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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

大豆を選別しました。

2010年11月29日 01時47分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 今年は株間を40センチと広くとって一本ずつ苗植えしました。そのため二本植えした去年が28キログラムなのに今年は18キログラムと収穫量は減りました。畝の長さは同じく80メートルです。
 大きくちがうところは、今年は大豆についてはほとんどムシ防除をしなかったことです。元々有機無農薬栽培ですから化学農薬は一切使用しませんが、今年はアセビなどの煎じ薬も大豆には散布しませんでした。黒大豆と小豆のほうに道子さんがせっせと煎じ薬を散布しました。
 ムシのほうも小豆が一番おいしいのでそちらに集中してとりつきました。今年は夜盗虫が小豆について、サヤを食い破って中の小豆を食べました。いままで夜盗虫が小豆についたことはありません。「夜盗虫にしてみたら、サヤに穴をあけてやわらかい小豆を食べてみて、『こんなにおいしいものを食べたことがないわ』と感動したでしょうね」とつぶやいていました。
 さて18キロの大豆を、いい大豆、カメムシが汁を吸ったり褐斑病にかかった大豆(写真)、紫斑病や黒い食い痕のついた大豆に分けて、紫斑病の大豆などは捨てました。紫斑病大豆は少量でした。褐色の斑点があるのは、①カメムシが汁を吸った大豆 ②褐斑病にかかった大豆 で、1,6キロありました。有機栽培ではよくこれもいっしょにして豆腐や豆乳をつくるのですが、今年はきちんと仕分けました。
 褐斑病の大豆は皮に色がついているだけだから煮て味見してみようと、煮豆をつくりました。新豆なのですぐにやわらかくなるだろうと煮るのですが、どうも固さが残る気がします。味はいいと思うのですが、どうかわかりません。そこで選別したいいほうの大豆を煮てみました。すぐにやわらかくなり、味もちがいます。二つを食べ比べてみるとはっきりします。やっぱりこの大豆も捨てるしかありません。
 今年のいい大豆は16キロの収穫です。去年と同じく7,5キロで味噌を仕込み、あとは煮豆として食します。豆乳や豆腐をつくるようになれば足りませんが煮豆として食べるならこれで充分です。来年も畝間を40センチにしてつくることにしましょう。ただ苗植えはしんどかったので、種を播いて防鳥ネットを張ることにします。
 そうそう、きのうは口吉川町の保健衛生委員によるクリーン作戦をしたのですが、そのとき「久次のほうで鹿が出た」という話を聞きました。鹿が出ると野菜類は全滅です。困ったなー。
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笑呼路次郎さんの環境講演会はたのしかったです。

2010年11月28日 01時34分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 順番だからと口吉川町保健衛生委員会の副委員長にならされ、活動の仕組みもよくわからないまま行事に参加していますが、きのうは北播磨の委員学習会がありました。出席してみると講師はなんと『笑呼路次郎』(エコロジロー)さんではありませんか。世間はせまいものです。
 1999年に神戸市西区神出町で『大豆畑トラスト』を立ち上げたとき、笑呼路次郎さん夫妻は趣旨に賛同して西宮からはるばる大豆づくりに参加してくださいました。その頃はまだ製薬会社に勤めながら環境問題にとりくんでおられましたが、いまは『お笑い環境士』として《環境腹話術・環境落語》で全国的に活動を展開しておられます。
 きのうの講演では二槽式洗濯機の話もありました。水道の栓をひねって洗濯槽に水を入れ、洗剤を入れ、汚れ具合を考えて洗濯タイマーを設定し、脱水槽に移して絞り加減を考えてタイマーを設定し、すすぎも水量やタイマーを選べます。そうだったなー。まさにセンタクの自由があります。(みんなドッとわきました)ほんとほんと! いまは片付けていて追加の洗濯物があっても全自動だから脱水前後は蓋が開かないし不便です。ネットで調べるといまでも国内のメーカーでつくっていて、5パーセントは二槽式洗濯機が売れているそうです。わかるわかる!
 そんな話をしてもらい、とてもためになりました。もし彼の公演をポスターなどで見掛けられたら参加されると三文の得になりますよ。三木の地で田舎暮らしをはじめたとき、笑呼路次郎さんご夫妻にも来てもらい、ビデオを見せてもらいました。あれからさらにスキルアップされ、きのうはたのしく、とてもためになる時間をありがとうございました。
 写真は、公民館の講座で町内を歩いたとき撮った写真です。保木のえびす神社の楠で、昭和天皇即位のとき全国の神社に苗が配られました。枝ぶりがよく、見ていると気持ちが広がります。

 
 
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歌劇『魔弾の射手』を見ました。

2010年11月26日 05時03分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 11月は忙しく、なにか潤いが欲しい、音楽を聴きに行こうという話になりました。三木の図書館にあるチラシを見るとオペラ『魔弾の射手』があります。チケットはもうないだろうとローソンで画面をクリックしてみると10日前なのにまだあり、きのう神戸の文化ホールに行ってきました。なにか写真を、と思ったのですが舞台を撮るわけにもいかず見た記念にチラシを載せておきます。ごめんなさい。
 外国の歌劇団の公演を聴くのははじめてでしたが、字幕スーパーがステージの両側に出てよくわかり、たっぷり舞台をたのしみました。序曲のはじめのところで、ドイツの奥深い森の空気を、ホルンが演奏しはじめたとき、生の音のやわらかさに鳥肌が立ちました。家でステレオで聴くのとちがう空気の振動が快かったです。「見てほんとによかった」と思いつつ、暗い夜道を三木まで帰ってきました。
 10年余り前、合唱団に入ってモーツアルトの『レクイエム』をサマーコンサートで歌いました。その秋《ザルツブルグ(モーツアルトの生誕地)で『レクイエム』を歌うツアー》に参加したことがあります。ザルツブルグとチェスケー・ブジェヨヴィツェ(南チェコの歴史ある地方都市でビールの発祥地・人口10万人)で南チェコフィルと公演し、そのあとプラハで二日ほど過ごしました。
 プラハの街を歩いているとチラシを配っている人がいます。受けとってみるとモーツアルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』の公演があるようです。また歩いているとチラシ。ドヴォルザークの交響曲の演奏があるようです。みんなで見学した教会ではバッハのカンタータを練習していました。特別に構えることなく音楽が生活とともにある日常の街角を、「いいなー」と思いながら歩きまわりました。
 きのうは文化ホールに入る前に夕食を食べようと、『もっこす』に入ってラーメンを注文しました。40代50代の頃は大倉山の中央図書館によく行きました。本を借りたらラーメンを食べるのが定番になっていたときもあります。ほんとに久しぶりにここのラーメンを食べて、20年もまえのことを懐かしく思い返しました。そしてラーメンは、いまもやっぱりおいしかったです。
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『郷土の伝説と史跡』ウォークに参加しました。

2010年11月25日 02時41分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 口吉川町公民館の『郷土の伝説と史跡』講座第二回は6キロのウォークです。22日が雨の予報だったので24日になり、16人が参加して、講師の解説をききながらのんびり三時間歩きました。写真は『東』というの『薬師堂』前で話を聞いている受講生の方々です。まわりのなだらかな山なみが紅葉しています。我が家から見ると数キロ先の集落になるのですが、間近に見るとここも紅葉がしっとり心を潤してくれる場所です。日が照っていたら秋の彩りがさらに冴えたでしょうね。
 ここから我が家を見ると、せっせと竹を切った部分はクヌギやコナラが紅葉していますが、残りの部分は竹の浅い緑が優勢です。畑仕事が一段落したらまた竹を切ることにします。

 こちらは16日の大将軍神社のお祭りの日に撮った写真です。この神社には散歩の途中に何度も寄っていますが、ふだん人を見かけることはなくて、人がいるときにはじめて来ました。というか「毎月16日にお祭りをする」と老人会の掃除の日に教えてもらってお参りしたのです。
 秀吉の三木城攻めのとき、支城である衣笠城も夜襲されました。城主は討たれ、主君の首を持って逃れた家臣は、近くの林で切腹して果てました。それを悼んで村人たちがこの神社を建てたそうですが、いまでは特にイボ・タコなどに絶大な霊効があるということで近隣からもお参りする人があるそうです。
 お参りの仕方も教えてもらいました。熨斗袋に「奉願」と書き、名前は書かずに生年の干支と年齢、男(or女)、「家内安全」とだけ書いきます。お金は12円、120円、1200円など12の十倍だけ入れます。願い事は心の中で思うだけにします。ぼくたちもそれを用意して朝8時過ぎにお参りしたした。当番の村の人は親しくしている前区長さんたちで、建物内に畳を出し、幔幕を張り、御餅を備えて準備中でした。お参りを受け付けてもらい、御餅をもらって帰りました。なお願いが叶ったら蛸の絵を色紙に描いて奉納するならわしになっているそうです。
 うちのの昔からのグループが当番を決めて毎月のお祭りをお世話しています。(お祭りは農繁期の6月と10月を除いて毎月16日です)それにしても衣笠城主が討たれたのを1578年とするとあれから400年余り、20軒ほどの村人が代々神社を守り子孫に伝え、お祭りをつづけてきたのです。そんな話がどこの村にもいっぱい転がっているこの国は、やっぱりかけがえのない、いい国ですね。
 
 
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大豆は18キロの収穫でした。

2010年11月21日 02時39分05秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 大豆を抜いて稲木に掛けたのは11月3日でしたから17日間干したことになります。乾燥した天候がつづき、サヤはパリパリに乾いています。同じ頃に刈り取った大豆畑トラスト『むーな村』では6日前に脱穀を済ませています。娘や孫からは「脱穀をいっしょにしたいから待って!」と連絡がありましたが、その前に雨の予報もあり、きのう二人で脱穀してしまいました。
 脱穀方法は人類が大豆をつくりはじめた頃からの原始的なやり方です。稲木に干した大豆を畑に広げたシートに運び(あらかじめ耕運機で平らにしています)、ビール瓶でサヤを叩いて収穫します。色づきはじめた墓場のクヌギ林を背景に写真を撮ろうとして、去年もその前も同じアングルで撮って賀状に入れたりしたのを思い出しました。
 そこで今年は大豆の木の写真にします。いままでは種蒔きのとき大豆を二個ずつ蒔いていましたが(5センチの間をあけて)、今年はきっちり40センチの間隔をとって一本ずつ苗植えしました。耕運機で畝立てをしたときは土を寄せず、苗がついてからしっかり土寄せをしました。除草しながら三週連続して土寄せをしましたから地中の幹が大豆の木の高さほどあります。
 根がよく張っています。稲木に掛けやすいように刈らないで抜いていきましたが、簡単には抜けず備中鍬を使いました。幹の太さも黒大豆ほどあります。40センチと余裕のスペースをもらって、大豆がしっかり生長したことがわかります。サヤもびっしりついています。
 収穫は18キロでした。これから選別すると16キロくらいになるでしょうか。味噌をたっぷり仕込み、煮豆をつくって食べるには充分な量です。去年は同じ長さの畝で28キロ収穫しました。種蒔きのとき二本ずつ蒔いたからです。多すぎましたから300グラム入りの袋をたくさんつくって、来た人にもらってもらいました。
 今年は大豆のムシ防除はしませんでした。道子さんがアセビの煎じ薬を一回散布しただけでしょうか。大豆、黒大豆、小豆を同じところにかためたのですが、道子さんは、小豆のムシ防除に精力をそそぎ、アセビの煎じ薬散布をハンドスプレーに切り替えてきめ細かく、毎日のように防除しました。大豆の畝にスズメがたかっているのも何度か目撃しました。なお道子さんの観察によると、蛙はカメムシを見つけるとパッと口に入れます。「ヤッ! カメムシを食べてくれた」とうれしくなって見ていると、モゴモゴとカメムシを吐き出してしまうそうです。蛙はほんとに多いのでカメムシ大好きになってくれるといいのですがね。
 次は黒大豆の収穫です。まわりの田んぼの黒大豆は刈り取って乾燥室の稲木に掛けたり脱粒したりで出荷の準備です。我が家でも葉を落として、稲木に架ける準備をします。
 
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『なばなの里』に行ってきました。

2010年11月19日 04時41分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

『なばなの里』イルミネーション・日帰りバスツアーに、二人で行ってきました。母・妙子さんには昼食と夕食を用意しましたから自分であたためて食べます。電子レンジと妙子さんの健康に感謝です。先に寝ておいてもらい、11時頃に帰ってきました。
 写真は「富士山と海」のイルミネーションです。富士山が赤い富士になったり、波が押し寄せるように色が変化します。ときどき波間にイルカが跳びます。見事なイルミネーションに寒さを忘れて立ち尽くしていました。その手前の光のトンネルも見事なんですが、富士山と波には圧倒されました。そして人の多さにびっくりしました。ここのイルミネーションは11月中旬から3月中旬までやっているそうですが、ぼくたちは新聞の全面広告を見て参加しました。連日こんなに多くの人が見に来るのでしょうか。たいしたものですね。
 イルミネーション点灯までに時間があったので、園内の食堂に入って天ぷらうどんを注文しました。木の良さを生かした民家風の食堂で、高めの料金設定ですが満員でした。出てきたうどんを見たら、濃い色のおつゆにうどんが泳いでいます。
「えっ? ここは三重県でしょ。うどんの出汁は関西風じゃないの?」
 娘が北海道の学校に行ってたときのことを思い出しました。学食のうどんは「関東風」の濃い出汁で、関西出身の学生たちはどうにもなじめません。「うどんを食べた気がしない。うすくち醤油のうどんを食べたい」
 その声を代表して、学生協の役員をしていた娘が学生食堂に掛け合い、関西風のうどんがメニューに載ることになりました。「ご要望のうどんを出すことになりました」といわれて、娘たち関西出身の学生が食堂に行ってみると、新メニュー『いなかうどん』と出ていました。
 関東以外は「いなか」というのか。
 ぼくは山陰の片田舎と関西でしか生活したことがありませんから、日本の東京中心という風潮を知りません。でもそんな屈辱を味わった人は世間にたくさんおられるでしょうね。そういえば赤穂の殿様も「田舎侍!」とののしられてカッとなったんでしたかね。
 うどんの出汁は一口も飲まずに残しました。あー、おいしいうどんを、タベタイ!
 
 
 
 
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三木市別所町を歩きました。

2010年11月18日 05時16分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 おらが村・口吉川町は三木の市街地の北東にあり、旧城下町である市街地をはさんだ南西側には別所町があります。しかし市街地の向こうなので、いままで日帰り温泉『湯庵』に二度行っただけで別所町にはなじみがありませんでした。
 きのうは三木市老人クラブの『若手委員会』のお世話で『別所町ウオーク』があり、二人で参加しました。うちのの老人会長に車に乗せてもらって旧三木駅に行ってみると、参加者は120人もあり盛会です。ちなみに老人クラブなのに若手委員会というのは、団塊世代の人たちを指すそうです。でも「60歳になったから憧れの老人クラブに入ろう!」と思う人はちょっといません。古希前後のぼくらの世代が若手委員会ということになります。そんな感じでした。
 お寺や神社、祠やお堂を見ながら一時間半ほどたらたら歩きました。別所町は三木城から姫路城に通じる昔からの街道で、集落の家並みは古く、口吉川町の農家とちがい、町屋の感じが出ています。高木の十王堂には閻魔大王だけでなく10人の王が亡者を裁こうと正座していました。いかにも庶民が手づくりしたような初々しい像で、閻魔大王のおどろおどろしい雰囲気はありません。人のいないときに訪ねて一人ずつに話し掛けてみたい親しみを感じました。
 写真は『在田寺』(ありだじ)というお寺の本堂で、中央が本堂のようです。綱をぶら下げた銅鑼の横に、ワイヤーを引いて珠を繰る巨大な数珠がぶら下げてありました。珠の直径は10センチもあるでしょうか。それを引き下げると上の珠が落ちて軽い機関銃のような連続音がします。ぼくも列に並んで順番を待ち、何度も数珠を引っ張って音をたのしみました。人がいなかったらもっとつづけて遊びたかった。
 神戸の須磨ニュータウンでは三十年近く暮らし、退職後10年ほどはそれこそ縦横無尽に散歩しました。山が削られてその土は海を埋め、平らになった土地に街がつくられ、道は清掃され、街路樹はよく手入れされ、公園は木がよく茂り、家家は庭先にプランターを置いて道行く人と花を分かちあい、快適な散歩道でした。神戸の下町の子らがはじめて地下鉄で名谷駅に降り立ち、嘆声をあげて見入るほどきれいな町並みでした。
 でも田舎に移り住んでみると「昔からの道ばたのお堂や祠や木立ちは大事なんやなー」とつくづく思います。 
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慈眼寺の山城に登りました。

2010年11月16日 03時35分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 ちょっと用事があって軽トラで三木市街に出ました。帰るときに軽トラだと細い横道でも気軽に入れるので、まだ行ったことのない集落にときどき入ってみます。見慣れない車は怪しまれますが、軽トラだと色も型も同じですから大丈夫です。先日は『弁慶の足跡』という田んぼの中の石仏を見ましたが、きのうは久留美神社の横から山陽道をくぐり、慈眼寺の山城に行ってみました。山陽道のすぐ北の側道から登るようになっています。
 車を置き、舗装された坂道を少し登ると城跡に出ます。そこからは秀吉が本陣を置いた平井山も竹中半兵衛の墓所も別所長治が篭城した三木城も明石海峡大橋も淡路島も一望できます。もう少しあたたかくて山陽道の騒音がなければ、しばしたたずんで遥か戦国時代の合戦に思いをはせたくなります。一望できる写真でなく看板を撮りました。ごめんなさい。
 12年前の6月、モンゴルを旅したとき、彼の地の人々の純情なはにかみにふれて、いまも旅のビデオを見て懐かしく思い出します。その年の3月にインド旅行をしたあとだったので余計につよく感じたのでしょうか。
 現在は日本の4倍の国土に長野県の人口ほどの260万人が暮らすのがモンゴル国です。広い草原で羊を放牧し、ゲルと呼ぶ一時間で建てられる円形の家に住み、のんびりゆったり暮らしている人々です。その国で行われたことが先日から読んでいた『ノモンハン戦争』に書いてあります。
 
 1935年(昭和10年……ノモンハン戦争の起こる4年前)12月、スターリンはゲンデン首相をモスクワに呼びつけて、「ラマ僧と仏教はモンゴル独立の敵であり、日本帝国主義を助ける勢力である、これを一掃せよ」とゲンデンに強く求めたと言われる。以降、ノモンハン戦が終結する1939年ごろまでに14201人のラマ僧が死刑となり、3751人が禁固10年となったとの調査がある。

 ノモンハン戦争勃発の1939年5月までに、反ソ、反革命、日本の手先との罪状で、25824人が有罪とされ、うち20474人が銃殺、5103人が10年の刑、240人が10年未満の刑、7人が釈放されたという。当時のモンゴルの人口を約70万人と見積もれば、これはおそるべき数字である。
 日本・満州国との間で緊張が高まっていく中で、夜な夜なトラックに満載された人々が運ばれ、やがて銃声がとどろいて処刑されていくさまを、息をひそめて聞いていたという回想は、ここにはいちいち引かない。

 気は重いですが『ノモンハンの夏』を読みはじめることにします。
  
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孫と柿狩りをしました。

2010年11月14日 06時29分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 土曜日で孫の大志くんが来たので柿狩りをしました。といってもうちの柿の木でなく、畑のとなりの家の柿をもらいました。柿のなり年は毎度もらっていますのでこちらもなれたものです。枝に吊るした黒いゴミ袋のビニールが目障りですが、これがカラスにはなかなか有効です。一昨年は近くの電線に何十羽というカラスが止まってこの柿をねらったことがあります。気味が悪いほどでした。でも今年は寄り付いていません。
 この写真はおばあちゃんが撮ったものですが、どのショットにも田舎が写ります。この写真では東の田んぼと家家が写っていますが、空気に秋の深まりを感じます。ほどなくなだらかな山々の紅葉が見られます。雑木林ですからクヌギ・コナラ中心の紅葉ですが、もみじのような鮮やかな赤でなく深みのある色づきが気に入っています。4月下旬の若葉と11月下旬の山々の色合いが田舎に暮らすしあわせを一番感じるときです。
 大志くんは風邪気味で早々に帰りましたがどうやらおじいちゃんも風邪気味です。日曜日は大人しく寝ておくことにします。半藤一利の『昭和史』からもっと彼の書いたものを読んでみようと『ノモンハンの夏』を買ったことをブログに書きました。この本を読む前に別の角度からノモンハン事件について書かれた本を読んでみようと思っていたら、本屋さんで岩波新書の『ノモンハン戦争』(田中克彦著)という本を見つけました。
 新書本だからすぐに読めると思ったのですが、そんな生易しい本ではありませんでした。この本は2009年6月に出版され12月に9刷と岩波新書としてはよく読まれています。田中克彦という人はモンゴル語ロシア語など数ヶ国語の文献に原文であたることができるモンゴル学の権威で国際的に著名な学者です。(はじめて知りました)
 モンゴルはソ連に続いて世界で二番目の社会主義国家にならされた国ですが、漢民族とソ連という大国の間にあって、あるいはソ連と大日本帝国・関東軍のつくった傀儡国家・満州国との間にあって、どれだけ弾圧されたかを知って気が重かったです。モンゴルの人々の善良さは、朝青龍の笑顔を見ても、出身力士の真面目さを見ても、よく伝わります。   (つづく)
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老人クラブで公民館を掃除しました。

2010年11月11日 05時11分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 11月11日、公民館を老人クラブで掃除しました。写真はナイロンコードを装着して裏にあるゲートボール場の草刈りをしているところです。小石が飛ぶので網目のマスクをかぶり、固いエプロンをつけています。7月の夏の掃除のときは草が伸びていて大変でしたが、いまは草が枯れているのではかどりました。今年はぼくが一人で二回ここを草刈りしたことになります。でもこのコートを使ってだれかがプレーしているのを見たことはありません。ほとんどのにゲートボール場はあります。でもこの四年間、散歩の途中で老人たちがプレーしているところを見たことは一度もありません。
 老人スポーツというのも盛衰があるようでゲートボールは衰退しています。かつてはサンテレビでもビデオで試合を放映したことがありますが、いまは一部の老人が細々とつづけている程度です。かわってグランドゴルフが幅広くやられるようになりました。こちらにはぼくも参加しています。話をきくと老人クラブによっては毎日のように練習しているそうで、グリンピア三木にも小野市の公園にもグランドゴルフの専用コースがあります。
 そういえば先日は『三木市長杯グランドゴルフ大会』が吉川町グランドで行われました。三木市全体ですから80以上のチームが参加し(一チームは六人)、うちのも出場しましたが成績は「よくわからん」です。数百人の老人が広いグランドいっぱいにひろがって元気にプレーしたのがなによりです。
 この吉川総合運動公園はなかなか立派です。三木市と吉川町の合併前につくられたもので、テニスコートは16面あり、数年前にはここで国体のテニス種目が行われました。いまではテニスコートは「全員昼寝」しています。
 ここの体育館も立派です。スイッチ一つで壁に収まっているイスが繰り出すようになっており、文化ホールが出現します。でもここで1000人を収容してなにか文化行事が行われたことは建ってから何回あったでしょう。いちばん最近はいつだったでしょう。
 またここの公園内には郷土資料館ということで藁屋根の家が移築されています。藁屋根の家くらい周辺にいくらでもあるのに、わざわざ公園に建てる必要があったのでしょうか。こんな睡眠中の文化ホールや博物館・資料館が全国にはいっぱいあるのでしょうね。ふだんはそんなことを意識しないで生活していますが、かつてのハコモノのツケを国民はこれからもせっせと払いつづけます。あーあ。 
 
 
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『喫茶去 ひらいし』に行きました。

2010年11月09日 22時46分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 広辞苑で〔喫茶去〕(きっさこ)を引くと 
【〔仏語〕禅語。お茶でも飲んで来い。もともと相手を叱咤する語であるが、後には「お茶でも召し上がれ」の意に解され、日常即仏法の境地を示す語と解された。】
と書いてあります。そんな看板のかかった店できょう昼食をとって、『喫茶去』という語をはじめて知りました。
 三木市民病院で診てもらい、どこかで昼を食べようと病院を出たら風雅な庭が見えます。普通の民家のようだけど看板はかかっているし、喫茶店でしょうか。玄関を入ると靴を脱いで上がるようになっており、中はアンティークな応接間という感じです。古希の年寄りには、ほっとくつろげる空気感がなかなかいい。
 お客さんはなくて、ぼくたちはカレーを注文してゆっくり食べました。フルートのBGMに気持ちがしっとりします。どんぶりに控え目に入れられたカレー、味噌汁とたくあんが付き、半分に切ったミカンが付き、さり気ないおもてなしのセンスを感じます。この前寄った画廊喫茶『風らん』と似た雰囲気ですが、こちらは大震災の頃からやっておられるそうです。
 昼食後ビデオカメラを買おうとミドリ電化に寄りました。でも品薄で購買意欲がわきません。改装のためあと数日でしばらく閉店するというので冷蔵庫を安売りしていました。見てまわりましたが「これなら買ってもいい」と思う機種に出会わず、山田電気にまわって買いました。道子さんは値の張る買物でどきどきしたといいます。いまの冷蔵庫は地震直後に買ったもので使い勝手がよくありません。15年近くつかっているし買い替えどきでした。
 つづいてビデオカメラを買うつもりで品物を見てみました。そのときになってふっと「ビデオカメラなんかそんなに使うかなー」と思い直しました。たしかに沖縄に行ったとき、ザルツブルグ・チェコに行ったとき、モンゴルに行ったとき、ビデオカメラは旅先の空気をよく写してくれました。現地の空気をしっかり撮ろうという情熱があのときはありました。いまは海外旅行を当分しそうにないし、空気感を写すといっても国内旅行もほとんどしないし、余分なわずらわしさを背負い込むような気がします。宣伝に乗せられてあまり使いそうにないビデオカメラを買うところでした。子どもの運動会用に買ってちょっとだけ写し、あとは押入れで眠っているビデオカメラって多いでしょうね。
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金物祭りは人がいっぱいでした。

2010年11月08日 03時11分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 三木市は『金物のまち』であることはむかしから知っていました。でも『金物祭り』ときいてもことさら行ってみたいとは思いませんでした。金物といってもホームセンターでネジや工具を買うくらいで、特別な刃物や工具を買いたいわけではありませんから。
 それでも三木市に住むことになり、市報に大きく書いてあるので移住四年目にしてはじめて行ってみました。広々とした市役所前の駐車場にいっぱいテントが張ってあり、店が軒を連ね、人があふれています。こんなに大掛かりなお祭りなのかとびっくりしました。三木市の人口(8万人)を越える10万の人々がやってきて、金物だけでなくバザーの品物や野菜や食べ物を買っています。
 市役所のホールに金物を寄せ集めてつくった鷲が展示してありました。一トンを越える鋸の歯や刃物をつかった迫力のある鷲です。ホール前の広場はステージになっており、播州吉川太鼓の演技をはじめて見ました。全身をつかって大きな太鼓を叩く。ほとばしるいのちがそのまま伝わってきます。
 昼寝をしてから畑に出て六条大麦を播きました。6月に刈り取り、炒って麦茶にします。麦は根がすごい。一粒の麦は砂地に水を与えるだけでシベリヤ鉄道の長さに匹敵する12000キロの根を張って育つそうです。大豆畑トラストをやっていたとき、空き畝に小麦を1メートル余り播いたことがあります。伸びた小麦をどうしたらいいかわからず、そのまま枯らしてしまいました。あとで抜いてみたら根が土をかかえ込んで大きな塊になっていました。
 遊歩道と畦の間に耕運機の幅ほどの長さ13メートルのうねをつくり、両側から土寄せをしました。それから何度も踏みました。踏み込んでおかないとあとで麦踏みをするとき土が落ち込んで水はけがわるくなるそうです。播いたあと3センチくらい土をかぶせ、不織布シートと刈った草でおおいました。鳥が麦を食べないように。
 芽が出て、孫たちが来たら、麦踏みをしてもらいます。そういえばぼくは子どものとき麦踏みをした記憶がありません。『麦踏みながら』というラジオ歌謡は耳に残っていますが。

   ♪ 山懐の段々畑 麦踏みながら見た雲は あれは浮雲流れ雲 
       一畝踏んで振り向けば 風に吹かれて空ばかり

 この歌が歌われたのは昭和27年ぼくが新制中学3年生のときだったんですね。いま you tube で検索してヘッドホンで聞き、涙がにじんできました。ラジオで『笛吹童子』の放送がはじまった頃、むかしむかしのことです。
 
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わが畑に新兵器が登場します。

2010年11月07日 06時21分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 アライグマの檻は、猫が立て続けに三匹かかったので市役所に返しました。アライグマがいま畑に出没しているかどうかわかりませんが被害は出ていません。猪も来ていないようです。野犬もこの近くにはいません。跋扈(ばっこ)しているのは猫とカラスです。でも動物の被害を少なくしようと、このたび畑に新兵器を導入することになりました。
 写真は90センチ×120センチのコンパネに垂木で枠をつけた重いパネルです。いまは稲木に立て掛けていますが、これを畑の遊歩道の四隅に設置します。設置するには『こぶつ』という仕掛けを使います。写真中央のパネルに立て掛けてある50センチほどの竹の棒です。ブログを通して知己を得た又八さんにつくっていただきました。
 この『こぶつ』はなかなかのスグレモノです。斜めにパネルを置き、こぶつのレバーで支え、少しでもえさにふれるとパネルが動物の上に落ちます。動物はパネルの下でもがいてなんとか脱出しますが、深く反省し、あるいは恐れて、二度と畑に近づかなくなる。動物の命とこれからの生き方を思いやった仕掛けです。これをつくった又八さんは宮本武蔵の故里・作州の出で、この秘伝の仕掛けも武蔵の頃から伝わる強力兵器なのでしょう。
 なおパネルは黄色を塗ってマスキングテープを貼り、その上から赤を塗りました。晩秋の山は色づきますが、落葉とともに灰色の景色になります。そんなときハッとするようなパネルがあればいいかな、と思いつきました。図柄や模様には何の意味もありませんし、宇宙にもアライグマにも何のメッセージも発していません。村の人たちは得体のわからないパネルに興味を持ち、散歩や墓参りの途中に尋ねられるでしょうから説明して差し上げます。
 なお市役所に檻を返しに行ったとき、受け取りに下りてきた人がこんなことを言われました。「この檻は洗ってありますがさらに特別なスプレーをかけてきれいに洗浄してから貸し出します。動物は捕まったときに危機ホルモンのようなものを出し、それが檻に付着していると次の動物が警戒して掛かりませんので」それにしては飼い猫は馬鹿なのか鈍感なのか次々と掛かりましたが。 
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畑仕事に精を出しました。

2010年11月04日 03時31分35秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 きのうは文化の日でお休みでした。JAの指導で営農組合でつくっている黒大豆は、夜盗虫に散々葉を食われましたがサヤはふくらんできました。年内に出荷できると値段がちがいます。そこで例年のように黒大豆の葉っぱ落としをしました。営農組合の村中総出の作業です。
 近年は農作業といっても田植えは田植え機がやりますから苗を畦に配る人と田植え機を運転する人があればできます。稲刈りはコンバインを運転する人と軽トラックでライスセンターに運ぶ人があればできます。ですから多くの人が一つの田んぼにとりついて作業する場面を見ることはありませんでした。きのうは写真のようにたくさんの人が一つの田んぼで作業していました。遠くてわかりにくいでしょうが19人が働いています。
 うちの畑もいろいろと仕事があります。まず落花生を収穫しました。半分ほどは10月はじめに稲木に架けたのですが、大粒のサヤをカラスに食われてしまいました。そこで掘ったらすぐにサヤをちぎり、洗ってしまうことにしました。墓場や山から見ているカラスがなにか文句をいっているようでしたが、これでは手も足も出ないでしょう。結局午前も午後もこの作業に時間をかけました。
 落花生を今年は35センチの株間で植えましたがもう少し広いほうがいいと思いました。来年は40センチにしてみます。今年は110株苗を植えましたが、一年間に消費する量と手間を考えると70株前後がいいと思います。夏の草抜きも収穫もかなりの時間がかかります。
 次に大豆を抜いて稲木に架けました。大豆は今年40センチ間隔で苗をつくって植えました。23本前後で8畝ですが、土寄せをしっかりしたので根張りがよく、抜くのに力がいりました。備中鍬を使わないと抜けない株もありました。大豆は黒豆とちがいひょいと抜けると思っていたのに、疲れました。去年は28キロの収穫で多すぎました。今年は何キロとれるかわかりませんが、味噌をつくり煮豆をする程度なら15キロもあればいいので株間は来年も40センチにしようと思います。ただ苗を植えるのは植える手間も水をやる手間もかかるので、直播きしてネットで鳩を防ぐほうがいいかなと考えています。
 あれこれ考えたり迷ったりしますが、その時期になると自然と結論が出てくるようです。その流れを大事にして生きたいと思います。
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ついに猫をシャットアウトしました。

2010年11月03日 01時52分23秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 朝8時にゴミステーションに行ってみると、ブロック塀の上に猫がいます。きのうは生ゴミの日ですが、いつものように入れないので困っているようです。写真写真! と思いましたがカメラを忘れました。ま、フツーの猫です。先日見たときはうちの畑で檻に掛かった三毛猫だと思いましたが、よく見ると白と黒の二毛の猫です。
 とうとうシャットアウトしたぞ。ゴミステーションの中を見ましたが食い破られた袋はありません。やはりあの猫だったのです。これで保健衛生委員は枕を高くして寝られます。いままでも、いつでもどこでもしっかり寝てましたがね。
 さて写真は口吉川町の『槙』という集落の奥の番谷というところです。お城のように高い石垣の上には農家らしい家が建っています。下の山すそを細い道が通っていますが、軽自動車がやっと通れる道幅で、三木よかわゴルフクラブから吉川町湯谷に抜けています。
 そんなことを聞いても「それがどうした」と思われるでしょうが、あの空気感を伝えられないのは残念です。はじめてこの道に入ったときはもう家はないと思ったのに山あいに立派な家が現れ、これは平家の落人のような秘境だろうかと思いました。いまはどこでも道だけは立派になっていますが、この4、5軒の集落は車を拒絶するようにかろうじて軽自動車が通るくらいの道が通じているだけなのです。車輪をはみ出させながら通れば多少大きくても通れるでしょうが。向こうから車が来たらどこまでも後退するしかありません。
 一年前にこの集落への道に迷い込んでから、折りを見ては村の人に番谷のことを聞いてみるのですが、山奥で道がせまい、ということしかわかりませんでした。ある人は「あそこに行こうと思ったら昔はもっと道が細かった。前を見ないで足もとを見て歩かないといけない山道だった」といい、またある人は「小学校のときあそこの家が火事になったけど消防の車が行けなんだ」と話してくれました。でもそれ以上のことはわかりませんでした。
 口吉川町の公民館講座で『楽しい郷土史講座』というのが先日あり、二人で参加しました。話の中にうちのの福地池(堤を築くときお坊さんが人柱になったという言伝えの池)や大将軍神社(秀吉の三木城攻めのとき衣笠城主を自害せしめ、村人たちが家来とともに祀った神社)の話も出てきて、興味深く聞きました。その中に槙というのことも出てきました。もとは百済民族など渡来人の集落があって、その族の番人たちが住む所を番谷というそうです。郷土史家・福本錦嶺さんの本に書いてあったのに、読み落としていました。法隆寺や飛鳥寺の時代までふっと思いをはせ、遠い遠い歴史を感じて番谷の存在がすとんとおさまりました。
 次回の講座では伝説と史跡を歩くそうで、たのしみにしています。
 
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