古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

保坂正康氏の本を読みながら考える。

2015年08月31日 04時44分21秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 保坂正康氏の『昭和陸軍の研究』は未来に残る労作で、「繰り返し読みたい」といまも手もとに置いている。彼は保守派の論客と目されるがいまの政治状況に黙っておれなくて『安倍首相の「歴史観」を問う』という本を出した。(2015年7月発行・講談社)
 いくつか引用してみます。


 安倍首相の歴史観を聞いていると、東京裁判は戦勝国の復讐の裁判で、あの戦争に対して侵略という定義はないという。つまり歴史修正的な歴史観です。この考えはドイツにもアメリカにもある。しかしそれは権力と一体になっていない。どの社会もどこかでバランスが働いているんです。日本だけが、今、歴史修正主義が権力と一体化してしまっている。この点で日本は、世界史的な包囲網に入っているのではと私は懸念しています。


 私は、この国の軍事化を進めている政治家にかつて聞いたことがあります。
「軍事化を進めるときは、実際に死ぬかもしれない自衛隊員のことも考えるべきじゃないですか」と。そしたら
「自衛隊の人は、みんな誓約書を入れて入隊している。命令されれば、どこにでも行くってことになってますから、大丈夫です」
 と答えた。そんなことよく言うなと思いましたね。
 戦争に行けと言ったら、(中略) 辞める人もいると思いますね。結局は徴兵制しかないんです。(中略)「地球の裏側へ行くのも厭わない」と (中略) ある政治家は、 ある官僚も  言いました。しかし、彼等の子供たちは決して行かないでしょう。なぜか? 自分たちの息子は行かないようなシステムをつくるからです。
 太平洋戦争のときに、戦争政策を決めた最上位の軍事指導者の子弟は死んでいますか? 太平洋戦争で指導者の息子たちが、激戦地へ行っていますか? ほとんど行きません。なぜなら、行かないですむ仕組みを巧妙につくるからです。徴兵の例外を幾つもつくるからです。戦争時の権力というのは、そういうものなんです。


 こんな調子で保坂氏は「軍服を着た首相」に斬り込んでいます。しかし実際に声をあげるこの国の人々は多いとはいえない。そういう状況を見越しているからこそ権力は踏み込んでくる。


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やっぱり『錦織圭の全米オープン』が見たい。

2015年08月29日 05時47分42秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「全米オープンは見ない」と決めたつもりだったのですが、大会が近づくにつれて気になって仕方ありません。
「こんなことは100年に一度。たまたまその時代に生き合わせているのだから我慢しないで見よう」と思い直し、WOWOWを申込みました。現地と日本では13時間の時差がありますが、ここはテニスの試合を見ることを生活の中心に据えます。
 今年6月の全仏オープンのときは、起きてパソコンに向かっていました。試合の経過が気になるけどテレビで見れないし、速報風に書き込みしてくれるネットのブログを見てやきもきしました。もうその心配はありません。
 しっかり見ます。
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樹が倒れるので注意しなくては。

2015年08月28日 02時46分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ためておいたペットボトルを大きなビニール袋に入れて、収集日の早朝、軽トラでゴミ・ステーションに行こうとしたら、道路に山の木が倒れて「通せんぼ」してます。同乗の道子さんに片付けてもらおうとしたのですが、一人では動きません。道の真ん中に車をとめて、土手の空き地まで二人で倒木を引き摺りました。
 高さ4メートル超で枝の張った枯れ木です。折れ口を見ると完全に枯れたアラカシのようです。山際にはアラカシが生え、中は竹藪がはびこる山ですから、古いアラカシが枯れて倒れたのでしょう。夜中に倒れたからよかったものの、人や車が通り掛かったときに倒れたら事故になったかもしれません。
 倒木の根もとの写真です。20センチ超の太さです。
                     
 きのう、ノコギリで枝を切り山の繁みに片付けました。枯れ木なので切るのは簡単でした。
 
 この山はむかし赤松の生える松山だったそうです。むかしは炊事に「枯枝や枯葉」をつかいましたから、村の人たちは山に柴刈りに行きました。山の手入れが行き届き、マツタケがよく生えたそうです。「マツタケが採れて採れて、自転車にカゴ積んで、三木の街まで売りに行ったもんですわ」と村のおじいさんに聞いたことがあります。
 いまは竹藪になり、クヌギ・コナラがわずかに竹より高くなって生き延びています。うちの裏山にも赤松が一本残っていましたが、引っ越した年に枯れて倒れてしまいました。
 このたび倒れた木のそばに太い赤松が立っています。直径30センチ超の立派な赤松です。数年前まで枝を伸ばしてしっかり生きていたのですが、いまは完全に枯れて幹にキノコが生えています。(マツタケではありません)この樹は近い将来、必ず道路に倒れます。おそらくぼくが生きている間に。
 その赤松の写真です。
                     
 松は根もとがとても強いです。油を含むので腐りません。でも幹は枯れたら弱い。大風の夜中に倒れたらいいけど、車や人が通ってるときに倒れたら事故になります。どうしたものか。
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「ゆぴか」で骨休めをしました。

2015年08月27日 04時46分31秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 母のショート・ステイ中に、ちょっとだけ羽根を伸ばして夕方から小野市の温泉「ゆぴか」に行きました。久しぶりに来た感じです。スタンプカードの日付を見ると去年の10月以来でした。
 帰りは暗くなったので小野から三木東まで山陽道を走りました。夜道の曲がりくねった一般道を走るには疲れている感じでしたから。信号がなくて追い越し車線のある高速道のほうが走りやすいから。途中出来心で三木のサービスエリアに寄ってみました。「ちょっと田舎の三木にしてはなかなか洒落たお店」とはじめて寄った道子さんは気に入ったようです。
 フードコートの宣伝に <「カツめし」第一位・年間3万食> と出ています。
「また『ゆぴか』に入って帰りにここで食べよう」という話になりました。
 さー、一年以内に実現するか。
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『思い出』とどう付き合うか思案しています。

2015年08月26日 02時55分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 10月5日でこのブログを終了すると言い出して、ブログを書籍化しようと編集にとりかかりました。1500回以上書いていますから、全部を書籍にするのは無理です。毎日の出来事を書いているのですから、過ぎてしまえばまとめて書籍化する意味もありません。
「あー、こんなことがあったなー」と思い出すだけです。反省したり今後の参考にすることがあるかもしれませんが、思案するときは、ブログという手がかりがなくても「いまどうするのがいいか」考えればいい。
 実は「田舎暮らしをしよう」と9年前の2006年に神戸の家を片付けたとき、学生の頃のアルバム、勤めてからの写真などは全部処分しました。家族のアルバム、自分の旅のアルバムを数冊を手もとに残しただけです。それもここに引っ越してから9年間、見ていません。
 『思い出』に生きるときが、さらに高齢になるとあるかもしれません。「思い出す」というこころの働きが認知症に効き目があるかもしれません。その大事な手がかりとして、アルバムや書籍化したブログが役立つかもしれません。
 母・妙子さんは「本の虫」の文学少女で、94歳で三木に引っ越してからも図書館で本を選んで借りていました。そのうち大型活字本だけになり、ぼくが選んで借りてくるようになっても、本読みはつづけていました。ところが100歳を越えて2年ほど前から本を読まなくなりました。「ショートステイ中に何か読むものがあればいいかも」と考えて、ノートに写真を貼って、解説文を横に書く様式で「思い出ノート」をつくりました。三木に引っ越してから訪ねてきた人、子どもや孫やひ孫の写真などを貼り、当時の状況を思い出せるようなノートにしました。またもっとむかしの写真を貼って、30年間の神戸時代(64歳 ~ 94歳)より前の山陰の片田舎での思い出を書いたノートをつくりました。
 そんなノートを見ているかもしれませんがこころは働いてないようです。思い出というのは、もっとこころの奥から自然に流れ出すもので、他人がコントロールできるものではない。引き金になる文や写真があるかもしれないけれど、なくても流れ出るときは流れ出る。
 そういうことを考えると「思い出の材料づくり」にはあまり手をかけないほうがいいかも。
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10月5日でこのブログを終了します。

2015年08月24日 03時08分05秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 『古希からの田舎暮らし』を読んでいただき、ありがとうございます。2009年3月に書きはじめて、現在までの足掛け7年間に、1500回以上書いてきました。毎日のように写真を撮ったり、書くことを考えたりして、自分なりにたのしんできました。
 このブログはぼくの78歳になる誕生日の前日<10月5日>で終了することにしました。
 「古希(70歳)どころか喜寿(77歳)も過ぎて、〈アラフォー(40歳前後)×2〉 になろうというのに「古希」を振りまわすのはおかしい。田舎に移り住んで10年目にさしかかろうというのにいつまでも 〈田舎暮らし〉 を振りまわすのもおかしい」と感じるようになりました。
 では、これからどうするのか。
 実は平均寿命に近づくこのあたりまでの人生をなんとなく思い描いていたのですが、どうもまだ元気だし、「自分の〈老い〉や〈世の中〉をしっかり受けとめて考えてみたい」と思うようになりました。
 そこで新たなブログを立ち上げようと考えています。題も中身も決めていませんが。
 いまの『古希からの田舎暮らし』ブログは、いくつか選んで『goo』ブログで本にして手もとに残すつもりです。実は書籍化をクリックしたら、もうパソコンの上では本のかたちになっているのです。驚きます。
 まだ一カ月以上ありますから「これからどのように生きるか」を考えながら、畑や山の「仕事」をして暮らしたいと思います。

 秋口はマムシの危険な時季なので、畑や山の草むらを刈って寄りつかせないようにします。で、きのうは一日中草刈りをしました。
 まず「野菜くず捨て場」に生えたカボチャを収穫しました。このカボチャは捨てた種から勝手に生えてきたのですが、次々と雌花が大きくなるので前に4つとりました。草むらをなくすためにツルを引き上げたら写真のようにまた収穫。全部で11個。今年つくったカボチャの中で一番よくできました。
                     
 7月はじめに電気柵を移動しました。草が生えないように防草シートを敷いて電線を張っていましたが、この写真はシートをはぐった直後です。草が全然生えてなくて土手がひび割れています。「また生えるだろうか」とちょっと心配しました。
                     
 次の写真は8月23日です。草は強い! 
                     
 
 
 
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映画『暁の7人』をテレビで見ました。

2015年08月22日 10時57分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                      
 水生植物のホテイアオイがものすごく元気です。裏山の池に浮かべたらどんどん増えて池全体を覆う勢いになりました。驚いて数株引き上げてバケツに入れたら、いま毎日花を咲かせています。今年はじめて咲いた百日紅の花と並べて撮りました。百日紅の花はそれこそ100日でも咲いてますが、ホテイアオイの花は一日でしおれます。でも次々と茎が立ち上がって毎日咲いてくれます。せっかく増えたのだから畑に行く途中の池に一株入れてみようかと道子さんと話し合いましたが、「増えすぎたら困る」と思いとどまりました。あとで調べたら、思いとどまってよかった。池全体を覆ってしまったらどうしようもないところでした。
 午後、CSテレビのムービープラス(832チャンネル)を見たら戦争映画をやっています。『暁の7人』という40年も前のアメリカ映画ですがとてもよかった。チェコのプラハでナチスの高級幹部・ハイドリッヒが暗殺された実話です。『戦争』では「人間が悪魔になり鬼になって殺し合う」ことをこの映画も伝えています。忘れられない戦争映画の一つになりました。
 
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『あの戦争』で心の波立つこと  その2

2015年08月19日 04時58分33秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうにつづいて『あの戦争』で心の波立つ事柄を、岩波新書『アジア・太平洋戦争』(吉田裕 著)より引用します。


 増大する「戦争未亡人」の存在、 …… 日中戦争以降、戦死者の遺族に対して与えられる一時賜金や遺族扶助料をめぐるトラブルが多発していた。民法上は戸主の権限が強かったため、戸主の居所指定権などを濫用して、戦死者の父が戦死者の妻を離籍して受給資格を奪おうとするケースなどがその典型である。  ……  戦場で死んでゆく男の側からすれば、最大の関心事は、残された妻や子の生活問題である。
 したがって、政府としては、男たちが「後顧の憂」なく安心して死んでゆける「環境整備」のために、こうしたトラブルに積極的に介入し、戦死者の妻の立場を後押しせざるをえない。  ……  こうして、「戦争未亡人」問題では、政府は女性の法的、社会的地位を強化する政策をとらざるをえず、そのことによって、結果的には、伝統的な「家」制度の解体を促進したのである。


 「戦争未亡人」や出征兵士の妻をめぐる問題で深刻なのは、彼女たちに性的関係を強いる男たちの存在である。43年4月(昭和18年)に内務省警保局警務課がまとめた「出征軍人遺族、家族をめぐる事犯の状況」は、「軍事援護に関係ある公職者、地方有力者の犯罪が意外に多い」とした上で、「風俗事犯に於いても、物資の配給、軍事援護、就職斡旋等に名を借りて遺家族の家宅に侵入して情交を迫り或はその恩義を笠に半強制的に姦淫する事例の多きことは遺憾に堪えぬ処」と指摘している。


 アジア・太平洋戦争期の兵士の戦死のありようは、次の3つの死によって特徴づけられている。餓死と海没死と特攻死である。  ……
日中戦争以降の軍人・軍属の戦死者数は約230万名、このうち、営養の不足または失調による狭義の餓死者と、栄養失調による体力の消耗の結果、抵抗力をなくし、マラリアなどの伝染病に感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万名に達すると推定されている。餓死率は、約60パーセントである。
 ……  次に海没死をいてみよう。艦船の沈没による戦死者のことをさす。 …… 軍艦651隻、陸海軍の徴用船を含む商船2934隻が沈没し、398500名もしくは429400名が戦没している。日露戦争における日本陸海軍の戦死者数(戦病死を含む)88133名と比較するならば、記録的ともいうべき …… が「溺れ死んだ」のである。 海上護衛戦の軽視、軍事技術の立ち遅れ、詰め込み搭載の結果である。 


 戦争に負けて、あの戦争とずるくかかわった大人たちは、どんなふうに反省したか。言い訳を心の中で何万回と唱えながら生きたか。
 戦時中の卑劣さを意識から遠ざけて、何食わぬ顔をして生涯を終えたか。
 心に引っ掛かったままです。
 でもそんなことを言うのは終わりにします。子どもだったぼくらも、いずれいなくなり、生々しい人生は歴史に送り込まれます。
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「あの戦争」のことではいまも心が波立ちます。

2015年08月18日 04時10分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 日本が戦争に負けたときぼくは7歳でしたし、山陰の片田舎に住んでいましたから、空襲で逃げまどったり身内を戦争で失ったりしたわけではありません。でも戦争でズルいことをした人のことを知ると、いまも心が波立ちます。
 そんな「ズルいこと」をして、若者や一家の大黒柱を死に追いやり、敗戦後何の反省もなくのうのうと生きて、何のおとがめもなくて安楽に暮らしていいのか。そんなやりきれない気持ちになります。
 岩波新書の『アジア・太平洋戦争』(吉田裕 著)から引用します。


 召集逃れ …… 国民の兵役負担の平等性という建前を根底からくつがえす、情実による召集の延期という事態が実際にあったことも指摘しておく必要があるだろう。  (中略)  召集の事務を担当する連隊区司令部の職員への「金品贈与」によって、「召集原簿となるべき在郷軍人名簿の綴中より本人の名簿の抽出破棄、或は在郷軍人名簿に戦時召集延期者或は兵役に堪えざる疾病者としての指定記入等の方法を以って召集死角者を造り」出すことも行われた。(文献名が記されてる)  (中略)
 注目したいのは、連隊区司令部には、夫や息子の召集の取り消しを求める女たちの姿が常にあったことである。(文献名) すべての女性が男たちの出征をあらがうことのできない運命として受け入れていたわけではなかったことを、この事実は教えている。


(負け戦がつづき)戦局は急速に悪化したとはいえ、政府と軍部による徹底した情報統制によって、一般の国民は戦局の正確な実相を知りえなかった。 (中略)  それでも、ガダルカナル島を中心とした南太平洋方面の戦死者が公表されると、宮城、福島、新潟など、戦死者の出身県には衝撃が走った。  (中略)   (そこで戦意高揚のため)戦死者の公表に際して検閲当局は、国民が戦死者の総数を知ることができないよう、戦死者名の公表を、「当該(地方)新聞の直接関係ある地方の戦死者名のみに止めること」などの措置を講じていた。


(アッツ島で負けたとき)翌30日の大本営発表は、守備隊の全滅を報じたが、その中では、「爾後通信全く杜絶、全員玉砕せるものと認む」という形で、初めて「玉砕」という表現を使用した。「玉砕」とは、玉が美しく砕けるように、最後まで戦っていさぎよく死ぬことの意味であり、この日のラジオ放送では、大本営陸軍報道部の谷萩那華雄少将が、「守備せる全員悉く玉砕し、かくてアッツ島は皇軍の神髄発揮の聖地として永遠に歴史の上に記されることになりました」と絶叫した。以後、孤島の守備隊が全滅するたびに、凄惨な戦場の現実を隠蔽する玉砕キャンペーンが展開されることになる。
 その後、マキン島・タワラ島の守備隊全滅を報じた大本営発表では「全員玉砕せり」の表現が使われたものの、クェゼリン島・ルオット島の守備隊全滅の報道では「全員壮烈なる戦死を遂げたり」の表現に変わり、以後、「玉砕」の2文字は基本的に使われなくなる。
 この政策変更は、「玉砕」という表現が、逆に日本軍の無力さを国民に印象づける結果になるという判断に基づいていると考えられる。 


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大豆・黒豆・小豆はいまのところ順調に育っています。

2015年08月17日 01時02分46秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                      
 黒豆の花が咲いてます。大豆・小豆も花の時季です。「畝間の草刈り・ポリベル張りがすんだからひと雨あるとうれしい」と思ったら、いま夜中に雨が降っています。龍神さまやら、大将軍神社の神さまやら、裏山の祠=祇園さん・愛宕さんの神さまやら、いろんな神さまのお蔭です。
 10年以上まえ、大豆畑トラストで大豆をつくって、ひと夏に5回畝間潅水をしたことがあります。畝間潅水は1週間おきにやりますが、5週間以上雨が降らず、夏のカンカン照りがつづいたからです。今年はときどき雨が降ってありがたい。池をめぐって龍神さまにお参りしなくっちゃ。
 ところがきのう16日『畑の神さま』(大将軍神社)にお参りするのを忘れてました。夕方になってから「畑の神さんの日だった」と気づきました。7月も16日のお参りを忘れてました。6月と10月は <田植え/稲刈り> で神社当番がありませんから、6/7/8月とお参りしていません。
 きょうお参りします。
 道子さんは、黒豆・大豆にニンニク・唐辛子・馬酔木の煎じ汁を薄めて散布しています。においが嫌いでムシが寄らないようです。それと今年はムシがちょっと少ない気がします。
 実は7月5日にこのブログで「ウスベニオオノメイガが今年もクララの葉を食べにやってきた。ここで葉を食べ尽してサナギになる」と書きましたが、間違いでした。蜘蛛の巣をサナギづくりと勘違いしました。今年はウスベニオオノメイガの幼虫は来ていません。
 
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ナダルが弱くなったのか。錦織圭が強くなったのか。

2015年08月16日 01時38分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 孫たちは「夏休みの宿題」をしに三木の図書館に出掛け、ぼくは朝からテレビの前で <ナダルVS錦織圭> の試合観戦です。7時30分試合開始の予定が、雨や前の試合の遅れで11時過ぎに。「午前中に一仕事できたなー」。
 観戦するぼくらはただ待つだけですが、選手はウォームアップし、休み、またウォームアップしたり、大勝負を前に不安と緊張で大変でしょうね。プロになるって厳しい!
 『全米オープン』はどこかと契約しないと見られないけど、ずっとこんな調子では畑の仕事ができないので見ません。はじめから決めてしまえば気持ちを引きずらないですみます。
 午後は夕方近くになってから畑に出て、大豆の畝にポリベル(ビニールの強いヒモ)を張りました。
                       
 この畝間は向こうの出口が見えず、大豆が倒れかかって通れませんでした。ポリベルを「2段張り」して両側の大豆を起こし、通れるようになりました。
今日は残りの畝もポリベルを張り、土手の8月草刈りにとりかかります。

 夕食後は、ウッドデッキで孫たちの花火を見ました。線香花火の最後の火が消えたら星を見上げながらとりとめのないおしゃべり。そんな情緒が年年積み重ねられて、ひとのこころは育ちます。
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黒豆の畝に『ポリベル』を張りました。

2015年08月15日 05時16分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                      
 黒豆の畝の竹杭に『ポリベル』(マイカ線のような帯状の強いヒモ)を張りました。カラーは数種類あり、黄色のヒモにしました。付け根が裂ける寸前の下枝もありましたが、なんとか間に合いました。「2段張り」にしたので多少の強風にも大丈夫です。
 今年は大豆を2粒ずつ直播しました。いまでは黒豆より大きく見えます。こちらも竹杭は打ってありますから、今日中にポリベルを張って倒れないようにします。ただ大豆の場合は、枝張りの形状からみると「1段張り」でいいような気がするのですが。もう少し考えてみます。
 下穴をあけて竹杭を強く打ち込んでおいたので、ポリベルを「ピーン‼」と気持ちよく張れました。

 いま『アジア・太平洋戦争』(シリーズ日本近現代史⑥)〈吉田 裕 著 岩波新書〉という本を読んでいます。
 吉田 裕 さんは1954年(昭和29年)生れですから「あの戦争」の敗戦後に生まれた人です。一橋大学教授で『昭和天皇の終戦史』≪岩波新書≫という好著があります。彼の本を読んだとき「ああ、生身の人間が歴史に組み込まれるとはこういうことか」とハッとしました。
 例えば悪名高い牟田口廉也(無謀なインパール作戦を強行し、数万の将兵を餓死・病死させた)の名に接したら、戦前から生きてる人なら感情が波立ちます。しかし吉田裕さん世代の人は冷静に史料を調べ、考察する。感情は平坦です。
 そんな人の本を読むことで、自分の中の生々しい「あの戦争」を歴史に送り込んでしまいたい。
 長生きしてると、そんな気になるときもあります。
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夏休み、そして慈雨。ありがとうございます。

2015年08月14日 01時09分49秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 お盆休みに入りました。大志くんは少年野球、萌ちゃんは部活動と夏休みもいろいろありますが、お盆はやっぱり三木のおじいちゃん・おばあちゃんのところで。お蔭でぼくらも夏休み気分です。
 宿題があるのでお盆に片づけようと、朝から三木の図書館に出掛けました。おじいちゃん・おばあちゃんも読書タイム。
                      
 勉強するには快適な温度と雰囲気です。さぞはかどったことでしょう。
 夕方は大志くんのおとうさんがにぎり寿司をつくってくれてみんなで腹いっぱい食べました。おいしかった!
 お盆やお正月というと新幹線/飛行機/高速道路の混雑がニュースになりますが、うちは近いので渋滞や混雑に巻き込まれずいい思いをしています。「東京あたりから帰省したら費用も時間も疲労も大変だろうな」と想像します。
 雨が降りました。まさに『慈雨』。
 ちょうど大豆や黒豆の花が咲きかけたときにドンピシャリ合わせてくださいました。龍神さまにお礼をいわなくっちゃ。
「龍神さま、ありがとうございます。勝手なこといいますが、一週間後また23ミリほどよろしく」
 

 
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『マイカ線』でなく『ポリベル』を張ります。

2015年08月13日 01時23分33秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 7月に汗水流して杭打ちをした大豆・黒豆ですが、生長して下枝が張ってきました。強風が吹けば茎が傾き、下枝が裂けます。早急にマイカ線を張る必要があります。
 マイカ線というのは張ってから「ダラーッ」とのびてしまう心配がありません。きつくしばっても簡単にほどけ、そのまま回収できます。つなげばまた使えます。というわけでこの数年使いまわして愛用してきました。でも継ぎ目があちこちできて、引っ張るときに引っ掛かり、あまり気分がよくない。ホームセンターでは500メートル巻きが2500円程度ですし、数年間使いまわしたので新しく買います。
 ホームセンターで見たらマイカ線の横に『ポリベル』というのを売っています。幅が10ミリほどでマイカ線と同じ形状です。値段は1000円ほど安く、マイカ線より柔らかくて結びやすい。芯は入ってないけど引っ張ってものびません。一度結んだらほどくのはむずかしいですが、きつくしばれるし、使い捨てできる値段です。
 黒豆の一畝に『ポリベル』を張ってみました。竹の杭に一巻きして張っていくのですが、マイカ線のように滑らないのできつく張れます。張ってて気分がいい。張るのはポリベルにします。畝は黒豆と大豆で150メートルほどあります。その両側に2段に張ると 〈150m×2段×2(両側)〉 で600メートル必要ですが足りない100メートルはマイカ線で。

                     
 日没が少しずつ早まってきました。夕方6時半。畑仕事をしていて、そばの山で鳴くカナカナ蝉を聞き、顔をあげると山影になった木立ちと西日にかがやく入道雲。なんでもないけど街では見かけない眺め。
 田舎で暮らすと景色からいっぱいもらいます。
 
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龍神さま‼ 雨を降らせてください。

2015年08月12日 07時19分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 裏山を眺める部屋のまえは芝生です。芝生は「肥料食い」とどこかで読んだので、6月にていねいにスパイクしてフジワラファームの鶏糞を撒きました。でもこの日照りでは芝生も生き延びるのが大変です。写真のような簡単なスプリンクラー(ホームセンターで500円で売ってました)で散水しました。「焼け石に水」というか。
                      
 次は「クロメンガタスズメ」(蛾の名前)の幼虫の写真です。
                      
 幼虫としては最大級で10センチ超、太さは中指くらいあります。道子さんは毎日ゴマの畝を点検して下のほうの葉を落としているのですが、この幼虫に出会うと「ギョッ!」とするそうです。たしかに素手でつかもうという気になりません。去年はオオスズメバチが畑の入口に巣をつくって、毎日畑の幼虫を捕ってくれました。今年はオオスズメバチが少ないのか、暑過ぎて休んでるのか、こんなに大きな幼虫になるまで見逃されています。なお写真左上の葉っぱに白い点がありますが、「ハスモンヨトウ」の生みたての卵です。
 いかにも知ってるように書いてますが全部道子さんの受け売りです。ぼくは卵をほとんど見分けられません。
 なおこのクロメンガタスズメの幼虫はゴマの葉っぱをいっぱい食べ、地中にもぐってサナギになります。そのサナギは赤黒くてドキッとする色です。大きさは10センチ・中指くらい。そのサナギですが掌でにぎると携帯電話みたいに振動します。背筋がゾクッとする、なんともいえない感覚です。
 
きのう気が付いたのですが、いつからか家の電話が故障して掛からなくなってました。「家の電話が通じないから何かあったのかと思ってた」という人もあり、早速アマゾンに注文して付け替えました。もう大丈夫です。
 毎日水やりに時間をとられます。ここはもう龍神さまにお願いするしかありません。母は今日から一週間ショートステイですので、お参りにうかがいます。どうかよろしく。
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