不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

お孫さんたちとよいお年を!

2010年12月30日 21時13分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 今年は正月から一念発起して裏山の竹を切りまくりました。三月には頂上に達する道がつき、五月には裏山の上にブランコをつくりました。山の上で孫たちと弁当を食べている写真です。おじいちゃんもおばあちゃんも、孫たちのためなら「エーンヤコーラ」とイチゴ畑をつくり、おもてなし精神で頑張って、一年が過ぎていきました。
 ブログ『古希からの田舎暮らし』を読んでいただいているおじいさま・おばあさま、我が家を巣立った子どもたちが、孫を連れて帰省してくる頃ですね。本で見かけた川柳をおくります。   

   入れ歯見て   目もはずしてと     せがむ孫    (ハッスル爺さん)
   孫一人     これだけ話が      はずむとは   (富田林 春樹)
   運動会     一人の孫に       三家族     (新宮 船越雅司)
   どうしても   自分に似せたい     孫の顔     (東京 中村健彦) 
   もしかして   遊んでくれる      孫だろか    (出雲 板倉克巳)
   見ない振り   してると泣かぬ     転んだ子    (大村 河野陽介)
   来たときと   嬉(うれ)しさ同じ   孫帰る     (東京 手塚銀平)
   来て嬉し    帰って嬉し       孫五人     
   オシッコと   さも偉そうに      告げる孫    
   子が孫に    妻が娘(こ)になる   里帰り     (塩釜 真鍋憲一)
   
 柏木哲夫『ベッドサイドのユーモア学』から引用させていただきました。
 よいお年を!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛宕さんに一年の感謝を込めて。

2010年12月30日 01時27分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 今年もブログ『古希からの田舎暮らし』を見ていただき、ありがとうございました。
 ブログの写真ですが、アップしてみると小さかったりデッカクなったりで、なかなかちょうどよい大きさになりません。写した写真をweb(大)にしてアップしているつもりですが、ときどき大きさが勝手に変るのです。パソコンに弱くてすみません。
 これは裏山の愛宕さんに孫たちと登った写真です。一年間我が家をお守りいただいたお礼に、みんなで散歩がてら登りました。村の人たちは「祇園さん」と呼んでいるようですが、うちではなぜか「愛宕さん」と呼んでいます。頂上にはどっちが愛宕さんか知りませんが、石の社が二つあるのです。写真では向うのほうにも白っぽい小さい社が見えるのですがわかるでしょうか。(二つの社は50メートル以上離れています)
 きのうは裏山の竹を切ったり孫たちと遊んだりもしましたが、読書をして過ごしました。読んだのは半藤一利の『日本のいちばん長い日』で、一気に読了しました。いうまでもなく1945年8月15日正午の玉音放送で日本が無条件降伏することを国民に告げた日のことですが、ポツダム宣言受諾に反対する反乱軍が宮城を占拠して放送用録音版を奪おうとする事件の展開が、まるで歴史推理小説を読むように描かれています。いろんな本で読んで知っていることですが、読みはじめたら終りまで本を離せませんでした。
 半藤一利は1930年5月生れですから敗戦のときは15歳でした。一度は「兵隊さんになってお国のために死ぬ」ことを真剣に考えた世代です。ぼく(敗戦のとき7歳 - 山陰の片田舎で暮らし、空襲された経験もなく、兵隊さんも見掛けず、なんにもわかってなかった)とは、ものすごくちがうのを感じます。
 いままで、当時の政治や軍を動かしていた人々が、裁かれ断罪される本を読むことが多かったので、その人たちが命を吹き込まれ、人間として生き生きと動くドラマを見るようで、この本はおもしろかった。
 いま感じること。日本人は、性急に断罪して、自分と敗戦の間に線を引いてしまい、時間をかけて真の反省や責任追及をすることを回避し、あの敗戦に幕を引いてしまおうとした。
 それがぼくの中でもいまだにプスプスとくすぶっています。来年の課題にします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《魚の棚》に年の瀬の買物に行きました。

2010年12月28日 04時27分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは明石の《魚の棚》に年の瀬の買物に行きました。九十七歳のわが母妙子さんは魚が大好きで、魚の鮮度によって食いつきがちがいます。新鮮な魚でお酒を飲んでいると、もうすでに極楽にいるような顔になるので、ささやかな親孝行で魚を買ってきます。(妙子さんはお酒大好き。ぼくは250ミリリットルの缶ビールを持て余すので週に一度も飲みません。)三木に引っ越してからは近くのスーパーで買っていたのですが、やはり明石に行こうと、月に一度は魚の棚に買物にくるようになりました。神戸に住んでいた頃は、くぎ煮をつくるイカナゴを買いに、年末の買物に、ときどき来ていましたから、勝手はわかっています。近くの駐車場に止めてあれこれ買い込みました。
 写真は『魚秀』の店先で、ずらりと鯛を並べて炭火で焼いています。ここは大晦日が近づくとすごい人だかりで、焼鯛をゲットするのに一苦労します。
 きょうは娘たちや孫たちがやってきます。
 自分の帰省を思い出します。親は山陰の片田舎に暮らし、自分は阪神間で働いていましたから、盆暮れには必ず帰省しました。はじめは『大社行き』の夜行列車でした。昭和30年代後半の大社夜行はよく混んでいました。夜10時に出発するのですが、夏も冬も環状線ホームの隣りに一時間並んで列車を待ちました。一時間待っても座れないことがよくありました。そんなときは新聞を通路に敷いて寝ます。ぼくはどこでも寝られるのでかえって通路のほうが体が伸ばせてよかったかも。
 帰省するようになったはじめの頃は蒸気機関車でした。大阪から福知山線を通り、山陰線を走るとたくさんのトンネルがあります。夏は汽笛が聞えるたびに窓を閉めたり、あるいは夏でも閉めたままだったりしたものです。
 夏なら窓の外が白々明ける頃に、汽車は田んぼの中の上井(あげい)駅に着きます。(いまは倉吉という駅名です)明治の頃は「汽車が通ると米ができなくなる」と大地主が反対して、城下町の中心部には汽車が通らないことがよくありました。倉吉もそうです。上井という駅を田んぼの中につくり、あとでそこから倉吉線という支線を市街地まで引きました。その支線が次々と廃線になり、町は廃(すた)れていったのですが。
 でも、都会の喧騒から遠く離れて早朝の駅に降り立ち、空気を胸いっぱいに吸い込んだあの感慨は、いまも記憶に残っています。あんなに苦労した帰省ですが、いまでは違う路線で三時間足らずで着いてしまいます。
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎮守の神社の鈴を新調しました。

2010年12月27日 03時31分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ひと月前になりますがうちの村の神社の鈴を新調しました。近くの大きな神社の神主さんに来ていただいて、神様を招来してもらい鈴をつけました。ぼくは近くのグランドで障害者団体と老人会のグランドゴルフ大会があって、残念ながら参加できませんでした。
 あとで散歩したときに撮った写真です。新しい鈴はピカピカで、緒も太く、神社に風格が出たようです。実は村には婦人会があって毎年自治会から補助金が出ていたのですが、口吉川町全体の婦人会がなくなることになり、村の婦人会も消滅しました。そこで溜めてあった補助金で神社の鈴緒を寄贈することになったのです。相当な費用がかかるのでこんな機会でもなければ新調するのはむずかしかったでしょう。
 これでぼくの生きてる間くらいは気持ちよくお参りできます。来年の新年の祭りは1月16日(日)の厄神さんです。神社当番の人が村の人たちからのお供え物を神社に供え、神主さんに来ていただいて神様を招来し、これまた当番の人がつくるおでんで、お酒を飲む直会(なおらい)があります。去年ぼくはめったに飲まないお酒を飲んで酔っ払い、道子さんに電話して迎えに来てもらって早々に帰ってしまいましたが、今年はちゃんとお付き合いするつもりです。村の役員は出ることになっていますから。
 ぼくがたのしみにしているのは神様の招来です。散歩の途中に寄って拝んでもふだんは神様がお留守のようですが、お祭りの日はちゃんと鎮座しておられるような気がします。ふだんだったらこっちの勝手なお願いしか心に浮かばないのに、この日は自然と手を合わせて拝みたくなるから不思議です。
 そういえば11月にお参りした大将軍神社でもそれを感じました。いつ行ってもだれもいなくて、ぼくらだけで神社のガラス戸を開けて拝んでいました。ここは神様はおられるようではあるのですが、縮こまっておられます。ところが11月16日のお祭りの日は、幟(のぼり)が立ち、幔幕が張られ、まわりの小さい社にも御餅が供えられ、神様もうれしそうな空気感です。なかなかいい。それで12月16日のお祭りもお参りするつもりだったのですが忘れていました。
 1月16日は鎮守の八幡神社の祭りと重なりますが、大将軍神社の当番の方はちゃんと祭りをされるでしょう。朝早めに大将軍神社にお参りしてから八幡神社にお参りすることにします。
 そうそう、裏山の愛宕さん祇園さんにも年内にお参りしなければ。去年うちの村では、二つの社を石で新調しました。いままでの木の社は朽ちて骨組みだけになり傾いていましたから。7月のお祭りには村の当番の人について登りしましたが、あれからお参りしていません。今年一年の無事と収穫に感謝するために寒いけど登ります。ここは新しくて小さい石の社なのですが、神様がちゃんとおられる気がします。裏山の頂上はちょっとした広場になっており、神域という雰囲気があります。
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウッドデッキに出るのも寒くて……。

2010年12月25日 02時39分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 22日は冬至でしたが、朝は曇っていて太陽が見えませんでした。それで翌日撮ったのがこの写真です。まだ太陽は出ていません。太陽が一番南寄りの山から出るので、三年前ウッドデッキの床にマジックで出た方向を書きました。でも今年は寒いからデッキに出ず、窓を開けて写真を撮っただけです。
 我が家のウッドデッキは東を向いています。ですから板を止めた釘の列が真東を指し、冬至と夏至に太陽の昇る方向がちょうど左右対称になります。その方向をマークして日の出時間を書いているのですが、毎年同じで宇宙の運行の確かさになんとなく安心します。
 それにしてもこの景色。近くに、うちの村の家家が田んぼに囲まれてほどよく散らばり、小さいながら鎮守の森があり、もやの向こうのなだらかな山すそには向かいの村がある。
 何気なく毎朝この景色を見ていますが、無言の「いいなあ」という感嘆がこころにわきます。
 玄関を開け新聞を取りに出て、朝日の当たる裏山とすっかり葉の落ちたクヌギやコナラの高い幹を見上げます。竹薮の竹をすっかり切ったスペースにはいろんな小鳥がやってきます。気が向けばきょうも竹を切って里山らしくしよう、と気持ちがうごきます。
 特別な趣味があるわけでなく、ただ田舎の景色にかこまれ、広めの家庭菜園をつくって、のんびり暮らそうとはじめた田舎暮らしですが、いまでは「この空気感が自分の本来の居場所で、あちこち動こうとは思わない」気がしています。もし街で暮らしていたら、今日もどこかに出掛けてみようと思うかもしれません。なにしろ落着きのないぼくのことですから。
 田舎暮らしをしてよかった、それにしても四年前というのはぎりぎりのタイムリミットだったなー、とこたつにあたりながら思い返しています。
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田舎の風情に勝るものはありません。

2010年12月24日 03時34分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 もう丸四年が過ぎたのですね。はやいものです。
 2006年12月、ぼくたちは神戸市須磨区のニュータウンから三木市口吉川町のこの地に小さな家を建てて、引っ越してきました。
 数日前、用事があって26年間暮らした須磨の名谷に出掛けました。久しぶりでなつかしく、車でかつての我が家付近を走ってみました。名谷はきれいな街です。縦横に走る道はどれも広くて街路樹が植えてあり、それが大きくなって街は緑につつまれています。ところどころにかなり広い公園があり、植えられた木々は立派に生長して、こんもりした木立ちになっています。また車道横の歩道でなく、散歩するための専用周回道路が街づくりの段階からつくられていました。自動車の走る道路と立体交差するように設計されており、家から、横を自動車が走る一般道の歩道を通らず、歩行専用道路だけを15分歩いて駅に歩いていくことができましたし、家を出て一時間、生垣や並木のつづく歩行専用道路だけを散歩をして帰ってくることができました。
 でも田舎に暮らすようになって思います。どんな素晴らしいニュータウンでも田舎の風情には勝てないと。
 写真は代金振込みに寄った三木市細川町金屋のローソン駐車場から撮った榎です。夕日をバックに枝が張っています。根元には地蔵さんのような石が祀ってあり、花も供えてあります。この榎は姿がいいのでぼくのお気に入りのスポットで、以前にもブログで紹介したことがあります。この木にもなにかの言い伝えがあって、金屋の人たちが代々祀ってきたのでしょう。その言い伝えはわかりませんが、田んぼの中にこの木があるだけで風情(ふぜい)があります。
 そういえばうちの村のゴミステーションには、那須(の)与一の石像があります。先日老人会の先輩に教えてもらいました。高さ30センチほどの石で、風化してしまって石ころなのか石像なのかわかりませんが、ブロック塀の根元にセメントで固められて立っています。ゴミステーションなら街のほうがきれいでしょうが、石ころみたいな石像があるだけでしっとりした空気感があります。
『古希からの田舎暮らし』と題するブログですので、「どんなとことろでどんな暮らしをしているのか一度見たい」と未知の方からコメントを頂くことがあります。いつでもお越しください。コメントに連絡先を入れてください。アップ前にチェックして、連絡先の書いてあるコメントはアップしないで、こちらから場所や時間をメールか電話で連絡します。田舎暮らしに関心のある方を心から歓迎いたします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レンゲ畑が冬を越します。

2010年12月22日 00時53分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は我が家のレンゲ畑です。うちのだけでなく口吉川町内のならよく軽トラックで走って様子を見るのですが、レンゲ畑を見かけることはまずありません。2009年の4月に奈良を旅したときも、二日間田園風景を見ながらドライブしましたが、レンゲ畑を見たのは二反ほどの田んぼ一面だけでした。幼い頃を思い出すツールとしてレンゲ畑は手軽につくれるのに、いまでは幻になっています。
 でも五月のゴールデンウイークに孫たちにレンゲ畑を体験してもらおうと、サツマイモを掘った跡にレンゲを蒔きました。6メートル×20メートルほどの畑ですが、少しはレンゲ畑の情緒が味わえるでしょう。
 一昨年(2008年)もレンゲ畑を少しつくったのですが、このときはレンゲの間にギシギシがあちこち生えて、それにアブラムシがつくので5月初めに刈ってしまいました。そのレンゲを梳き込もうと枯れたレンゲの下を見たら、夜盗虫がいっぱい隠れています。そこでレンゲは集めて燃やし、夜盗虫は拾い集めて火葬しました。そして去年はレンゲ畑をつくりませんでした。
 柴犬を連れ、長い杖を持って散歩する人に「わしゃ毎日レンゲ畑を見るのをたのしみにしとったのに、刈ってしもたんやな。きれーかったのに」と声を掛けられましたが、来年はあの村人にもレンゲ畑をたのしんでもらいましょう。
 レンゲは種だけを蒔いても土をかぶせないと風に飛んでしまったり乾燥して出芽しません。そこで道子さんはサツマイモを掘った跡の畑をならして、土と混ぜて条蒔きにしました。写真で盛り上がっているのが蒔いたところです。伸びると全体がレンゲ畑になります。蒔いたあと水やりを心掛けたので数日で生えてきました。
 中央に生えていないところがありますが、ここにはシモン一号を植えていました。今年は10本だけつくったのですが、出来が悪くて11月の初めまで待って掘りました。しかしほとんど収穫はありませんでした。そのあとすぐにレンゲの種を蒔いたのですが、こちらは生えてきません。レンゲは15度から20度が発芽の適温だそうで、11月からは寒い日が多くて出芽しませんでした。レンゲはやはり10月中頃までに蒔くのがいいようです。なおレンゲ畑は菜の花で縁取りしています。花の時期はずれますがこちらはお彼岸の墓参りの人にたのしんでもらえそうです。
 そうそう、夏にブログで紹介した《最強の雑草・ハマスゲ》ですが、いまは「もう滅んでしまったか」と思うほど姿を見なくなりました。でも地面を10センチも掘るとあの《香附子》(こうぶし)がちゃんとひそんで夏を待っています。ハマスゲとは来年も対決しなければなりません。
 レンゲは芽を出してしまえば寒さに強い植物です。来年の春の花をミツバチとともに待つことにします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

落葉を掃除しました。

2010年12月20日 05時42分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 我が家のある一群の新興住宅に行くには、村中を通る旧街道から200メートルほど山沿いの道路を上がらねばなりません。この時期、道路にはクヌギやコナラの落葉が降り積もります。そこで清清しい道で新年を迎えようと、ぼくは村の保健衛生委員という地位を利用して、ご近所に道路清掃を呼びかけました。
 そして日曜日のきのう、6軒中5軒に参加してもらって清掃をしました。はじめてみんなで清掃をした去年は雨降りで寒かったのですが、今年は風の無い晴天で、体を動かしているうちにあったかくなりました。
 側溝に詰まった落葉をかき揚げ、道路横の草むらから落葉をかき出して大きなバッグで運びましたが、集めてみて落葉の量に驚きました。それを燃やして午後には結構な量の草木灰ができました。後日畑に撒きます。
 このたびの清掃作業には、前日から来ていた孫の大志くんも参加しました。(小さく写っています)五歳ですから大した助けにはならないと思ったのに、金のさらえを引きずって上へ下へと走りまわり、作業している大人たちに分けへだてなく話しかけ、冬眠中の蛙が出てきたらみんなに報告してまわり、いちばん存在感がありました。子どもというのはえらいものだ、と感心しました。
 作業は一時間余りで終了し、我が家のウッドデッキでミーティングです。自家製の野草酵素飲料とぜんざいを食べてもらいながら、しばらくおしゃべりをして解散しました。道子さんは有機無農薬で小豆を栽培することがいかに大変かを話して、小豆を味わってもらいました。有機農業を志しても小豆は敬遠する人を知っていますが、彼は実際に栽培し、ムシにやられ、収穫ゼロになってしまう体験をして「これだけムシにやられてはどうしようもない」と悟ったのでしょう。小豆収穫までの苦労をずっとそばで見ていただけのぼくも、ぜんざいをおいしくいただきました。もちろん大志くんも。
 来年は村の役員が交代します。(二年任期)でもこの道路清掃は、ぼくたちの体が動く間はうちが呼びかけてつづけよう、と我が家では話し合いました。午後は二人で時間を掛けて道路清掃の仕上げをしました。草刈機で側溝横のアスファルトに生えている草を刈り、それを側溝に竹ぼうきで掃き落とし、側溝を十能でさらえる作業です。
 きれいな道路になりました。散歩で通りかかった隣り村の人が「まあ! きれいにされましたなー!」と感嘆の声をあげて行かれました。いい新年が迎えられます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《断捨離》を見て考えました。

2010年12月17日 02時54分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ぼくはきのう「畑に収納場所をつくった」とブログに書きましたが、その内部写真がこれです。「出来上がったよ」と声を掛けたら、待ち構えていた肥料袋や容器がワッと集ってきてたちまち一杯になってしまいました。これ以上収納場所を増やしても同じですから、これからは整理整頓して不必要なモノは捨てながら使っていきます。
 きのうの夕方、NHKの『クローズアップ現代』を見たら、「モノを片付ける」を取り上げています。《断捨離》セミナーを受けた主婦が、自ら『魔界部屋』と呼んでモノを山積みしていた部屋を片付けるレポートです。解説は宗教家です。なんで『お片付けカウンセラー』でなく『宗教家』が解説するのだ、と思って見ていると、彼はモノと自分の関係性を話します。
 それを見てぼくはぼくなりにモノとの関係性を考えました。
 ぼくはずっと、読書するのはいいことだ、と思って生きてきました。本屋で本を漁り、図書館に通って本を借り、あれこれ読んできました。あるいは積んでおくだけの本も「いつか読むつもり」でした。でも69歳のときに田舎に引っ越すことになり、長年たまっていた本を整理して、たくさん捨てました。引っ越しでもしなければとても捨てられそうにない、ぼくにとっては貴重な本でした。
 でもきのう、気づきました。ぼくはまだ本との関係性を整理できていないことに。おそらく死ぬまで完全に整理はできないでしょうが、そうではなくて、本への思いが「易きに流れる」ことに抗う気持ちが一方にありながら、「本格的に構えた読書はもうできない」という自覚がもう一方にあり、中途半端な読書をしていることに気づきました。
 その中途半端な気持ちが本棚にそのまま並んでいます。退職後一生懸命に取材した満蒙開拓青少年義勇軍関係の本は、並んでいるだけになってしまいました。一つ一つのテーマとその関係の本を整理することは、自分とそのテーマとの関係性を整理することです。「もうできないだろう」という思いと「無理かもしれないけれどまだ捨てたくない」という思いが、交錯します。
 それは生き様そのものといっていいかもしれません。さて……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

収納場所をつくると……。

2010年12月16日 03時34分46秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 畑に写真のような収納場所をつくりました。8尺のカラートタンの波板をわずかな傾斜をつけて屋根にし、まわりにはブルーシートを垂らしておく肥料置き場です。いままでブルーシートを上から掛けるだけでしたが、あのシートは一年もしないうちにビニールがはげてしまい、雨が降ると下のものがびしょぬれです。肥料は台無しになります。そこで二日間かけて屋根付きの肥料置き場にしたのです。風の強いときは垂らしたシートを地面に止めます。台風のときは上にあげて肥料にはシートを架けます。「できたよ」というと道子さんが早速肥料を運んで並べ、アッという間にいっぱいになってしまいました。
 収納場所をつくると、いままでどこに置こうかと困っていた物の置き場所ができます。すると「自分の居場所ができるのを待ち構えていたように」たちまち物が納まります。そんなことをこの家に引っ越してからも体験しました。去年の秋、三畳のパントリーをつくりました。三段の棚をつけてようやく完成したので、「出来上がったところを写真に撮っておこう」とカメラをとりに行き、ついでにちょっとなにかして戻ってみると、もう棚には醤油や酢の瓶、壷、素麺の箱などが整然と並んでいます。物たちの「ワタシの(オレの)居場所ができた」と満足しているような姿を見ると、よかったなーと思いますが、それにしても行動が素早い。
 そういえば二年前に家の横に3メートル×6メートルの物置をつくり左右に棚をつけたとき、いろんな大工道具を整理して置くことができて、とても使いやすくなりました。ところが二年たって作業しようとすると未整理の棚のようにあちこち道具を探さねばなりません。なにかわからない物が右の棚にも左の棚にも積んであります。
 69歳になって、長年住んだ家のいろんな物を処分して、新しい小さな家に引っ越してきたぼくらでもこの有様ですから、長年ずっと同じ家に暮らしている人は、さぞいろんな物に囲まれて暮らしているでしょうね。ときどき整理してどこかに仕舞うと、そのままで数年か数十年が過ぎていきます。そのうちこっちは死に、永遠に物はそのままです。
 そんなモノあふれる時代に、いつも片付いて清清しさのただよう家に暮らしている人は、えらい。どうしてそんな風に暮らせるか不思議です。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出会う!

2010年12月15日 01時35分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 我が家の裏山の写真です。クヌギ・コナラの木々はすっかり落葉しました。5・6月頃に生えた竹は切りましたので、少しだけ冬枯れの里山気分を味わえる空間ができています。
 きのう姫路の知人夫妻を久しぶりに訪問しました。同年輩の夫妻とは長年の付合いなのですが、「忙しいわね」と妻同士が電話を掛け合うくらいで、なかなか訪ねる機会がなかったのです。その知人はいま民生委員をしておられ、出掛ける機会が多く、カレンダーには毎日なにか用事が書き込んでありました。
 でも今日のタイトルにした『出会う!』は二組の夫婦が久しぶりに出会ったことではありません。その知人が「マジック」と「出会った」ことを伝えようと思います。
 民生委員として独居老人の食事会の世話をするうちに「食事だけでなくなにか楽しみがあるといい」ということになり、マジックをやっている人に「15分ほど何か演技をして欲しい」と頼みました。すると三人の方が張り切って来られ、次々と一時間マジックをしたのです。面白くないから帰る人もあり、白けた集りになってしまいました。
「マジックなら亡くなった夫の道具を使ってください」と申し出られた方があり、知人は「自分でやれば会の雰囲気に合わせて自由に調節できる」とその道具をもらうことにしました。もらいに行ってびっくり。軽トラックに山積みして運ぶほどのマジックの道具があったそうです。
「それからその道具を使う練習をしてマジックをマスターしていき、あちこち老人の集りや幼稚園などでマジックを見てもらって二年になる」と聞いて感心してしまいました。
 もらった道具の山にはまだまだ多くの種目が埋もれており、それを発掘して練習し、あるいはネットで新しい種を仕入れ、次々と声の掛かる集りに備えておられました。いままで出掛けたあちこちの集りで披露した種目は、集りごとにリストにまとめてあり、次に見てもらうときダブらないよう配慮したり、演技の練習を積んだりして、自分のスキルが上がっていくのを自分でたのしんでおられます。
 アラ古希の歳になってマジックと出会い、長年生きてきた姿とひと味ちがう空気をまとって人前に立つ。新しい人生が拓(ひら)くのを見ました。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒大豆の脱粒を人海戦術でしました。

2010年12月13日 01時56分51秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 いつもは二人で仕事をするのですが、きのうは日曜日でやってきた孫たちの二家族が加わり、我が家の畑にとってはちょっとした人海戦術で黒大豆の脱粒をしました。写真には孫たちも写っていますが、まったく手伝う気は無く「農業繁栄の神社をつくる」とか言って、松かさを拾ったり石を並べたりして遊んでいました。それでもさすがに人数が多いので午後わずかな時間で半分の黒大豆を脱粒しました。
 この黒大豆は根を切って稲木に架けてから10日が過ぎ、パリパリに乾いていると思うのに瓶で叩いても素直に割れません。黒豆は二月頃まで畑に置くことがあります。カラカラに乾いても大豆みたいに簡単にサヤが割れることはありません。もう少し乾かしたほうがいいようです。
 ということで正月用の黒大豆を半分ほど収穫して、あとは年末まで稲木に架けておくことにします。雨にはかからないほうがいいようですから、雨の予報のときはシートを掛けます。
 午前中はグランドゴルフの大会があり、参加しました。きのうは口吉川町の老人会と三木市の障害者団体の共同の大会で、互いに顔見知りでなくても和気あいあいの雰囲気が快かったです。
 なんとうちの老人会長が新しいグランドゴルフのクラブを持っているではありませんか。やる気満々だな。ぼくは買う気はありませんがよそのチームは練習に精を出しているといいますから、うちの村も小野市にある練習コースに出掛けなくては。タランタランした散歩みたいなものですが、あったかくなったら出掛けることにしましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喪中ハガキが届きます。

2010年12月11日 09時32分57秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 師走になり、喪中ハガキが舞い込みます。
 先日、ぼくと同年輩の方の奥さまが、まだ60歳代で亡くなられたという喪中ハガキが届きました。丹波の田舎に住み、いまは農業に精を出しておられる方で、奥さまはとても元気に、多方面で活躍しておられました。ぼくらが田舎暮らしをしようと空き家を探しまわった頃には、いろいろと相談にのっていただき、一時はその方の近くの空き家に移住しようと考えたこともありました。
 それだけに机上に置いたままのハガキを何度も見て「なんで? どうして?」という思いが心に引っ掛かったまま数日をすごしました。
 蟹の季節になったので8日9日と宮津に一泊旅行をしました。舞鶴道を走りながらまたあの喪中ハガキを思い、せめて仏壇でも拝ませてもらおうと途中で高速道を下りました。お訪ねして聞けば、11月の下旬に病死されたとのことでした。今年になって病気が見つかり、一度は完治して退院したのに10月に脳に転移しているのがわかり、ひと月足らずの入院で亡くなられたというのです。幅広く活躍しておられた奥さまでしたので数百人の会葬者があったそうですが、それにしてもなんということか。
 旅先でもふと思い出してしんみりしましたが、いずれどこの親子にも、夫婦にも、別れはやってきます。心の備えがあろうとなかろうと。そして残された者は。どのようにでも、とにかく生きていくしかありません。そしてやがて自分の番がくる。
 生きるって、つまりそういうことなのですね。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喫茶店・cafe' かのんで昼ごはんを食べました。

2010年12月04日 05時21分30秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 三木市の老人大学は、廃校になった瑞穂小学校(『まなびの郷みずほ』と名付けられています)をつかっています。ここで講演会があり、うちのの老人クラブ会長さんに誘われて二人で参加しました。昔の体育館が会場ですが、老人大学の学生と各老人クラブからの出席者で体育館はいっぱいです。300人近く参加していたのではないでしょうか。
 講演は、三木市在住の 『金 華洙』という医学博士で、東大の医療研究所の先生です。「東大教授がなんで三木に住んでいるんだ」と思いましたが、全国の医師に手術方法を伝授するために九州や四国や広島などあちこち行かれますから、ここらへんに住むのがちょうどいいかもしれません。ぼくらから見ると若手のバリバリの先生で、話は実におもしろく、老人のためになることをいっぱい学びました。ほんとに力のある人は、モッタイやカッコウをつけず、相手をよく見てきっちり伝える力があります。感心しました。
 この講演会に出掛けたのにはもう一つたのしみがありました。『cafe' かのん』に寄ることです。細川町からグリンピア三木に行く道の途中にある喫茶店で、向かいの山によく映えています。建物はスウェーデンハウスで、窓のガラスは三重になっています。ここは靴を脱いでスリッパに履き替えます。清潔な調度品と木の床。庭や向かいの山によく似合うガーデンテラス。この日は昼どきでしたので野菜カレーをいただきました。
 畑仕事が一段落して、裏山の手入れに精を出そうと考えています。おとといもきのうも裏山をキツネが通りました。こちらを見てあわてて走り去るでなく、数歩ゆっくり歩いて振り返り、また数歩歩いて振り返りして、姿を消しました。「キツネを見た見た!」と人間はよろこびますが、キツネにしてみれば「お近づきになろうかなー」とわざわざ寄ってきているのかもしれません。竹を切って林を広くして、もっとよく観察できるようにします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北朝鮮の人々を思う。 (2)

2010年12月03日 02時00分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
『古希からの田舎暮らし』と題しながら北朝鮮への思いを書いてすみません。時局についてあれこれ書くつもりはないのですが、北朝鮮には特別な思いがあります。あの国の実情を自分が知らずに、北朝鮮礼賛本(総評議長だった市川誠の礼賛本など)を読んで、「心の中で旗を振っていた」ことへの痛い反省です。その影であの国の庶民が、貧しい者同士いがみ合い、陰口をたたき合い、差別し合い、看視し合い、あることないことで告発し合うように強制されて生きてきたことを思うと、じっとしておれないものがあるのです。きのうのつづきで残りの三冊の本を紹介します。
『凍土の共和国』1984年(昭和59年)発行 亜紀書房    現在では手に入りにくい本ですが、ネットの古本屋とか図書館にはあります。350ページの分厚い本ですが一気に読ませる力がありました。読みすすむにつれて、日本からの祖国訪問者が、『指導員』と称する監視役にじらされ、たかられ、おどされる様子に胸が痛くなるのですが、それでも読むしかない力をこの本は持っています。それが1960年からとしても何十年つづいたことでしょう。東洋的な、あらゆるからめ手を使った、おどし・ゆすり・たかり。人間をこのように追い詰めるのは陰湿な犯罪です。『民主主義人民共和国』という国家の名でこんなことが行われていた。それをぼくは知らなかった。言葉がありません。
『どん底の共和国』(北朝鮮不作の構造)……1989年(昭和64年発行 亜紀書房) 
『暗愚の共和国』(北朝鮮工業の奇怪)……1990年(平成元年発行 亜紀書房)
 北朝鮮についてはわずかな見聞で書いた「売らんかな」の暴露本がたくさん出版されています。1990年代から2000年代にかけては北朝鮮の食糧不足・餓死者・脱北者・庶民の生活実態・拉致被害者の様子・金正日の堕落した生活を書き立てた本、あるいは権力内部から告発する本はおそらく100冊を越えるでしょう。
 その中にあってこの二冊は良心的に祖国を思う本です。いまでは図書館で読むか古本屋でしか入手できません。なんとか祖国のために尽くそうと在日朝鮮人が私財で機材を購入して贈り、技術者の自分が祖国に渡って施設の建設を指導し、祖国の農業と工業について観察し、考察した本です。残るのは愚かな指導者に振り回される「絶望」ですが。『凍土の共和国』とこの二冊は北朝鮮問題の根源を学ぶ原典です。
 北朝鮮では金日成の『指導』で山の木を切って段々畑にして、耕地を増やしました。燃料もありませんから木を切るのは好都合でした。モンスーン地帯の山々は木々に覆われ、豊かな森になっている筈ですが、高さ500メートルを越す山が頂上まで耕されているのは異様な光景です。1980年代の主体農法は、土砂を流し、田んぼに石を流れ込ませ、川床を上げ、河川を氾濫させ、国土を荒廃させました。また電線は『指導』もあって地中に埋めてインフラ整備をしました。いまどうなっているか。これからどうなるか。
 金王朝はほどなく倒れます。しかし国土やインフラの問題は山積みのまま残されます。貧しい庶民の生活はそのままつづきます。バイキングで食事をするとき「北朝鮮の人たちが、にこやかに談笑しながらバイキング(ガツガツしないで好きなだけ食べられる)で食事をする日はいつになったら来るだろう」とため息が出ます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする