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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

つつましく

2009年07月31日 00時54分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 朝の散歩に車で出掛けました。静かな山あいのを散歩してみたかったのです。ぼくの暮らす町には全部で17ありますが、きょう行くのは善祥寺についで小さいです。やはりお寺の名前がの名前になっており、世帯数は一ケタしかありません。(市役所の統計では戸数はわかりません。例えばぼくの暮らすは市役所の統計では57世帯ですが、一戸一票の村の役員選挙では四十三戸となります。)
 境内に車を置いてまずお寺の本堂にお参りしました。
 境内には御影石の『動物霊の供養塔』も立っています。この碑にもお参りしました。頭に浮かんだのは三月に捕獲した八匹のヌートリア。村の人たちもヌートリアをあれほど身近に見たことはなく、ずいぶん話題になり、村人たちは散歩で見るのをたのしみにしていたようですし、ぼくも孫たちに見せてたのしんでいました。でも大根を何十本も食われてはどうしようもありません。「やすらかに眠ってください」と祈りながら、やっぱり身勝手なのかなー。そんな思いが胸をかすめました。
 高野山奥の院の墓地の入口あたりには大きな白アリの碑があり、「白アリよ やすらかにねむれ」と書いてあります。碑を立てたのはどこかの白アリ退治会社だったか業者の団体だったか。あーあ。
 山あいを歩いていくと写真のような民家が数軒。のんびり田舎暮らしをするのにぴったりの家で、見とれてしまいました。家の前の道は広く、道の両側の草もよく刈ってあります。こんなところに住むのはいいだろうなー。
 もう少し谷間をのぼってみよう。
 さきほどから後輪が二列もついた大きなダンプカーがのぼって行きます。谷の奥からもダンプカーがおりてきます。二百メートルも歩くうちに何台のダンプカーとすれちがい、追い越されたことでしょう。いや何十台か。
 ははーん。あれか。
 我が家のウッドデッキのほぼ真東に産廃処分場の煙突が見えます。谷間をのぼっていくとその処分場が見えてきました。道路は広くくぼみ一つありません。我が家の前の道路などとは仕様がちがうようです。
 それにしてもさきほどから、大きな大きなトラックが、なんとつつましく走っているのでしょう。和服の女性がうつむき加減に内股で歩いてくるようです。
 エンジン音はほとんどしない。歩く速度より少しはやいかな。ぼくらとちれちがうときはほとんど止まるくらいの速度になるし、こちらがちょっと道端に寄ると高い運転席から頭を下げてしずかに通りすぎてゆく。奥ゆかしい運転手さんにこちらがお礼をいいたくなる。一般公道を走るときにこれでは仕事にならんでしょうけど。
 何年前か何十年前かに、数軒の村が大揺れの議論をして産廃処分場がくることになったのでしょうね。歩きながらだんだん言葉が少なくなっていきます。
 どこに住むのも大変なんだなー。
 
 
 
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ナメラ!

2009年07月29日 23時45分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
『千と千尋の神隠し』という映画はトンネルをくぐるところからはじまります。
 トンネルを出ると人っ子一人いない、両側にのれんや食堂の並んだ道に出ます。千尋たちはその道を歩いてゆき、お父さんお母さんが食堂に入ったところから映画は展開していきます。
 でもあの無人の食堂街を通り抜けてさらに歩いてゆくと、道はそのまま洋服や包丁などを売る店がたち並ぶナメラ商店街につづくのではないか。
 そんな雰囲気のただよう『ナメラ商店街』をきのう散歩しました。場所は神戸電鉄『上の丸』駅に近い、かつての三木市の中心部です。三木市に住んで2年半になるのに、我が市にこんな雰囲気の道があることをはじめて知りました。
 道路はタイル模様の立派な舗装で、アーケードがつづいています。道はきれいに掃き清められ、チリ一つありません。通る人はいなくても開けている店はきちんと商品を陳列して、凛とした空気でお客を待っています。
『三木市の地名録』という本を見ると「明治の終りごろ馬車が通行するようになって、今までの旧道を廃して馬車道が新設された。これは城地が許可によって道路となったもので、そのうち馬車道の両側に家が建ち並ぶようになり『ナメラ商店街』というようになった。」とあります。ただの荒廃した昔の商店街でない、どこかにただよう気概のようなものは、城地につくられた道という歴史に由来するのでしょうか。またちがう季節に訪れてみたい道です。
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白蝶草を植える人

2009年07月28日 02時08分34秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 家から歩いていく散歩は、東・西・南と三つのコースをつくっています。北は10分も歩くとゴルフ場につき当たってしまうのでつくっていません。東コースを散歩すると白い花の咲いている道を通ります。それが写真の農道です。
『ガウラ』と聞くと怪獣みたいな名前でなじみませんが、『白蝶草』という和名がいいですね。インターネットで調べると「白い蝶の舞うような清楚な花」とあります。宿根草で5月から9月頃までつぎつぎと花が咲きますが、繁りすぎず暑い盛夏にも涼しげな姿で歩く人をいやしてくれます。といっても一日に軽トラックで通る人が二、三人。歩く人はぼくらくらいかな。
 この花は自生しているのではありません。花好きな人が植えています。あぜの草刈りをする主人に「これは刈らないで!」と頼んで、毎年自分の家の田んぼのふちに植えて増やしてきたそうです。春先に散歩していたときこの花好きな人に手招きされて庭先を見せてもらったことがあります。山野草をほどよく植えたしっとりした庭でした。
 そういえば一ヶ月ほど前に、朝起きてみると我が家の玄関先のバケツにバラの切花が差してありました。どなたが置いてくださったのだろう。この色のバラはどこの庭に咲いているのだろう。散歩しながらさり気なくよその庭先を見ましたが結局わからずじまいだったことがあります。
 なかなか梅雨が明けませんが、畑の草はぐんぐん伸びていきます。当分草抜きに追われる日々になりそうです。
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胡麻の花が咲きました

2009年07月26日 04時08分48秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 地面から芽を出したところをさんざん夜盗虫に食いちぎられた胡麻が、一メートル超に伸びて花をつけはじめました。胡麻は伸びながら花をつけ、花が落ちてサヤをつけます。写真では下のほうの花が落ち、サヤがつきはじめているのが見えます。
 これからさらに背の高さより高く伸び、花がサヤになり、サヤが乾いて口があき、中の胡麻が落ちはじめます。そうなると刈り取って逆さに干します。
 その胡麻の葉に虫の卵がつきはじめました。胡麻には『エビガラスズメ』などが卵を生みつけます。それをていねいに見て卵を払い落とすのですが、なかなか全部は見きれません。この卵はドキッとするほど大きな幼虫になります。指の太さほどの10センチを越える青虫に出会うと、たじろいでしまいます。それでも勇気を奮い起こして捕まえるのですが、さー、どう処分するか。
 まえに大豆畑トラストの菜園で胡麻をつくっていたときのことですが、地元の農家の方が散歩の途中で胡麻に目をとめられました。彼女はいっしょに散歩していた娘さんに「まー、なつかしい。胡麻つくってはるわ。ちょっと見てみー。これが胡麻やで。むかしはこないしてみんな自分の家で胡麻つくってたんやで」と指さしてしばし見ておられました。
 いま道の駅などでは中国産の胡麻の袋が500円くらいで売ってあります。国産無農薬の胡麻ははたしてどこかで売っているのか。売るとすればいくらくらいなのか。虫をとり、台風に倒れないよう柵をして、刈り取って日に干し、シートに落ちた胡麻や枯葉のかけらをかき集め、一粒一粒ゴミの中から拾うように収穫する胡麻ですが、炒ってすり鉢ですってつかう香ばしいにおいは、またつくろうという元気をあたえてくれます。
 もし国産の有機栽培の胡麻を見つけられたら、生の胡麻を買いもとめて炒って使ってみてください。ほんとの胡麻の味を次の世代に伝えましょう。
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パラソルの日陰で一休み

2009年07月25日 04時05分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 米価を維持するために、農協は今年も3割以上を休耕田にするよう指導しています。この村では去年、川のそばの二町五反ほどの田んぼを休耕田にして黒大豆をつくりました。ほとんどを機械がこなす米つくりとちがって、黒大豆の世話はとてもきつい仕事ですが。
 今年は営農組合で話し合って、山のほうの田んぼ二町五反を休耕田にして黒大豆をつくることになりました。なかには、ほとんどの田んぼが黒大豆に転用される家もあります。
 植えつけた黒大豆が伸びてきましたが、雨のおかげで雑草も盛り上がるようにびっしり生えてきました。このままでは黒大豆が雑草に負けてしまいます。そこで営農組合では除草剤を散布している最中です。背負い式のタンクに入れた薬剤を、先端にじょうご型のカバーをつけた噴霧器で畝間に散布していきます。黒大豆には絶対に薬剤がかからないようにしなければなりません。稲のほうも近くラジコンのヘリコプターで害虫防除の薬剤散布を行う予定です。こんなことをするのは、土を愛し大地の恵みに感謝して長年農業をやってきた人にはつらいことです。
 畝間にしゃがみ込んで草を抜いているといろんなことを考えます。
 たしかに農業の未来は、暗い。米をつくる人は高齢になり、あと数年もつくれるかどうか。子や孫はこの農地を引き継いでくれるか。米価は? 新型の便利な農業機械は欲しいけど……。この国の農業政策は? 農薬は? 
 そんな田んぼのなかにあって一つの田んぼだけ写真のようにパラソルなんか広げちゃったりして、なにをチャラチャラ家庭菜園なんかやってるんだ。
 新参者が地域のヒンシュクを買うようなことをしているのではないか。
 でもあえてベンチを置きテープルを置いて、お茶したりしながら畑仕事をしています。ときどき村の人が寄って声を掛けてくださいます。朝に夕にカナカナ蝉の声を聞きながら、ひとしきり作物の話をすることもあります。
 大地と田舎の自然が安らぎと癒しをあたえてくれる。それを意識する時間でもあります。
 
 
 
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畝作業用の長いす

2009年07月24日 04時24分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 畑に置かれたこれは何でしょう。
 腰をかがめてする畝の草抜き、土寄せ、収穫などの作業はつらいものです。そこでちょっとおしりをのせるだけの小さくて軽いイスを使用することがあります。らくに移動できるようにとコロがついているイスもあります。
 そうしたイスの一種だと思ってください。長さは1,8メートルのちょっと腰掛けるだけの長いすです。おしりをずらして移動し、端っこまできたらイスを2メートルほど引きずって移動します。イスのすわる面は滑りがいいようにプラスチック段ボール材(プラダン)を張ってあります。
 使用感はわるくないですよ。おしりをずらすだけですから。できれば畝全体をカバーするような10メートル以上のイスがいいけど、それだと他の畝に持っていくのが大変です。
 これはホームセンターで販売していません。自作です。道子さんの要望で去年つくり、畑に置いてときどき使っています。作業はらくです。でもホームセンターに売ってあったら買うでしょうかねー。
 生ゴミを処理するために、はじめは300リットルのコンポストを買って庭に置いていました。でもすぐ一杯になってしまいます。そこで裏の竹薮に深さ2メートル以上の穴を掘って埋めることにしました。でも犬か猫がやってきて引っかきまわすので土をかぶせます。するとすぐに穴が埋まってしまう。そこで去年の夏、借りた畑の遊歩道に生ゴミを捨てる底のない枠を作りました。2メートル×1メートルで90センチの高さです。上はブルーシートをかぶせています。ここに台所で出た生ゴミを新聞紙にくるんで持ってきては捨てます。いま六分目くらいでしょうか。
 それを醗酵させようと春にヌカを入れてみました。いままで夏はシートを開けるとうじ虫やハエがいっぱいいたのに、今年は全然いません。醗酵して温度が上がり、熱くなっています。切り替えしはしていないけど堆肥になりそうです。
 

 
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竹中半兵衛の墓にお参りしました

2009年07月23日 03時17分22秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「天正六年(1578年)三木合戦が起きて三木城主・別所長治の7500余騎が篭城し、攻将・羽柴秀吉が織田氏の援軍とともに三万の大軍をもって三木城を包囲。一年十ヵ月の攻防の末、三木城主・別所長治は降伏し城主一族は自害して果て、城は開城された。」
 三木市を紹介するパンフレットには、三木合戦のことがこのように簡潔に書かれています。信長がまだ生きており秀吉が配下にあって、領土分捕り合戦が各地で繰り返されていた時代のことです。別所長治は徹底抗戦の姿勢を貫き、秀吉にとっては長期にわたる大変な戦いでした。
 この頃秀吉の陣営には竹中半兵衛という聡明な軍師がいました。三木合戦での包囲作戦も、半兵衛が秀吉に授けた戦術です。その竹中半兵衛の墓は三木市の平井にあります。
 半兵衛は三木合戦の最中に平井山の秀吉の本陣で病死しました。長らく病気がちで一時は三木を離れて静養したのですが、最期は戦場に戻って亡くなったのです。秀吉は半兵衛にとりすがって号泣したと伝えられます。半兵衛まだ36歳でした。
 笹沢佐保の『軍師竹中半兵衛』という本を図書館で借りて読みました。齋藤道三・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康あるいは今川義元・武田信玄・上杉謙信など全国制覇をねらった人たちと一味ちがう人物像が描かれています。
 三木市街に買物に行く途中、竹中半兵衛の墓に寄りました。この墓に寄るのは二度目ですが、彼のことを本で読んだあとでお参りすると気持ちがずいぶんちがいます。だれが参ったのか新しい花と430回忌という真新しい木札が差してあります。
 最近用事があってJR伊丹駅で人と待ち合わせました。早く着いて時間があったので散歩しようと駅前に出てみると見事な石垣がそびえ、『有岡城跡』と掲示があります。
 荒木村重の居城であり、信長に属するよう説得に来た黒田官兵衛孝高が幽閉された城です。黒田官兵衛の息子は人質として信長に差し出され、秀吉が預かっていました。音信のない官兵衛に腹を立てた信長は、人質の息子を殺せと秀吉に命じ、秀吉に殺すように頼まれた竹中半兵衛は頑強に抵抗しました。笹沢佐保の『軍師竹中半兵衛』にしっかり書いてあったことです。
 若い頃は『時代劇』というと敬遠してきたのに、いつしか多少の関心を持つようになり、長く生きるうちに半兵衛や官兵衛が眼前に現われる。なにかの縁なのでしょうか。 
 
 
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『よかたん』温泉で骨休め

2009年07月19日 02時09分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 梅雨がまだ明けず雨がちの日があります。そんな日に骨休めをしようと車で15分の『よかたん』温泉に出掛けました。日本一の炭酸温泉というのがウリです。ここの源泉風呂は37度。熱い湯の苦手な道子さんでもたっぷり入れるというので月に1、2度は出掛けます。きのうは用事でちょっと温泉の先まで車で走り、途中見かけた神社に寄ってみました。
 それが写真の『若宮神社』で、鳥居から参道、境内の広場、山門、本殿と並んだ立派な神社です。10月1日に『ヤホー神事』(県指定重要文化財)があると掲示が出ています。また訪ねることにしましょう。
 そういえば我が家を建てるときに地鎮祭をしてもらった神主さんは、大きくて由緒ありそうな神社の神主さんでした。このあたりは神社といっても神主さんのいない神社がほとんどですが、若宮神社は立派な住居を兼ねた社務所が建っていました。
 地鎮祭のとき若い神主さんが「私はこのあたりの36神社の神主を兼任しているんですよ」と話しておられました。何気なく聞き流していましたが考えてみると大変な仕事ですよね。
 まずこの神社はどんな神様をお祭りしているか覚えないといけない。次に、その神様の性格や故事来歴を覚えて顔見知りになり、多分神様は神社を抜け出してどこかにたむろしておしゃべりとかしているだろうから、祭りのときはそれぞれの神社に呼び戻してちゃんと鎮座してもらわないといけない。そのパワーを発揮するだけで疲れるだろうなー。
 うちので老人会が『花いっぱい運動』の植え付けをした七夕の日、ぼくはもう一人の会員と二人での氏神さん『八幡神社』の草刈りをしました。刈払い機で刈るのですが、神社の裏は笹が密に生えていて全部は刈りきれませんでした。我が家の裏山のてっぺんには小さな社があります。愛宕さんといいます。社は二つあってうちのでお祭りし、当番が年に一度お参りします。この社を新調することになったのですが、それはまた近日中にお伝えしましょう。 
  
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こんにゃくが立派に育ってます

2009年07月16日 03時59分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 堂々たる姿に見えますが高さは60センチ。いま、こんにゃく芋が地中で育っています。なぜか一本倒れてしまい、さては夜盗虫が食べたかな、と調べてみたらこんにゃく芋が地中で腐っていました。
 ソフトボールより少し大き目の芋になるのに三年かかります。
 毎年畑に植えて芋を大きくし、冬は凍らないように掘りあげて保存し、次の年にまた植えます。今年は数個の芋を収穫できそうですから、手づくりこんにゃくがつくれるかな。このあたりでは家庭菜園でつくっている人はありませんが、ときに山間の畑で見かけます。
 山芋の蔓(ツル)が伸びてきました。それを竹の枝にぐるぐる巻きにして上に伸ばすつもりでしたが、いちばん上まで伸びて、竹の枝が重みでおじぎしています。先日散歩の途中、家の屋根より高く山芋の蔓を誘引している菜園を見かけました。あの菜園の人は、つるに「高い高い!」をしてやっているのでしょうか。うちはこれからどう誘引しようかなー。
 30本以上芽を出して育っていたオクラの苗が、夜盗虫に食いちぎられて7本になってしまいました。こんなに沢山の苗をどうしよう。家の前の空き地に移植して、通りがかりの人にできたオクラを収穫してもらうか。心配してたけど、畑にちょうどいい本数が残りました。いましっかり育っています。
 それにしても夜盗虫は、アメリカ合衆国の初代大統領ジョージ・ワシントンみたいな性格の生き物なのだろうか、と思うことがあります。だって食いちぎられた苗のあたりの土をひっかきまわすと必ずいるのですから。食い逃げして知らんぷりせず「わたしが食べました」といっているようなものです。
 畑の草刈りをしているとムカデとよく出会います。「ヤッ! ムカデ!」と一瞬体がこわばり、あわてて踏み潰したりチョン切ったりしていましたが、この頃はぼくの心が変りました。まずムカデをじっと見ます。ムカデは決してカマキリみたいに攻撃的な姿勢をとったりしません。ひたすら逃げます。
「オマエが夜盗虫やナメクジやゴキブリを食べているところを見てみたいものだ」と思ったりする心のスペースもできてきました。ただし畑でだけです。家の中で見かけたら、やさしく追い出してあげられるかなー。ダメだろうなー。
 もし夜盗虫と話ができて、「生きるために苗を食べました」といわれたらぼくは彼を許すべきなのかなー。
 
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西宮北口はいま……

2009年07月11日 02時46分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 兵庫県立芸術文化センターで音楽会があり、二人で行きました。大ホールの三階席で、オーケストラを上から見おろす感じです。『新世界』では管楽器や打楽器の活躍がよく見えました。耳がだんだん遠くなるけど、これからも年に数回は音楽会に行くことにしようかなー。三木の田舎からこの『芸術文化センター』に来るとしたら、(駅前に車を置いてJRに乗り)新三田⇒宝塚⇒(阪急に乗り換え)西宮北口がいいかなー。西神中央に車を置いて地下鉄に乗り⇒三宮で阪急に乗り換え⇒西宮北口がいいかなー。どちらにしても遠いなー。
 四十数年前に西宮北口に住んだことがあります。南出口を出てすぐに写真の横丁に入り、車の通らない細い道を抜けて数分歩き、西宮球場を半周して『阪急ブレーブズ』の野球選手の寮の向かいに建つアパートに新婚の一年間だけ住んでいました。四十数年ぶりにそのアパートまで歩いてみました。(アパートは建て替わっていますが)
 西宮北口の駅はすっかり変わっています。
 神戸線と宝塚線のレールが駅で直角に交差し、どの電車も必ずその交点をガタガタ・ガタガタと走りました。西宮球場はときどき競輪場になり、ジャンパー姿のおじさんたちが手に新聞を持ち、耳に赤鉛筆なんかはさんで電車を降りてきました。横丁の隅で立小便をしたり唾を吐いたりするので、競輪のある日は線路沿いの道に遠回りして帰ったりしたものです。
 駅周辺はすっかり変わりました。おでん屋などが並んでいた南出口の通りは消え、あの大きな野球場も消えてしまいました。野球場を半周して行ったお風呂屋さんはなし。買物に行った北東出口のゴミゴミした市場もなくなり、巨大な建築群が占領しています。わずかに南出口を出たところの横丁の道の狭さだけが同じです。
 駅からアパートまで5分くらいだった記憶がありますが、いま歩いてみると10分近くかかりました。若い頃は足が速かったんですね、きっと。
『思い出』ってなんでしょう。
 田舎に引っ越すことになって長年たまった荷物を整理し、勤め先の写真や自分の学生時代のアルバムや文集などもみんな処分しました。家族のアルバムだけを残して。
 もし西宮北口が昔のままの姿で存在していたら、なつかしさの度合いがちがうのでしょうか。それはこころにどんな作用をもたらすのでしょう。
 子どもってあまり思い出にひたることはないでしょうね。ほかの動物は思い出にひたったりしないでしょうね。
 レトロな昭和の町並みがもてる時代です。認知症にいいといわれます。
 あの甘酸っぱいような、セピア色の遠い記憶に残る『思い出』は、老人のこころにどんなふうに働くのでしょう。老人が活力に満ちて語りあう中学の同窓会は、こころになにをもたらすのでしょう。
 まわりの迷惑にならないよう気をつけながら、『思い出』の力も借りて生きる年齢になったことはたしかなようです。思い出にひたる効用をまた自分なりに考えてみます。
   
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なにか動物が出没したようだ

2009年07月08日 02時40分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 6月は草刈りをパスして7月になってしまいました。毎月中頃に草刈りをするつもりでしたが。雨が少なく草の伸びがわるかったからです。畑の草抜きは助かりましたが、水やりには手がかかりました。でも6月終りからの梅雨らしい雨で、畑も土手も草がぐんぐん伸びています。
 畝間の草抜きが追いつかなくなったので、刈払い機で刈りました。土手の草刈りもしなければなりません。でも今年三度目の草刈りで、前回より要領がよくなった気がします。いま刈れば次は8月の上旬に刈ることになります。畑のそばの村の墓地に、お盆の墓参りをする村人が気持ちよくお参りできるようにタイミングよく刈るつもりです。
 大豆の発芽率がきわめていいです。今年は、大豆畑トラストが品種を変えたのでその種を分けてもらって播きました。『サチユタカ』という蛋白質の多い種です。数年前兵庫県の作付けを調べたら『タマホマレ』ばかりでしたが、2、3年でこの品種が急に広がったようです。畝の端に補植用の苗をつくっていますが一本出動しただけでした。
 老人会で公民館清掃の作業をしていたとき、コイモづくりの話が出ました。我が家の畑では、コイモプールで孫たちがジャブジャブ遊ぶのでいつも水を溜めています。でも大きなコイモをつくるので評判の人に話を聞くと、水はずっと溜めないほうがいいようです。もっとくわしく聞いてみます。
 マクワウリの食べさしが一つ、大豆の畝に落ちていました。動物の糞が側にあります。野犬かアライグマかヌートリアか狸や狐か。人間でないものがウリをねらったようです。トウモロコシは無事だったし、スイカやトマトはテグスでカラス対策をしたのですが、なにか出没したようです。また檻を借りて捕獲作戦をやらねばならないのでしょうか。アライグマが一番イヤだなー。
 堆肥づくりは温度が下がって心配でしたが、ヌカを追加して水を加え、キリカエシをしたら50度超に上がってきました。いい堆肥ができますように。
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お役に立ったプランター

2009年07月06日 04時00分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 6月最後の土曜日は部落総出で空き缶やゴミを拾う清掃デイでした。老人会のメンバーはゲートボール場や公民館まわりの草刈りをすることになり、我が家では二人が清掃活動に参加しました。(一人参加すれば十分なのですが地域のお役に立ちたいという願いがつよいものですから。エヘヘ…)また7月7日には、老人会で公民館前のプランターに花を植えます。市の花いっぱい運動です。この日も二人で参加しようと思っています。
 いまは公民館の前には、花が全然ありません。土だけのプランターが並んでいます。そして7月5日には知事の選挙があり、近隣の数の人がこの公民館に投票に来ます。老人会長は「選挙がもう一週間あとだったら、玄関がきれいになるんやけど」と残念そうです。
 そこで、我が家のプランターをいくつか公民館前に持ってきましょうか、と申し出ました。「そうしてもらえたらうれしいけど……」
 道子さんは、いまちょうど花の乏しいときだから、と困りましたが、それでも気をつけて一週間花の手入れをして、なんとかプランターを用意しました。それを投票日の前日夕方運んでいき、なにも植えてないプランターの並ぶ玄関に置きました。
 定年退職してから田舎暮しをするのは、親戚や知人などの足がかりでもないとむずかしいですよ。ここに移住する前、まだ空き家をさがしていたときに市役所の農政課で言われました。実情はその通りなのでしょう。
 でもここに住んで二年半。いま気持ちよくこの地に住まわせてもらっています。ありがたいことです。
 思い返してみると、12月に引っ越して二ヵ月後の2月に、このの五年に一度の伊勢講がありました。それに二人で参加させてもらいました。老人会の仲間に加えてもらい、清掃活動やグランドゴルフに参加してきました。我が家のウッドデッキで老人会のバーベキューをしたこともあります。
 そして大きいのは、田んぼを借りて野菜をつくりはじめたことです。どんなふうに一反三畝の休耕田をお守りするだろう。村の人たちが通りがかりに注視している波動が伝わります。その注視にパワーをもらって、種を播き苗を植え土手の草を刈ってきました。
「熱心ですな」「上手につくっとられる」それぞれの家の菜園で野菜づくりをしておられる人たちが声をかけてくださる。こうした日々の積み重ねが人のつながりを丈夫にしていくのでしょう。
 

 
 
 
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大豆の防鳥ネットをはずしました

2009年07月04日 04時07分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 車でゴミ捨てに出てそのまま善祥寺に行って朝の散歩をしよう。と二人で出掛けました。途中ベニバナを栽培しておられる田んぼに寄りました。ぼくたちと同年輩に見えるお二人がぬかるむ田んぼに入って、ベニバナを摘んでおられます。
 ベニバナというから紅色をしているのかと思ったら写真のように黄色の花です。原種のベニバナなので葉にトゲがあり、皮の手袋をして摘まないと痛いそうです。細い茎なので倒れないように畝の左右に棒を差してヒモを張ってあります。その花の先だけを摘んで集めます。少しずつ花が咲くので10日ほど毎日摘んでまわるそうです。花を摘んだ後の種子をしぼってベニバナ油にするのですが、今年は試しに種子を集めてしぼってみたいと話しておられました。でも手の掛かる作業で、この田んぼ以外に近くで栽培している人はない、とのことでした。
 善祥寺の『天上蓮』はまだ咲いていませんでした。ついでのドライブということで三木吉川GCからオリムピックGCに抜ける山道を帰ってきました。
 6月23日のブログに、大豆を播いて防鳥ネットを張ったとを書きましたが、その100坪用ネットを、きのうはずしました。ようやく降った雨でしっとりした畑に、播いた大豆が全部しっかり伸びています。畝の端に補植用に播いた大豆も立派な苗になっています。鳥に一粒もやられなかった! 誇らしい気分です。人間の縄張り根性だって? まー、いーじゃありませんか。
 大豆のまわりの草をレーキで引っかきましたが、土寄せをする前にコープの堆肥を入れようと思い、午後瑞穂町のコープ市民農園にもらいに行きました。20リットルの袋詰めなら400円ですが、軽トラック一杯だと3000円です。どういう計算をしたらそうなるのでしょう。
 このたびは持っていった袋に自分たちで詰めて、車の後に積めるだけ積もうということで出掛けました。工場の人が見上げるようなショベルカーで堆肥をすくいとり、コンクリートの床にドサッと一杯分の山。それを一辺65センチの立方体の袋にスコップで入れて車に積むつもりでした。でも袋に半分ほど入れて持ち上げてみると、それで精いっぱい。あとは土嚢袋やゴミ袋に小分けして入れ、それを車に積み込みました。それでも三分の二がやっと。2000円で分けてもらいました。
 この堆肥は畝間に撒き、耕運機で耕してから土寄せをします。堆肥でおおうくらいたっぷり撒けるなー。
 
 
 
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ハスの花が咲きました

2009年07月03日 10時20分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 車で出掛ける散歩コースの一つに善祥寺というがある。ここは市の統計では世帯数が七世帯になっている。でもお寺の石段から見える民家は五軒。それにお寺の庫裏を加えても六軒。口吉川町で一番小さいである。
 この寺の歴史は古い。西暦651年法道仙人の開祖と伝えられ、三木合戦のとき焼失、その後再建とある。
 このお寺の名前は、ハスの花の咲く頃新聞で見かけることがある。
 五月のはじめ、新緑の山道を散歩しようと善祥寺に車で出掛けた。車を降りてお寺の境内を散歩し、庫裏の庭に並んだ大きな鉢を見てまわった。ちょうど住職のような人が掃除をしておられ、話をうかがった。このお寺は多くの種類のハスを集めていることで名が知られているという。なんでも400種類ほどのハスのうち300種類以上がここにはあるそうだ。
 手入れが大変でしょうとたずねたら、4月にはボランティアの人たちに参加してもらい、ハスの鉢の手入れをしたという。根の切れ端をくださった。『天上蓮』と教えていただいた。
 帰るとすぐ火鉢に土と水を入れて根のかけらを埋めた。その天上蓮が数日前から桃色のつぼみをつけはじめ、きのう花が咲いた。ハスの花が一輪咲いているだけで庭の雰囲気がちがう。存在感のある花だ。
 善祥寺のあの沢山の鉢も、いまごろ花が咲き競っているだろう。あしたはまた善祥寺に散歩に行こうかな。

ハスの根を埋めた火鉢は、道子さんがいまは亡き友人にもらったものです。彼女がマンションに引っ越すとき不要品をもらいに行き、火鉢をもらう羽目になりました。
 引越しの手伝いに行くと、あとでもてあます品物をもらったりするものですが、それにしても手あぶりに使うわけでもないのにどうして火鉢なんか。大きな火鉢で置き場も使い道もなく、ウッドデッキの下に放置していました。
 それが三年を経て『天上蓮』の花を咲かせることになろうとは。天上の彼女はきれいな蓮の花にかこまれて、にんまりして我が家の庭を眺めているでしょうか。
 
コメント (1)
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