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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

きれいな土手で新年をむかえます。

2009年12月29日 05時14分36秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は我が家の畑の土手です。手前のよその土手と比べてきれいに草刈りがしてあります。そう、まるでカミソリで剃ったみたいに。この土手はナイロンコードで刈りました。春や夏の草は丈夫でナイロンコードで刈るのは大変ですが、いまなら枯れているので大丈夫。しかも刈ったあと伸びません。この土手は12月13日に刈ったのに二週間以上経過してもこんなにきれいです。夏なら五日もすればどこを刈ったかと思うほど伸びてしまうのに。
 この土手にはギシギシがはえていないので年が明けてもかなり先までこの状態がつづくでしょう。(ギシギシだけは生きるリズムがちがいます)きれいに刈られた我が家の畑の土手に新年の日が当たる。我が家で年を越す孫たちと土手を見ながら散歩する。たのしみです。このあたりのはどこもしっかり草を刈って田んぼをつくります。放棄田はほとんど見られません。それだけにきれいに刈られた土手を見るのは村人も気分がいいでしょう。
 いつまでこの状態がつづくかな。二月いっぱい大丈夫かな。田んぼを借りた二年前のゴールデンウイーク、草の伸び放題だった土手はカラスノエンドウがからみついて刈るのが大変でした。きれいな土手を見ていい気持ちで年が越せます。
 今年は、大豆、黒豆、小豆、サツマイモ(シモン一号・安納芋)、ゴマ、落花生、コイモ、コンニャクなどを去年よりずいぶん多く収穫しました。エンドウ、ソラマメはあまりとれませんでしたが。ヌートリアに大根は食べられましたがアライグマは出没しませんでした。イチゴは孫たちが存分に食べました。来年はそれを上まわる『イチゴ天国』をこの世に招来してやろうと、おじいさんおばあさんは張り切っています。
 むかしむかしこの地を拓き代々田畑をつくってきた先人たち、あたたかい目で私たちの畑づくりを見守ってくださった村人たち、ささやかなおすそ分けによろこんでくださった方々に感謝して今年のブログはおしまいです。
 水よ・空よ・太陽よ・大地よ・ひとよ。ありがとう。来年もよろしく。
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天皇のこと(つづき)

2009年12月28日 05時22分19秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ブログにたびたび登場したパントリー内部の写真です。完成したのでそのうち写真を撮って載せようと思ってたらアッという間にモノがいっぱい。どこかにひそんで待ち構えていたようです。
 ところで年末に問題になった天皇の特例会見について。(つづく)としていたので二つふれておきます。
◎ 宮内庁長官の発言について …… 御厨貴氏(朝日新聞12月20日)…… 天皇の外国訪問や外国要人との会見がまったく政治的意味合いを持たないことは基本的にあり得ない。今回のケースだけをことさら政治利用だと指弾するのは的外れだ。宮内庁長官が会見前に言挙げしたのは相手に対して非礼である。…… 宮内庁が長官発言のような感覚をもっているのならこの際改めるべきです。一般参賀・清掃奉仕・行幸・宮内庁御用達などに囲まれて、国民は皇室をあがめていると錯覚しないように。不敬罪で拷問されたり「天皇陛下万歳!」と叫んで突撃することを強要された兵士の怨念を庶民は忘れていません。敗戦後のメーデーで「汝臣民飢えて死ね!」とプラカードをかかげて食糧不足を皮肉った庶民のしたたかな感覚はいまも健在です。
◎ 小沢発言について …… 保阪正康氏(朝日新聞12月20日)…… 小沢氏が記者会見で「陛下ご自身に聞いたら『会いましょう』と必ずおっしゃるでしょう」と言ったのは乱暴すぎる。天皇の意思を忖度(そんたく=おしはかる)言い方は戦前に2・26事件を起こした青年将校や東条英機ら軍指導者と同じだ。天皇の意思の忖度が始まると敵対する人たちの忖度合戦、玉(ぎょく)の取り合いになりかねない。…… その通りです。そして敗戦後の日本人の民心を、アメリカの占領軍や日本政府はその玉(ぎょく)を利用して抑えました。天皇は行幸で全国に出掛けてロボットみたいに手を振った。でもぼくは『鬼畜米英』と叫んでいた在郷軍人がどうしてある日突然『一億総懺悔』になったのか、ずっと納得がいかないまま生きてきました。これはまた別の機会に。
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黒豆を脱粒しました。

2009年12月26日 23時44分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 冬至の日は晴れていましたが寒い一日でした。しかし黒豆は収穫しないと正月料理に間に合いません。ということで黒大豆を脱粒しました。写真手前に薪のサイズに切った竹を燃やしているのですが、わかりにくいですね。寒くて風もあったのですが、火が燃えているというだけで気持ちはあったかでした。
 黒大豆はふつうの大豆とちがい、パリパリに乾いてもサヤがはじけません。ビンで叩いてはじめて黒豆がこぼれます。つまりどのサヤにも打つ力を加えないといけません。ふつうの大豆の脱粒に比べてビンで叩く回数が多くなります。
 朝は霜が降りていたので日の高くなる10時から脱粒にかかりました。それでも4時には大まかな収穫作業を完了。家で体重計で量ってみたら10キロほど。虫食いやしわの多い豆、生乾きの豆を除いて8キロ余と去年より多くの黒大豆を収穫できました。少し作付け面積が増えたこと、枝豆として食べる量を加減したこと、苗を移植して50センチ間隔に一本で植えたことなどがプラスに働いたのでしょうか。
 次の日は雨の降る中をナメラ商店街に出掛けました。新聞に歳末大売出しの折込広告が入っていたのです。三木市に移住して三年になりますが、この商店街の折込広告を見たのははじめてです。
 ナメラ商店街のことはこのブログで紹介したことがあります。映画『千と千尋の神隠し』の冒頭に出てくる無人の食堂街をどこまでも歩いてゆくとこのナメラ商店街につながる。そんな空気感をもつ街です。
 ナメラ商店街を端から端まで歩きました。ところどころ店は開いていました。大売出しをしている証拠にのぼりも立っていました。しかし300メートルの商店街を通り抜ける間に店番の年配の女性以外の人間を見かけることはありませんでした。
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喫茶店『イプセン』に行きました。

2009年12月18日 06時25分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 田舎暮らしをしようと三木市の片すみに引っ越して三年が経過しました。月に二・三度は中心街の大きなスーパーに買物に出掛けます。その途中に喫茶店『イプセン』はあります。車でナメラ商店街の近くを走っているとき、道子さんがその店を見て「いまの若い人はイプセンと聞いて何のことかわかるかなー」と話していました。
 ノルウェーの劇作家イプセンが戯曲『人形の家』を書いたのは1879年。それを日本語に翻訳紹介したのは島村抱月です。古色蒼然たる明治時代のことですが『人形の家』の主人公ノラがよく知られるようになったのは、日本の女性解放が叫ばれるようになった敗戦後ではないでしょうか。
 日本の女性が参政権を手にしたのは、日本が戦争に負けてからです。占領軍によって与えられました。いまでは考えられないことですがわずか65年前には女性は選挙の投票すらできませんでした。その頃『主婦と生活』など婦人雑誌では女性解放がメインテーマになり、古い殻を破って成長する女性としてノラが紹介されていました。
 さて『イプセン』ですが、モーニングを頼んで店主に尋ねてみると昔々『純喫茶』のあった時代に開店したのではないそうです。『純喫茶』も死語になりました。「アルコールを出さない珈琲中心の」という意味ですが、「不純」の反対というイメージもあるのでしょうか。そういえば同伴喫茶とかいうのもありましたね。
 アメリカで女性が選挙の投票をしたのは1869年でした。でも投票に行くと男たちがたむろしていて、通路に立ちはだかり、いやがらせをしました。だから良家の子女は投票に行きませんでした。アメリア・ジェンクス・ブルーマーはその頃の女性解放運動家で、長いスカートをズボンのように動きやすくして活動しました。それがだんだん短くなりいまのブルマーになりました。
 イラク・クエートで婦人参政権が確立したのは2005年です。この地球上のすべての女性が本来の力と存在感を発揮する時代への歩みはぐんぐん加速しています。ぼくたち男性もしっかり……。
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『昭和天皇の終戦史』は読むに値します。

2009年12月16日 04時43分05秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きょうの本文とは関係ありませんが虹を見ました。14日の午後、豊岡で。見事な虹だったので車をスーパーの駐車場に入れて写真を撮りました。でも半分ずつしか写りませんでした。広角レンズでないと全部は写らないのでしょうね。
『昭和天皇の終戦史』という岩波新書があります。1992年発行の好著で、現在もよく読まれています。去年三木の図書館で借りて読みましたが、自分で持っていたくて買い求めました。著者は吉田裕(ゆたか)さん。1954年(昭和29年)生まれの一橋大学教授です。
 彼の生年を見たとき「この世代の人なら『昭和天皇』という字面を見ても感情を引きずらないだろうな。自分の生れる前の時代の歴史として、あの戦争を冷静な目で研究することができるのだろうな」と思いました。
『牟田口廉也』という名前を聞いただけで、かつてインパール作戦に参加した兵士たちは冷静でいられなくなります。60余年が経過して年老いても全身の細胞から怒りが噴出します。すぐその後の世代であるぼくたちも、数万の将兵を死なせた彼の所業に気持ちが波立ちます。
 きのうきょうのニュースで、天皇が外国の要人と会うルールが問題になっています。宮内庁の長官を擁護するメールも結構あるとか。ワイドショーで取り上げられ、コメンテーターはおたおたして、腰の引けたコメントで体面をつくろおうとしていますが、見識も信念もなくただそつなく時流に乗ろうとしているのが丸見え。
 天皇をどう考えるか。天皇のあの戦争との関わりをしっかり勉強しろ! なにがあったか自分の目で確かめろ! と言いたくなります。
 戦争に負けたとき昭和天皇は引退すべきでした。「天皇陛下万歳!」と叫んで死ぬことを強要された200万人を越す日本の兵士たちのことを思うなら。そこが出発点です。国民の心底にはあの戦争を起こした者たちへの思いが沈殿しています。     つづく   
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散歩して柿をもらう。

2009年12月11日 03時22分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 数日ぶりに朝の散歩に出掛けました。あたたかいですが晩秋から初冬に季節は移っています。裏山やまわりの山々のクヌギやコナラの落葉も終わりました。しかし散歩しているとまだ柿の実が残っています。去年は畑のそばの木にたくさん柿が残っていて、気味悪いほどカラスが群がったことがありました。
 となりのまで足を伸ばして散歩していると、道ばたの家に鈴なりの柿の木がありました。柿の鈴なりは珍しくありませんが、この柿の木は異常にたくさんの実をつけています。立ちどまって見上げていたら、ちょうどおばさんが洗濯物を干そうと出てきて「柿はいりませんか」。
 もらった柿がまだあるし、みかんを買ったところだし、と思案しているとおばさんはレジ袋とはさみを持ってきて、自分でせっせと柿をとりはじめました。この木は地上数十センチから柿が鈴なりで、伸び上がらないでもいくらでもとれます。持つのが重いほど渡してくれました。うちは柿はもう十分だけど、大豆トラストの仲間に近く会うのでみんなに食べてもらおう。
 裏山に木を植えはじめて三年目。今年は栗がしっかり実をつけてくれました。蜜柑、キンカン、いちじくもなっています。柿の木も植えたのですが、これはまだ。桃栗三年……ですもんね。ま、うちの柿も生きているうちに食べられるかな。柿は人にあげやすく、人にもらいやすい果物です。今年も数軒の人からもらいました。「うちにもありますから……」と言い訳するより、ありがたくもらうほうがいい対人潤滑油になる気もします。干し柿づくりはハエに閉口で、今年は休みます。
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あの戦争とどう付き合って生きたか

2009年12月10日 03時54分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ぼくは、日本が対米戦争をはじめたときは4歳、敗戦のときは7歳でした。田舎に住んでいたので、空襲に逃げまどった体験はありません。でも「自分は戦争を知らない。かかわりがない」とは思ったことはありません。
 もし山陰の片田舎でなく、街に住んでいたら空襲にあって死んでいたかもしれない。もし10年早く生れていたら、少年兵に志願して戦争とかかわっていたであろう。緒戦の華々しい戦果の報道に、わくわくしたであろう。
 そんな思いをいつもいだいて生きてきました。ですから敗戦後に見たり読んだりしたことは、他人事ではありませんでした。70歳を過ぎたいまも、あの戦争にかかわる本を読むと、ずるく立ちまわった軍部や政治家に腹が立ちます。「お国のために」死んでいくよう青少年を仕向けた者たちに冷静な気持ちではいられません。また例えばインパール作戦を強引にすすめて数万の将兵を死なせた牟田口廉也に対して、いまでも怒りがわいてきます。
 牟田口は「作戦では兵器の運搬用に牛を徴発して連れていけ。御用済みになったら殺して食べろ。ジンギスカン作戦だ」と自分の思い付きに悦に入ったそうです。「敗戦後彼は焼肉店を開き店の名を『ジンギスカン』にした」とネットの2チャンネルで読んだときは腹が立って頭がクラクラしました。ウソかホントか知りませんがあんまりです。
 あの戦争のことを書いている本を、歴史を学ぶように冷静に読むことはできません。記憶には残っていないけど、大人たちの会話や振る舞いを、子どもの眼で受けとめたかもしれません。戦時中は時局の尻馬に乗って戦意を鼓舞し、敗戦後は口をぬぐったずるい在郷軍人が心に引っ掛かっているのかもしれません。
 あの戦争とぼくらの世代との距離をもう少し考えてみます。 つづく。 
 
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日本が開戦した日は4歳でした。

2009年12月08日 04時03分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 1937年(昭和12年)にぼくは生まれました。この年の7月、日本は中国で戦争をはじめました。正義の味方である日本が中国を懲らしめるのだ、中国は弱い国だからすぐに日本が勝つ、戦争というほど大したものではない。国民には『支那事変』と呼ばせました。しかしいくら攻めてもひどい仕打ちをしても中国は負けませんでした。
 そして1941年(昭和16年)の今日12月8日、日本はハワイ・真珠湾を攻撃し、アメリカに宣戦布告しました。ぼくは4歳2ヶ月でしたから、その日のことは覚えていません。それから日本の軍隊はアジアの国々を戦争に巻き込み、アメリカの飛行機に爆弾を落とされ、国民は逃げまどいました。しかし山陰の片田舎に住んでいたぼくは、アメリカの飛行機も日本の飛行機も見たことはありません。
 ぼくは昭和19年に国民学校(小学校)に入学しました。戦争の記憶があるのはその頃からで、防空頭巾を持って学校に行ったこと、学校の校門を入るとまず校庭の奉安殿にお参りし忠魂碑にお参りしてから校舎に入ったこと、退避訓練をしたこと、木切れを石垣に向かって投げたこと(手榴弾の訓練)などです。
 国民学校2年生の夏休み、昼に蝉取りから帰ってくると、ちょうどラヂオ放送を聞きおわって隣から帰ってくる祖母に出会いました。(うちのラヂオは故障していました)祖母はぼくの顔を見ると「啓一や、日本は戦争に負けただぜ。おまえ、大きゅうなったらアメリカにカタキとってごせえよ」とむせび泣きました。8月15日の正午に天皇がラヂオで敗戦を告げたのは、あとで知ったことです。(つづく)
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コンニャクをつくりました。

2009年12月07日 05時28分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 コンニャク芋を畑に植えて3年目になるでしょうか。大きな芋がとれたことはブログでも紹介しましたが、まだ家でコンニャクをつくったことはありません。芋は毎年植えてだんだん大きくなるし、今年はつくってみようと凝固材の『水酸化カルシューム』をネットで注文しました。注文先は宮城県角田市。どんなところでしょう。『食用石灰』という商品名でコンニャク作りの簡単なレシピもついています。
 写真は道具を並べたところです。コンニャクづくりの写真を撮っていくつもりでしたが、すり下ろしたりこねたりしているうちに忘れてしまいました。
 芋は1,4キロあり、大きすぎるかなと心配でしたが、やっぱり小さめの芋にすればよかったと反省しています。コンニャクはうまくできましたが、こねたり成型したりするのがしんどかった。
 とにかくコンニャクができて、ワサビ醤油をつけて刺身で食べてみました。うまい! 自画自賛でなくうまい! と思うけどまわりに知人はいないので身内でほめ合うしかない。大志一家がやってきたので食べてもらいました。やっぱり「うまい!」これも身内か……。
 まだ5回つくれる芋があるので、この冬はコンニャクづくりの腕を上げることにします。芋は発泡スチロールの箱に入れて、凍らないように保存します。
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竹薮を我が家の庭にしようと

2009年12月06日 04時59分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は、三年前は竹薮だった我が家の裏山です。中央左の切り株は松の木です。引っ越したとき幹にキツツキが止まっているのをばっちり見て感動しました。でもほどなく松葉が茶色になり、枯れてしまいました。倒れてくると危ないのでロープで山側に引っ張って切り倒しました。
 この裏山は引っ越して竹を切る前は、きのうの竹薮の写真と同じように荒れるにまかせた竹薮でした。でも孟宗竹でなく真竹なので切り倒すのは少しらくでした。大工仕事や畑仕事の合間に竹を切り倒し、三メートルくらいに切って奥に積んでいきました。
 しかし地面は竹の切り株だらけです。そこで刈払い機の登場です。竹薮の下刈り用の鋸歯を取り付けて刈っていきます。直径5センチ前後の切り株ならスパッと切れますが、10センチ以上の切り株は何度もぶつけるようにして切っていきます。竹の根の部分は太く肉厚ですが、根気強く刈払い機をぶつけて切ります。それでやっと写真のような地面になるのです。
 いま竹薮でも堂々と生き残っているのはクヌギ・コナラです。幹は太くなり、竹の上に頭を出し、立派な木になっています。裏山の里山復活となるとこの木が核になります。それとアラカシ。これは常緑樹ですが、あちこちに生えていて大きくなりそうなパワーがあります。ヤマザクラ・アセビ・シャシャキなどもいくらか生き残っていますが、ひょろひょろ高くなっているだけで、幹は細く自分で立っているのがやっと。まわりの竹を切って日が当たるようにしても、もう幹は太くなりません。
 でも裏山が庭になっていくのはうれしい。この冬は竹切り・庭づくりに気合を入れることにしましょう。
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竹林をなんとかしなくては。

2009年12月05日 01時52分31秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 三木市の観光案内に出てくる法輪寺は、細川町垂穂の山腹にあります。由緒もたたずまいも立派で、一度はゆっくり訪ねてみたいお寺です。
 写真はそのお寺に登る道の途中にある孟宗竹の竹林です。山にとりついてお寺への細い道を軽自動車で登るまで竹林があることを意識しませんでした。森の中を通って山腹のお寺まで登る道があるのだろう、と思っていました。ところが森の中はこのありさまです。
 今年の春訪ねたとき、竹林のすさまじさに息を呑む思いでした。お寺の遠望からは想像もできない荒廃です。竹以外の植物が見当たりません。これでも遠くから見れば杉の大木などに囲まれたお寺と見えるでしょう。
 はびこる竹を切って里山を復活させよう。そう呼びかけて竹を切っているボランティアグループがあちこちにあり、シルバーエイジの人たちが活躍しています。ここまではびこってしまった竹林を里山に戻すにはどれほどの人の力が要るのでしょう。
 きのうは我が家の裏の竹薮を片付けました。何百本と切って山のように積んでいる竹を、丸鋸でたきぎサイズにして畑に運びます。燃やすときにはじけないように節の間に切り目を入れます。「そのうちやろう」とずっと思っていた仕事ができて、山も気分もちょっとすっきりしました。でもすっきりしたのはほんの数坪です。その先には竹薮が広がっています。
 きょうもせめて20本竹を切ろう。そう思って竹を切り、また竹の山ができる。ちょっとだけ竹の生えていないスペースができる。まさに人力による竹薮との格闘です。
「我が家の裏の竹薮は孟宗竹でないので切りやすいし、斜面はなだらかで危なくないし、老人でもたのしめます。快い汗と竹薮を征服した達成感は他では味わえません。無料でできる里山復活体験に参加されませんか」なんて宣伝文句を考えましたがいかがでしょう。
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大豆の選別完了!

2009年12月04日 07時16分42秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 大豆の脱粒は11月はじめにしましたが、こまかいゴミをとり、虫食い大豆を選別する作業はまだしていませんでした。ざっと計量して30キログラム近い有機栽培の大豆(おいしいから虫もしっかり食べている)を選別するのですから、相当の気力と時間が必要です。
 近くの農家の方がいまも自家用大豆をつくって、脱粒は足踏み式稲扱(こ)き機をつかってやり、さらに唐箕(トウミ)でゴミを飛ばしておられると話を聞いて、うちも唐箕に借りようとしばらく選別を棚上げしていました。
 その後パントリーづくりで余ったフローリング材を枠にして金網を張って篩(ふるい)をつくりました。これに大豆を通してみたらゴミがかなり除けたので、いよいよ選別にかかりました。夜なべ仕事です。
 選別の基準はぐっと厳しくしました。ちょっとでもカメムシが汁を吸って茶色のシミがある大豆は除ける。ムシが口をつけただけのツマヨウジの先で突いたような点があっても除ける。
 味噌つくり用の大豆は10キロもあれば充分です。家でつくる煮豆は買った煮豆とちがい大豆の味がいいのですが、そんなに食べられません。納豆や豆腐をつくることができたら(いずれやってみたい)相当量を消費するでしょうが、余ってしまいます。だからいくら厳しく選別してもいいことにしました。
 選別したくず大豆は、水にかして柔らかくしてから裏山にまきましょう。きちんとした水場と餌場をつくりましょう。小鳥たちに食べに来てもらうように。
 選別って結構はまりますね。トレー一杯が終るとまた次の大豆を選別したくなる。また次また次。四日で完了しました。もう今年は選別できないのか。残念だ! ところで写真は何の関係があるかって? まー見てくださいよ。東向きの我が家のウッドデッキから見た今朝の朝7時の風景を。日の出前の朝もやのただよう田舎です。電柱はちょっと邪魔だけど、田舎暮らしをはじめたぼくらの満ち足りた心が伝わりますか。
 
 
 
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久しぶりにモーニングサービスで朝食。

2009年12月03日 05時25分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうはプラスチックのゴミを出す日でした。いつもなら前日の燃えるゴミといっしょに出すのですが忘れていたのです。そこで朝ゴミを持っていくついでにモーニングサービスで朝食をとり、散歩もしようと出掛けました。
 写真は車で10分足らずの隣町にある喫茶店です。近くの一軒だけある喫茶店では新味がないので足を伸ばしたのです。
 喫茶店の窓からため池が見えて、ちょっと気持ちの広がるシートです。4月に来たときは定休日で、ここから『三木・道の駅』まで足を伸ばし、チラシを見て『梯剛之ピアノコンサート』に行くことになったあの店です。
 店の前にはセルフサービスで買える農作物のスタンドがあり、大根や白菜が並べてありました。通りがかりの人(ほとんどないけど)でも買うのでしょうか。
 畑のまわりの山々は、木々をよく見るとかなり落葉していますが、山全体として眺めるとこころにしみる深い色です。田舎暮らしで一番こころ満ちる瞬間です。
 さー、きょうは畑に出て耕運機で耕そうか。残っている大工仕事をしようか。大豆の選別をしようか。裏山の竹を切ろうか。部屋の片付けをしようか。図書館で借りた本を読もうか。グリンピアの『森の湯』温泉に入ろうか。
 どれをしてもそれなりにたのしく、人生の午後をたのしむ一日になりそうです。…………結局大工仕事をして森の湯につかる一日になりました。
 
 
 
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12月は片付けと大掃除の月です。

2009年12月01日 04時12分37秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 12月は片付けと掃除の月です。畑も片付けに掛かりました。きのうはまず燃やしました。小豆の木は小枝のようです。乾いているとよく燃えます。ナスビやオクラの木も燃える竹の上に置くと乾いて燃えます。大豆の木や落花生の葉はよく燃えます。問題はサツマイモのツルです。
 毎年困るサツマイモのツルの処理について、去年家庭菜園の本を読んだらこんなことが書いてありました。「押し切りで5センチくらいに切り刻み、畝に梳き込むといい堆肥になる」
 そうか。なかなかよさそうだ。早速やってみよう。
 写真は、去年ベンチに押し切りを置いてツルを切ったときの写真です。6畝分のツルを山のように引きずってきて、延々と切り刻んでいきました。朝から夕方まで二人交代で休みを取りながらやったのを思い出します。
 できたツルの山にクヌギの葉を混ぜ込み、シートを掛けておきました。春にサツマイモの畝をつくるときに一輪車で何杯も運んで梳き込みましたが、あまり土がまとまらず、いい感じになりませんでした。
大豆畑トラストでみんなでサツマイモをつくっていたときから、ツルの処理には困っていましたから、読んだときは「いい方法だ!」と思ったのですがやってみるとしんどい。おもしろくない。たのしくない。
 今年は押し切りで切り刻もうとははじめから思いませんでした。もうあんなことはしたくない気持ちでした。そこで燃やすことにしましたが、なかなか燃えません。もうしばらく地面に広げて干しておきます。
 家庭菜園をやってわからないことがあると本を読みます。いろんな人がいろんな本を書いています。著者は「人に聞いたり自分でやってみたりして、このやり方がいいと思い込んでいること」を書いています。でも同じことは書いてありません。本もそれでは売れないだろうし。そんな他人の思い込みの十字路に立たされたら、自分で判断するしかありません。判断の基準は「なんとなくよさそうだ。おもしろそうだ。たのしそうだ」がいい、とぼくは思い込んでいます。失敗してもたかが野菜づくりじゃありませんか。
 
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