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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

交通安全には気をつけます。

2010年03月31日 03時23分20秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは、朝起きてみるとわずかに雪が積もっていました。写真は裏山の様子です。地面が白くなり、裏山の頂上までの道がよくわかります。ことしの正月は、左の竹薮と同じようにまだびっしり竹が生えていました。それを伐って伐って伐り倒し、竹はまだ片付けていませんが、頂上までの道ができました。いまでは孫たちは散歩前にチョコチョコと頂上まで登り、「散歩に行くよ」と声を掛けるとトコトコと下りてきます。
 でもおじいちゃんがひと息に登るのは無理で、途中で立ちどまって呼吸を整えます。
 それにしても下から順次竹を伐っていたら、途中で挫折してたでしょう。まず茂みをかき分けて頂上に登り、そこから逆に道を切り拓いたからできたことです。自分がやったことながら、内心この道を見るたびに感心しています。
 きのうは『高齢者交通安全教室』が口吉川町の公民館であり、二人で参加しました。
 PTAの役員でも自治会の役員でも老人会の役員でもだれかがやらないと組織は動きません。だれかに役員になってもらうように頼むのはなかなか大変な仕事です。そんな苦労を知っているだけに、役員さんに頼まれたらなるべく協力しています。きのうの安全教室も老人会長さんに頼まれて参加しました。
 ご高齢のブログ読者の方もおられると思いますが、兵庫県警の『高齢者交通安全教育隊』は若い女性がさわやかに交通安全の話をしてくれます。
 年寄りあつかいされると内心反発を感じた時期もありました。でも余分なところに力を入れないで素直に老いるのもわるくありません。そう感じるようになったのも歳のせいでしょうか。できれば交通事故の加害者にも被害者にもならないで残りの生を終えることができますように。
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ブログを再開します。よろしく。

2010年03月30日 01時41分49秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 3月18日のブログ『口吉川ふれあいバス』を投稿して以降、12日ぶりのブログになります。実はパソコンに向かってあちこちクリックしているうちに、編集画面が出てこなくなりました。編集画面が出ないから書きようがありません。読んでいただく方にそれを伝える術もありません。
 そこでブログを教えていただいた方に来てもらって再開できました。マウスを動かしていると、何も見えない空白の場所で「」が「」に変わることがあるのですね。そこをクリックしたらアンケートが出てきて、それに答えたら編集画面が出てくるようになりました。どうしてそんなことになるかわかりません。やれやれ!
 さて写真は春休みに我が家に来て、朝の散歩をしている子や孫たちです。土手でツクシを摘んでいます。ブログを休んでいる間に「なにかあったのか」とメールをくださった方もありましたが、元気にしております。これからもよろしくお願いします。
 春になって山に植えた木々の花が次々と咲きます。サンシュユ、椿、ネコヤナギ、梅などの花はおしまいですが、ユキヤナギ、沈丁花、姫こぶし、ミモザアカシアが咲き、エニシダ、ソメイヨシノのつぼみがふくらんでいます。
 こう書くと林のようですがじつは全部自分より背の低い、細い木ばかりです。でも自分の庭を、心の中で木々に声を掛けながら散歩する人の気持ちがちょっとわかります。いいもんですね。
 ところで「竹を肥料にする」ことで大きな出会いが数日前にありました。革命的思考をもたらす出来事です。もう少しあちこち訪ねて話を聞き、必ずお伝えします。
 
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『口吉川ふれあいバス』に乗りました。

2010年03月18日 01時40分09秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
『口吉川ふれあいバス』が2月19日から走りはじめました。うちの村の老人会長さんも14名のボランティア運転手に手を挙げたそうです。「お客のないときはぜひ乗って町内を見学してください」と声をかけられたので、きのうの午後二人で乗りに出掛けました。
 町の公民館に自分の車を置き、写真のバスに乗車して出発です。お客はぼくら二人だけでした。口吉川町内はあちこち車で出掛けて散歩するのでよく知っているのですが、自分で運転しなくていいので、気楽に一時間余りのドライブをたのしみました。
 口吉川町内だけしか走れないのがネックになっていますが、とにかくスタートしました。何年か十何年かすれば、お世話になるでしょう。そのときはよろしくお願いします。
 堆肥箱に笹の葉を入れました。妙子さんは毎日竹薮に上がり、切り倒した竹の枝を花バサミで細かく切ってくれますので、それを畑に運んだのです。これでムシがいなくなるでしょうか。なんだか効くような気がしてたのしみです。
 彼岸花の球根を近いうちに植えます。通販で買ったのは50球だけで少ないので、どこかで掘って追加します。
 遊歩道の草が伸びてきました。土手の草は4月中頃まで大丈夫ですが、遊歩道は一度刈ります。
 

 
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アオサギはいつも飛び立つ

2010年03月17日 07時29分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 家と畑との間にあるため池のほとりには、いつもアオサギくんがいます。ぼくが長靴で池のそばを歩くとゆっくり羽ばたいて飛び立ち、少しだけ向うの田んぼに移動します。「やれやれ、考えごとをしていたのに人が来たのか。仕方がないな」とでもいうように。それを見ると気の毒になって、「なにもしないからそのままそのまま!」と心の中で声をかけるのですが、やっぱり必ず飛び立ちます。
 しかし車で池のそばを通るときは、いくらゆっくり通っても池のふちに立ったままです。だからこの写真も車で通りながら撮りました。中央にアオサギくんが立っているのがわかるでしょうか。
 いつ見ても不動の姿勢で水面を見つめているので、なにか考えごとをしているのかと思ったら、このまえパクッと水中の魚をつかまえました。お見事! 辛抱づよくじっと獲物をねらっていたんですね。
 ウッドデッキから眺めていると動物たちも生きる苦労があるようです。カラスが電柱のてっぺんで鳴き交わしていると思ったら、獲物をくわえたトンビを二羽のカラスが追いかけはじめました。トンビのほうが体は大きいけれど、カラスは執拗に追いかけ、追っ払ってしまいました。
 散歩で村の中を歩くとスズメの群れを見かけます。チュンチュン鳴く声に懐かしささえ感じます。我が家の裏山にスズメが来ることはありません。ヒバリは少し離れた田んぼではよく飛び立ちますが、裏山はウグイス、ホオジロ、ヤマバトなどがやってきます。
 畑をトラクターや耕運機で耕すとセキレイがやってきます。耕運機の音をききつけてくるのでしょうか。土のにおいでくるのでしょうか。不思議なほどいつでも、二羽三羽と飛んできます。
 我が家の畑は、ぼくたちがつくるまえはほとんど放置状態で草が高く生えて、冬はそのまま枯れていました。そこによくキジがきて鳴いていました。だから『キジの畑』と呼ぶことにしました。でも草を刈り手入れをするようになったからかキジを見かけることがなくなりました。
 ところでヒヨドリは、街であれ田舎であれ野菜の植えてあるところには、いつでもやってきますね。しかも大食漢でしっかり糞をします。ぼくはあまり好きになれないのですが……。

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「竹薮憎し」の考えをあらためます。

2010年03月16日 05時14分35秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真はとなり村のそのまたとなりの桃坂の天満神社の境内です。立派な建物を大木の杜(もり)が守るはずの境内に、竹薮が迫っています。あと数年で神社の境内は竹薮に飲み込まれるでしょう。このブログで、ぼくは、ことあるごとに竹薮の侵攻を嘆き、「オレも竹を伐りまくっているんだぞ!」と竹薮攻撃隊の隊長みたいな気になって里山の危機を訴えてきましたが、きょうからその考えを改めることにしました。
 竹薮憎しでなく、竹の偉大なる力を受け入れ、その力を積極的に活用していくべきであると考えることにします。
 実は確定申告に吉川支所に行ったとき、新しい吉川図書館に寄りました。いくつか本を借りようと見てまわっているとき、足もとに積んである古い雑誌に目が行きました。『ありっ竹使いきる』という赤い文字。『現代農業』(農文協)という雑誌の2009年4月号の特集記事の見出しです。
 たまたま積んであった一年前の雑誌との出会いが偶然とは思えず、借りました。そして、夜中に起き出して二時間ほど読んでいました。 
 いやー、竹は偉大な力をもっているのですね。だからあんなにはびこる、いや、勢力を広げることができるのですね。私たちはその竹の力をもっと農業に利用するべきなんですね。無智でした。
 竹を粉砕し、パウダー状にして畑に撒くと、驚くほど根を張り、味のいい野菜が採れるという実践が報告されています。丸鋸の歯を何枚も重ねてモーターで廻す竹粉砕機を、5万円で自作したという記事も載っています。竹の抗菌作用を利用して有機農業に役立てている記事もあります。
 竹がこれほど役に立つとは知りませんでした。竹の力に敬礼します。しかもその貴重な竹が無尽蔵といっていいほど手近にあるのです。これは考え方を改めて大いに利用しなければなりません。そこで早速ムシのわいている畑の大きな堆肥箱に、竹の落葉を入れることにします。粉砕機は無理だけど、穴を掘るかコーナーを作るかして、竹や落葉を入れて堆肥化することを考えます。
 なお竹肥料については『現代農業』のバックナンバーで2002年4月号、2004年10月号、2005年4月号、2007年10月号でも特集しているそうです。これから勉強します。
 
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春 春 春。

2010年03月15日 05時48分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 朝の散歩に車で出掛けたときに見た藁屋根のツーショットです。吉川町湯谷という山奥の谷に入って撮りました。藁屋根の家はよく見かけます。しかし維持が大変なので黒く塗ったトタン板でカバーしてある家がほとんどです。この村の人と立ち話をしてきいてみたら、一軒は京都のほうの人が買い取ったけど、高齢になってあまり来なくなったとか。藁屋根は田舎の景色には必須アイテムですがだんだん少なくなっています。
 きのうは一日中畑仕事をしました。ぼくは排水のビニールパイプを埋めたところに杭を打って土留めをきちんとし、道子さんはイチゴのマルチ掛け。あちこちの畑を見るともっと早くマルチを掛けてあるのですが、イチゴはマルチをして地温を上げるより冬の寒さにさらして鍛えるほうがいいと本に書いてあり、冬を過ぎてから掛けました。
 リコリスの球根を50球、通販で買いました。秋の彼岸の頃赤い花を咲かせる曼珠紗華のことです。散歩していて土手やあぜ道でよく見かけますが、球根を掘るとなると勝手にとるわけにもいかず買ったのです。道子さんは、畑のまわりを赤いベルトで彩りたいと申しています。
 ぼくの生まれ育った山陰の片田舎では、この花を『シタマガリ』と呼んでいました。子どもの頃手折って遊んでいると、「毒だから捨てて、手をよく洗え!」とおこられたものです。この花の汁がついた手をなめると舌が曲がると信じていました。
 この花ほどいろんな名前で呼ばれる花もないでしょう。本によると全国には900の呼称があるそうです。つよい花で球根が毎年増えていきます。数年で道子さんの願う赤いベルトが実現するでしょう。
 きのうはよく晴れて日差しがつよくなり、畑仕事をしていると汗ばむほどの陽気でした。お茶しながら遠くの山々を見ると、木々の梢が赤みを帯びてふっくらしています。なだらかな線を描く山々の遠景がとてもいい畑です。そこにウグイスが鳴いたりすると、わけもなく「春だなー」と声に出してみたくなります。 
   
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『阿弥陀堂』をいまは『大師堂』と呼んでいます。

2010年03月14日 02時11分46秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうブログに書いたうちのの『阿弥陀堂』に、朝の散歩でお参りするつもりでした。でも雨が降るかもしれないので車で出掛けることにしました。近くに車を置いて、歩いているうちに雨が降れば車にすぐ戻れるように。
 田んぼの中に四角のお堂が建っています。床は少し朽ちかけていますが、奥のガラス戸を開けると掃除の行き届いた仏壇です。いまは村の人たちは『大師堂』と呼んでいますが、中心には阿弥陀如来像が安置され、いい『気』が満ちています。村には大師堂の当番があって、花を入れ替えて掃除をしているそうです。
 雨の降るような降らないような空模様なのでうちの村を散歩するのをやめて、車でとなりの町に行ってみました。三木市口吉川町には17のがあり人口は2000人です。となりの三木市細川町には12のがあり、人口は2400人で、どちらも昔から人々が暮らしてきた村です。
 三木から三田に行く県道20号線の細川町金屋(かなや)に、三年前にコンビニが建ちました。この店の裏に、気に入っているたたずまいがあります。コンビニの駐車場からも見えるのですが、きょうは金屋公民館に車を置いてそばまで行き、写真を撮りました。
 この木は枝が細かいのでアキニレだろうと思っていましたが、落葉を拾ってみたらエノキです。それにしても樹形がいいです。根ががっしり張り、お地蔵さんが根元に祀ってあり、うしろの土手には曼殊紗華(まんじゅしゃげ)がびっしり生えています。道子さんが土手にツクシが生えているのを見つけ、摘みはじめました。ここの土手は焼いたので少し早く生えたようです。
 うちの村の阿弥陀堂(大師堂)の写真を載せるつもりでしたが、金屋まで足を伸ばしたのでこちらの写真にしました。
 散歩の途中に大樹や古びた祠やお堂がある。拝む。なかなかいい。これからは手を合わせます。
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観音堂にお参りしました。

2010年03月13日 04時24分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 うちの村の公民館裏には八畳くらいの建物があり、小さな石の像を並べて祀ってあります。道ばたのお地蔵さんや観音さんを集めてきて並べたという感じの棚で、だれが手向けるのか花が差してあります。足もとはセメントの床で、正面の祭壇以外は柱だけで吹きさらしの建物です。いままで公民館に出掛けても気にとめませんでしたが、先日散歩のときにはじめて中に入ってみました。
 よく見るとそれぞれの石の像は古びて趣があり、帽子をとって拝む気持ちになります。孫たちと素直に頭を下げて拝んできました。
 2月末に図書館の郷土史コーナーで『三木市の史跡と神社仏閣』という本を借りました。郷土史にくわしい福本錦嶺さんの書いた本で、先日はこのブログでも福地池の説明を引用しました。(3月8日ブログ)
 うちのでは七つ紹介してあり、大将軍神社・裏山の愛宕社などと並んでこの建物も紹介してあります。名前は『観音堂』で創建不詳となっています。いつお祭りがあるのでしょう。だれが花を飾っているのでしょう。また老人会の人にきいてみることにします。
 この本にはまだ立寄ったことのない建物がもう一つ紹介してあります。名前は『阿弥陀堂』となっています。田んぼの中にポツンと建っていて気にもとめませんでしたが、説明を見ると「境内は90坪あり、境内中央のお堂を西南の隅に移して、相撲場をつくり、若者相撲や力くらべの『土俵上げ』などをした」とあります。
 思い返してみると我が家は、子どもたちが小学校に行くようになったとき新興団地の『ひよどり台』に住みはじめ、中学校に行くようになったら北須磨の新興住宅地の新しい家に住み、やがて子どもたちは結婚して家を出、ぼくらは街の家を引き払って田舎暮らしをはじめました。だから道ばたのお地蔵さんとか小さな祠(ほこら)とか昔からの巨木、あるいは神社やお寺と縁がありませんでした。
 でも由来はわからなくても昔からのものが身近にあるのはいいですね。きょうは散歩で『阿弥陀堂』に寄ってみることにします。




 
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千体地蔵にお参りしました。

2010年03月11日 23時13分24秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 雨のあとで畑にはまだ入れないし、図書館と買物にでも行くか。ということで図書館から三木市中心街のジャスコまで出掛けました。買物と昼食をすませて志染農協にヌカをもらいに寄ったら、ちょうど業者が引き取ったあとでした。残念! 生ゴミ醗酵用のヌカがきれたところなのに。
 幹線道路をすんなり帰ればいいものを、きょうもまた新しい田舎道に車を乗り入れ、ゆっくり走っていると山すその崖に小石が張りついています。
 何だろうと寄ってみたら『千体地蔵』でした。三木市の観光案内に紹介してあり、道ばたに看板を何度も見掛けていましたが、寄ったのははじめてです。由緒を伝える看板によると、天平時代に行基が地蔵菩薩を祀ったのがはじまりで、各地の人が大小の地蔵菩薩を持ってお参りに来るようになり、約千体の地蔵菩薩を祀ることになったそうです。
 いまでは8月24日の地蔵盆には多くの人がお参りし、子安地蔵として信仰されているそうです。たしかにお堂の両脇の崖にはたくさんの小さい地蔵さんが置かれており、庶民の切ない祈りや願いが迫ってきます。あまり好みの『気』でない気がして早々に帰ってきました。山陽道の三木東インターを出てすぐのところなので、興味をもたれたら寄ってみてください。
 月曜日に自動車がはまって死力をつくし(大げさでなく本人はそう思っています)、その晩は疲労回復のためグリンピアの『杜の湯』につかり、火曜日は一日雨でしたから家で朝から風呂に入って昼寝をし、水曜日はやはり筋肉疲労をとるために三田の『熊野の湯』に出掛けました。それでもまだ腕はよく上がりません。一度無理をすると長くこたえます。きょうも買物のあと長時間昼寝をしました。
 畑仕事がいっぱいたまっています。あすこそ畑に出ます。
 
 
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アドレナリン後遺症でお休みしました。

2010年03月10日 06時12分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 孫や娘たちが泊りがけでやってくると翌日はみんなで朝の散歩に出掛けます。そのコースは、おじいちゃんであるぼくが設定します。決まったコースを歩くのがきらいなので日々変えるのですが、先日は寒かったのでいちばん平凡な近くの農道コースにしました。その写真です。でも考えてみるとこんなありふれた田舎道も、街に住む子や孫には新鮮なのでしょうね。田んぼも道ばたの草もまわりの山もそして空気も季節を伝えてくれます。
 きのうは『アドレナリン後遺症』というのか腕が上がりにくく、ずっと雨も降ってるし一日休養しました。力仕事をしてもふだんの筋肉痛なら動いているうちに忘れるのですが、余程力を出したのでしょう。
 これからも田舎暮らしには車が欠かせません。好奇心も一向に衰える気配がありません。もっと高齢になって車がはまったらどうするか。そのときに備えてメンタルトレーニングが必要です。いままでのように自分でなんとかしようとあがくのはやめなければなりません。自分の力の衰えを自覚して、気長に待つ。それができるようになりたい。そう書きながらそう思ってない。年寄りの御しがたいところです。
 なにより「車は便利でどこにでも行ける」と思っているのが始末にわるい。帰るときのことを考えず行けるだけ行こうとする。これからは一人で行くのは絶対にやめ、同乗する人の忠告には素直に耳を傾けます。
 そういえば96歳の母はとっても素直で「こうしたほうがいいよ」というと「ハイ!」と実に気持ちよく返事をする。そして次の瞬間には忘れる。思考と行動のパターンは全然変わらない。
 ぼくもそうなるだろうな。この際真剣に反省しなければ。でも気をつけないと『反省』ってやつは振り込め詐欺みたいなものだからな。注意されて「ハイハイ。ハイハイ!」と真剣に反省の気持ちを振り込んでもなんの手応えもかえってこない。…… と反省の達人は思います。
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アドレナリン!

2010年03月09日 07時35分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「きのうも竹薮のはびこる山奥に軽自動車で行ったのか。のん気だな」と写真を見て思われるでしょうか。いえいえ、これはそんなのん気な場面ではありません。「まー奥さん、ちょっときいて! ホントに大変だったんだから」 …… というようなことがあったのです。
 歯医者さんがおわって口吉川町の秘境を訪ねようという話になり、山道に入っていきました。しかし田舎は幹線道路からそれると、どれが本道かわからないほどいろんな細い道があります。その一つを登っていったところ行き止まりになってしまいました。そこで方向転換しようとバックしたらぬかるみにはまり、車が傾いてしまいました。
 動輪が空回りしてこのままでは脱出できません。なにかないかと二人で手分けしてあたりを物色しました。古いゴムのキャタピラが野積みになっています。竹を斜めに切った花立てが捨ててあります。小さい小屋があって雑草を刈る鎌が置いてあります。そんなものを集めてきて、またエンジンを掛けて脱出しようとしましたが駄目です。
 一休みして記念写真でも撮るか。これです。
 傾いた車輪の下を掘り、キャタピラをかませ、再度脱出を試みましたが駄目。だれかに助けてもらうしかない。さきほど谷間に入る前にあった最後の人家まで歩くと20分で行けるだろうか。とにかく戻るしかない。と、人家のあるところまで戻りかけたら向うから犬を連れたおじさんが! そんなことがあるんですね。こんな山奥でも。車をいっしょに押してほしいとお願いしました。
 おじさんにも押してもらって、二度トライして脱出に成功!
 あとでキャタピラを片付けようとしたら一人では無理で、二人で運びました。脱出する前は一人で持ってきたのに。写真を撮ったりして平常心のつもりだったけど、きっとすごくアドレナリンが分泌されてたんでしょうね。こんなことでもないと老人の平静な日々にはもうアドレナリンは出ないのでしょうか。
 午後おじさんの家にお礼にうかがい、道をたずねて『秘境』へのアプローチを試みましたがそれはまた後日報告します。
 
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福地池(伝説)

2010年03月08日 04時54分21秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 うちの裏山の向うはため池になっています。このため池の伝説を『三木市の史跡と神社仏閣』という本から紹介します。この本は三木市老人会連合会が平成新元号記念誌として昔からの言い伝えを集めた本で、数多くの言い伝えが載っています。なお写真はため池の土手で、高い堤の中ほどに小さい祠(ほこら)が祀(まつ)ってあります。

        福地池 (伝説)

 この福地池について『口吉川郷土読本』に、その伝説を述べている。昔、この池の堤がよく崩れた。農民達は再三の修築に疲れ果て、遂にはほとんど再築する力がなくなり飢餓が迫ろうとしたときがあった。
 そのとき福寿坊という坊さんがいて、これを憐れみ農民を救うことを思い立ち、人柱を立てて堤を築けば再び崩れることはなくなると云い、自ら人柱に立つことを約束して再築を勧めた。
 農民達はこの坊さんの犠牲心に感じ、死力を尽くして再築にかかり、福寿坊は約束通り人柱となって、ようやく修築が完成した。その後、この堤は崩れることがなかったという。人達はこの福寿坊の恩に感謝して、この池を福寿池と呼んだが、いつの頃からか福地池と云うようになった。
 
 言い伝えですから真偽はわかりません。村人のよく知っている話です。特別な儀式や祭りはありませんし、祠にお参りする人もありません。この池の土手はかなり高く、年に二回隣り村と共同で草刈りをします。刈って数日すると草を焼くのですが今年は雨が多く、焼くのが遅れています。ぼくは散歩で土手の下を通るとき、心の中で拝むことにしています。この言い伝えを、遠い感覚でやり過ごすときと、生々しくその場面が迫るときがあります。
 言い伝えってパワーをもっていますね。
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カラーシルエット劇団『角笛』の公演を見ました。

2010年03月07日 00時19分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は『花さき山』の影絵です。ステージの写真は撮れなかったのでパンフレットを載せます。きょうは孫たちと神戸文化ホールに行き、カラーシルエット劇団・角笛の公演を見ました。三十数年ぶりに角笛の舞台を見て気持ちよく涙がながれました。
『角笛』が旗揚げしたのは1963年(昭和38年)でした。それから47年間全国を公演してまわり、観客総数は1200万人を越えました。メジャーな劇団でなく、ブームに乗ることもなく、地道にかくも長く活動されていることに感動します。きびしい台所事情もわかるだけに「美しいものにを子どもたちに!」という情熱にふれて勇気をもらいます。
 角笛のカラーシルエット劇と出会ったのは、現在までの人生の半分だけを生きた1974年(昭和49年)。36歳のときでした。西宮親子劇場の劇団選定にかかわっていて偶然この劇団の資料に魅(ひ)かれたのです。そして公演の打ち合わせに来られた劇団代表の白石さんとはじめてお会いしました。実直な人柄がそのまま伝わる人でした。
 彼は、私たちの粗末なチラシを見て不安になったのでしょう。ポスターを無料にしますから使ってください、と数十枚も置いていってくれました。
 そして公演の日、はじめて見るカラーシルエットのスクリーンは、子どもをよろこばせただけでなく、大人の心を洗ってくれました。美しいスクリーンの余韻が何日も心に残りました。人形劇や舞台劇を見るのとちがう感動でした。さいわい公演は大入りで、それから角笛との付き合いがはじまりました。
 人生には、ほとんど関係はないし、深い付き合いでもないのだけれど、つよく心に残る出会いがあります。白石さんとの出会いもそうでした。いつまでも彼の人柄が心に残りました。彼もそうだったのか、私が係りをやめてから勤め先に訪ねてこられたことがあります。
 去年、たまたまインターネットで『角笛』の活動を見て、懐かしい思いがあふれ、自分の過去に手紙を出すような気持ちで劇団に手紙を書きました。白石さんは亡くなられていましたが、奥さんにていねいな手紙をいただきました。
 そしてきょう、白石さんの奥さんに出会い、公演が終ってから舞台裏を見せてもらいました。ありし日の白石さんを知る人と出会って、もっと彼の話をしたいという奥さんの思いが伝わってきました。
 
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またまた木を買って植えてしまいました。

2010年03月06日 01時59分31秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 我が家の便所の小窓には、季節の花を生けた小瓶が置いてあります。いまはネコヤナギ、サンシュユなど裏山に咲いた花の小枝を生けています。買ってきた苗で咲かせたクリスマスローズも加えて道子さんはうれしそうです。せっせと植えたハナカイドウ、ライラック、沈丁花、花ズオウ、ハナミズキ、桃、桜などもこれから仲間に加わるでしょう。
 ゴミ置き場みたいにしていた裏山の東側を、この数日片付けてみたらちょっとした広場になりました。そしたらまた木を植えたくなり、またまた苗木を買ってしまいました。黄色い小花が3月に咲き将来は大木になるミモサアカシア、4月に赤い花がいっぱい咲くハナズオウ、黄色い花のヒュウガミズキ、赤い花の沈丁花です。きのうはそれをツルハシで穴を掘って植えました。
 竹林だったところですからどこを掘っても竹の根と遭遇します。まえは植木屋さんに言われた忠告をよく守って直径深さともに50センチを越えるほど掘りましたが(ほんとは「もっと掘れ!」といわれました)いまでは30センチを目安に作業しています。
 それでも午後作業にかかってツルハシで竹の根を切り、鶏糞を底に入れて踏み込み、花と野菜の土で包(くる)んで四本を植えおわったら汗だくだくです。シャワーを浴びて、土曜日からの町民文化祭の準備に夕方出掛けました。
 この仕事は『交通安全指導員』としてお呼びの掛かった任務です。「黄色い帽子をかぶってくるように」(指導員の制帽)と指示があったので行ってみると三人かぶっていました。いずれもアラコキ(古希)老人で、口吉川町では貴重な戦力です。(と本人は思っています)
 それでも勤めをおわった若い人たちが次第に集ってきて(こんなときぼくらから見ると世の中若い人だらけです)力強く仕事がはかどり、ぐんぐん会場ができていきます。テントの支柱組み立て、パネル運び、イス運びとぼくらもしっかりお手伝いをしてきました。
 きょうは三十数年ぶりに、シルエット劇団『角笛』の公演を、孫たちと見ることになっています。なつかしい!
 
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ムシたちにも春は来る。

2010年03月05日 07時30分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのう裏山の向うの池を散歩していて、道子さんがカマキリの卵を見つけ、手折って帰りました。写真中央のかたまりが卵鞘です。カマキリは草や小枝に秋の暮れに卵を産み付け、泡で包みます。それがかさかさに乾いて冬を越します。5月頃になるとこの中からたくさんの小さいカマキリが、ずわずわと湧き出てきます。1センチにも満たない小さいカマキリですが、大人と同じ威風堂々とした姿で、威嚇するようにあたりを見まわします。立派な態度です。
 しかし幼い頃はアリにでも食べられてしまうし、小鳥に捕食されたりして数百の卵から成虫になれるのは数匹です。そんな貴重なカマキリはバッタやコオロギなど草食系のムシを捕食してくれます。我が味方のカマキリを守らねばなりません。そこで生れるまで物陰に卵鞘を隠しておこうと持ち帰ったのです。
 アブラムシを食べてくれるテントウムシやたくさんのムシを食べてくれる蛙にも畑で出会うといつも敬意をはらっています。蛙なんか一晩に80匹ものムシを食べてくれるというデータもあるくらいですから、最敬礼しなければ。
 有機無農薬のわが畑にはたくさんの蛙がいます。いま頃耕運していると、冬眠中の蛙を掘り起こしてしまうことがあり、ごめんなさい。蛙がいると蛇がやってきます。もともと蛇アパートがあったところだし。(2009年4月15日ブログで紹介したブロックの橋が蛇アパートです)でもうちの畑はよく草を抜いたり刈ったりしているから蛇も安心できません。アオサギやトンビにねらわれます。
 去年は一回だけ畑で蛇を見かけました。今年もあまり見かけないですみますように。人間はむかしむかしのそのまたむかしの時代に、蛇によっぽど脅かされたのかいまもDNAに恐怖感が染みついています。その恐怖感を克服する気にもなりません。ムカデは放してあげるようになりましたけど……。
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