・ホールで、テレマン室内交響楽団の演奏を聴いたら、さらにいい音で聴けるだろうな」と、ちょっと思いました。響きに〈厚み〉が出るというか。演奏の〈コク〉が出るというか。
 日本センチュリー交響楽団の若い指揮者がコスミック・ホールで演奏したとき、ナレーションでこんなことをいいました。
「日本の演奏家は、この町の人たちが想像するよりも、このホール(コスミック・ホール)のことをよく知っています」。
 気持ちよく演奏できる。気持ちよく聴ける。拍手も気持ちいい。また音楽会をやってほしいなあ。
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大寒に味噌を仕込みました。

2023年01月21日 17時45分20秒 | 古希からの田舎暮らし
 今日は味噌を仕込む日です。昨日煮た大豆に水を足してあたため、仕込みにかかりました。

「年に一度だけ使うミンサーを、70歳過ぎてから買うかなあ」と思案した、2010年に買った電動ミンサーですが、今年も活躍しました。今年で14回つかったことになります。もう十二分に役目をはたしています。
 手伝いに来てくれて、お昼までに仕込みも片づけもすませることができました。

 半藤一利さんの本を、好んで読んでいます。新聞の広告に『昭和史の人間学』 …… 〈歴史家・半藤の白眉は人物評にある〉(文春新書)と広告が出ていました。23年1月20日発行。出たばかりです。軍関係のいろんな人の名前が出ています。辻政信/山本五十六/今村均/牟田口廉也/山下奉文/東条英機/近衛文麿/ …… 66人が登場! と宣伝文に書いてあります。
 読んでみたい。でも図書館で読めるのは、かなりあとになるだろう。いま読んでみたい。すぐ注文しました。
 届いた本をざっと読みましたが、ぼくは「どうかなあ」と思いました。半藤さんがいろんなところに書いたり話したりした〈人物評〉を寄せ集めた本です。散漫な感じがしました。もし半藤さんがまだ生きてたら、こんな本を出すことに首をたてにふったでしょうか。
 
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一日中大豆を煮ました。

2023年01月20日 18時40分27秒 | 古希からの田舎暮らし
 今日は朝から「大豆を煮る日」です。夕方までかかって、大豆がやわらかく、飴色になってきました。今夜はこれでおいて、明朝また火を入れて味噌の仕込みにかかります。

 道子さんの〈手前味噌つくり〉は何十年とつづいています。年季が入っています。その肝はこの「煮た大豆」です。圧力鍋だと短時間でやわらかくなりますが、〈コク〉というか、大豆の〈うま味〉というか、それがちがいます。娘たちは、幼い頃この「煮た大豆」をおすそ分けしてもらって食べるのをたのしみにしていました。
 
 ぼくは、朝の瞑想で「今日はハシゴを設置しよう」と予定を考えたのですが、グズグズして一日がおわりました。昨日つくったハシゴを畑の崖に持っていっただけです。

 なんか、ぴったりな感じです。木の杭を地面に打ち込んで「ハシゴをネジ止めしよう」と思ったのですが、置いただけです。
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味噌の仕込みも三日がかりで。

2023年01月19日 21時34分12秒 | 古希からの田舎暮らし
 大寒の頃、味噌を仕込みます。高齢になって、三日がかりです。
 まず今日は、稲美町の『母の里麹』に米麴をもらいに行きました。10日ほどまえに20キロ注文したものです。いまでは車での外出は、必ず二人で出かけます。一人では車に乗りません。うっかり運転ミスをしたら、車に乗れなくなりますから。
 午後は、米麹をほぐして、塩と混ぜあわせました。5キロずつ4袋つくりました。
 明日は大豆を煮る日です。〈我が家の味噌がうまい〉のは、① 我が家の畑でつくった有機無農薬大豆がうまい/② 大豆を圧力鍋でなく「大鍋で一日がかりで煮」る。大豆が飴色になるまで時間をかけて煮ます/③ 米麹の割合を多くしている。
 道子さんは、大豆を1,5キロずつ洗って、今晩四つの大鍋に入れてます。ひと晩水を吸って、大豆がふくらみます。

 明日は、朝から夜まで、この鍋を12時間かけて煮ます。飴色になり、豆を指でかるくはさむとつぶれるようになるまで。
 ガスボンベのコンロ三つとIHヒーターをつかいます。 
 21日(土)に仕込みます。

 
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ハシゴをつくりました。

2023年01月18日 17時16分42秒 | 古希からの田舎暮らし
 1×4材で〈ハシゴ〉をつくりました。85歳にもなると、何か作業をするまえにアレコレ考えます。これは畑の向こうの〈笹薮〉を刈るためのハシゴです。1,5メートルほどの崖を降りて笹を刈ります。若者なら跳びおりるほどの段差です。老人でも崖をつたうようにおりられるでしょう。2メートルのアルミ脚立があるので、それを立てかけてもいい。
 しかし脚立の段差は30センチ超あります。足を上げるのが大変です。ハシゴの途中で力を入れるのは危険です。そこでこのハシゴの段差は22センチの高さにしました。

 何日もかけて、何回も崖をおりて、笹を刈り、防草シートを張る。その作業のまえに、崖を上り下りするハシゴをつくったというわけです。ちょっとケガしても、そこで仕事はおしまいです。ケガが治ってまた仕事をすることはありません。
 それを思うので、慎重に、慎重に、段取りを考えています。

 図書館で『マンガ 渡辺昇一の昭和史』〈漫画 水木繁〉という本を、何気なく借りて読みました。
「〈水木しげる〉さんは、あの戦争で召集されて、兵隊として南方に行かされて、ひどい目にあって、反戦マンガや文章を書いているのに、どうして渡部昇一の本なんかにマンガを描いたのか」と思いました。この本には「南京大虐殺は本当にあったかどうか疑わしい。虐殺があったとしても40,50人くらいではないか」というようなことが書いてあります。
 ネットで調べたら、水木繁という漫画家は別人でした。そして思いました。
 
 あの戦争のことを、いまの若い人たちは学校でほとんど習わないでしょう。歴史の授業はあの戦争まで届かないでおわる。教科書には少ししか書いてない。このマンガを読んで(実に読みやすい本でした)、「そうか。日本はわるくなかったんだ。仕方なかったんだ。朝鮮や満州のためにいいことをしたんだ」と簡単に思ってしまう。ほかの情報は入れないで、そう思いながら生きていく。
 その「こわさ」を思いました。
 韓国の反日教育で育った若者が、日本に住んで歴史を知るようになり、本を書いています。日本の若者がこのマンガを読んで、事実と思い込んで中国に行ったらどうなるか。
 あんまりなことは、するもんじゃありません。
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ピアノ練習の場所をととのえました。

2023年01月17日 18時04分54秒 | 古希からの田舎暮らし
 よく見かける〈モーツアルトの肖像画〉を壁に貼り、楽譜などを置く棚をつけました。これでピアノ練習の場がととのいました。

「毎日30分は練習するように」とバイエルに書いてあるので守るつもりです。夜はヘッドホンで音を消して練習します。you tube
でピアノ曲を聴くのが好きで、いろんな曲を聴いてます。自分で弾けるようになりたいけど「道は遠い」です。
 でも若い頃のように、「自分で弾きたい」と強く思うことはありません。年寄りなりに「あきらめ」/「願いと現実の差」/「自分の可能性」/との〈つき合い方〉を心得ています。
 ただ、毎日コツコツと練習を重ねてみたい。することができてうれしい。そんな境地で練習をつづけます。
「前の畑」のがけ下は笹が生えています。それが伸びてきました。

 これを、この冬なんとかしたい。がけ下におりて刈るしかありません。刈ったままではまた生えてくるので、防草シートでおおってしまうつもりです。ちょっと大仕事ですが、コツコツやれば、まだいまならできそうです。
 裏山に植えた樹の寒肥も施す時季になりました。
 今週は〈味噌の仕込み〉がありますが、来週から外仕事に精を出すつもりです。

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道子さんは運転免許を更新しました。

2023年01月16日 17時59分34秒 | 古希からの田舎暮らし
 朝、ひと騒ぎしました。今日は道子さんの運転免許証を小野警察署で受け取る日です。今日でなくてもいいけど、年寄りは気がせく。午前に行くか:午後に行くか。相談して、午後に行くことにしました。
 だったら午前中にちょっと外仕事しようかなー。モタモタしていたら、道子さんが「そうだ。今日は16日よ」。
「アッ! 小野に行くことばかり気になって、〈大将軍j神社にお参りする〉のを忘れるところだった」
 ぼくたちは、毎月お参りの日(16日)にお参りして、皆勤賞(なにも出ないけど)をねらっています。去年は、8月にほかのことに気をとられて皆勤賞をのがしました。今年は年頭から忘れるところでした。

 当番の方は〈自分の勤めを休んで〉、拝殿のところにひかえておられます。今日は寒い日ですが、風があって〈たき火〉ができません。寒いのにごくろうさまです。
 お神酒をいただき、お餅をもらい、無事にお参りできました。ほんとによかった。
 昼ごはんは、もらった餅を白菜などで雑煮風にして食べました。

 午後は小野警察署で運転免許証を受け取り、〈お祝い〉でもないですけど、コーヒー・ケーキをはりこむことにしました。ミキヤマ・スイーツ・ガーデン(フジキ)に寄って、きれいなケーキをいただきました。

 今週は大寒があり、味噌を仕込みます。

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小野市のサロンでハープ演奏をききました。

2023年01月15日 18時12分43秒 | 古希からの田舎暮らし
 今日は小野市の〈エクラ・ハートフル・サロン〉でハープ演奏をききました。チラシに書いてある〈サロン〉はどんなところか知りませんでした。こんなところです。

 あの、円形のエントランス・ホールを衝立で囲んで、イスを並べたところを『エクラ・ハートフル・サロン』というのです。有料で、座席指定になっていますが、音は衝立の外でも聴こえます。(無料で)
 あのエントランス・ホールはいいホールですね。明るい。こころが「ウーン、気持ちいい!」と伸びをする。イスがいい。しばらく座りたくなる。近くにこのホールがあったら、毎日出掛けて、のんびりしたい。ここで本を読みたい。
 ハープは気持ちのいい音色でつつんでくれます。なじみのある曲を聴かせてもらいました。

 お昼の食事は、道路をはさんだイーオン店内で食べようと思いました。ところが〈サイゼリア〉があるだけで、むかしの和食系食堂がありません。あとでエクラ・サロンの喫茶店を見たら、いろんなランチ・プレートがあります。来週は、テレマン・オーケストラの演奏を聴きに、また来ます。お昼はサロンの喫茶店にします。

 道子さんと「小野市のエクラ・ホールとまわりの〈たたずまい〉は気持ちいいね」とひろびろとした芝生を歩きながら話しました。三木市の文化会館の暗いホールをおもいながら。市の施設をつくるリーダーって大事ですね。
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第23回『三木山落語』をたのしみました。

2023年01月14日 18時13分50秒 | 古希からの田舎暮らし
 12月の「三木市報」にのっていた「三木山落語」(三木山森林公園)にすぐ予約申し込みをしました。一週間もしないで満席になったそうです。(定員280席)落語をきけるのをたのしみに、今日を待っていました。
 三木山森林公園の食堂『デルパパ』のバイキング・ランチを予約していたので、12時にレストランへ。

 ぼくのランチです。ご飯/蕎麦/みそ汁/おかずいろいろ/。ビニールの手袋をして(もちろんマスクはして)自分で皿にとっていきます。おなかいっぱいになりました。あとアイスクリームとコーラ。
 ステージは/落語四題=〈子は鎹(かすがい)〉〈近日息子〉〈皿屋敷〉〈エビづくし〉/しの笛/三味線/日本舞踊/とそれぞれに力演でおもしろかったです。
 次は6月にあるそうです。6月の第二土曜日つまり6月10日。
 またランチ・落語がたのしめます。忘れんように申し込もう。
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