古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

明日から畑の草刈りをはじめます。

2015年03月31日 03時17分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                       
 旅で泊まった『休暇村・南阿蘇』の窓から撮った「阿蘇の中岳」遠望です。早朝よく晴れているのに噴煙が高くあがっています。ゆっくりした旅程で、朝な夕なに雄大な眺めをたのしみました。
 さて心はまだ裏山にひかれますが、畑の草も伸びてきました。草刈りの季節です。南側の土手はカラスノエンドウがはびこっているので早めに刈ります。伸びてしまう4月下旬に刈ると3~4倍のエネルギーが必要ですから。今年は雨がよく降ったので草の伸びがよく、『(手づくり)野草酵素飲料』の仕込みも早めにしようと思います。
 早めに就寝して12時に起き、錦織圭のテニスの試合中継を見ました。順調な試合ぶりで、見ていて実に気分がよかったです。
 錦織圭は『島根県出身』です。島根の人はなんとなく誇らしい気分の日々でしょう。ぼくは隣の鳥取県に生れ育ったのですが、知名度の低い、地味な県同士なので島根県民のワクワク感がわかります。それにしてもパッとしなかった日本のテニス界にあって、いきなり現れたスーパースターだけにみんなが応援しているでしょうね。次々と試合があり、錦織圭が活躍して、たのしませてくれる。
 大相撲は見ないし(相撲協会が朝青龍を脅して引退させて以来)、サッカーは見ないし、野球もチラッと見るくらいだし、タイガーウッズの出ないゴルフは見ないし、いまテレビ観戦で応援するのはテニスの錦織圭だけ。
 いつも次の試合をたのしみにしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅に出てました。

2015年03月30日 04時21分55秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 三木市に引っ越してから8年あまり、2泊以上の旅をしたことはありませんでした。が、このたびは3泊家を空けて旅や音楽会に出掛けました。母にはショートステイをしてもらいました。
 いま午前3時。起きて久しぶりにブログを書いていますが、気になるのは裏山の木々の花がどれほど咲いたかということです。きのうは暗くなってから帰ってきたので裏山の花々を見られませんでした。夜が明けるのをたのしみに待ちます。
 旅行に行ったのは阿蘇山と高千穂です。一応証拠写真をアップします。
                       
 大志くんやおとうさんおかあさんといっしょで、たのしい、ラクチンの旅でした。

 26日は芸文センターで音楽を聴きました。〈バッハ・コレギウム・ジャパン〉の演奏で『音楽の捧げもの』です。
「バッハやモーツアルトは宇宙人で、地球人にメッセージを送ってくれたのがあの音楽である」と真面目に書いてる本もありますが、たしかに聴くと癒されます。「バッハは聴く人が癒されるだけでなく、演奏する人も疲れがとれるし、癒される」とクラリネットを吹く人に聞いたことがあります。そんなバッハを「一流の演奏で聴きたい」とずっと思っていました。
 その願いをはたしました。自分でも「起きてるのか寝てるのかわからない」境界線みたいなところで音楽を聴きました。いい気持ちでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『灰の男』(小杉健治)を読みました。

2015年03月25日 03時17分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 小杉健治『灰の男』を読了しました。
 知らない作家だし、題名が地味で内容がわからないし、長い作品だし(大型活字本では4分冊)、敬遠していた本ですが、ある日何気なくふっと手がいって、引き込まれて読みました。うしろの「解説」に小説家の山崎洋子さんが書いています。


 たいていの作家は、自分の宿命とも言うべきテーマを持っている。 …… 少なくとも小杉健治さんはそういう作家である。
 小杉さんの「どうしても書いておきたいもの」、それは「東京大空襲」だった。初めて彼からそのことを聞いたのはいつだったろう。 ……  それから何度か、会うたびちらりと話には出たが、どんな内容になるのかまでは聞かなかった。 ……  作品が幼虫からサナギになり、 …… 見事、羽化するには時間がかかる。  ……  夢中になって読みながら、傑作に接した時の陶酔感と共に、同業者として大いに嫉妬を覚えたものである。


 ミステリーのかたちになっていますが、列車の時刻表をめくったり、家元争いをしたり、「コン!」と灰皿で叩いたらコテンと死んだり、ちょっと押したら倒れて角で頭を打って死ぬような、安直な話ではありません。10万人の庶民が焼き殺された、昭和20年3月10日(9日)の <東京大空襲> を、視線をそらさないで凝視しています。作品の人たちが生きて立ち上がり、逃げまどう。その群像を描き切る見事な筆。
 見たい/見たくない/を越えて、もう一度あの「空襲」を見ておこうという気持ちになりました。大空襲では加賀乙彦の『帰らざる夏』が心に刻まれているので、それを読み返します。
 アメリカは「あの大空襲で日本は降伏するだろう」と考えたのに日本は戦争を継続しました。もし降伏しておればどれだけの、庶民が、兵士が、死ななくてよかったか。なぜ降伏できなかったか。その反省はできたか。
 「思い」はそこにしぼられていきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裏山の池にアメンボが飛んできました。

2015年03月24日 05時22分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 うまく写真を撮れてませんが、裏山の池にアメンボが泳いでいます。2匹。
 エッ? 近くに池も小川も水溜りもないのになんでアメンボがいるの。どこから来たの。
 ネットで調べてみました。『アメンボ研究室』というホームページがあって、アメンボの種類とか(世界には500種類いるんですって)「アメンボの一生」とか「アメンボのエサ」とか「捕まえ方・飼い方」とかいっぱい書いてあって、100万人以上の訪問者があります。アメンボって人気あるんですね。
 で、驚いたことにアメンボは空を飛ぶんですって! 車のフロントグラスにアメンボがとまった写真もありました。水の上をスイスイ泳ぐだけと思ってたのに。
 あのイヤなカメムシとも親戚関係になるらしい。池に落ちたムシなんかの体液を吸って生きてるそうです。それに「飴ん棒」みたいな匂いを発するんですって。だから「アメンボ」というそうです。
 知らなかったなー。
 池はできたけど、水草とかメダカはまだです。研究してみます。
 どうしても心が裏山に向いてしまい、なかなか畑のほうに気持ちが入りません。でもこの冬、池・山道・裏山デッキ(花見台)・伐った竹の片づけをしたことで裏山への愛情が深くなりました。裏山への意識が変わりました。「ここはこんなに恵まれた大地だったんだ」と新たな発見をした気持ちです。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NNNドキュメント15『戦争孤児たちの遺言』を見ました。

2015年03月23日 22時51分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 日曜日の夜遅く10チャンネルでやってる <NNNドキュメント15> 『戦争孤児たちの遺言』(22日深夜)を見ました。だれか投稿していましたが、ドラマより胸に迫ります。ゴールデンタイムに放映して多くの人に見てもらう内容です。
 番組案内には次のように書いてあります。

 
 <番組内容>  「戦争孤児」 …… 70年前、焼け野原に12万人の子どもが放り出された。戦争孤児に国の援助はなく、過酷な生活を強いられた。終戦は、生きるための戦争の始まりだった。自らも孤児であった金田茉莉さん(79)は、同じ境遇にさらされた孤児たちがその後どんな人生を送ったか、約30年調査を続けている。戦後70年を迎える今、多くの孤児たちが重い口を開いた。あの時代の暗部を生きたその言葉は、悲しみと怒りに満ちていた。


 番組に出てきたかつての戦争孤児たちは、ちょうどぼくと同じくらいの年齢です。3歳から14歳くらいで敗戦になり、父親は戦死、母親は空襲で死に、子どもだけが残されます。そして親戚に預けられるか、養子として引き取られて奴隷のようにこき使われるか(戦死した兵士がわりの労働力として)、街で浮浪児といて彷徨(さまよ)うか。
「野良犬!」/「野良猫!」とののしられ、人間の尊厳を鈍刀で削りとるようにはがされ、いつもひもじい思いをして「なんで親といっしょに死なせてくれなかったのだ」と思いつづけて生きてきました。
 その人たちの声を取材した番組です。
 ちょっとした境遇の違いでぼくはそんな思いをしませんでした。しかし他人事とは思えません。
 その戦争孤児だった人たちが次々と亡くなっていく時代になりました。あと10年もすれば記録にとどめることができなくなります。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花花のみなさんは <咲く気まんまん> です。

2015年03月23日 03時00分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 春分の日を過ぎてほんとの春が来ました。裏山の花花のみなさんは <咲く気まんまん> で蕾をふくらませています。
 ご紹介しましょう。
         
 左は『ミモザ』。早くから黄色の蕾をつけていましたがやっと咲きかけました。これからひと月ほど満開の黄色がたのしめるでしょう。来年の花ために5月にはミモザの木を強剪定します。
 右は花海棠(ハナカイドウ)で、蕾がふくらんできました。去年はひとつも咲かなかったオオデマリも蕾をつけています。染井吉野は6本中5本が咲きそうです。コブシ/ミツバツツジ/ユキヤナギ/……。道子さんがせっせと植えたムスカリやネモフィラも咲いてきました。
 植えた木で枯れてしまったのは『沈丁花』。根が弱くて育ちにくいですが欲しい木です。買いました。
 春分の日に裏山の山頂から東向きの写真を撮ろうと思ったのに日が昇ってしまいました。そこで次の22日、日の出を見て、急いで登りました。この写真です。
                         
 この写真を見て気づいたのですが、カメラの日付の時間が2時間も進んでいます。実際は5時56分です。いつからなのかわかりません。進んだままずーっと撮っていたのでしょう。すみませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小杉健治『灰の男』を読んでいます。

2015年03月20日 02時12分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 今年も『六条大麦』を収穫して麦茶をつくろうと12月中旬に播きました。しかし遅かった。気温が上がらないので年内には芽が出ませんでした。2月になってやっとわずかに芽が出て、10センチほどに伸びています。しかし麦踏みするほどもありません。失敗しました。11月はじめに播くべきでした。
 写真は道子さんが播いて移植した『寒咲き菜花』です。これも遅かった。今頃満開になっていますが12月には花の咲く品種だそうです。播くのは9月。残暑厳しいときに播く。大豆も黒豆も収穫して畑の淋しくなる12月に、こんな花が見られたらいいですね。
                     
 今年は蓮華も播きたいな。
 数年前うちの蓮華畑をやめたら、竹の杖を持って犬を散歩させる村のおじいさんに「蓮華畑きれいで、見るの楽しみにしとったのに、なんでやめたんや」と言われました。田舎なのに蓮華畑がめったに見られません。せめてうちの畑を蓮華畑にしたいと思います。

 雨で外仕事ができないので本を読んでます。小杉健治の『灰の男』という小説を大型活字本で読みはじめました。
 実は「小杉健治」という作家も『灰の男』という作品もまったく知識がありませんでした。図書館でなんとなく手にとって中を見たら <東京大空襲> が出てきます。「あの頃を舞台にどんな小説が書かれたか」と大型活字本で4巻のうち2巻だけ借りてみたのです。読みはじめたら引き込まれ、3日で2冊を読んでしまい、続きの2冊を早く読みたい。今日は村の老人会総会があるのですが、それまでに図書館に行って借りてきます。この機会に加賀乙彦の『帰らざる夏』も読み返したいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陽気に誘われて畑仕事で汗をかきました。

2015年03月19日 02時16分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「山陰の生まれで寒さには強かったのに、寒がりやさんになった」と道子さんにいわれますが、たしかにそうです。寒いと暖房し、外ではたき火にあたるようになりました。だからきのうみたいなあったかい日はしあわせです。外に出たくなります。(いつも出てますが)
 で、きのうは畑仕事をしました。ホトケノザやナズナが伸びてきたので草刈り機で刈り、耕運機で土を掘り返し、ジョレンで畝を整えました。久しぶりの畑仕事です。雨の前に一仕事していい気持でした。
                       
 土はもう少し乾いたほうが作業しやすいのですが、また雨が降るという予報なので昼過ぎまでがんばりました。左の2畝は4ミリ目防風ネットのハウスにします。ここにはトウモロコシ/小豆をつくる予定です。アワノメイガ・アズキノメイガを完全にシャットアウトすることはできませんでしたが、無農薬ではいままでのどの方法より効果がありましたから。
 春の陽気に誘われていろんな花が「咲こう!」と声を掛け合ってるようです。花の好きな道子さんは朝飯まえに裏山を散歩して、目についた花を手折ります。きのうの朝は写真のように、<満開のサンシュユ/蕾の固いミモザ/ムスカリ/パンジー> をセットにして挿しました。ちょっといい感じ。
                       
 インフルエンザにかかってから少しおとなしくしていた母・妙子さんも春とともに元気になりました。陽気に誘われるように部屋の前のデッキに運動靴を出して、外歩きをしたりしないか。ちょっと心配です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山仕事に後ろ髪を引かれながら畑へ。

2015年03月17日 02時24分10秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのう16日は『畑の神さま』(大将軍神社)にお参りする日でした。カレンダーに書いているので朝から出掛ける用事でもない限り、忘れずにお参りするようになりました。軽トラはやめて道端の草花を見ながらブラブラ歩きました。
                       
 写真はオオイヌノフグリです。はびこるようにいろんな野草が生えてきました。あとひと月もすれば野草を採集して『野草酵素飲料』をつくります。
 土手の草刈りもはじまります。まえはよく伸びてから刈るほうが回数が少なくていいと思ってましたが、最近はちょっと伸びたところで刈るようになりました。そのほうがらくに刈れます。特にカラスノエンドウを伸びてから刈るのは、草刈り機にからみつき、余分なエネルギーがいります。土手の草刈り足場板は去年点検したので今年は大丈夫でしょう。
 裏山の池のまわりがちょっと枯山水風にととのえられてきました。道子さんの仕事です。ドボジョ系の庭園師なんかになってたら大成していたかもしれないほど熱心です。でも野菜の苗を買ったので、山仕事に後ろ髪を引かれながら畑に出ていきました。

「年寄りは小金を貯めてる」と思って「グルコサミン」などサプリメントとか「持病があっても入れる保険」とか「年齢化粧品」とか、ちょっと異常なほどコマーシャルしています。〈男性・77歳〉ではもう入れる保険とかなくなって、ホッとします。
 旅行の宣伝も盛んです。新聞の折り込み広告などで。ある知人のことを思い出します。
 彼は外国を旅するのが好きであちこち出掛けていました。電車でいっしょになったとき彼がまた外国旅行の話をして「まーそんな風にして30カ国ほど行きました」といいました。自慢でしょうか。
 で、ぼくが「旅先で現地の人と親しくなりましたか。その後交流している人がありますか」とたずねたら「どこどこ行ったか国を挙げてみてください」と話を切り替えてきました。ぼくが国の名前を挙げて彼がうなずくという風で、電車が着いて別れました。
 彼と別れてから思いました。「あそこは見た。あそこには行った。次はどの国に行こう」とあちこち訪ねる。「旅をする」=「そこに暮らしている人と出会い、心をかよわせる」が抜けていないか。ぼくもできればあちこち行ってみたいですが、ほとんど行ってません。山仕事・畑仕事・大工仕事で人生の時間が過ぎてゆきます。「それでいい」かなと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

友の訃報が入りました。

2015年03月15日 04時00分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 郷里・倉吉の友の訃報が入りました。母のショートステイの終わる日なので列席できません。弔電で別れを告げます。
 青春とか学生時代というのは「人生が濃厚」な感じがします。思い出がくっきり魂に刻まれ、生涯消えません。
『満蒙開拓青少年義勇軍』の方々に聞き取りしていた頃、小林伝さんという開拓団の人に聞いた話を紹介します。
 小林さんは15歳~20歳の若者より少し上の世代のときに、満蒙開拓団の一員として『満州』に渡りました。日中戦争のときに一度徴兵され、敗戦直前になってまた徴兵され、シベリアに抑留され、帰国後は開拓団関係者の団体で長く役員をされました。
 小林さんの世代が高齢になり、次の世代の方々に役員交代することになりました。次の世代=満蒙開拓青少年義勇軍の世代です。その彼らが思い出話をするのを聞いてると「不思議な気がした」というのです。聞き取りをしながらぼくも感じました。

「青少年義勇軍だった人たちが役員になって、『満州』開拓時代の思い出を語るのを聞いてると、壁に映画が写るようにその場面が浮かぶんですよ。あれは不思議でした」

 寝床に入って亡くなった友のことを思い返していると、たしかにあの頃の思い出は彫りが深い感じです。
 ぼくたちは、そんな濃厚な時間を通過して、その後の長い長い人生を生きてきたんだなー。
 そして多少 <あとさき> になりながら消えていくんだなー。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<裏山>から心が離れないものでつい ……。

2015年03月14日 04時24分49秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「裏山仕事は一段落!」と書いたのに心が裏山からどうしても離れません。食事を済ませて外に出ると、裏山に足が向きます。畑大好きで「畑仕事をしている間に死にたい」といってる道子さんも、外に出ると足は裏山に向いてしまいます。ドボジョの本領を発揮したくてうずうずしてしまうようです。
 で、なにをしたかというと下の写真です。裏山のデッキ前に踏み石を運び、小さな石灯籠を置き、リュウノヒゲを植え込み、小石を敷き、花を植え …… することはまだ山ほどあります。腰は痛くなるけどたのしい仕事です。
                        
 池に竹の棒を2本渡していますが、これは木炭を入れた袋を水中にぶら下げています。水が澄むかなと思って。いずれ気温が上がれば水生植物やポンプで浄化を考えねばなりませんがとりあえず浄化の実験です。
 
 図書館で本を物色していたら、ねじめ正一の『認知の母にキッスされ』という本を見つけました。ねじめ正一とお母さんの書いた『二十三年介護』という本を数年前に読んでこのブログに書いたことがあります。
 えっ? 作家(詩人)の息子にすすめられて夫の「二十三年間の看病記」を書いたお母さんが認知症になったか。
 読んでみるとそうでした。あれだけの文を書いた人が認知症になり、息子の正一さんが病院や施設に毎日行って世話をしているのです。現在90歳。存命ですから介護はいまもつづいています。(今月号の『婦人公論』は「親の介護 …… 共倒れにならないために」を特集しており、対談でねじめさんが母のことを語っています。秋川リサさんの『認知症の母に、私の心が「もう無理」と叫んだ』という手記も読むと「認知症って大変だ」と思ってしまいます。)
『認知の母に……』はねじめさんが小説風に「母の看護・介護」を書いている本です。介護は家庭の経済や人間の関係もあってなかなか語れないものですが、みじめにならないように、きれいごとにならないように、作家のねじめさんはよく伝わる文で「母との場面」を再現してくれます。
 ぼくは読みながら自分の母と比べてしまいます。比べることではないと思うのに。「ねじめさんとこに比べたら、ぼくはめぐまれてる」と思ってしまう。母は耄碌(もうろく)しましたが認知症ではありません。身内のだれそれを認識し、かつての同人誌仲間を認識し、自分の健康について考え、大きな文字で書いて渡すと読んで理解してくれます。(耳はものすごく遠い)これからもいまの状況はつづくでしょう。
 ニュースではいま認知症は数百万人。これからますます増える。自分がならないという保証はない。PPK PPK と簡単に言うけど死ぬのも大仕事みたいだし。今年のテーマは『認知症を予防するために』だな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年は裏山で花見をします。

2015年03月13日 03時02分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 裏山にはソメイヨシノを6本植えています。4月を過ぎて桜の苗を安売りしていたものです。「数年しないと花は咲かないというし、ほんとの 《花見》 はあの世からしよう」と思いつつ。
 ところが去年、3本の樹にチラホラ花が咲きました。
「4・5年で花見ができるほど咲くようになるかな」
 ときどき枝先のつぼみを見て「これは、花になるか葉になるか」と観察していました。気が早いけど花見のできる 《裏山デッキ》 をつくりました。デッキに敷くゴザを買い、テーブルも置きました。
 で、写真を見てください。白いお盆を持って裏山に行き、撮ったものです。
                     
 花見デッキに一番近いこの樹は、去年まで葉ばかりで花は一つも咲きませんでした。ところが今年は花芽(カガ / ハナメ)がいっぱいついています。このところ蕾がふっくらしてきて、葉芽(ヨウガ)と見分けられるようになりました。一つの花芽から3つ~5つの花が咲くそうです。
 エッ! するとこの樹は「いきなり満開」じゃないですか。ひゃー!
 この花芽は去年の夏頃にできたものですって。そんなに早くから。
 桜の葉が色づいて散ってしまう秋には次の芽がちゃんとついているので感心してたけど、もっと前から「来年は咲こう」と思っていたんですね。<桜の咲く意志> に頭を下げます。ありがとう。
 満開になればご案内します。花見に来てください。

 きのうは「あれをしなくっちゃ」と思ってたことを三つしました。
 一つは道子さんに手伝ってもらって道路沿いの溝に材木の支えをしたことです。防腐液を浸み込ませた2×4材は一昨年から用意していました。やってみると簡単でした。
 二つ目は裏山の飛び石の移動です。9年前裏山に登る石段をつけたのですが、ほかの階段をつくったので邪魔になっていました。その石を二人で一輪車に積み、池の縁に移動しました。
 三つ目はウッドデッキのテーブルを塗装したことです。古いテーブル面に塗装コンパネを張っているのですが、年に一度は塗るほうがいいと思いながら眺めていただけでした。水性塗料を塗るのはたやすいことでした。
 小さな念願を果たしたあとの『よかたん』温泉は格別でした。(母はショートステイ中)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分をほめてご褒美をあげました。

2015年03月11日 04時00分20秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                       
 山道の左側は去年、竹の生えるにまかせて手を入れませんでした。一旦全部伐りましたから太い竹は生えてきませんが、細い竹は伸びています。この冬伐っておかないと竹藪に戻ってしまいそうです。あたたかくなって蛇や蝮が這い出してくるまでに片づけることにしました。
 で、伐っていくと曲がって生えている竹に出くわしました。
「オッ! 見事に曲がってる。飾りにしよう」と山道の入口に立ててみました。なんでもないけどなんとなくいい。
 この冬は、シイタケ置き場の片づけ / 池づくり / 山道を整える / 裏山デッキづくり / 植えた木の手入れや寒肥 と 《山仕事》 に精を出しました。一段落したので例年のように自分へのご褒美。城崎に一泊で松葉蟹を食べに行きました。
「3月10日ともなれば雪は降らないだろう」と車で出掛けたのですがきのうの朝は雪。ゆっくり走って帰りました。
 舞鶴道に入って篠山あたりまでくると晴れています。三木は朝から降ってないようです。「裏日本」という言い方がありますが、城崎はそんな感じでした。ぼくは裏日本に生れ育ったので「やっぱり表日本はいいなー」と思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「裏山の花花のみなさん、こんにちは。」

2015年03月09日 02時01分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 裏山の仕事をして「やれやれ」と腰を伸ばして、植えた木木を見て「そうだ。花の咲く樹が何本あるか数えてみよう」とぶらぶら歩いたりして、「今年は六本のソメイヨシノのうち何本咲くかな」と木の芽を観察したりして、「桜が咲いたら裏山デッキで老人会の花見をしたい」と思ったりして、なんとなく時間がすぎていきます。
 いま裏山で咲いてる花のみなさんを紹介してみます。
         
 左 サンシユウ、右 鹿児島紅梅です。
 裏山で一番に咲いたのはネコヤナギでした。つぎがアセビ。つづいて写真の花花です。
 今年はミモザが「咲く気満々!」です。去年花のおわった5月にしっかり剪定したので、いーっぱい蕾をつけています。
 去年植えたカリステモン(ブラシの木/マキバブラシ)、ヤマボウシ、ムクゲ、ヒメコブシは花が咲くかな。ソメイヨシノは花が咲くまでに3~4年かかりましたが。
 裏山に木を植えだした8年前は、植木屋さんに「わたしだったら竹藪だったところに木を植えたりしません」と言われたりしましたが、木はちゃんと育ち、30種超の木木が花をつけます。
 道子さんは池のまわりにリュウノヒゲを植えて山道をととのえ、道ぞいにネモフィラ、ムスカリをせっせと植えています。
 もうすぐ春本番。花花とあいさつしに来られませんか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『責任』の <あとがき> を読んで涙が流れました。

2015年03月08日 01時28分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 天気予報にはなかったと思うのに起きてみたら雨。きのうは一日家の中で過ごしました。角田房子『責任』(ラバウルの将軍・今村均)のあとがきを読んで、涙が自然に流れました。引用します。本文のほうはまだ読みはじめたところですが。


 世間の一般常識からいえば、今村は軍司令官としてなすべきことを立派に果たしたというだけで、罪に当たるものは何一つないのだが、それで安居できる人ではなかった。 …… 部下を死地に投じたことも、″君国のため″といえばそれまでのことなのだが、今村はそれで済まされる男ではなかった。人から指摘されることもない罪ではあっても、彼は心中で己を罰し、三畳ひと間の小屋に自分を幽閉しなければいられなかった。
 特に私が感動したのは …… 数多い旧部下の中には、あやし気な理由で支援を求める者もあった。ある人から「大分、だまされておられますよ」と注意された今村は、「わかっています。だが私は多くの部下を死地に投じた身です。今は黙ってだまされていなければ……」と答えたことである。
 私はこの話には本当に驚いた。指揮官であった軍人のほとんどが、多かれ少なかれ部下たちを危険にさらしただろうが、その中の誰がここまでの責任を感じただろうか。今村は敗戦のラバウル以来、ただその罪だけを見つめ、それを日常の行為に現わして生きたと、私には思われる。
 韓国に住む旧部下(今村は一兵であった彼の名前も顔も知らないのだが)から、来日の希望を述べた手紙を受けとると、今村は脳卒中の後遺症の不自由な足をひきずって、自ら交渉に走りまわった。その痛々しい老いの姿を想像すると、記憶にはない一兵にまで及ぶ彼の愛と責任の行為に、私は頭を垂れるほかなかった。
 戦後の今村は、旧部下全員のために生きたように思える。それは戦死した者、刑死した者、生還して戦後の荒波の中に生きる者すべてが含まれている。地位、階級の上下も問わず、国籍も同列であった。いっさい差別はなく、今村にとってかつての部下は誰も同じく大切であり、すべてが出来るだけの償いをすべき対象であった。 …… 
 私は今村にのめり込んで三年を費やした。 ……
 今村が指揮した地域の戦死者(私の従兄弟二人を含む)と、戦犯としてラバウルやマヌスで刑死した人々への鎮魂の思いをこめてこの作を書き終えた今、私の戦争拒否の祈りはいっそう切実である。
 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする