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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

ヒトラーの例え、見識を疑う

2009年10月31日 00時41分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 10月30日の朝日新聞『声』欄にきのうぼくのブログに書いた趣旨の投書が掲載されていました。もしこんな発言がなかったら自分が投書しようと思っていましたから、いまから写します。
 
  ヒトラーの例え、見識を疑う  東京都中野区 78歳の男性(名前略す)

 26日の鳩山由紀夫首相の所信表明演説は、従来の首相演説とは大きく異なっていた。格調高いとするか、中身が薄いとするか、その評価や論評は聞く側の自由だ。ただ政治家や政党党首として批評する場合には一定の矜持(きょうじ)があって当然だろう。谷垣禎一自民党総裁が、記者を前にしてヒトラーやナチスに例えて皮肉っていたのには驚いた。
 朝日新聞によれば、民主党議員についても「ヒトラー・ユーゲント(ナチス・ドイツの青少年組織)とか(のように)ね、ヒトラーの演説に賛成している印象を受けた」という表現を使った。
 これは、個人的印象を率直に語ったといって済まされるだろうか。欧米では、政治家の資質や思想の比喩にヒトラーやナチスを使うのは最大の侮辱であり、タブーでもある。
 谷垣氏は発言を速やかに撤回して欲しい。そうでないと日本の政治家の資質や歴史認識を疑われることにもなる。

 以上の投書に加えて言うならば、日本の政治家は、ヒトラー的なもの、全体主義の兆候に敏感であるべきです。そんな兆候があれば、怒りをもって持てる力を総動員して立ち上がるべきです。特高警察が国民を脅し、「生きて虜囚の辱めを受けず」と多くの兵士をむざむざ死地に追いやった日本という国家。二度とあのような国家にしてはならないという信念をいつも持っているべきです。
 他党をけなすのに軽々しくヒトラーを例えに出す感覚を許せません。
 もう一つ言いたいことがあります。鳩山政権は脱官僚と言っています。賛成です。インパール・牟田口・大本営・軍官僚・東条・がキーワードです。明日書きます。  
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見逃してはいけない谷垣発言

2009年10月30日 05時51分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 政権交代後はじめての臨時国会冒頭、鳩山首相の演説に各党の党首が感想を述べた。その中にあって自民党の谷垣総裁は、民主党議員の拍手を「ヒットラーの演説に拍手するヒットラーユーゲントを思い出した」という趣旨の発言をした。
 ちょっと待て! 国会議員を擁する政党の党首が『ヒットラーユーゲント』を持ち出すその感覚を、私は、見逃すわけにはいかない。
 谷垣さんが野に下る自民党の党首になったのは、それはそれでかまわない。パンチは効かないが無難という選択を自民党は行ったのであろう。「みんなでやろうぜ」と声を掛けて党を引っ張っていこうとするのもかまわない。それをよしとする人たちが応援すればいい。他党を評するのに、様々なけなし方、揚げ足取りもあるだろうが、自分の人格に跳ね返ってくるものだから、それはそれでかまわない。
 だが他党議員の拍手を評するに、軽々しくヒットラーユーゲントを持ち出す感覚を持った政治家が党首になっているのが許せない。
 ヘルベルト・フォン・カラヤンは人気絶大な指揮者だった。その彼は第二次世界大戦中ナチ党員であったため、戦争が終ってから厳しく糾弾されたときがあった。彼がはじめてアメリカのカーネギーホールで公演したときは、「ユダヤ人がチケットを買占めてしまい観客は二人だけだった」という映画も製作された。(『愛と悲しみのボレロ』)フランスでもナチスに迎合した人たちは糾弾された。ドイツでもナチ党員への厳しい告発と糾弾が行われた。
 日本では戦前・戦中時代に特高警察が暗躍した。「あいつはアカだ」と風評が立つだけで逮捕・拷問され、『蟹工船』を書いた小林多喜二のように警察で拷問死させられた。その特高だった者たちは敗戦後どう告発され、日本人はどんな反省をしたか。竹槍を持たせて主婦らを駆り立てた在郷軍人たちは、敗戦後は口をぬぐってなんでも人のせいにしなかったか。
 右でも左でも大きく振れるラベル貼りをするのは、日本人にはとても危険なことだ。いとも簡単に非難を集中させ、抹殺する社会風潮をつくる。
 うまくまとまらないが、あの谷垣発言の政治感覚は見逃すべきでない。
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大豆を干しました。

2009年10月29日 03時25分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 パントリー工事に熱中して数日畑に行かなかったら、大豆の葉が全部落ちていました。一日晴天がつづけばサヤがはじけて大豆が畑に落ちてしまいます。すぐに干さねばなりません。
 だからきょうはパントリー工事を中断して、畑仕事の一日になりました。いままで刈払い機で大豆を刈っていましたが、ことしは土寄せをしっかりしているので根元で切るのがむずかしく、一本ずつ引き抜いていきました。天気がいいので根の土は午前中に白く乾いてしまいました。
 稲木は二メートルの角材を地中に立て、畑に杭を打って針金で三方から引っ張って固定し、次に針金を渡して吊るところをつくりました。でも思ったより重いのでたわんでしまいます。そこで竹ざおや金属パイプを渡してそれに引っ掛けていきました。三段に掛けていくようにしましたが二段で干せます。ちょっと詰め過ぎたかな。
 写真は夕日色に染まった稲木の大豆です。下に網目の寒冷紗を敷きました。大豆が落ちても水分でふやけることなく回収できるように。作業をしながら畑に落ちた大豆を拾ってポケットに入れ、あとで集めてみると湯のみに半分くらいありました。ことし植えた品種『サチユタカ』は小粒ですが、拾った大豆を煮てみたら味がいいです。
 これで11月10日頃まで干したら完全に乾くでしょう。脱粒は去年とおなじくシートを広げて、ビール瓶でたたく方式を考えています。唐竿は時間があればつくってみようと思いますが、つくってもなれないと使いにくいようです。どこかに売ってあるかと調べてみましたが、唐竿は昔の農具・民具展に展示してはあっても、販売はしていないようです。多分半日あれば脱粒まではできるでしょう。
 あまりムシにはやられていないようですが、ことしは何キロ収穫できるでしょうか。
 
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『北朝鮮 楽園の「残骸」』という本を見て

2009年10月28日 01時10分10秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 半年ほど前にネットで『北朝鮮・楽園の「残骸」』という本を購入して読みました。北朝鮮は閉鎖的な国で情報統制が厳しく、庶民の生活実態を撮影した写真を持ち出すことは不可能です。国内移動中はいつも『指導員』と称する監視役がつきまとい、すべての行動をチェックします。しかし東ドイツ出身の援助団体の青年は、北朝鮮国内での援助活動の日々に撮影した写真を、あるルートで持ち出すことができました。その写真集をなぜかこの一月ほどまたトイレの本棚に置いています。
 ふつうには見られない平壌以外に住む庶民の貧しい暮らしが多数の写真を通して伝わります。胸が痛みます。それでも便座にすわるたびについ本に手が伸びます。こんな残酷な国民生活がいつまで続くのでしょう。
 もともとは北朝鮮の国を『地上の楽園』的に見ていました。平壌少年芸術団の子どもたちのほほえましい舞台を見たこともあり、国民のために社会主義を実現している国と思っていました。いわば北朝鮮の宣伝にのせられていました。
 しかし『北朝鮮 秘密集会の夜』という本を読んで、あの国の恐ろしさを知りました。それから矢継ぎ早に『凍土の共和国』『どん底の共和国』『暗愚の共和国』『北朝鮮1960』(在日朝鮮人が北朝鮮に帰る運動の開始された年)さらにたくさんの暴露本を読んで、とんでもない国だったことを知りました。
 いまでは日本のすみずみまで、あの国は人間抑圧の極貧国であることが知られています。庶民は貧しい生活に苦しみ、飢え死にし、国家は核兵器を持とうとやっきになり、まるでピストルを欲しがるヤクザです。
 朝夕冷え込むようになりました。また冬がやってきます。全ての自由を奪われ、着る物もない、食べる物もない、どうやってまた一冬を越すか見通しも立たない、せめてたっぷり食べてから死にたいと絶望的な気持ちになる庶民がいまこの地上に存在することを、ただ意識するしかない自分を歯がゆく思います。 
 
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数日見ないうちに大豆はすべて落葉。

2009年10月27日 01時17分48秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 パントリー工事に熱中してしまい、一週間ほど畑を見に行きませんでした。きのう畑を見たら大豆の葉っぱが全部落ちているではありませんか。大豆畑トラストをやっていたときは、毎年11月の文化の日前後に刈り取って干していました。やっぱり植物の時間はたしかです。こんど日が照ると大豆は乾いて、サヤがはじけだすでしょう。
 刈払い機で刈ってもいいけど稲木で干すのにやりにくいから、根ごと引っこ抜くことにします。下に寒冷紗を敷いて落ちた大豆を回収しながら、カラカラに干します。脱粒がやりやすいから。なるべく畑が乾いたときを見計らって抜くことにしましょう。
 黒大豆のほうも葉っぱの緑がくすんできました。まだ20号線の沿道ではごとに『黒大豆の枝豆』を売っていたり『黒大豆の枝豆狩り』の看板を出していますがもうおしまいです。我が家の黒大豆は12月になったら抜いて干すことにしましょう。黒大豆はサヤがはじけないのでそれまでになるべく葉っぱを落として乾かします。
 黒大豆に転作している畑では、JAが指導して11月終わりに葉っぱを落とす作業をします。葉っぱが落ちると黒大豆をはやく干せ、年内に出荷でき、値がいいからです。でもとっても疲れます。一畝の長さが100メートルありますから、何度も何度も前を見て後を見て、そのたびに腰を伸ばしてため息をつくことになります。老人会仲間から話を聞くだけでため息が出ます。
 米つくりとちがい、まわりの田んぼの減反転作は大変な作業です。(今年はうちのは二町六反余りが減反になります)それでも高齢者中心の農業はこのままやっていくしかないのでしょうか。
 それとも政権交代で少しはどうにかなるのでしょうか。
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頑張るのをやめたら道が拓けました。

2009年10月26日 09時47分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 パントリーは、屋根と外壁のオンデュリン張りと内装工事が残っています。土曜日は垂木を止め、針葉樹コンパネを張って屋根の上を這いずりまわったのですが、日曜日はどうも屋根に上がる気になりません。地面の木切れを集めたり、落としたネジ釘を拾ったり、ちょっとした補強工事をしたりぐずぐずして、時間だけが経過していきました。
 それでも「ぼくは大工仕事が大好きだから屋根の工事をはじめればうまくいく」と自分に言い聞かせて、屋根に脚立を立てかけました。しかし一歩も脚立に足をかけないで、外壁を張りはじめました。
 そこに先日ブログデビューした孫のおとうさんが顔を出し(前の晩から一家で泊りに来ていた)、仕事を手伝うといってくれました。そこで屋根に上がってオンデュリンを張る作業を頼みました。時間のかかる危ない仕事だし自分でするつもりだったのですが、甘えることにしました。
 それがよかった。あのまま頑張って屋根に上がっていたら、なにか事故でも起きていたのではないか。そんな気がいまもします。何の根拠もありませんが、ムシの知らせで危険を回避できたという思いです。
 写真はきょう26日(月)の朝撮ったものですが、きのうの作業のお陰で雨が降っても大丈夫です。オンデュリンは濃い小豆色の落ち着いた色合いです。まだ作業は残っていますが、時間をかけてたのしみながら仕上げていくことにします。きょうは一段落したので温泉にひたって疲労回復することにしましょう。
 
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なかなかすすみませんが慎重に! 慎重に!

2009年10月25日 03時13分55秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きょうは雨が降る気配のくもり空でしたが一日中大工仕事をしました。外壁は桟(さん)を補強してオンデュリンを打ち付けます。波板の波は大波なので壁に熱がこもりません。パントリーはいわば冷暗所ですから、北向きの場所ですし換気はよくしようと思います。
 写真は裏の藪から撮った大工仕事中の勇姿です。外壁で囲んでいますが、中では二つの脚立を並べ、桟の材木の束を渡して足場をつくり、その上で仕事をしています。足場の高さはわずか一メートル余りですが、それでも慎重にまわりのいろんな物につかまりながら動きます。
 写真は垂木をビス止めしているところです。昼前には8本の垂木を止めましたが、その段取りをつけているとき間違えました。まず下の作業台に8本の垂木を並べて2メートル40センチで切りました。それから一本だけ持って上がり、ビス止めする位置に印をつけ、下におりてドリルで穴をあけました。「これで上での作業がやりやすい。『段取り六分に仕事四分』って一級建築士の知人がつぶやいてたなー」と思い出しながら残りの7本も同じように穴をあけ、持ってあがり、いよいよビス止めするときになって、ドリルであけた穴の方向が間違っていたことがわかりました。
 現物を現場に持っていってあてがい、「こうビス止めするのだから」とビスの入る方向を確かめたはずなのに、そのイメージが間違っていたのです。体は機能が低下してもイメージは若く、と思っていたのにそのイメージ力が年寄りになっている!
 垂木を止めてから屋根に針葉樹コンパネを張りました。屋根の上を移動するとき、絶対に立ち上がらず、おしりをコンパネにつけたまま動きまわり、ビス止めしていきました。立ち上がってふらついたら下に落ちます。ぼくら老人は「ドテッ!」というか「ボタッ!」というか餅が落ちるように落下します。動物は落下しようとする瞬間にバランスをとって体勢を立て直したり、落ちるときなにかにつかまったりするものですが、そんなことはしない。
 落ちて怪我をしたら入院して怪我を治し、また復帰するものですが、老人は寝ている間に落ちた筋力は最後までそのままです。だから自分の経験上の時間とちがう時計を持って慎重に仕事をすすめています。
『老人力』ということばがありましたねー。どれがその力かなー。 
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『オンデュリン』とはどんなものですか?

2009年10月24日 07時07分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 パントリーの大工仕事は順調にはかどり、屋根を張るところまできました。屋根材を買ってこなければなりません。きょうは土曜日で、ホームセンターは混みます。貸し出しの軽トラは出払い、店員は客に応対するのに忙しく、なかなか付き合ってくれません。そこできのうのうちに屋根材の『オンデュリン』を買って運んでおこうと、工事を中断してナフコ・三木店に行きました。
『オンデュリン』とは聞きなれない名前ですがどんなものでしょう。
 送ってもらったカタログの挨拶状によると。
「オンデュリン社はフランスで生れた天然繊維・アスファルト系波型屋根材の生産と販売で、世界NO.1の出荷実績を有する世界的企業です。世界10カ国に工場を持ち、100カ国で販売され……」
 軽量で鋸やカッターで切れ、曲げることもでき、強さも耐久性もある屋根材です。50年以上の耐久性をうたっていますが、ぼくが死んでから先のことはどうでもいい。メインテナンスフリーというのがいい。瓦やサイディングを使用する本式の建築はタイソウだし、トタンの波板やタキロンの波板ではお粗末だし、どうしようと悩んでいたときにうまく出会いました。
 とにかくそれを買い、店の軽トラに積み込んでもらい、屋根・壁材は確保しました。雨が降るまでに屋根を張れそうです。
 側壁や屋根の下地は、構造材を兼ねて針葉樹のコンパネを使います。重くて切るのも取り回してビス止めするのも一苦労。一枚張るごとにヤレヤレ。きのうは寸法どりを間違えて切ってしまい二枚ロスしました。
 木を切ったり削ったりビスで止めたりしながら思いました。
 昼食もそこそこに、昼寝もせず、疲れても体の節々は痛んでも仕事にかかる。ここの木組みをどうしよう、この壁はどうつけようと思案する。「70歳を過ぎるまで自分でも気づかなかったなー。ぼくがこんなに大工仕事が好きだったとは。いやになって投げ出したいと思うことがないし、いくらでも意欲がわいてくる。山ほど大工仕事があればあるほど気持ちが高揚する。進路を間違えた人生だったかなー」
 そういえば「私は自分の人生をそっくりそのまま繰り返してもよい」と自伝に書いたのはベンジャミン・フランクリンでした。17人兄弟の15番目に生まれ、雷の日に針金で凧揚げをしても感電死せず、独立宣言をワシントンらといっしょに書いたり、アメリカの大統領になったり好きなように生きてしかも成功した人です。
 そろそろ人生の店じまいをしようかという頃になっても人間はいろいろと思うものですね。
 
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パントリーづくりは佳境に入ってます。

2009年10月23日 00時52分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 パントリーとやらを建てようと毎日大工仕事をしているようだけど、どんなものを作ってるんだ。写真が載らないじゃないか。とても人さまに見せられないような不細工な仕事をしているんじゃあるまいな。
 ご心配をおかけしているのではないかとひそかに心配しながら、きょうも写真なしの報告です。
 建築完了・鍵渡し後すぐ、引っ越すまでにパントリーを建てるつもりにしていましたから、その場所は犬走りを二メートルと広くとって、セメント工事をしてもらいました。そこにブロックを並べてセメントで固め、その上に建てればいいと簡単に考えていました。生コンは平らになると思い込んでいましたから。
 実際に重量ブロックを並べて水平を調べてみるとぜんぜんちがいます。ブロックの上に床の枠を乗せてから気づきました。さー大変。それから水平になるようにセメントを練っては詰めて調整し、二日回り道をしてしまいました。
 きのうは大工仕事が佳境に。床を張り、ツーバイフォーに似た建て方で、壁を下からパネル状に積み上げるやり方で腰板の高さまでできました。きょうも佳境のつづきです。パントリー建築クライマックスの二日間になりそうです。夜中に目覚めて角をどう組むか、どれだけルーバー式の換気窓をあけるかとあれこれ考えています。
 他の方の建築ブログを見ると、大工仕事のプロセスを写真で紹介しています。それを真似ようと思うのですが、つい仕事のほうに気をとられて写真を忘れてしまいます。屋根と外壁は『オンデュリン』という波板にしようと思っています。屋根はコロニアル瓦、壁はサイディングと大げさに考えていたのですが、つい最近ナフコ三木店でオンデュリンの波板を見て、いっぺんに気に入りました。
「なんだ、それは?」と思われるでしょ。仕上がりをたのしみにしていてください。
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もうすぐ大豆の収穫です

2009年10月22日 02時55分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 夜中から明け方に冷え込むようになり、大豆がいっぺんに色づいてきました。葉の落ちてしまった大豆もあります。10月中にはほとんどの葉が落ちて、乾いたサヤがはじけ、大豆が落ちます。
 そうなると大豆収穫の一連の作業がはじまります。大豆を刈り取り、稲木に架けて二週間前後日に干します。根っこから引き抜くのは土がつくので、刈払い機で刈り取ります。それから脱粒。選別して収穫作業が完了します。
 去年までは『大豆畑トラスト』で収穫し、山分けした大豆の分け前があって、それで味噌をつくっていました。しかしことしはうちの畑で収穫した大豆のみで味噌をつくります。それなりの収穫がなければなりません。去年は選別前で14キロの収穫でした。今年はいくら収穫できるでしょうか。
 脱粒作業では大豆畑トラストを思い出します。トラストを立ち上げた年はほんとに素人の手作業で脱粒しました。まず干す過程ですが、根っこから引き抜いて小屋の中に干しました。あとで近所のおじいさんに「干すって日に干すことやで」といわれました。脱粒では畑の持ち主の倉庫から足踏み式の稲こき機を出してきて、それでサヤをはずしました。ところがよく乾いてないからサヤがはじけません。サヤを唐箕(とうみ)にかけてゴミを吹き飛ばし、さらに手でサヤをあけ、大豆を拾うように収穫しました。
 去年の我が家の収穫は、トラスト初年度の大正時代方式よりさらに時代をさかのぼって、江戸時代くらいの収穫作業でした。というより日本古来の方法かな。稲木にしっかり干すのですが、落ちた大豆は下にシートを敷いて収穫。脱粒はビール瓶でサヤをたたき、バーベキューの金網に枠をつけたふるいでサヤと大豆を分けました。二人で作業して半日で一応の脱粒ができましたから、今年もそれでやるつもりです。今年は唐竿をつくって使ってみようかな。 
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イチゴ畑の畝をつくりました。

2009年10月21日 02時37分44秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ことしはイチゴ畑を二畝つくり、二条植えして、5月は週末ごとに孫たちがイチゴ狩りにやってきました。おじいさんおばあさんは大忙しでしたが、孫たちがイチゴをザルいっぱいに摘み、たっぷり食べるのを見て、来年はもっとしっかりつくろうとひそかに決心しました。
 イチゴの畝をつくる時期になりましたが、空いているところがないので今年の畝に来年もつくります。おいしいイチゴにするために、『かんてんぱぱ』で買ってきた海草肥料、コープ瑞穂農園の堆肥を一輪車に数杯、我が家で春に仕込んだ堆肥を一輪車で数杯、燻炭大袋を一袋、草木灰を衣装箱二杯入れて耕耘機で梳き込みました。それから畝の中央を深くV字に掘り込み、過リン酸石灰と金の有機・鶏糞を元肥として入れ、土をかぶせて畝を整形しました。11月はじめには、ランナーからとった苗200本ほどと買い足す『宝交早生』の二十株ほどの苗を二条植えし、春になるまえに苗を出してマルチを掛けます。
 写真は整形したイチゴの畝です。その横は小豆の畝で、いまサヤができています。「だらだらと」というか「つぎつぎに」というか小豆は一度にサヤができません。しかもムシがひどい。ほとんどのサヤや茎にムシが入ります。このままでは一粒も人間の口に入らないと思うほどすさまじい。そこで道子さんはできたサヤを毎日とって、ムシ食いサヤの中からいい小豆を取り出して収穫します。
 有機無農薬では小豆はつくれない。そう思って小豆には手を出さない人が多いですが、ここは「なんとしても有機無農薬の小豆を人間の口に!」という執念とムシとの勝負。勝つのは無理でも果敢に挑戦中です。ぼくはソンケイの眼差しで「エライなー」と見てるだけ。スンマセン。 
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秋の一日、音楽を聞きながら……。

2009年10月20日 02時27分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは基礎工事を完了して、パントリーの床をつくるつもりでした。しかし朝食後に車で散歩に出掛け、思わぬ時間を食ってしまいました。まず9時に郵便局に行き、それから吉川町まで足をのばして、未知の谷に入って行きました。左右の山が次第に迫ってきて谷の幅が細くなります。藁屋根の家がいくつか見え、田舎らしい雰囲気がなんともいい。稲刈りの済んでいない田があちこちにあります。
 このあたりは酒米の『山田錦』の作付けが全国一で、今頃稲刈りをします。山田錦をつくる田んぼは泥が深く、コンバインで刈ったあとは大きくえぐれています。稲の根は一メートルくらい下に伸びます。そして自家用のヒノヒカリの稲刈りはそのあとになります。だから村人に出会ったら「稲刈りは済みましたか」が時候のあいさつです。
 車を道路脇の空き地に置き、車道をそれて農道を登ってみました。数枚の田んぼで行き止まりです。口吉川町ではどの谷を登ってもため池に行き着きますが、ここはそれもありません。カブに乗って村人らしい人が追いかけるように登ってきました。なにもない道に知らない二人が入っていったのが気になったようです。
 六十代くらいのおばさんは、吉川町湯谷のの説明をしてくれました。それから家の認知症のおばあさんの介護、村の歴史、昔の農作業の苦労話など三十分ほど立ち話をして帰ってきました。
 写真は小屋の棚に置いたステレオです。新しくステレオを買ったので、小屋でも音楽を聴けるように古いステレオを置いたのです。まだカセットデッキを使っています。自分で寄せ集めたイージーリスニングのクラシック音楽のテープを聴きながら大工仕事をします。
 午後は小屋で大工仕事をしました。9センチ角の柱にノミで切り込みを入れます。ずーっとむかし、子どもだった頃、建ちかけの家から一日中聞えてきた大工さんのノミを打つ音を思い出します。
 かくして今日の日は暮れ、明日もかくあれと眠りにつき、夜中に目覚めてブログ中です。
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大工仕事ができるしあわせ

2009年10月19日 00時27分33秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 家の玄関脇に、小さな物置を張り出します。
 三年前に家を建てたとき、引渡しが終ったらすぐにパントリーを張り出す約束を、道子さんとしていました。ところが屋根裏に床を貼って二十帖の物置をつくり、ぼくにとっては生涯の大工事というべきウッドデッキをつくり、家の裏に一坪足らずの物置を張り出し、さらに窓の下にタマネギ用の屋根をつけ、またことしはこれも生涯の大工事というべき6×3メートルの農作業などの小屋を建てても、パントリーだけは置いてけぼりでした。
 しかしついにパントリー工事にかかります。重量ブロックで基礎工事をして、いよいよ大工工事にかかります。材料はきのうホームセンターに買いに行き、店の軽トラックを借りて運びました。
 ついでながらホームセンターは『ナフコ』の『三木店』がいい。この店では「これとこれとこれ」と買物をすると、軽トラックを店内まで横付けして木材などを運び、積み込み、しっかりロープをかけてくれます。まさに至れり尽くせりです。あれだけの木材を自分で買い、カートに乗せ、レジをすませ、借りた軽トラックに自分で積み込むことは、いまのぼくには不可能です。実にありがたい。この店以外で買うことは考えられません。
 木を切る。削る。釘を打つ。そんな仕事が子どものころからぼくは好きでした。よく引っ越しましたが、そのたびに棚をつけたりちょっとした家具をつくったりしました。中学生のとき、田舎のおばあちゃんの家の五右衛門風呂の蓋が朽ちてしまい、ぼくが板を買ってつくりました。板を切り、削り、だんだん丸くして五右衛門風呂の丸い蓋ができました。
 おばあちゃんはその蓋を日に干して大事につかいました。その蓋を見た近所の大工さんが声を掛けました。
「この蓋はだれがつくっただえ」
「中学生になる孫がつくってくれたですいな」
「ようつくっとるなあ。この子は中学を出たらうちに弟子入りせんだらあか」
 おばあちゃんは、孫にきいてみると返事してそのままになったそうですが、大人になってからなにかの機会にその話をきいて、「大工の弟子になってたらいまごろどんな生活をしてるかなー」とふっと思うことがときどきありました。
 あしたからしばらく大工仕事ができます。わくわくします。 おやすみなさい。 
 
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実りの秋の収穫はどうでしょうか。

2009年10月18日 02時36分36秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 5月はじめに植えたサツマイモは掘り終えました。6月10日・7月10日にツルをとって植えたサツマイモはまだ残っています。芋掘りに来た人がよろこぶような大きさではませんが、ちょうど扱いやすい大きさ、と道子さんはいってます。シモン一号を試し掘りして一月近く過ぎたのできのう掘ってみました。太い根が伸びていますがそれがふくらんで芋になっていない。ツルぼけでしょうか。たしかにツルや葉は見事に繁りました。あまりの勢いにツルぼけを心配して切って捨てたのにまた繁っています。
 ネットで調べたら『シモン茶』などシモンをつかった商品の紹介が多く、栽培レポートはあまりありません。それでも調べていくと、サツマイモのようにできるのでなく、あちこちに根が伸びてなかには二メートルも離れたところにできることもあるそうです。やれやれ。またそのうち掘り返してみることにしましょう。
 落花生は実がついていますが、もう少し早いようです。あと半月ほど待って収穫します。黒大豆と同じように、近年枝豆としてゆでて食べるのがもてるようなので、ことしも村の人におすそわけしましょう。そういえば一軒だけ落花生を菜園でつくっている家を散歩で見かけました。もう収穫されたかな。
 コンニャクづくりはまだできていません。イチゴの畝づくりもしなくては。コイモは掘り頃です。大豆の葉が落ちはじめました。11月はじめには抜いて干します。こんな時期になっても小豆のムシはすさまじく、道子さんは少しずつサヤをちぎってきてムシ食い小豆を仕分けしています。
 秋は畑仕事の忙しいときですね。日は短くなるし。 
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限界越え集落を訪ねるつもりです

2009年10月17日 04時13分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 田舎を散歩しているとよく廃屋を見かけます。写真の廃屋は家のまわりの草を刈る人があるらしく、家をおおうほどの草むらになっていませんが、それでもいまが花盛りのセイタカアワダチソウが茂っています。
 母屋の藁屋根はトタン板でカバーされており、まだ腐食がすすんでいませんから五年や十年で倒壊することはないでしょう。でもいくら手を入れても再びだれかが住むことは無理なようです。
 もう十五年以上前になりますが鳥取県中部の山奥の集落を訪ねたことがあります。その頃は『限界集落』という言葉はまだあまり聞かれませんでしたが、『限界を越えた集落跡』といえばいいような有様でした。
 道だけは舗装された谷を車でのぼっていくと、真ん中が陥没して両側の壁だけになった元『藁屋根』の家が見えてきました。車を止めてその家の跡を見ていると胸がざわめきます。どんな人が住んだのだろう。いつごろ見捨てられたのだろう。
 谷沿いにのぼるとそんな家の跡が連なるように現われて、体験したことのない、どう表現すればいいかわからない、ある気持ちになります。『故郷の廃家』でも歌おうかというような情緒的な気分ではなく、なんというか、カラカラに乾いた、サラサラ音を立てて心が崩れていくような気分といえばいいか。
 NHKの『クローズアップ現代』で数年前にこの集落消滅のテーマを取り上げたときは「全国で8000のが限界集落でありそのうち5000は消滅してしまった」と伝えていました。
 近くふるさとで同窓会があり、そのときにまた限界越え集落に行ってみようと思っています。この先もう訪ねることもないでしょうし、見てもどうしようもないけど、むかしから人が住みつき、時代を経て見捨てられる集落にもう一度この身を置いてみたい。
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