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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

山を散歩して巨大な檻を見ました。

2010年02月28日 04時28分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 畑に埋めるパイプを買いに出た日は、加東市のホームセンター・コーナンで買物をしてからその近くを散歩することにしました。山すその岩屋公民館に車を置き、幅広の山道を登ってみました。傾斜はきついけど四輪駆動の軽トラならなんとか走れそうな道です。
 片側は桧と杉を植林した斜面です。よく伸びて太い桧や杉になっており、間伐してやれば数十年後には立派な材木がとれそうです。道の反対側は雑木林です。クヌギ・コナラは他の木々を圧して伸びていますが地面には多様な木々が茂っています。竹に侵食されてない山は『気』がいい。
 林間に大きな豚でも入れそうな腰の高さくらいの檻が見えます。近寄ってみると『猪捕獲用檻』と札が付けてあります。こんな大きな檻を実際に見るのははじめてです。もし猪が入ったらどんなふうに捕獲するのでしょう。こんな大きな檻は一人や二人では運べそうにありません。
 さらに登っていくと道が平坦になり、向うに建物が見えます。『辻の地蔵堂』と看板がかかり、寄付した人たちの名前が掲示してあります。一休みして林間を見ると、人間が立ったまま入れそうな巨大な檻が見えます。写真がその檻です。枠は足場パイプを組み立ててあり、檻の床は三畳敷きの広さで、カボチャがいくつか置いてあります。いまはふたが落ちないようにカギがかけてありますが、それにしてもなんと巨大な檻でしょう。
 猪や鹿が一度に何頭もかかったらどうするのでしょう。鉄砲で撃つのでしょうか。麻酔銃で眠らせて縛り上げるのでしょうか。檻の存在感に圧倒されてしばらく見とれていました。
 同じ道を戻ってきて山を見上げたら、ふもとの民家の裏には竹薮があります。あと五年もしたらあの山道まで竹薮が這い上がっていくでしょう。桧・杉の林を間伐するのも竹薮を食いとめるのも容易なことではありません。  (ため息)
 
 
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『そうか、もう君はいかいのか』(城山三郎)を読みました。

2010年02月27日 05時23分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
『よかたん』温泉で骨休めしようと出掛けたとき、すぐそばに新しく開館した吉川図書館に寄りました。こんなに清潔で明るい図書館ははじめてです。ぼくが読む程度の本は並べてあります。
『そうか、もう君はいないのか』(城山三郎)を借りました。読了してネットで感想をチェックしてみると、彼の妻に対する愛惜の情に感動した人がたくさんいます。ぼくは別のことを書きます。
 城山三郎は昭和2年8月生まれでぼくより10歳年上ですから敗戦のときは17歳でした。以下彼の文から引用します。

 私は……徴兵猶予を返上し、七つボタンの制服への憧れもあって、海軍に志願し、少年兵となった。……「人の嫌がる海軍に志願してくるバカがいる」と、朝から夜中まで、ただひたすら殴られ続けるだけの毎日。
 戦後になると、……「あんなものを信じて海軍を志願するとは、子供のように幼稚で低能だ」などと批判され、……論戦となると歯が立たない。そこから立ち直るのは一苦労であった。……私は廃墟になって生きていた。私はすべてを疑うことから始め、すべてを自分の手で作り直さなくてはならなかった。

「私は廃墟になって生きていた」という一文がぼくの胸を射ました。空襲も爆弾も知らずに山陰の片田舎でのんびり生きていた7歳のぼくとちがい、城山少年は自分の全存在を賭けて志願し、殴られ、裏切られ、『廃墟』になったのです。
 城山さんより四つ下の先輩が「敗戦後、オレは黙ってまわりの大人の言うこと・することを見て、自分を立て直すのに一年かかった」と話したのを思い出します。彼も「すべてを自分の手で作り直さなくてはならなかった」のです。
 彼らは、少年なりに心の中でどんな作業をして、自分の心の宇宙を再構築し、その後の人生を生きることができたか。ぼくより数年年上の人たちは、みんなそのトンネルをくぐって生きてきました。
 では「作り直した」「立ち直った」と思っている自分はほんとうにそうできたのか。あの敗戦のとき少年だった人たちは、なんとか「立ち直った」と思って生きてきただけです。語っても語っても埋めることのできない空洞を抱えたままです。
 彼らにつづく世代の者として、空洞の存在を感じます。(つづく)  
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『Laudate Dominum』(K339)でした。

2010年02月26日 04時26分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 去年から“you tube”でいろんな音楽を聴くのをたのしんでいます。いきなり全世界で有名になったスーザン・ボイルというイギリスの田舎のおばさんの歌を聴いたり(昨年末の紅白歌合戦に出演しましたね)、ニュージーランドの可愛い歌手・ヘイリー・ウエスティンラの歌を聴いたり(去年は彼女のコンサートを聴きに行きました)、夏川りみの歌を聴いたり、あるいはヘンデルやハイドンのピアノの小品を聴いたりと毎日たのしんできました。
 最近はキャスリーン・バトルというソプラノ歌手の歌をよく聴いていました。きのうはたまたま曲名の書いてない彼女の映像をクリックしたら、なんと! 探し求めていたあの歌をバトルが歌い出したではありませんか。
 その曲というのはモーツアルトの『ヴェスペレー』(『晩課』-『聴聞僧の厳かな夕べの祈り』K339)の第5曲で、なんとも美しい曲です。カトリック教会から「清らかな祈りの曲なのに官能的過ぎる」とクレームがついたこともあるそうですが、神さまよりこの曲に魂を奪われてしまいそうです。意味はわかりませんが歌の題名はラテン語で『Laudate Dominum』です。カナ読みした『ラウダテ ドミヌム』と入力して検索しても出てきます。
 この曲をはじめて聴いたのはもう20年も前のことでしょうか。NHKのFM放送の録音テープでした。ソプラノ歌手のルチア・ポップが歌っていました。それをまた聴きたくて放送の解説や曲名を手がかりに“you tube”に何度も『ベスペレ』とか『聴聞僧の厳かな……』と入力するのですが『該当なし』で何も出てきませんでした。
 偶然その歌に行き当たった! うれしかった!
 キャスリーン・バトルだけでなくウイーン少年合唱団の歌、ヘイリーの歌、ルチア・ポップの歌っている投稿もアップされています。そしてなんとエマ・カークビーの歌が。他の人のブログを読むと「やっぱりカークビーの歌が一番いい」と書いてあります。ぼくも賛成です。
「田舎暮らしに憧れて……といいながら、なにを知ったかぶりして気取ってるんだ」といわれそうですが、歳をとってもどこに住んでも大事にしたいものがあるのです。
 
 
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溝を掘りました。

2010年02月25日 03時12分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 5月のようにさわやかな日でしたね。
 きのうは、前の日に見つけたパイプに通じる水路を掘りました。写真の竹の棒を突っ込んでいるところにパイプが埋めてあり、あぜ道の下を貫通しています。土手の上には村の墓地があり(足場がついています。田んぼとして使うときは草刈り用の足場が必要なので)、そこから下がってくる水を受ける水路と畑に降った雨を流す遊歩道の内側の水路と二本掘らねばなりません。元は畑の土ですが遊歩道として踏み固めていたので耕運機で掘っては土を上げ、また耕運機で掘る作業を重ねてなんとか水路を堀り上げました。これで長雨のときのじくじくが多少改善されるでしょう。
 朝の散歩の基本コースは我がの中を歩くことにしているのですが、用事で出掛けたときはその周辺に車を置いて散歩します。きのうは三木市の図書館に予約していた本が届いたので、図書館の用事を済ませてからその周辺を散歩しました。
 三木城の史跡が近くにあり、金物神社から上の丸公園を散歩しました。長い石段を下りると神戸電鉄の上の丸駅に出ます。そこから前にこのブログで紹介した滑原(ナメラと読みます)商店街がはじまるのですがきのうは少し歩いただけです。この商店街はだれも通らない、さびれた通りですが、ところどころ店が開いており、どことなくただよう清潔で凛とした空気感がいい。また歩いてみたい通りです。
 
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『アピオス』を掘って食べてみました。

2010年02月24日 02時26分31秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは午後畑仕事に精を出しました。ジャガイモを植え付けてから、竹の立て札を見て去年『アピオス』を植えたことを思い出し、掘ってみました。数珠のように連なった小さいイモが出てきます。植えたのはほんの二株でしたし、どんな味の食べ物かわからないので忘れていました。
 ネットで調べてみたら『ほど芋』と和名がついており、南米原産のマメ科の植物です。「アメリカインディアンが戦いの前に食べた」といわれるほど栄養価が高く、カルシュームはジャガイモの30倍あり(他にもいっぱい)、万病に効くと書いてあります。
 写真は箕に並べたアピオスです。これを洗って数分茹でてみました。皮をむいて食べるとジャガイモのような食感でほのかな甘みがあります。残りはカラ揚げにしたり、潰してコロッケのように揚げて食べました。味はいいし健康にもいいそうです。
 ネットではいい値段で販売しています。健康にはいいけどどうにも不味い『キクイモ』とちがい、これならおいしく食べられます。よーし、今年は一畝つくろう。という話になりました。ツルが伸びますから竹に這わせ、コープの堆肥をしっかり入れて育てることにしましょう。
 きのうは大発見をしました。我が家の畑の上はとなりの田んぼと村の墓地ですが、土手から水が染み出してきます。溝を掘って水の落し口に流すのですが、距離が長いので溝のまわりはじくじくしています。ところが落し口と反対の土手に直径10センチのパイプが埋めてあるのを見つけました。
 このパイプをつかえば下がってくる水はすぐに土手の下に流すことができます。田んぼとして米をつくるには不要なパイプですが、畑としてつかうときはありがたい。きょうは下がる水をパイプに誘導できるようしっかり溝を掘ります。
 
 
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『なにをしてただろうな』

2010年02月23日 03時12分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 2006年9月に撮った我が家(宅地だけ)の写真です。まだ土台の工事中で、裏の竹薮は数メートル切っただけです。この写真から三年半が経過して、いまでは家が建ち、家の前にはウッドデッキをつくり、手前の畑には物置兼大工小屋を建て、裏の竹薮は山頂まで切り拓き、家の前は花畑になり……と思い返せばずいぶんあれこれと『仕事』をしてきました。
 先日神戸に住む娘のところに出掛け、ついでに退職後10年近く散歩した旧宅のまわりを車で走ってみました。地下鉄名谷駅から歩いて15分の旧宅の周辺はいまもきれいな住宅街です。空き家や荒れた家はなくて、街路樹も公園もよく整備され、見覚えのある家並みがつづいています。
 もしあのまま神戸に暮らしていたら、いま頃ぼくはなにをしていただろう。
 ウッドデッキをつくったり小屋を建てたりと大掛かりな大工仕事をする余地はなく、裏山の竹を切倒すようなワイルドな仕事はなくて、広い畑で土手の草刈りをすることもなく、他のことに精を出していただろうな。
 去年の夏、草刈りの合間に老人会長と土手で立ち話したとき「街の人(老人)はなにをして暮らしておられるでしょうね」ときかれて「そーですねー。まー、それなりになんかして……」とこたえながら、すぐにはイメージが浮かびませんでした。
 テレビを見る。本を読む。散歩する。いきつけの喫茶店でモーニングを注文してスポーツ新聞を見る。病院に通う。ときどき旅行する。ボランティア活動の仲間に加わってなにかする。なにか趣味のグループに加わる。狭いけど家庭菜園や庭の手入れをする。ときどき街をぶらつく。なにかイベントがあれば出掛ける。……手帳を持ち、予定を書き込み、なにか『仕事』をしているでしょう。ぼくの場合は道子さんの立ち上げた『大豆畑トラスト』の『仕事』が大きな部分を占めていましたが、寄る年波は感じていました。
 いまこの街を散歩する日々が復活するとしたら魅力的ですか。そうきかれたら……。どこが不満だったわけでもありませんが、やっぱり田舎のほうがいいです。
 人生に正解はないでしょう。あるとしたらいまの自分が正解です。現実に選び得る最高の答えだったからそれを選択して生きています。

 
 
 
 
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『このきなんのき』にお世話になりました。

2010年02月21日 05時37分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ふだんは20号線という幹線道路を走って三木市街に買物に行くのですが、寄り道好きのぼくのことですから、ときどき細い横道にそれたくなります。この写真は三木市細川町『中』というに入り込み、山ぎわのため池まで上って撮ったものです。手前が『中』の集落で、その向うに20号線が走り、向うの山は『マスターズ』ゴルフ場です。
 ところで中央の樹木ですが、これは一本のアラカシの木です。大きくなり、その下に小さな社が祀ってあります。うちのの愛宕さんみたいなむかしからの村の祠(ほこら)でしょうか。それにしても立派なアラカシの木で、見ているだけで胸がひらく気がします。
 アラカシは成長がはやく、枝をどんどん伸ばして茂っていく木です。我が家の裏山でも、茂みの中は竹とクヌギ・コナラが背の高さを競って伸びていきますが、山ぎわにはアラカシが枝を伸ばして茂っています。そのアラカシ一本がこんなに大きくなり、村の景色を張り立たせてくれる。
『アラカシ』の名前は、ネットの『このきなんのき』に葉っぱの写真を投稿して教えてもらいました。神戸市須磨区に住んでいたときは、散歩途中に樹木の名札を見て木を覚えました。でもそうして覚えた木の名前が実地に応用できず、ネットで質問してしまいました。
 実は数日前にまた『このきなんのき』に葉と幹の写真を投稿して教えてもらいました。木の名前は『サカキ』。あまりにありふれた木を見分けられなくて恥ずかしい。
 まえに紹介した便所内の本棚には『身近な樹木』の図鑑も置いているのですが、この頃のぞいていませんでした。竹薮の竹を切り倒すとひょろひょろした下生えがあるのですが、シャシャキ(ヒサカキ)、アセビ、サカキ以外は名前を知りません。当分の間、行くたびに図鑑を見て、知識を応用できるよう復習します。 
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まだ寒いから頑張らないでおこう。

2010年02月20日 05時06分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 コープ瑞穂農園でもらった堆肥です。二つの容器に一杯と三分の二入りました。これで3000円です。でもここで売ってる袋入り堆肥は高いですよ。一袋(20リットル入り・『花と野菜の土』袋大で400円)が500円に値上がりしています。また15000円でここの市民農園を借りている人なら無料で使い放題。堆肥置き場に山と詰まれています。どういう計算でそうなるのでしょう。家庭菜園に施すゴミ袋2、3個分の堆肥でしたら差し上げますからどうぞ。
 きのうは早速この堆肥を混ぜ込んで耕運し、畝をつくるつもりでしたが、寒いし風があるのでよかたん温泉に骨休めに。朝の散歩もよかたん温泉の近くで。旧吉川町庁舎のあった古い町並みを歩きました。横道にそれると『緑台』という新興住宅の町が近くの山の上にあります。荒れた空き家、急斜面の宅地、頂上には巨大な石で石垣を築いた空き家の大邸宅。バブルの残骸を見るようです。中国道吉川インターチェンジに近くて宅地開発が行われたのでしょうか。
 バブルの頃に乱開発した宅地の跡はあちこちに見掛けます。三木から三田に20号線を走り、桃坂の信号で加東市に入り、小野市に抜けるところに『うぐいす台』という数十年前に拓かれた新興団地があります。車で朝の散歩に出掛け、足を伸ばしたことがありますが路線バスの時刻表を見るとバスは週に一往復あるだけです。これからの発展を夢見て家を建て、老いてゆく人を思うと気が重くなります。
 かく言う我が家もそんな宅地開発の中の一区画です。何の変哲もない不便な土地ですが、やはり数十年前に開発業者が入り込み、山を買って宅地造成し、街の人に売りつけました。我が家の北はなだらかな山ですがその茂みは70区画に分けられ、それぞれ持ち主があります。しかし竹と下生えが茂り、道も定かでなくなり、いまさらどうしようもありません。村人の所有するうちの裏山が防波堤になっています。 あのバブルって日本国中ものすごかったんだなー、と温泉につかりながら思いました。
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さ、春だ! 畑仕事だ!

2010年02月19日 03時52分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 我が家から車で数分の三木市細川町には藤原惺窩(ふじわらせいか)の生誕地と菩提寺があり、秋に『藤原惺窩祭り』が行われます。写真はその生誕地で、彼の生れた家はもうありません。彼の像と生誕地を示す石碑が立っており、まわりには梅や桜の木が植栽されています。
 藤原惺窩は京都の冷泉家末裔の学者です。徳川家康に請われて江戸に出て講書。関が原の戦いの後再び家康に招かれますが、武門に仕えるをいさぎよしとせず、弟子・林羅山を推挙して野に下りました。
 このあたりもぼくたちの散歩コースのひとつで、車を公民館に置いて30分ほど歩きます。ことしは寒いですが日が長くなり、空気に春が詰まってきました。でもウグイスの一番鳴きをまだ聞きませんね。
 しかし裏山ばかりでなくぼちぼち畑仕事をしなければ。ということできのうはコープ瑞穂農園に堆肥をもらいに行きました。
 75リットルのビニール袋に備え付けの雪かき用プラスチックシャベルで5杯入れ、紐でくくります。去年8月にもらったときは16袋でいっぱいでしたが21袋積み込むことができました。(2009.8.19ブログ)軽四の乗用車で運ぶのは三度目ですが要領がだんだんわかってきました。
 畑に持ち帰った堆肥を車から降ろし、高さ60センチ幅120センチの畦パネルを三枚つないだ円筒形の入れ物に入れます。一杯と三分の二ありました。きょうはこの堆肥をたっぷり入れて耕運機でジャガイモの畝をつくることにしましょう。
 それにしても瑞穂のコープ市民農園を借りている人はこの堆肥を使い放題。見てまわると、堆肥置き場に山積みの堆肥を自分の区画に運んで、土が見えないほど堆肥でおおっている人もいます。タマネギなんか大きくなり過ぎるとうれしそうに話していた人がいました。
 春です。畑仕事に精を出すことにしましょう。
 
 
 
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朝青龍に出会った人

2010年02月18日 03時12分32秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 朝日新聞の『ひととき』欄への投書を丸写しします。

   朝青龍 思い出ありがとう  大阪府 湯村 幸子 75歳
 
 夫は朝青龍が1998年に入門して以来、大阪・春場所での彼の朝稽古を撮り続けた。2002年、「朝青龍が家に遊びに来たいと言っている」と夫。「エーッ」と絶句しながらも付き人に「彼は何が好き」と聞くと「肉ッス」。春場所前のある晩、当時関脇だった彼は、我が家で付き人と3人で5㌔の肉をぺろりとたいらげた。そして夫に「(その年の)名古屋場所が済んだら、モンゴルで写真展をしよう」と言い出した。今度は夫が絶句した。
 あっという間に名古屋場所も終り、彼は大関に昇進した。私たちは成田空港で落ち合い、初のモンゴル旅行が実現した。朝青龍には大関昇進の祝賀の場となり、彼が訪れるモンゴルの街々はたくさんの人で埋め尽くされた。いかに彼が故郷の人々に愛され、英雄視されているかが感じ取れた。
 写真展もウランバートル中心にある美術館の展示ホールが用意されていた。市街地を離れると草原が広がった。パオ(ゲル)に泊めてもらった夜、手に取るように近くに見えた星空。今でも忘れられない。
 あなたは、日本の相撲界で確かに一時代を担ってくれた。日本的カルチャーにそぐわないところもあったかもしれない。しかし、私はたくさんのモンゴルの美徳もあなたから教えてもらった。決して忘れないよ! ありがとう。

 モンゴルには日本の中古車がよく走っています。宮崎交通や京都交通という塗装のままで。通訳の女性が、クロネコヤマトのマークを見て、「動物を運搬する会社かと思った」と話していました。
 またモンゴルに行ってみたくなったなー。
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竹薮の侵攻は日々着々とすすんでいます。

2010年02月17日 05時18分12秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は竜神が祀ってあるとなり村の山です。木々が芽吹きはじめるとわからなくなりますが、いまなら竹の侵攻がよくわかります。浅緑色の部分は竹です。竹は下から這い上がっているのですが、この山は背の低い雑木林主体なので、頂上の桧・杉など緑の濃い部分を除いて、ほぼ全山に竹が侵攻しています。
 きのうも木を植えたついでに裏の竹薮の竹を20本ほど伐り倒しましたが、それでも2坪ほど拓けただけです。あの山を竹の侵攻から守るにはどれほどのエネルギーがいるでしょうか。ため息が出ます。
 この冬、我が家の裏山にはせっせと木を植えました。きのう数えてみたら23本植えています(12本買ったレッドロビンを除いて)。木の名札は付け替え、支えの杭も竹でつくって打ち込みました。これまでに植えていた木と合わせると50本以上。明らかに詰め過ぎです。ま、競合して茂るようになればそれなりの淘汰が起こるでしょう。将来どんな庭になるか、あの世で見物することにします。
『木を植えたい病』はしばらく休みます。裏山の頂上を片付けて広場になったらまた考えます。
 雨がよく降り、畑は乾かず、山仕事ばかりしています。しかしジャガイモもそろそろ植えなくては。きょうは置き場所を確保してからコープ瑞穂農園に堆肥をもらいに行くことにします。それをたっぷり入れてジャガイモの畝をつくります。
 レンゲ畑ですが、いまからでもりレンゲの種を播こうかと考えています。咲くのは少し遅れますが。去年、このあたりで我が家のレンゲ畑以外にレンゲの田んぼを見掛けませんでした。村の人には「散歩のとき見るのをたのしみにしてたのに……」と言われました。(いっしょに生えているギシギシにアブラムシがついたので刈ってしまったのです)孫に「レンゲ畑で遊んだ」記憶を残してやりたいし。
 
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裏山のある田舎暮らし

2010年02月15日 05時50分37秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 2月から3月にかけてごとに田んぼやため池の土手焼きが行われます。消防団がポンプを用意し、村の衆が刈払い機を軽トラックに積んで集り、ところどころ枯れ草を刈りながら火をつけていきます。
 ウッドデッキから見える左広池(さのひろいけ)の土手は、きのう火がつけられ、バリバリと音を立てて燃え上がりました。写真で迫力を伝えられなくて残念。すごい勢いで燃えるのですが、農道横の草むらは燃え残っています。全部刈ってからでないと火をつけてもきれいに燃えません。高い土手を全部刈るのは大変ですからこのまま春の草が生えることになります。
 きのうは裏山でシイタケの種を植え付けました。電池式インパクトドライバーはパワー不足で効率がわるいので、コードを引いて電動ドライバーで穴を開け、菌を植え付けていきます。10本の原木に400個の種を打ち込み、積み重ねてシートでカバーしました。梅雨までに原木置き場に立てかけます。
 孫たちはこの頃裏山を遊び場にしています。きのうも一晩泊まりでやってきて、長い竹の棒を三本くくって三脚のように立て、シートを敷いて「ここが玄関、ここがベッド」といいながら遊んでいました。竹の棒を振りまわし、竹が割れると「おじいちゃん、カタナつくって」と頼みに来て、またひとしきり遊びます。それを見ながら、なんでもない遊びだけど、街の公園ではなかなかできないことなんだ、とあらためて思いました。
 裏山があるというだけで作業も遊びもずいぶん豊かになります。それも地続きのなだらかな山がいい。放置された竹薮でなく里山だと申し分ありませんが……。
 竹を伐り倒し下生えを刈って里山復元を目ざす作業は、大変だけどおもしろい。畑や大工仕事にはない全身運動と野生感と壮快感と徒労感の入り混った不思議な情緒があります。大昔の人間のDNAが呼び覚まされるのでしょうか。
 いまでは裏山はぼくの田舎暮らしの必須アイテムになっています。また訪ねてください。お待ちしてます。
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『横綱』の朝青龍はおわったけれど。

2010年02月13日 07時14分24秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 横綱琴桜のことから書きはじめます。
 鎌谷くん=琴桜=佐渡ヶ嶽親方は鳥取県倉吉市の出身です。四つ違いですがぼくと同じ中学を出ました。その中学に、中島(コンペ)先生という理科の先生がいました。熱心に教え、生徒を注意するときは、指をはじいておでこに『コンペ』を食らわす名物先生でした。そんなに痛くなかったけど。
 四十年ぶりに中学の同窓会があってそのコンペ先生にお会いしたとき、鎌谷=琴桜の話が出て「あいつはやさしかった。『鎌谷! ちょっと来い!』と注意するとイスを持って出てきた」とエピソードを話してくれました。解説すると、小柄なコンペ先生が、180センチ超の鎌谷にコンペを食らわすとき手が届かないから、先生が乗るイス持参で怒られに出てきたというのです。
 鎌谷くんは親方になってからも誠実で、一門の弟子たちの面倒見がよかったそうです。そんな彼が死の直前まで気にかけていたのが、その頃サッカー事件で休場していた朝青龍の去就でした。部屋はちがっても気のいい青年の前途を心配していたのでしょう。
「もし彼が佐渡ヶ嶽部屋の力士だったら……」ときのう書きましたが、どこか気脈の通じるところがあったのでしょう。朝青龍も敬意を払っていたそうです。残念ですが朝青龍の『横綱』は終りました。
 まだ29歳。これからモンゴルの草原に足を踏ん張って立つでしょう。たのしんで見守ることにします。 
 
  
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栃錦と大内山の名勝負

2010年02月12日 05時24分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 制限時間いっぱいになると朝青龍は利き腕の左手でまわしを力を入れて叩き、塩に手を伸ばします。そのときにらむように遠くを見ます。あの一瞬の集中力と勝負での瞬発力。そしてふだんの善良そうなモンゴルの人の笑顔。モンゴルの大草原にはあの笑顔が似合います。そして彼の人柄を伝えます。品格がどうの、格式がどうのといった小言を吹っ飛ばすいい笑顔です。
 大相撲となるといっぱい思い出があるのですが『栃錦と大内山の名勝負』にふれます。ぼくが高校生の頃でした。栃錦はまだ大関でした。横綱は吉葉山・鏡里・千代の山・東富士の時代です。大相撲で新聞は盛り上がり、栃錦ファンだったぼくは千秋楽の大内山との対戦の日、ラジオにかじりついていました。テレビのない時代です。志村アナウンサーの実況放送にじっとすわっておれなくて、立ってラジオに耳を寄せて聞きました。自分の胸の高鳴りが聞えるように興奮していました。大内山の突っ張りに耐えて栃錦が首投げで勝ち、わけもなく部屋を飛びまわりました。
 あの興奮が大相撲の醍醐味です。
 七勝七敗で千秋楽を迎える転落寸前の大関が、果たして勝つか負けるか。くだらん。相手がなんと九勝(も!)している大関。がっぷり四つに組んだ長い相撲。ついに勝ち越し、来場所も大関に踏みとどまる。そんなの八百長に決まってる。
 そんなことに拍手するために庶民は相撲を見るんじゃない。そもそも負け越して何度も角番になるヨタヨタ大関なんて相撲美学に反する。早々に自ら引退すべきです。そんな大関が何人も居着いている大相撲なんてとっくに潰れているところでした。朝青龍が一人横綱を張っていたからなんとかつづきました。
 久島海が上がってきたとき、土佐の海が上がってきたとき、武双山が上がってきたとき、立派な横綱になるぞ! と期待しましたが駄目でした。
 朝青龍は亡くなった元横綱・琴桜にかわいがられ、彼も慕っていたそうです。彼が親方だったらよかったな。もし栃錦(春日野親方)が親方だったら。「力のある紳士だから力士という」というのが栃錦の持論だったそうです。心身をしっかり鍛えられて大横綱になっていただろうな。
 もう一つ。疲労骨折をしてるのにモンゴルでサッカー? 『疲労骨折』は『骨折』ではありません。不祥事として何度もテレビに映りますが。100キロ超の力士が力いっぱいぶつかり合う大相撲と遊びのサッカーを同一視しないで。あれは中田英寿に頼まれて親善のためにやった遊びです。いまさらなにを言っても空しいですが。
 ぼくの中の大相撲はおわりました。
 
 
  
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朝青龍の新しい人生に期待する(1)

2010年02月11日 06時35分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 篠山を車で走っていて、山奥の蕎麦屋『ろあん松田』の近くで竹薮に手が入れてあるのを見かけました。写真の山は桧が植林してありますが、下から竹薮が這い上がって侵食しています。その竹を伐って積み上げ、桧を守っています。(写真を見ると桧林の間伐も必要です)
 ところで横綱・朝青龍が引退しました。ぼくは朝青龍が好きでずっとテレビ観戦で応援してきたので、もう見られなくなるのは残念です。年配の大人は「横綱の品格がない」とか「日本古来の精神を受け継ぐ大相撲を大事にせよ」と声をあげていますが、そんなものはずーっと前にすたれています。
 モンゴル・朝青龍・大相撲には、思うことがいっぱいあるので何回かに分けて書いてみます。

○ モンゴルの人々の善良なこころ
 定年退職後二人でモンゴル・ツアーに参加したことがあります。首都ウランバートルで寺院などを見学して、数日後にカラコルム寺院を見学する旅にでました。一日かけてバスで移動して大草原の中のゲル(丸いテント張りの部屋)に泊り、翌日は朝からカラコルム寺院の見学です。
 ツアーは6月でしたが、寺院ではその年はじめてのツアー客受け入れで、観光客はぼくらだけでした。バスでカラコルム寺院に行き、たくさんある建物を写真を撮ったり見学したりしたあと、ガイドが寺院の裏にある亀石に案内するといいます。
 かなり離れた亀石に近寄ってみると、石の前で10人余りの現地の人が民芸品みたいなものを地面に並べて売っています。しかしぼくらが近づいても声を掛けるでも呼び込むでもなく、じろじろ見るでもなく、おとなしく寄ってもらうのを待っています。もしぼくらが知らん顔して通り過ぎたらその日はお客さんはゼロになってしまうのに。
 地面に広げた店でぼくらはいろいろと買い、現地の人たちとガイドを通じておしゃべりし、写真を撮りましたが、あの人たちの控え目な、善良な笑顔が印象に残りました。
 朝青龍の笑顔にもそんな善良さを感じます。20代の若者の、やんちゃだけど善良で、自分を封じ込めてしまって何を考えてるかわからない顔でなく、生きた表情をしています。そんな若者を封殺してしまったのが今回の引退です。 (つづく)
 
 
 
コメント (1)
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