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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

味噌を仕込みました。

2011年01月30日 03時17分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 今年は寒いですね。家と畑の間にある池も、朝は毎日のように薄氷が張っています。去年まではひと冬に数回も張ることはありませんでしたが。
 28日・金曜日には味噌を仕込みました。26日に7,5キロの大豆を1,5キロずつ五つの大鍋に分けて水にひたしておきます。27日は注文しておいた麹を稲美町にもらいに行きました。『母の里こうじ』というむかしからやっておられる純朴な感じの麹屋さんです。この店では電動ミンサーを貸してもらえるのですが、10台全部に予約が入っていることがあり、うちは去年購入しました。
 家に帰って大豆を煮はじめます。今年は電磁調理のレンジで二鍋(オール電化なので)、100ボルトの電磁調理器でひと鍋、火鉢型の石油ストーブでひと鍋、それと外で練炭コンロを使って五つの大鍋を煮ることにしました。去年は携帯コンロを三つ使ったので外にコンパネで囲いをつくって風防にしましたが、今年は練炭コンロだけ外に出しました。
 圧力鍋で煮れば短時間でできるのですが、大豆があめ色になるまで時間を掛けて煮るのが道子さんのやり方です。その間鍋から目が離せません。道子さんはタイマーを30分に設定して、鳴るたびに五つの鍋を見て水を足します。焦げ付かせないようにとろ火で10時間じっくり煮るのです。その間に24キロもらってきた麹を4,8キロずつに分け、それぞれ皇帝塩670グラムと混ぜてよくほぐしておきます。大豆は無農薬有機大豆、塩は『皇帝塩』というのがうちの手前味噌のこだわりです。日本で一番おいしい味噌をつくるという気持ちで仕込んでいます。そしてその苦労をわかってくださる知人に少し味わってもらっています。
 28日は大鍋の大豆を温め直して、午後味噌の仕込みにかかりました。電動ミンサーで大豆を潰し、塩と混ぜておいた麹と練り合わせで煮汁でかたさを調整します。それからソフトボール大の味噌球をつくり、なるべく空気が入らないように樽の底に投げつけます。ひと鍋ごとにその作業をやりますから、延々とつづく感じです。二人で「何歳までこれだけの作業ができるかなー」といいつつ、なんとか三時間で作業を終えました。
 味噌の仕込みは道子さんがもう10年以上やっているのでいまさら書くことでもないのですが、実は電動ミンサーを出してきて組み立てるとき、大小二つの網目のどちらを去年使ったか迷いました。マニュアルを見ても書いてないし、小さいほうで試したらうまくいったのでそれで大豆を潰しました。そして思いました。 …… これから年々体力が落ち、何をどうしたか忘れるようになる。だから味噌づくりのような大事なことは毎年手順を記録しておこうと。
 去年電動ミンサーを買ったときは「72歳になってから年に一度だけ使う機械を買うなんて」と思いつつ作業しました。でも今年、大鍋5杯の大豆をもし手回しミンサーで潰していたら、これだけの作業はできなかったでしょう。やっぱり必要な機械だったのです。これで二度使いました。味噌の量を調整してでも、できるだけ長く使えるようにと願っています。
 そうだなー、あと10年。欲張りかなー。そうそう、ミンサーはお貸しします。どうぞ利用してください。
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コスミックホールに行きました。

2011年01月29日 02時07分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 東条町のコスミックホールに23日の日曜日に行ってみました。おじいちゃんのうちに遊びに来ていた孫の大志くんたちもいっしょに。ここは574人収容と小じんまりしていますが、日本でも屈指の残響のいいホールだそうです。ホール事務所のロビーに貼られたポスターを見てびっくりしました。ピアニストの小山実稚恵、仲道郁代、チェロのミシャ・マイスキー、ソプラノの鮫島有美子などが90年代初めにこのホールで演奏しています。世界的な演奏家が名を連ねるのは、演奏しやすいホールとして演奏家の間でも名が知れているからでしょう。
 どこかのパンフレットでそんな宣伝を見てから、このホールの中を一度見たいとずっと思っていました。でも演奏会がありません。去年の暮れに同じ建物にある東条町の図書館に寄ってみたら、新年の23日にバレースクールの発表会があることがわかって出掛けたのです。
 写真はバレースクールの発表会に加東市の市長が緞帳の前であいさつしているところです。市長もひまなのか、ホール唯一の一月の催し物がうれしいのか、張り切っています。天井を見上げ、壁面を見て、マイスキーがチェロを弾き、聴衆が聴き入る空気感を想像してみました。きっとよかったでしょうね。それにしても2月はこのホールに催し物がない。もったいない。
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コメントありがとうございます。

2011年01月27日 05時26分44秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 スリッパと座ぶとんの並べてある写真は、うちのの公民館です。道子さんと村の方とぼくの三人で公民館の掃除をしました。座ぶとんも久しぶりに日向ぼっこをして、気持ちよさそうです。婦人部という組織がなくなり、公民館の掃除はボランティアが順番にすることになりました。でもボランティアが減り、去年は年に一回でしたが今年は三回当番があたります。このの仲間に加えていただいたことに感謝して当番をしっかりしようと思います。
 ブログを読んでいただいた《ひげじぃ》さんから、猟友会の事務局をしていてヌートリアの捕獲もしたというコメントを寄せていただきました。テレビニュースを見ると「カミツキ猿が逃げた」「イノシシが襲った」「熊が出没した」などと報道され、そのたびに猟友会の高齢化によるメンバーの減少が指摘されます。
 猪、鹿、熊などは確実に増えており、去年の夏篠山の知人を訪ねたら、猿が数十匹の群れになって畑のサツマイモを掘ってしまったと嘆いておられました。ヌートリアはまだしも、アライグマは日本に住みついて宇治の平等院や二条城のような文化財も被害にあっていると報道されています。動物は必死ですから退治は簡単なことではありませんし、これからますます動物が増えるとしたらどうなるのでしょう。
 おととし武蔵の里・作州の山奥に知人を訪ねたとき、途中の鉄筋のメッシュや網で囲われた田んぼを見て、大変さに気が重くなりました。鹿ハンバーグの広告も出ていますがそんなことではどうにもなりません。佐用の知人が夜車で帰っていたら闇の中に光る鹿の目を見た、数えてみたら26頭いた、それが去るまでじっとしているしかなかった、と話したのを思い出します。鹿は群れて畑を襲うそうです。丹精こめて野菜をつくり、根こそぎやられたら、どんな気持ちでしょう。
 もっと関心を持ってみんながバックアップしなければなりません。(月並みなことしかいえず恥ずかしいです)
 写真をいっぱい撮っておられる《ふじわらです》さんには、『狐狸庵』にコメントをいただき、ヌートリアの写真を紹介していただきました。実は篠山でアパート暮らしをしていたとき、道子さんは毎日篠山城跡に散歩に出ました。乾新町の小西《黒豆パン》屋さんでパンのミミをもらい、お濠でアヒルにあげるのです。日曜日に二人で散歩していたら、アヒルがお濠からあがって真っ直ぐ道子さんに向かって歩いてくるのでビックリしました。アップしておられる写真を見ていたら今田町のサザンカ祭りの写真が懐かしかった。近くに勤めていたのでよく見に行きました。サザンカがあんな大木になるとは知りませんでした。篠山の写真がいろいろあり、またのぞいてみます。よろしく。
 
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我が心のヌートリア……を退治するにいたるまで。(2)

2011年01月26日 00時35分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 畑のそばの池に姿を見せるようになったヌートリアの写真を再掲します。2009年2月頃、ヌートリア一家が昼でも池のそばに姿を見せるようになりました。巣穴は池の向う岸の茂みにあるのですがこちらの岸まで泳いできて、上陸して草を食べるのです。母親と子どもが、白昼堂々とうちの畑から走って帰るのを目撃したことも何度かあります。
 …… このままではうちの畑の野菜は、全部ヌートリアの餌になってしまう。
 不思議なことに、いままで抱いていた畏敬の念とか「南米からはるばる日本に連れてこられ、異郷の地でなんとか生き延びているおとなしい動物」という思いやりの気持ちが消えてしまい、「捕獲して処分してもらわねばならない」という気になってしまいました。自分の利害にかかわると心は一変してしまうものです。
 市の農政課から檻を借りて捕獲。はじめは子ども二匹。つぎに親一匹。それから子ども小五匹。そのたびに農政課に引き取ってもらい、代わりの檻をもらって八匹を農政課に突き出しました。炭酸ガスによる安楽死処分をされたのでしょう。
 21日金曜日の夕方、MBSのニュース特集でヌートリアを扱っていました。「淀川にヌートリアが出没し、餌付けしてかわいがっている人もいる」というのです。そのニュースに『日本ヌートリア交流協会』という団体を名乗る人が出てきました。そのサイトを数日前に見て、我が家でヌートリアを捕獲した顛末をコメントに投稿しました。そしたらhiromonと名乗る人から返事をいただきました。一人でたのしんでおられるようです。
 ぼくもテレビニュースを見て、両手でパンをもらって食べる仕草はかわいいな、とヌートリアを思い出しました。餌付けしている人にすれば、自分の姿を見たら土手の斜面を上がってきて、パンをもらって両手で食べるヌートリアは、かわいくて仕方ないでしょうね。このニュースをまとめて報道している人も、「ヌートリアはけしからん」といいたいのか「ヌートリアをこんなにかわいがっている人がいる」といいたいのか、どうもよくわかりません。
 アライグマの被害にふれてこのブログを書いたとき、道子さんに「こんどヌートリアが池に住みついたら、捕まえないでおこうね。畑の野菜はマルチでカバーすればいいから」と言われたことにふれました。実はぼくも内心「そうしよう」と思っています。
 そして間近にヌートリアを見たくなって、近日中に伊丹の昆陽池に行ってみようと話し合っています。嗚呼、この矛盾に満ちた心をどうしましょう。
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我が心のヌートリア……を退治するにいたるまで。(1)

2011年01月24日 02時35分24秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ヌートリアを、篠山の雲部車塚古墳の濠ではじめて見たあの夕暮れの時間は、いまも心に残っています。1995年4月のことです。ヌートリアのことをあれこれ調べ、南米からはるばる日本に連れてこられ、なんとか生き延びて日本に住むようになった彼らの心を思い、迫りくる夕闇の中で哲学者のように深く考え込んでいるポーズに魅かれ、いつもヌートリアが心にありました。
 車塚古墳の近くに細工所(地名)という信号があり、そのそばにガソリンスタンドがありました。そこでガソリンを入れたとき、ヌートリアのことを尋ねたら、スタンドの所長はうれしそうに応対してくれました。「私も篠山川で見ましてね。あんな大きなネズミを見たことがないから、一瞬『放射能で突然こんなお化けネズミが出現したのか。これは大変なことだ』と思いましたよ」と話してくれました。彼の心のワクワクがよく伝わりました。
 人に会うとヌートリアが話題になるように仕向け、知らない人がいると得々と日本に住むようになった故事来歴の知識を披露し、いっしょに見に行こうと夕暮れの車塚古墳に案内しました。『ヌーリーちゃん』が登場する童話を書いたこともあります。ときどきヌートリアが出没して農業被害が問題になっている、とテレビニュースで報じられることはありましたが、我が心のヌートリアの地位は不動でした。
 さて時は移り場所は変わって2009年2月、三木市口吉川町の集落で暮らすようになって二年目のことです。我が家と畑の間にある小学校の運動場ほどの池にヌートリアが住みはじめました。成猫大の堂々たるヌートリアです。ワクワクがよみがえってきました。一匹だと思ったら二匹いました。「夫婦でこの池に住むようになったのだな」と思ったら、モルモット大の子どもが二匹いました。微笑ましい四匹家族で暮らすのだな、と畑の行き帰りに見ていたらイエネズミほどの大きさの子どもが五匹お母さんヌートリアのうしろをちょろちょろしています。これは肝っ玉母さんを中心に九匹の大家族です。
 その頃には村でも話題になり、学校から帰ってきた子どもたちやおばあさんたちも自転車を押したり手押し車を押したりして池までヌートリアを見にくるようになりました。ヌートリアたちは昼間でも池のまわりの草を食べ、1メートルまで近づいても逃げませんでしたから。ヌートリアは水辺に住み、前足には水かきがあって、両前足で食べ物をはさんで食べる仕草はとってもかわいいのです。
 ところがある日、畑に行ってみたら大根がかじられています。(2009年3月9日のブログの写真を再掲します)池から大根の畝までは100メートルくらい離れているのにみんなで食べに来たのでしょう。一畝全部、何十本という大根がかじられています。ヌートリアは掘り出したりできませんから地上に出ている部分をかじるのです。白菜もキャベツも……。  (つづく) 
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我が心のヌートリア……との出会いの場です。

2011年01月23日 03時04分20秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は、篠山市の『雲部車塚古墳』です。京に近い丹波地方最大の古墳で、濠の外の左右に陪塚(「ばいちょう」と読む)を備えています。写真左手に小さく盛り上がって見える土盛りがそれです。この写真は去年の暮に撮りましたが、はじめてこの古墳を訪ねたときは陪塚に松の木が生えていました。
 1995年4月、定年前になんとしても田舎で勤めたいとつよく思って、転勤しました。地震の直後だったので住居を見つけるのはむずかしかったのですが、篠山の市街地のアパートになんとか入居できました。篠山は歴史の息づく町で、せまい通りを歩くだけでなぜかノスタルジーが胸に迫ります。夕方アパートに帰ってくる頃、街の向こうに日が沈み、古びたすずらん灯がともり、どこかわびしい空気が町並みの上に居座ります。
 ついでにいうと、日曜日の朝、まだ夜明け前の時間に遠くで雄鶏が刻(とき)を告げ、どこかで牛が長い声で鳴き、やがて日が昇ると雲雀が鳴きながら空にのぼっていき、「あー、田舎の音の風景だなー」と寝床で感慨にひたっていると、突然音楽が鳴り「乾新町のみなさん、今日は溝掃除の日です」とか町内放送が聞えます。その音楽はなんと『青い山脈』。なにからなにまで懐かしい。
 田舎の空気が快く、よく車で町のまわりの田舎を見てまわりました。そして雲部車塚古墳に出会ったのです。
 濠には水がたたえられ夕日が沈む頃、なにかが水面を動いています。動物が頭を出して泳いでいるようです。濠のこちら側は石垣になっており、その上にトタンの波板で柵がしてありますから動物は手前の田んぼには上がれません。また古墳のほうに引き返していきます。そして向う岸に上がってじっと水面を見つめて考えごとをしているようです。まるで思索にふける哲学者の風貌です。
 迫る夕闇のなかでじっと動かずにいる動物には、見る者に畏敬の念を起こさせるような雰囲気がありました。ビーバーだろうか。そんな動物が日本にいるのだろうか。はじめて見た動物に心を奪われ、職場できいてみると「それはヌートリアだ」とだれかが教えてくれました。
 ヌートリアというはじめて聞く名前の動物が自然界にいることに感動して、ぼくは車塚古墳に夕方よく双眼鏡をもって出掛けました。神戸住まいの道子さんも娘たちも篠山にやってきてヌートリアを見にいきました。ヌートリアは夜行性ですから昼間は巣穴で寝ているのです。
 立杭焼の里・今田町の辰巳という集落から山中に入ってかなり行くと、ポツンと『狐狸庵』という料理屋さんがありました。車の通れる道はここまでです。ここは藤の花の天ぷらとか土地のものを調理して食べさせてくれました。そして夕方になるとタヌキがやってきました。ここのおばあさんが、障子をあけて「ポンシャンやーい」と声を掛けてカリントウをばら撒くとタヌキが山の中から出てきて食べました。(タヌキ汁は出ないで、テラピアという淡水魚の鯛<店では『いずみ鯛』と呼んでいます>が出てきました)この店に転勤でお世話になった方への一席をもうけて、いっしょにたのしんだこともあります。店はいまもあるでしょうか。
 篠山にいろんな知人を招待しよう。まず篠山城跡を見てもらい、車塚古墳でヌートリアを見てもらい、狐狸庵で食事をしてもらい、アパートで泊ってもらうコースを設定しよう、と二人であれこれ思案したこともあります。
 ごめんなさい。話がそれました。とにかく車塚古墳ではじめてヌートリアに出会って感動しました。 つづく
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寒い! 

2011年01月21日 04時01分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 家から180メートルほどだらだらと坂を下ったところに我が家の(借りている)畑があり、途中の池のほとりにはアオサギがいつも立っています。彼(か彼女かわかりませんが)は哲学者のような考え深いポーズで、じっと池の水面を見つめています。そのアオサギは、ぼくらが池のそばをタラタラ歩いて畑にいくと必ず飛び立ちます。大きな鳥ですから「やれやれ、この世の不条理について思索していたのに中断されてしまった」とでもいうように、ゆっくりと大儀そうに飛び立つのです。「いいよいいよ。そのままじっとしていて」と声を掛けたくなるのですが。
 さてそのアオサギが、きのうは車で通りかかっても、1メートル近くそばに寄っても動きませんでした。そこでカメラを取り出して写真を撮りました。寒くて動きたくなかったのか。もう老人サギで動くのが大義だったのか。余程深く思索にふけっていたのか。
 寒いので畑仕事も散歩もなし。でも一昨日は、残りの黒大豆を稲木から下ろして踏み、後で植えたネオアースの細い苗に追肥しました。長いこと雨が降らず、乾燥していて畑の土もサラサラした感じです。鶏糞と灰を混ぜて上から撒き、その上に燻炭を撒き、さらに風で飛ばないように畑の土を撒いて押さえました。水を少しかければいいのですが、凍結防止のため農業用水は止めてありました。
 これだけ寒いのに雪は降りませんね。緑ヶ丘のサティーに行ったら、プラスチックのソリが780円で売ってあります。売れないので値下げしたようです。このあたりは雪が積もりそうにないですからね。でもおじいさんとおばあさんは、顔を見合わせて孫のために買ってしまいました。
 雪よー 降れ!

 
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『子どもたちの8月15日』(岩波新書)

2011年01月17日 03時21分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は新春囲碁ゴルフ口吉川町大会に勢揃いした各老人クラブの方々です。今年はどのも張り切って2チーム出場しましたが、うちのは老人が集らず1チームだけ参加しました。この人たちもそれぞれに昭和20年8月15日の思い出をもっておられるでしょうね。
 私のブログを読んでいただいている方は「このブログを書いてる人は、日本の敗戦の日につよいこだわりがあるようだ」という印象を持たれるでしょう。その通りです。では昭和12年10月生まれで国民学校(=小学校)2年生だったぼくが、昭和20年8月15日にどんな体験をしたかといえば実はなにも体験していません。敵の飛行機も味方の飛行機も飛んで来ず、兵隊さんも見かけず、山陰の山奥の静かな村で、蝉をとったり魚をとったりして遊んでいました。
 昭和20年8月15日は晴れていました。いつものように蝉取りの網を持って裏山から帰ってくると、隣りの家からおばあちゃんが帰ってくるところでした。(うちのラヂオは壊れてて、大人は隣りで玉音放送を聴いたのです)おばあちゃんはぼくを見ると急に泣き声になって「啓一や。日本は負けただぜ。おまえ、大きゅうなってアメリカにカタキとってごせえよ」といいました。どういうことかわかりませんが、とにかくこの場面だけは覚えています。
 ぼくらより少し上の年齢で(敗戦のとき15歳前後だった少年たち)敗戦を体験した人たちは、「兵隊さんになってお国のために死のう」と決意して、陸軍幼年学校を志願したり満蒙開拓青少年義勇軍に志願したり海軍の予科練に志願しようとしたでしょう。城山三郎さんも半藤一利さんもそんな世代の人です。では昭和10年から15年に生まれ、敗戦のとき6歳から12歳くらいだった子どもたちは、どんな思いで生きてきたでしょう。
 図書館で『子どもたちの8月15日』という岩波新書を見かけたとき「これだ! 読んでみよう」と飛び付きました。漫画家の山藤章二(1937年=昭和12年生れ)、阿刀田高(昭和10年生れ)、筑紫哲也(昭和10年生れ)、中村敦夫(昭和15年生れ)、小澤征爾(昭和10年生れ)、大竹宣彦(昭和13年生れ)、河野洋平(昭和12年生れ)など30人余りの著名人が敗戦の日の思いを書いています。でも読んでみるとおもしろくないのです。
 ぼくたちは敗戦で価値観がひっくり返り、大人たちがうろうろした時代に子どもだった。子どもの眼でじっとそんな大人を見て大きくなった。その体験を交流しようという本なのにおもしろいと思わない。なぜだろう。
 筑紫哲也のこんな文に出会って「敗戦の日は胸にしまっておくしかない」と思います。

 日本とアメリカがかつて戦争をした、という「事実」自体が今日の日米〝同体〝ぶりからは推量できないし、それを知らない若い人たちもいる。それを教えた大学教授に向かって「それで、先生、どっちが勝ったんですか」と学生が反問した、というエピソードはもう20年以上も前の話である。
   
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大将軍神社 ⇒ 八幡神社(厄神) ⇒ 直会 ⇒ 餅撒き

2011年01月16日 20時47分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 今日16日は大将軍神社の月例祭の日です。ここに移住してから体験したことのないほど冷え込む日でしたが、散歩のかわりに軽トラに乗って二人でお参りしました。ここは月例祭の日に、12円、120円、1200円 …… を生れ年・干支・性別・年齢を書いた封筒に入れてお参りすることになっています。それを聞いて去年11月にお参りしてから二度目です。
 寒い日でしたが新年だったのでお参りした人は少なくありませんでした。当番の人はお気の毒に、寒い神社の建物の中と鳥居の前で待機しておられます。火を焚いておられましたが、かなり大きな炎の焚き火にあたっても、風が強く背中は寒く当番の方は大変だと思いました。
 細川町を軽トラでドライブして11時に八幡神社にお参りしました。うちの村の鎮守社・八幡神社は厄神さんということで16日・日曜日に神主さんに来ていただいてお祭りをしたのです。厄神祭は18・19・20日ですがうちの村では直前の日曜日にしますので、今年は二つの祭りが重なりました。写真は村の人たちが並んでお払いを受けているところです。
 神事のあとは公民館に場所を移して『直会』です。<直会(なおらい)= 神事の後、お神酒・神饌をおろしていただく酒宴> ぼくは軽トラで家に帰り、歩いて公民館の直会に参加しました。当番の方たちがつくったおでんとお酒で、話が盛り上がっています。
 来年の1月14日は土曜日だから、『東中』の《とんど》は老人会でなく村主催にして回覧板をまわし、老人会がお世話するかたちにしよう、とかゼンザイをふるまえばもっと人が寄るとか、お餅をついて『へそ餅』にして食べてもらおう、とか子ども会に話して子どもの参加を予約しておかないと貴重な小学生を確保できない、とかいろいろ意見が出ました。
 そのとき「正月の注連飾りもしない家が増えてきた」と嘆いている人がありました。新聞折込みの門松の紙を一枚貼ってすませる家がある。もっとちゃんと正月を祝ってもらわんと……。たしかにその通りです。
 きのうの《とんど》では、便所の注連飾りは横に分けておき、別の火でとんどしました。そんなことも、とんどの火で焼いたへそ餅は雷の鳴るときに食べることも、もうほとんど伝承されなくなっています。最後の餅撒きは午後一時からで、子どもの参加は五人でした。73歳のぼくでも餅を18個拾いました。敏しょうな子どもたちは買物袋に重いほど拾っていました。
 こんな行事が一年でも長くつづきますようにと願うばかりです。
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村の老人クラブでとんどをしました。

2011年01月15日 01時19分13秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きょうはうちの村の老人クラブで新年会をしました。あと2、3名は出席者が見込めたのですが風邪とか所用で7名のささやかな新年会です。道子さんはきのう診療所で診てもらったら風邪と診断され、参加できませんでした。
 夕方4時からはとんどです。各家庭の正月の注連飾りを持ち寄り、公民館の裏で燃やしました。去年は村の貴重な小学生が三人参加して、書初め練習の習字を燃やしましたが、今年は老人ばかりでしたからもっぱら餅を焼いて食べました。
 去年から老人会で復活させた正月の行事ですが、周知徹底していないようです。焚き火くらいは家の前でもできるので、注連縄飾りを持ち寄る必要を感じないのかもしれません。来年は小さいポスターをつくって、村の中に十枚ほど電柱に貼ろうかな。そういえば蓮花寺の鬼踊りを今年は2月6日の日曜日に行うとポスターが公民館に貼ってありました。我が家では松明と餅を拾うのが年中行事になったようで、娘たち孫たちはゲットしに来るつもりです。
 畑仕事はずっと「お休み」で、生ゴミを堆肥箱に捨てに行くだけです。先日はタマネギの苗を押え直しました。「ネオアース」は六月に収穫して翌年の三月までもつ品種ですが、ちょうど蒔く時期に種を入手できなくて蒔くのが遅れました。しかし年末になるので、マッチの軸程度の細い苗でしたが強引に250本ほど植えました。小さいタマネギもスープなどにはいいので間隔を8センチ前後にしました。しっかり押えたつもりでしたがこの寒さで土が凍り、根が浮き上がっています。そこで気温の上がる午後に畑に行って、苗の根元の土を押え直したのです。11月に植えた1000本ほどは苗も大きくなってしっかり根付き、追肥もできているのですが、年末に植えた苗は細いままでまったく生長していません。追肥は1月末にしようかな。
 寒いので裏山の竹を切るのもおっくうで、一日10本切るだけです。切り倒しても積み上げる場所がないので、10本切り倒したら数メートルに切り分け、枝のある部分は妙子さん用に集めて積み上げ(母はどんなに寒くてもハサミを持って裏山に登ってきます。枝をハサミで切るのに余念がありません)、太い根元のほうはそろえておきます。かなりたまったので電気丸鋸で1メートルくらいに切って薪にしなければなりません。節の間には燃やしたとき弾けないように切れ目を入れねばなりませんし。それに畑の薪も山積みになっていてそんなに要らないし。
 この冬も1000本の竹を切ろうと決意したのですが、弱々しい決意なのでどうなるかなー。
 
 
 
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コヤマカメラが閉店したんですってね。

2011年01月10日 04時32分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 去年の暮「三木山森林公園でバードウオッチングがある」と市報に出ていましたので、二人で参加しました。道子さんはかつて「日本野鳥の会」にちょっとだけ入っていたことがあり、裏山に飛んでくる野鳥に関心があるのです。裏山の竹を切ったので、そのスペースに見なれぬ小鳥が飛んでくるようになりました。その名前を知りたかったのです。
 森の研修館でミーティングのあと、みんなで野鳥ウオッチングに出掛けました。写真は双眼鏡をぶら下げて、みんながウロウロしているところです。落葉しているので小鳥を見つけやすく、あとで確認したら見た鳥は30種近くになりました。もっともあの会では、カラスやハトも数に入れるのですね。
 新年は公園のバーベキュー広場でミーティングをすることになり、参加するつもりでしたが風邪気味で行きませんでした。でもこの会に入って鳥の名前を知りたいと道子さんがいうので、軽い双眼鏡を買うことにしました。双眼鏡といえば、十数年前退職したときに、コヤマカメラで双眼鏡をバードウオッチング用に買いました。でもいまとなってはこれが重くて、使っていると首も腕もだるくなるのです。そこでまず出店できいてみたら「コヤマカメラは閉店してありません」といわれてしまいました。
 ええっ!? …… 「コヤマカメラは永遠です」とは思わないけど、どんなカメラがいま出てるか、ときどきショーウインドーをのぞいたりしてたのにいつの間に閉店したんだろう。
 ネットで見たら2009年4月に閉店。ずいぶん前のことです。時代の流れですね。あーあ。
 ぼくがはじめてカメラを買ってもらったときのことを思い出します。山陰の片田舎に住んでいたのですが、カメラがようやく庶民の間に出回りはじめた頃のことでした。
 カメラに憧れる中学生だったぼくは、学校が終ると本屋に出掛けて毎日カメラ雑誌をめくりました。カメラの広告を見るためです。レンズやボディーの光る写真をほれぼれと見ます。このカメラはシャッターはセイコーで250分の1、レンズはロッコールで明るさ2,8とか何度も見て暗記してます。
 そんなに見たいのならどうしてカメラ屋さんのショーウインドウで実物を見なかったかって? カメラ屋さんというのはなくて、写真屋のウインドウには写真機を置いてない時代でした。
 あまりにぼくの『カメラ病』がひどいので母親がカメラを買ってくれました。オリンパス・シックス! 当時流行りの高級カメラです。昭和28年高校一年生のとき、ぼくはカメラを手にしました。学校から帰るとまず手を洗い、革ケースを開けてカメラを取り出します。ボタンを押して蛇腹を繰り出し、ファインダーをのぞきます。あの胸のときめきはいまも覚えています。
 次に悩んだのは、ぼくがカメラを持っていることを友だちに話すかどうかでした。言いたいし、言えばみんなが押しかけてくるし。でもついに話してしまい、友だちは連れ立ってぼくのうちまでカメラを見にきました。
 いまの「レンズ付きフィルム」(使い捨てカメラ)が出た頃からカメラへの思いは冷めてきました。あんなに憧れていたカメラが使い捨てにされるなんて。それにしてもコヤマカメラが閉店したんですか。ひとりでしばし感慨にひたりました。
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西中の龍神さまにお参りしました。

2011年01月09日 04時33分48秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは寒いけどいい天気でした。そこで午後散歩に出て、隣村の龍神さまにお参りしました。写真は頂上にある社(やしろ)ですが、銅版葺きの反りかえった屋根で、立派な木材をふんだんに使って建ててあります。ゴルフ場会社が建ててくれたもので、もしこの社が建たなければ村の祭神は消滅していたかもしれない、と隣村の人に聞いたことがあります。
 この社には5つの祠(ほこら)が奥に並んでいますが、祠の中はどれも空っぽです。5つ並んでいるからには愛宕さんとかなんとか大権現さんとかある筈なので、名札をつけていただくとうれしいのですが。それと中にお札を入れておいてもらえばありがた味が出てくる気がします。近くの篠原神社にお参りしたときは、100メートルほど離れたところに新しくて小さい建物があり、いろんな祠が集合住宅みたいに並んでいました。上にそれぞれ名札がついており、お賽銭を入れる箱もあり、なんとなくありがたい雰囲気がありました。
 この西中の龍神さんですが、わたしたち老人がこの山に登るときは、少し気力を結集しなければなりません。気楽な散歩のつもりで階段を登りはじめると息が切れてきます。坂にとりついたらまず200段のゆるやかな階段がつづきます。そこで鳥居をくぐり、落葉の積もっただらだら坂を登り、途中いくつか急な階段を上がり、まただらだら坂を登り、最後に急な石段を上がったら頂上の広場です。
 下りるときも要注意です。急な階段で転んだら、老人は気を失ったり、骨折したりするかもしれません。何日も何ヶ月もだれもお参りに来ない山道ですから、発見されずにそのまま白い骨に、ということもあるかもしれません。きのうは携帯電話を持たないで散歩に出ましたが、やはり散歩には携帯電話を持つことにしよう、と道子さんと深く反省しました。
 往復30分かからないので、もしだれか深く信心する村人がいて毎日山頂の龍神さんにお参りするようになれば、このあたりの人はお参りにもっと親しみをもつでしょうね。
 ただし注意を一つ。孫といっしょに登るときは気をつけてください。「なだらかで気持ちよくのぼれる階段だから」と孫の後ろから最初の200段の階段に取りつくと、鳥居に着く頃には登る気力が消滅してしまいます。一旦気力が消滅すると、老人は「気を取り直す」ことがむずかしい生き物です。孫と同じ生き物と思わないほうがいいです。生き物はそれぞれに自分のリズムを守って生きるのが「しあわせ」というものです。
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一里塚だったのでしょうか。

2011年01月08日 04時25分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 我が村のゴミステーションは美嚢川(みのうがわ)のそばにあり、そこに小さな橋がかかっています。乗用車は通れますが重量制限は2トンです。この橋のたもとに榎の大木があります。写真では手前の桜の木より高くそびえていますが、実は桜の木は道端に生えており、榎のほうはさらに5メートル下の河原から生えていますからほんとうはもっと高木になります。
 写真の左後方の山はとなりの西中です。むかしふもとの《蛇が池》から蛇がこの山にのぼり、頂上から龍になって天に昇った。という言い伝えがあり、いまも頂上に龍神さまが祀られています。この山の名前を西中の人に尋ねたのですが「名前はない」そうです。そこで我が家では便宜上《西中の山》と呼んでいます。でもときどきつづめて《西山》と呼んだりします。山頂への道は整備されており、4月上旬にはコバノミツバツツジのトンネルになります。でもふだんこの山に登る人はありません。ときどき我が家で思いついて孫たちと登るくらいです。
《西中》のとなりの《東中》の山は、背景のゴルフ場より低くて写真ではわかりにくいです。でも我が家の裏山であり、今年もときどきお参りすることにします。
 写真に写っている榎の手前の桜は、幹に空洞のある老木ですが4月にはきれいに咲きます。その足もとに祠があり、隣村の人がお世話をしているのでしょう。花が差してあります。いつ頃何を祀ったほこらでしょうか。また散歩のときに隣村の人に尋ねてみることにします。
 さてエノキという字は《木》ヘンの横に《夏》と書きます。榎は枝がよく繁り、樹形がよく樹冠が広い木陰をつくってくれます。この木を一里塚として全国のあちこちに植えたのは江戸時代ですが、それを受け継ぐようにいまも榎の大木があります。先日紹介した細川町金屋のローソン駐車場そばの榎も一里塚を受け継いだものでしょうか。
 なんでも榎を一里塚として全国に植えるようにしたのは徳川家康とか。家来が「何の木を植えましょう」と尋ねたら、家康は「ええきにせえ」とこたえた。それを家来が聞き違えて「えのき」になった。とよそのブログに書いてありました。ホントかなー。
 榎といえば篠山城の石垣の上に見事な樹形の榎の大木がありました。明日またつづきを。
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畑に雪が降りました。

2011年01月03日 01時43分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 見慣れたアングルの写真ですが、一応雪景色です。散歩に出掛けるときに撮りましたが、一時間ほど歩いて、帰るときに見たら雪はもう消えていました。三木に引っ越してから一番雪が積もったのは三年前で、ウッドデッキで計ったら7センチでした。20センチくらい降って、綿帽子をかぶったような写真を撮りたい気がします。
 それにしてもこのたたずまいはいい。
 写真の手前はエンドウやソラマメの畝で防寒対策をしています。その次はイチゴの二畝です。イチゴはまだマルチを掛けていません。本を読むと、寒さにさらして鍛えてからマルチをかけるのがいいそうです。あとでかけるのはとても面倒ですが、道子さんは株のそばに竹串を刺して、位置を確認しながらマルチに穴をあけてかける作業を根気強くやります。
 その向うはタマネギなどの畝があり、一段高くなっているのが村の墓地です。去年バイケミの会社の人にうちの畑の説明をしていたとき、「むかしからの墓のそばにあります」といったら、「それは最高の畑です!」と絶賛されました。理由を聞いたら「むかしは土葬をしていました。だからそこはリンやカリが豊富な土壌になっていて、作物をつくるのにいちばんいい」そうです。
 たしかに圃場整備(ほじょうせいび)では小さい田んぼをまとめて大きくし、機械が入りやすくするのですが、むかしからの墓場は掘り起こさないでそのまま残します。土の中のリンやカリは豊富な筈です。ご先祖のおかげでおいしい野菜をつくらせてもらえるので、土手の草刈りは今年もぼくがやることにしましょう。
 散歩していると、黒大豆がサヤのついたまま畑に残っているところがあります。黒大豆は白大豆(ふつうの大豆をそう呼ぶ)とちがって、乾燥してもそのままではサヤがはじけません。だから2月頃までに脱粒すればいいのです。出荷するとしたら価格は下がってしまいますけど。我が家の黒大豆も半分は脱粒しましたが半分は干したまま越年しました。
 さー、新年はどの仕事からしようかな。
 裏山に植えた木々の寒肥。竹の伐採。(伐採は簡単ですが切り倒した竹の片付けが大仕事です)大工道具の整理整頓。(相当にひどい状態なので一日で片付くかな。途中で他の仕事を思いついて寄り道したりするから、一週間はかかるかな)タマネギの追肥もそろそろ。畑が乾いたらジャガイモの畝づくりもしなくては……。外仕事ばかりに目が向くので家の中はなかなか片付きません。かくして人生は暮れてゆきます。今年も元気に働けますように。


 
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新年明けましておめでとうございます。

2011年01月01日 03時46分02秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうの大晦日、孫たちの都合で凧揚げをしました。とても寒い日だったので、焚き火付きです。凧を二つ揚げてから孫たちに持たせ、軽トラで運んだ石油缶で焚き火をしてあたらせ、180メートル揚がった凧の糸を巻き取りと、おじいちゃんは大サービスしました。
 もし神戸に暮らしていたら、孫が来てもこんな誰もいない広々したところで凧を揚げたり焚き火をしたりできなかったでしょう。子どもの記憶に残るかどうかわかりませんが、いい体験をさせている気がします。
 きょうは元旦です。4年前の12月にこの村に引っ越してきたときは、の新年会に一升瓶を持って夫婦で参加しました。お昼の宴会でしたが、お酒をついでまわるうちに酔ってしまい、辛うじて家に帰ることができました。でも翌年から元旦の新年会はなくなりました。婦人会がお世話するのが大変だからという理由でした。その婦人会も去年なくなりました。
 ここに来る前の26年間を暮らした神戸のニュータウンは、54軒がひとかたまりの分譲住宅でした。未知の人々が一斉に入居し、道であいさつするようになりました。でも少しだけ親しくなったのは両隣りとあと一軒だけで、あとは26年間ずーっと、すれちがえばあいさつするだけのつきあいでした。そんなところで、あるとき、だれかが、「新年宴会をやろう」と提案しても反対が多く実現しないでしょう。
 村の寄り合い(全戸集会)で廃止が提案されたとき、「できればつづけたらいいのに」と内心思いましたが、特に意見もなく決まりました。寄り合いといっても参加する家は少なく、委任の連絡を含めてやっと成立するような状況ですから、廃止は時の流れだったのでしょう。
 きょうの初詣では伽耶院に行くつもりにしています。娘や孫たちは、行者姿の人に「褐!」とやってもらうのをたのしみにしています。ぼくたちは、神戸の名谷に住んで、まだ田舎暮らしの空き家を探していたとき、なぜか突然思いついて初詣でに来て、「一願成就」を願いました。そして縁あってこの近くに住むことになりました。伽耶院には特別な思いがあります。
 また一年、田舎の暮らしをブログで伝えます。よろしくお願いします。
 みなさまにとって、よい一年でありますように。
 
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