不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

半藤一利『昭和史』を読み返しています。

2010年10月29日 01時57分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 図書館で二回つづけて借りている半藤一利『昭和史』を、これからも繰り返して読んでみようと思い、Amazonで買いました。同じ著者の『ノモンハンの夏』も。『ノモンハン……』は図書館に行くたびに探しても、だれか借りているようで見当たりませんでしたから。
『昭和史』ですが、あの戦争に突入するまでの歴史を見る目が、新しいメガネを掛けて見えるようになった気がします。例えば次の記述です。

 (石原莞爾らが満州事変を起こしたとき)彼らは新聞を徹底的に利用して、満州独立の構想を推進しようと考えます。戦争は、新聞を儲けさせる最大の武器なんです。だから新聞もまた、この戦争を煽(あお)りながら部数を増やしていこうと、軍の思惑通り動きました。
 満州事変の本格的な報道は十月からはじまるのですが、それから約六ヶ月間に、朝日も毎日も臨時費約百万円を使いました。ちなみに当時の総理大臣の月給は八百円です。いかに新聞が金を使ってやったか……朝日の発表によりますと、飛行機の参加は八機、航空回数百八十九回、自社製作映画の公開場所千五百、公開回数四千二十四回、観衆約1千万人、号外発行度数百三十一回、と大宣伝に大宣伝を重ねたんですね。すると毎日新聞が、負けるもんかと朝日以上の大宣伝をやりました。当時の政治部記者、前芝確三という人が後にこんなふうに語っています。
「事変の起こったあと、社内で口の悪いのが自嘲的に〝毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争〝などといってましたよ」
 つまり、この戦争は毎日新聞が後援しているみたいなもんだというくらいに、報道の上で太鼓を叩いたんです。現地に行く新聞記者、特派員も各新聞がエース、名文家を送り出して徹底的に書きまくりました。
 
 熟知する豊富な資料をつかい、庶民の視点でわかりやすく語る。昭和五年(1930年)に生まれ、時局に強い関心を持って生きてきた半藤氏だからできる語り方です。一行一行の行間に庶民の興奮・歓喜・ため息・怯え・恐れが込められ、70年も80年も前のことが歴史としてでなく自らの人生の出来事として迫ってきます。
 満蒙開拓青少年義勇軍に関心を持ってから読み直した色川大吉の『自分史としての昭和史』や遠山茂樹らの岩波新書『昭和史』とひと味ちがいます。しばらくはこの本を繰り返し読んでみます。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

画廊喫茶『風らん』を訪ねてみました。

2010年10月27日 01時52分52秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは雨のあとなので畑仕事をお休みしました。道子さんは友だちに送る黒大豆の枝豆を荷造りし、ぼくは前の宅地の草刈りです。うちの前の宅地は、購入した人が見捨てているらしく持ち主をこの四年間見かけたことがありません。お隣のおじさんにきいたら、地震のあと見たことはないそうです。当然草は伸び放題で、我が家のウッドデッキからの景観をわるくします。そこでぼくが無断で50坪の土地の草刈りを毎年しています。
 草刈りのあと耕運機で地面を掘り起こし、生石灰と灰をすき込みました。去年も耕してコスモスを植えましたが、水やりをしなかったのでほとんど育ちませんでした。それでも雑草と笹だけは伸びてきます。今年は景観に風情を添えるように、菜の花を播いてみます。
 宅急便を出したあと、思いついて志染農協にヌカをもらいに行きました。ヌカは肥料として使えます。ネットで見ると「ヌカを地面や葉に撒くと夜盗虫が食べて死ぬ」とあります。生ゴミ堆肥の箱に入れて生ゴミに混ぜると醗酵熱でうじ虫がいなくなります。うねをつくるときに底に梳き込むと地中ではヌカの虫もわかず、いい元肥になります。
 この地に住みはじめた頃は、ヌカはどこで手に入れられるかわからず、無人精米機があればヌカは出ていないかと覗き、米屋さんにはないだろうかと電話帳で探したりしていました。(いつの間にか『米屋』というのは絶滅危惧種の店になっているのですね)ところがJA豊地のおにいさんが「JA志染ではサービスでヌカをくれる」と教えてくれ、ときどきもらいに来ています。業者が巨大な袋を持っていってしまうときもありますが、いまは農家がどんどん米を運び込み、精米もフル回転していますからヌカはいっぱいあります。
 75リットルのゴミ袋で五袋を軽トラックに積み込みました。「ヌカをもらいに行かなくては……」とひと月あまり思いつづけていましたので、たっぷりもらって浮き立つような気分です。宿原から竹中半兵衛の墓のある平井に出て帰ろうと走っていると『画廊喫茶・風らん』という小さい看板が目につきました。
 車をとめて入ってみると風格のある古民家がそのまま喫茶店になっています。靴を脱いで上がり座敷でコーヒーをいただくのですが、つづきのきれいな土間が画廊になっており、富士見が丘の立脇さんという方が『ありがとうの作品展』というのをやっておられました。
 この喫茶店は今年の五月にオープンしたのだそうです。11月にはFステンドグラス教室作品展もありますからまたお越しください、と同年輩らしい女性がもの静かに話してくださいました。
写真を撮るのを忘れましたが感じのいい店でしたからまた寄ったときにでも。
 そうそう、畑にアライグマの檻を置いているのですが、なにもかからないので放置していました。きのう畑に行ってみたら白い猫がかかっています。ひからびてアリのたかっている饅頭が置いてあったのですが、それを食べに入ったのでしょうか。メタボトラ猫、三毛猫につづいて三匹目です。道子さんに何分反省させようかときいたら「5分!」と答えが返ってきたのでその通りに解放してあげました。反省したかなー。檻は明日にでも市役所に返します。
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の草刈りは終わりました。

2010年10月25日 03時11分25秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 きのう草刈りをした土手の写真です。南側の土手の下から撮りました。村の墓地の下はナイロンコードで刈りました。これで今年の草刈りは終わりました。去年は年末にナイロンコードでもう一度全部の土手を刈りましたが、今年は土手の肩にリコリスの葉がこれから茂ってくるのでもう刈りません。それでも草はあまり伸びません。次に刈るのは来年の4月頃になるでしょう。
 今年は刈る回数を少なくしようと五月の連休に第一回目の草刈りをしました。前年末に短く刈ったので伸びるのが遅くなると思ったのです。しかし草はしっかり伸びており、草の量が多くてとても疲れました。回数が問題ではなく、草の量が問題です。量が多いと刈るのも片付けるのも消費するエネルギーがちがいます。
 刈り払い機を動かして草を刈るのは、ほんとうは気持ちのいい労働です。
 来年は回数を少なくすることを考えず、今なら気持ちよく刈れる、という基準で草を刈ります。うちのととなりの境目に放棄田があります。債権がからんで放置されているらしく、田んぼは背丈を越すセイタカアワダチソウにおおわれ、土手も背丈を越す雑草におおわれています。となりからその土手を刈ってほしいと苦情が出て、村の衆が総出で刈ることになりました。一昨年のことです。
 ぼくも老人会長について草刈り機をさげて参加しました。でも草に圧倒されてふもとから土手にとりつくどころでなく、田んぼの畦を刈っただけです。村の若い衆(ぼくら老人から見ると)が背負い式の草刈り機で力強く刈り上がっていきます。高い土手は見る見る草がなぎ倒されていきました。とてもぼくの出る幕ではないと思いました。
 いまの畑のぐるりの草刈りが、ぼくにはちょうど似合っています。この土手だからぼくの草刈りの美学が成り立ちます。
 来年も気持ちよく草刈りができますように。
 
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひたすら草刈りの一日でした。

2010年10月24日 07時11分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から


 
きのうはひたすら草刈りをした一日でした。
 写真は鳥取市近郊の『吉岡神社』です。9月はじめ鳥取県の板井原に旅したとき、我が姓を冠する吉岡温泉に泊りました。鳥取県に生まれながら訪れたことのなかった温泉に一度はつかってみようと思い立ったのです。
宿に着いてから散歩に出てみると、通りをまたぐ歓迎アーチ、郵便局、農協から神社まで全部に我が姓がついています。子どもだったら得意になったかな、と思いながら山すその神社に足を伸ばしました。
 ご先祖さまとかかわりがあるかもしれない。草刈りくらいしてあげようかな、と思うほど草が伸びていました。10月には秋祭りがあるので今ごろはきれいに刈られているでしょうか。
 畑の土手の肩を見るとリコリス(万珠沙華/彼岸花)の花は枯れ茎はしおれましたが、濃い緑の葉が出はじめています。リコリスは強くて球根を植えると確実に生え、年々球根を増やします。でも今年植えたところだから葉が伸びるまでに草刈りをすませたほうがいい。
 きのうは一日中草刈りをしました。はじめに南側の土手を刈ります。ここは長さ50メートル、斜面は5メートルありますから、四回に分けて刈ります。まず上の畦(あぜ)を刈り、次に斜面中ほどにつくった足場から上半分を刈り、下半分を刈り、土手下に残っている1メートルほどの斜面は下の屋敷に入らせてもらって刈ります。
 秋になり草の勢いがなくなったので刈った草の量は多くありません。それでもサラエでかき上げると一輪車で何度も運ぶほどあります。それを材木を燃料にして燃やすと白い煙を上げて生の草が燃え、いい草木灰ができます。
 草運びは土曜日にやってきた孫の大志くんが頑張りました。大志くんは去年の秋、一輪車を押して遊歩道を周回することを覚えました。動かなくなると一輪車の前にしゃがみ、横にしゃがみ、どうすれば動くか考え、押したり引いたりします。おじいちゃんおばあちゃんは、子どもの自分でやろうとする意志の強さに感心して見ています。
 いまでは畑に来ると一輪車で何周かするのが彼の遊びになっているのですが、きのうは坂になった道路を草を積んで全身で押していました。こんなふうに全身をつかい全力を出し切って頑張る時間がみんな成長の養分になるのですね。子どもはすごい。なお子どもの遊びで『一輪車』というと自転車みたいなあの乗り物をイメージしますが、うちの孫の場合は運搬用一輪車です。それにしても我が孫は、5歳児としては運搬用一輪車を扱う技量はなかなかたいしたもの。とおじいちゃんはひそかに自慢したくなるのですがね。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡路景観園芸学校を見学しました。

2010年10月20日 04時43分13秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 うちのの保健衛生委員をして二年目です。選ばれたり押しつけられたのでなく、うちの近くの7軒が回覧板の4班でその班長が毎年保健衛生委員をすることになっています。ぼくは小学生か中学生の頃から久しぶりに『委員』と名のつくものになったので、張り切ってゴミステーションの世話とかしています。
 さて三木市保健衛生推進協議会で視察旅行があり、一部自己負担で参加しました。行き先は『淡路景観園芸学校』です。『園芸』は耳にしますが『景観』のつく学校というのはピンときませんでした。でもお話のあと学校の庭を見学して「なーるほど、『景観』と入れる学校だけのことはある」と納得しました。
 ここはオープンキャンパスになっており、見学者のためのカフェテラスがあり、年間22000人の見学者が訪れるそうです。庭を歩いてゆくとつぎつぎと花や木が見えてきます。その景観の展開にわくわくして、デジカメでいっぱい写真を撮りました。ここの庭は、よくわからないけれど、こころをそっとなでてくれる風が吹いているのを感じました。
 さてここは『園芸療法士』を養成する学校です。兵庫県立の学校で、学費は無料・全寮制・定員15名で、卒業すると『兵庫県園芸療法士』と認定されます。すでに107名の療法士がさまざまな施設で活躍しているそうです。頂いた資料には神戸新聞の記事が引用してあります。(2010.8.14より)

 健常高齢者と健常成人にダイコン、トマト、ジャガイモといった身近な野菜から思いつく記憶やエピソードを話してもらう。意欲や計画的な行動、感情の制御をつかさどる「脳前頭前野」の血流量を測定すると、高齢者の98パーセント、成人の91パーセントで会話中に脳の血流量が増加。第三者のよる表情分析でも9割以上が「快適」と判断された。
(ぼくらが話を聞いた)この学校の豊田先生は「身近な野菜は心地よい記憶を引き出しやすく、食事や日常生活の中で会話の糸口として有効」と分析。高齢者は若い人に比べると脳が活性化するまでに時間がかかるため「認知症高齢者に対しては共感的に接し、ゆっくり話を促す必要がある」としている。
 
 のんびり半日くらい過ごすのにはいいところだと思いました。
 

 
 
  
 
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白昼堂々と! のうのうと!

2010年10月17日 02時24分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 稲刈りの最盛期です。まわりの田んぼの山田錦はほぼ稲刈りが終了しました。ヒノヒカリの稲刈りもはじまっています。我が家はそのヒノヒカリを分けてもらい、おいしいご飯を食べています。四年前この地に引っ越してひと月後の新年宴会で、村の人が「口吉川の米は特にうまい。炊きたてのご飯ではうまさがわからんでも、冷えたご飯をおにぎりにしたら味が違う」と自慢されましたがその通りです。田んぼの泥が深く、土に粘りがあります。いまから新米がたのしみです。
 畑で使う藁をもらいました。軽トラで田んぼに行き、束ねて積み込み、もらってきた藁を北側の稲木に架けた写真です。手前が畑の遊歩道、右奥の木立ちは村の墓地、土手の上はとなりの稲刈りを待つ田んぼです。散歩でビシッと干してある稲架を見かけ、「今年はきれいに並べたいから」と道子さんが稲束をつくるときからこだわりました。
 夜盗虫の大発生はつづいています。前日見た20号線南の黒大豆畑は二町あまりありますが、壊滅的に夜盗虫に葉を食い尽くされています。食い物の無くなった夜盗虫はアスファルト道路に這い出してぞろぞろどこかに行こうとしています。かなりリアルな夜盗虫被害の写真を撮りましたが愉快でないので稲架の写真にしました。
 この付近一帯に大発生しているのか、と範囲を広げて軽トラで散歩を兼ねて探索しました。となりのもそのとなりのも夜盗虫被害は甚大です。少し足を伸ばして細川町まで行ってみるとそうでもありません。地域限定の大発生でしょうか。
 よその畑はともかく我が家の畑を守らなくては。ということできのうは一日中黒大豆の畝にとりつき、夜盗虫の葉をハサミで切って燃やしました。夜盗虫は身を丸くして葉をコロコロと転がって逃げます。ハサミで葉の根元をそっと切ってバケツに入れるのが一番です。それをあらかじめ燃やした焼却炉の火で火葬にします。葉は夜盗虫の棺と思えばいい。村の黒豆畑ほどひどくありませんが一本の黒豆に数匹は見つけます。この作業を3日つづけてみます。
 それにしても『夜盗虫』という怪しい立派な名前をもらっているのに、白昼堂々と秋の陽だまりで日向ぼっこをし、のうのうと葉を暴食しているとは。それとも昼間隠れる地中は満員で、仕方なく居座っているのでしょうか。近日中に夜も来てみます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜盗虫大発生! どうしよう。

2010年10月16日 04時57分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 アライグマの檻にはなにも掛かっていなかくて、奥に置いた饅頭に蟻がたかっていました。それで檻はそのまま放置していました。ところがきのう見てまわったらまた猫が掛かっています。前はメタボの大トラ猫が掛かりましたが、今度はスマートな三毛猫です。
 畑仕事をしながら考えました。川沿いでサツマイモをつくっている村の人はアライグマの檻に黒い猫が掛かったとき、14日閉じ込めたまま反省させました。ぼくもせめて一晩くらい反省してもらおうか。
 でも気になって気になって、結局夕方道子さんと村の人立ち合いで解放しました。そして残りの饅頭を使ってしまおうとまた檻を仕掛けました。これで掛からなかったら檻は一旦市役所に返します。
 午前中は家のまわりで仕事をし、昼に軽トラで稲刈り状況の視察に出掛けました。バス停のあたりの黒大豆畑が夜盗虫に葉っぱをひどく食い荒らされています。二日前に見たときと畑の色がちがい、葉の筋だけが残って畑全体が灰色に見えます。車を止めて畑を見て驚きました。大げさにいえば夜盗虫の海です。黒大豆の葉っぱを食べ尽くした夜盗虫が、外に出て行こうとうじゃうじゃ這っています。畝間に溜まった水には夜盗虫土左衛門之丞(どざえもんのじょう)が折り重なっています。夜活動するはずの夜盗虫が昼間から堂々と行進しているのです。
 この葉っぱはまだ食べるところが残っており写真にも三匹のハスモンヨトウが見えますが、網目の葉っぱではわかりにくいのでこれをアップします。足もとにも畦の通路にも夜盗虫がぞろぞろ這っており、立っているだけでゾクッ! とします。
 となりの黒大豆畑も夜盗虫にひどく食い荒らされています。このは黒大豆つくりに熱心で、うちのより戸数は少ないのに黒大豆は倍近くつくっておられます。おじいさんが畑を見ておられたのできいてみました。「わしゃ70年生きとるけどこんなことははじめてだ」
 そうか。今年はそんなに異常な夜盗虫の大発生なのか。
 うちの畑近くに戻ってくると畑のそばの家の奥さんが道をうろうろしておられます。家の前の黒大豆畑から道に這い出て、屋敷に入ろうとする夜盗虫を踏み潰しておられるのです。「さっきから100匹は潰しました」
 次は土手を這い上がってうちの畑に。元から住んでいる夜盗虫と合流して食い荒らしたら我が家の畑くらい朝飯前です。せめて目にふれる虫だけでもやっつけようと黒大豆の畝にとりついて100匹は潰しましたが、日が暮れたのでまた明日。
 なんかなー、ため息が出ます。
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アライグマくん、疑ってわるかった。

2010年10月15日 01時12分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 今年生えた青い竹を切り、ナタで割って写真のような食器をつくりました。裏の竹薮でさんざん竹を切りながら、こんな容器ははじめてつくりました。なんでもない簡単なことだけど、いつかそのうちやってみようと思いつつ時間が過ぎてしまうことがあります。そうだ、竹で流し素麺をやろうっていってたな。また来年の夏。
 朝、アライグマが掛かっているか見に行こうと軽トラに乗ったとき、道子さんが「落花生食べたのはカラスかも」とつぶやきました。それを聞いた瞬間ぼくも「そうか。カラスだ!」と思いました。食い散らかした殻が土手に散乱しているといっても、どうもアライグマにしては食べた量が少なすぎると感じていました。
 アライグマくん、疑ってわるかった。犯人はカラスだ。落花生は掘ったときはまだ殻が固くないからカラスが食べたんだ。きみは無実だ。先日は検察審査会のことで文句をいったけど、ぼくも結構勝手にストーリーをつくったりして思い込みがつよいな。檻にはなにも掛かっていませんでした。
 道子さんはきのう採集した材料で『手づくり酵素飲料』づくり、ぼくは小屋で久しぶりに大工仕事をしました。妙子さんは裏山に行って竹の枝をチョッキンチョッキン切っています。
 うちではお客さんをウッドデッキで接待するときに酵素飲料を炭酸水で割って出すことがあります。この酵素飲料はネットで販売されていますが手づくりが一番です。販売するのは加熱して酵素を死なせた飲料です。手づくりだと加熱しないのでずっと醗酵しつづけます。もちろん瓶の栓をしてはいけません。なお材料に野草も入れますがよく宣伝している野草酵素ではありません。『手づくり酵素飲料』をネットでチェックするとくわしく出ています。うちではキノコ類、果物類は買いますがほとんどの材料を畑、土手、裏山で採集できるので恵まれています。あと十日もすれば秋の酵素飲料ができますのでまたお越しください。
 なお来週には『宝交早生』のランナー苗を刈って耕し、レンゲを蒔きます。我が家のイチゴ畑は今年は渇水の夏にも水をやってランナーを育てましたのでいい苗がとれます。数人の方には持ち帰ってもらいましたが、もしご入用でしたらどなたでもどうぞ。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

干していた落花生をアライグマが……。

2010年10月14日 01時18分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 伽耶院の護摩法要に馳せ参じた237人の修験者の方々です。装束にビシッ! と身を固め、数珠を繰って大声でマントラを唱えておられました。パソコンに取り込んだ写真をあとで大きくしてよく見ると、ここにも高齢化の波が。「ヒタヒタ ヒタヒタ」。波の音が聞こえます。
 きのうは『道の駅みき』に買物に行きました。野草や果物と砂糖を漬け込んでつくる酵素飲料の材料を仕入れるためです。この飲料をつくるにはなるべく地元で採れた材料をつかいます。しかし地元農家の出品は少なく、これなら『東条インター・道の駅』や『よかたん』の売店のほうがよかったと思いました。ジャスコで不足分を買い足しました。
 午後は畑仕事です。道子さんは酵素飲料の材料採集で、ギシギシなどの野草や白菜など畑の野菜を採っていきます。ぼくはまず干してあるサツマイモのツルを燃やしました。なかなか燃えないのですが、材木を燃やしてその上にツルを置きますからしぶしぶ燃えて灰になってくれます。夕方までにほとんど処理できました。三年前はある本のお説にしたがって「サツマイモのツルは5センチくらいに刻んで畑にすき込むのがいい」と、押し切りで延々とツルを刻んだことを思い出しました。こうしてみると年々歳々同じモノを同じように畑でつくっても、多少の変化というか進化をしているのでしょうね。
 落花生を干している稲木を補修しようと、落花生を下ろして竹の棒を鉄パイプに交換しました。落花生はよく乾いています。実をもいで葉や茎は燃やそうとちぎっていくと、どうも落花生が少ないような気がします。土手の上を歩いてみると落花生の殻が落ちています。
 だれか食べたな。  アライグマだ!
 夜中にやってきて、わざわざ殻を剥いて食べたりするだろうか。そう思って網をかけていませんでした。甘かった。これなら干さないで畑にそのままにしておいたほうがよかった。猪が出る! と慌てふためいて干したのがマチガイでした。
 アライグマの檻はそろそろ市役所に返そう。返すまえにもう一匹捕まえよう。ずっとそう思ってときどき仕掛けるのですがカラスや猫に邪魔されてしまいます。きのうは薄暗くなってから仕掛けました。プチ三笠饅頭とプチ揚げドーナツをエサにして。カラスも夜中は寝るでしょう。猫はこの間かかったから近寄らないでしょう。
 アライグマよ。掛かれ!
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供たちで妙子さんの敬老会をしました。

2010年10月13日 06時44分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 妙子さんが九十七歳六ヶ月ということは、その子供たちも相当な年齢になっているということです。きのうはその子供四人と連合いが集って近くの悠庵で会食しました。敬老会に招かれる年齢に近い子らが、それぞれに、それなりに、元気に参加できてよかった、という一日でした。なお写真は、別の日にひ孫たちが妙子さんとおしゃべりしている図です。小学生の萌ちゃんが生れたときは父方母方それぞれの四人のひいおばあちゃんが健在でしたが、いまでは妙子さんが最後のひいおばあちゃんです。なお萌ちゃんが生れたとき、ひいおじいちゃんは四人ともこの世に残っていませんでした。
 きのうは最寄の駅まで迎えに行ったりしてバタバタしましたが(最寄といっても新三田駅は途中高速道をつかって40分かかります)、次回からはタクシーに乗ってもらおうと思いました。いままで、オレがオレが! と仕切ろうとしていた自分がいました。妙子さんには年金があるし、いまさらサーフィンしたり最新のファッションにお金をつかうことはないし、子らが来てくれるならタクシー代くらい出すわよと妙子さんは思うでしょう。自分が車に頼ってばかりいるもので、タクシーという便利な存在が盲点に入っていました。
 私たちは「老いる」につれていままで自分のしていたことを順次手放していきます。人や便利な機械に頼るようになります。その手放す時期を的確に判断するのがむずかしい。そうそう。今年の一月、味噌をつくるときに電動ミンサーを買いました。味噌は大豆畑トラストで大豆をつくりはじめた10年前から毎年つくっています。はじめは手回しミンサーをトラストで買ってみんなで使いまわしました。そのうち電動ミンサーを貸してくれる麹屋さんから麹を買うようになり、電動ミンサーの便利さを知りました。トラストを離れ、麹屋さんも遠くなった今年、72歳になってから電動ミンサーを買ったのです。
 年に一度味噌つくりにだけ使うミンサーを買う気になったのは歳のせいでしょう。借りにいったりしないで気楽に使いたい。その骨身を惜しむタイミングというか気運というか、そういうものの声に耳を傾けて、なるべく快適に暮らしたい。
 きのうは新三田駅で弟夫婦を待つ間に駅のコンビニで『特選街』という雑誌を買いました。「iPhoneとiPadがちゃんと使えるようになる本」と表紙に書いてあったのでパッと買ってしまったのです。
 定年退職したときは、これからは文章を書くんだと張り切ってワープロ『ルポ』に向かいました。ほんの10年余り前のことです。その『ルポ』が駄目になったので知人にもらったワープロ『文豪』に向かって文章を書きました。「ワープロが故障したので修理を頼んだが断られた。慌てて代わりのワープロを買おうとしたがどこにも売ってない。奔走してやっと二台のワープロを確保した。私はこれからもワープロを愛用する」とある作家のコラム文が新聞に載った頃でした。「ワープロとはなんと便利なものだろう。これがあればパソコンなんて面倒なものは必要ない。オレの人生は一生ワープロで十分だ」と心の底からぼくも思っていました。
 で、それからいろいろあって、ま、いまはパソコンを使っています。あまりよくわかっていませんが。そのぼくが、これからもっと高齢になっても使えたらいいな、と思っているのがiPadです。あれは本が読める。しかも字のサイズを自由に変えられるし図書館や本屋で探さなくてもダウンロードすればいい。なんとかいまのうちに使えるようになっておきたい。
 そういう気持ちで暮らしていたところにこの本と出会ったのですから、これから少し学習してみます。いまでも『カセットテープ』や『感熱紙』が売ってあるところをみると世の中にはそんな過去の機械に埋もれた人がいっぱいいるでしょう。いつまでも追尾していけるものではないにしても、iPadだけは使えるようになってこれからの人生を送りたいと思っています。
 そうそう、思い出しました。去年は道子さんと相談して、妙子さんに敬老祝いに万年筆を贈りました。九十七歳の人に万年筆を送るのはピンボケかな。まさか10097年生きるわけないし。願わくはiPadへの思いが空振りになりませんように。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

護摩法要の迫力にふれました。

2010年10月12日 01時02分28秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

『護摩法要』は12時半からはじまるので伽耶院に12時に行くつもりでしたが、小屋で竹を削ったりぐずぐずしているうちに12時半を過ぎてしまいました。心配したように伽耶院に入る道の信号でガードマンに車を止められ、駐車場は満車だから車を置いて歩くようにといわれてしまいました。
 天気はいいし、伽耶院までの一キロを秋の散策のつもりで歩きました。ここは初詣でのときでも駐車場まで車で行けますから、護摩法要は特別に人出が多いのでしょう。もし駐車場に車を入れたければ12時までに着かないと駄目です。来年はそうしようかな。
 護摩法要の広場は中央に祭壇が置かれ、山伏問答がはじまっていました。まわりには修験者姿の人たちが整然と座っています。今年は237人の修験者が参加しておられると放送がありました。問答が終わり、山伏入場。法弓が四方と中央で空に向かって射られます。つづいて法螺貝隊37人が立ち上がって大合奏。そして護摩木に火が入り、火の世話をする人が水を掛けて火を制します。それでも護摩木が投入されると炎が高く上がります。
 まわりは観衆というか参詣者というかたくさんの人が来ていますが、山伏問答のあった石段にすわることができました。太鼓に合わせて般若心経とかマントラが絶えず唱えられ、修験者の大合唱が唱和し、火が燃え上がる。ずっとこの空気の振動に身をひたしていたい。来年も来ようと道子さんがいい、ぼくもそう思いました。
 図書館に寄り、夕方は畑に出て、道子さんはタマネギの畝に黒マルチを掛けました。今年は早目早目に次の畝をつくることができて段取りがよくなりました。作物を収穫すると有機石灰や元肥を入れて耕運し、畝をつくって水をたっぷり含ませます。畝を仕上げたあとにちょうど雨が降り、いまマルチを掛けてひと月以上置くと植えるのがうれしくなるようないい土になります。イチゴもタマネギもいい畝が待ってます。
 ぼくはコイモを掘りました。今年は石川早生を植えました。大きくならなくても数があるほうがいいと思ったので。掘ってみるとよくできています。でもまだ根がしっかりしており、4株掘ったのですが根を切ってもぐのに時間がかかりました。
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヤマナメクジがシイタケを!

2010年10月11日 04時13分02秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 
 たっぷり雨が降り、シイタケが急に大きくなりました。写真のシイタケはサシワタシが20センチあります。ヤマナメクジが試食した箇所が見えます。撮影のために動いてもらったので少し縮みましたが、見つけたときは15センチ超ありました。ナメクジもこれくらいになると威厳があり、足もとに落として踏みつけるのはためらいます。道子さんと孫の大志くんはシャベルに乗せて、100メートル以上離れた山すそに丁重に引っ越してもらいました。それでもまだ戻ってくるようなら尊敬します。
 秋祭りの季節になりましたが、雨が降ると出掛けるのがおっくうです。今年はぜひ見たいと思っていた10月3日の『三木さんさんまつり』(よさこい踊り)、9・10日の大宮八幡宮のおみこしをパスしてしまいました。
 今日11日は伽耶院の『採燈大護摩法要』です。市報に「古式ゆかしい火の伝統行事で、修験者300人が近畿一円から集る。珍しい山伏問答、法弓の作法、法螺、太鼓、読経による近畿最大規模の護摩法要。」とあり、読んでイメージするだけで、火、煙、法螺貝、気合の入った声が聞えてきます。天気もよさそうだし、今日はじっくり見ます。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『甲山事件』を思いました。

2010年10月09日 04時33分51秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 政治家の小沢一郎さんが検察審査会によって強制起訴されることになり話題になっています。ぼくはこの『検察審査会』というものに疑問を持っています。小沢さんのこととは無関係ですが、その疑問をきいてください。
 1974年(昭和49年/ぼくは37歳でした)3月、知恵遅れの子らを収容する西宮市の甲山学園で事件が起きました。園児二名が浄化槽で水死体となって発見されたのです。西宮警察が捜査に入り、内部犯行として学園職員を取り調べ、学園の保母をしていた沢崎悦子さん(二十二歳・彼女はその後結婚して山田という姓になりました)が犯人として逮捕されました。彼女のアリバイがはっきりしない。それが逮捕の理由でした。
 当時ぼくは西宮に勤めていましたが、ぼくの関係する団体がこの冤罪裁判を支援することになり、沢崎さんと支援者の方にお会いして話を聞いたこともあります。いっしょに話を聞いた先輩があとで、逮捕拘留して取調べを受けていたときに一度自白させられたことに関して、「プロの刑事が一日中すごんだりなだめたりしてガンガン詰めたらな、二十歳すぎの女の子ならなんでも『ウン』というてしまうで。あの子はやっとらへん。見たらわかるがな」と息巻いたことを今も覚えています。
 沢崎(山田)悦子さんは確たる証拠もなく不起訴になり釈放されました。ところが亡くなった園児の遺族が『検察審査会』に不服申立てをして、沢崎さんは再逮捕・起訴されることになりました。その後の長い経緯はネットに載っています。『検察審査会』は、警察や検察の描いたストーリーに乗って結論を出し、冤罪事件をつくったといまも思っています。
 その後この裁判は「再審を含まない刑事裁判としては稀に見る長期の裁判となり」、沢崎(山田)悦子さんが四十八歳のときに無罪となりました。彼女は二十二歳から四十八歳までずっと被告という立場に置かれたのです。その間に弁護団は中坊公平さんら239人にふくれ上がり、神戸地裁で最後の無罪判決が出たときは、多くの人が喜んでいる姿がニュースで放映されました。
 その中に『絵本』というお話の作家・松下竜一さんの姿がありました。体調がよくなくても、極貧の作家生活をしていても、九州から駆けつけた彼の正義感に心を打たれました。(松下さんはぼくと同年生れで、2004年67歳で脳出血により亡くなりました)
 遺族の心情をくんだのか、検察が裏であやつって警察の書いた筋書きに乗せられたのか、『検察審査会』は「起訴すべきだ」と結論を出しました。そして長い年月の間に、冤罪をつくりあげた者たちは次々と交代し、誰が悪かったのやらうやむやです。山田悦子さんだけがいつも被告の立場に立たされていました。無罪になってみたら21世紀でした。
 検察審査会は「とりあえず起訴して裁判でシロクロつけたらいい」ではいけないのです。取り調べた検察のストーリーに乗せられてはならないのです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『昭和史』(半田一利)を読みながら考えました。

2010年10月08日 03時10分41秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ふた月前に半田一利の『昭和史』(1926⇒1945)を読みました。その本をまた図書館で借りて読み直してみようと思います。この本のもつ庶民感覚目線をもう一度体験してみたいのです。著者の半田一利さんは1930年(昭和5年)生れです。ぼくより8歳年上ですから日本の敗戦のとき15歳でした。その人が敗戦後65年を経て、庶民の目線で当時の時局を解説してくれる本です。
 尖閣列島付近で中国漁船の船長を日本の海上保安庁が逮捕するという事件が起きました。にぎにぎしく報道され、日本と中国の国民はそれぞれ何かを感じたでしょう。政府の対応がどうのこうのと、庶民のレベルでも論議をしたでしょう。そんなときテレビを見ていたらコメンテイター同士が口角泡を飛ばして熱っぽい議論をしていました。すると黙って聞いていた若い女性のコメンテイターが、イライラしてこんな発言をしました。
「とにかく100年前だったら戦争になっていた事件ですよ!」
 えっ? 街角で見知らぬ人と肩が触れ、どちらもキッ! とにらみ合い、険悪な空気になり、なぐり合いの喧嘩になり、ついには命のやりとりまでするような、そんな軽々しい感覚を垣間見た思いでした。戦争前の日本国民の心情と変わりません。
 昭和のはじめ、日本は満州国という傀儡国家をつくり、さらに中国を懲らしめるのだといって日中戦争をはじめました。軍部は「すぐにやっつけてしまう」といい、国民は、勝った! といってはちょうちん行列をし、自分から泥沼にはまっていきました。
 あのときの庶民といまの庶民は、どれほどちがうでしょうか。
 こんな小さい事件からいきなり「戦争」に飛躍する思考に危機を感じました。
 
 
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土手のリコリスが咲きました。

2010年10月07日 03時29分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 休耕田をお借りして畑づくりに精を出しすようになって三年目になります。一反三畝は広すぎて雑草がすごい勢いで生い茂るし、土手の草刈りも手がかかるしはじめは途方に暮れました。しかし土手の内側に遊歩道をとり、畝間も広くとって、いまではちょうど気持ちよく使いこなせる広さだと感じています。
 畑のそばの小山。畑に接する小高い村の墓地とクヌギ林。家家の散在する田舎の遠望。畑のたたずまいがいい。家のすぐ近くなので毎日畑の手入れや草刈りができます。野菜の生長とともに畑への愛情も育ってきます。今年の冬はリコリス(彼岸花/曼珠沙華)の球根を土手の肩に植えました。数年後には村の人たちがお彼岸の墓参りをする頃、眼下の畑が赤いベルトで縁どられていますようにと。
 今年は花が咲くと思っていませんでしたが、お彼岸から二週間が過ぎてポツポツ咲きはじめました。500球植えたリコリスの半分ほどは茎を伸ばし、花が咲きそうです。写真は西側の土手です。こんなに咲くのなら土手の肩だけでもお彼岸の頃に草を刈ればよかった。刈りたての土手にリコリスだけが並んで咲いている景色を、来年は目ざします。
 六日はぼくの誕生日です。七十三歳になりました。きのうは片付けをするつもりで裏山に行きました。九十七歳の母・妙子さんが先に来て、地面に散らかる竹の小枝を花バサミで細かく切っています。この冬、母がせっせと刻んだ小枝を掘り起こし、掻き寄せ、竹薮に運んで捨てながら考えました。
 少し前のブログに書きましたように、母は長生きしないだろうと子等は思い、本人もそう思って生きてきました。医者に肝硬変といわれ死を覚悟した母に「員数外の家族になってしまった」と手紙で告げられたのは二十二歳のときでした。あれから50年がすぎました。人間の一生にとって短くない年月です。
 同い年の知人のお父さんが九十五歳で亡くなりました。その後彼と食事をしたとき、こんな話をしました。「わしはいろいろ親不孝もしたけど親孝行もたいがいしっかりやってきた。あと何が足らんから親父はまだこの世にしがみついとるんやろ。あれこれ考えて、『そうや。親父に対する感謝が足りんのかもしれん』と思い当たった。それで毎日感謝の念を心に呼び起こすことにしたんや。そうしたらしばらくして親父が死んだ。大往生や」
 親不孝の話ではありません。親はどう往生し、自分はどう死ぬかという真剣な話です。この話は実によく胸におさまりました。そこできのうぼくも考えてみました。「親孝行や感謝は、こっちも古希を過ぎたしこれくらいでこらえてもらおう。老後の生き方のお手本を示し、気づきをうながすために生きてくれているのならそれも学んだことにしよう。あと何が足りんのだろう」
 妙子さんは高齢になっても自分で寝起きし、用意してある食事を自分でレンジであたためて食べ、便所に行き風呂に入り、衣服を管理して着替え、足腰の痛みもなく医者にかかることもなく、本を読み裏山を散歩します。立派です。
 仕事をしながら考えましたが思い当たりません。『生きる』に関して、人間があれこれ解釈しようとするのは不遜なことかもしれません。ただ言えるのは『どんな人間も一瞬一瞬を一生懸命生きている』。その人間の寿命とか生きる意味を仕切るのは神の領域ということにしておきます。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする