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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

竹の侵攻にもっと危機感を!

2011年03月30日 01時27分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは久しぶりに、西中の龍神を祀ってある山に散歩がてらお参りしました。山道を10分登るので老夫婦だけではなかなか元気が出ませんが、孫たちが来たので登る気になりました。それとコバノミツバツツジがいつ頃咲くか偵察しておきたかったのです。去年の春は両側にコバノミツバツツジの咲く山道を期待して登ったのに、もう時期を過ぎていました。
 参道はうちの裏山より日当たりがよく、裏山のツツジの咲く少し前に登るのがよさそうです。去年は4月20日に登って遅かったので今年は10日頃に登ってみます。それにしてもこの西中の山にもずいぶん竹薮が這い上がってきました。写真は参道を登りはじめた鳥居付近ですが、右側は竹がびっしり生えています。参道の下を根が伸びて左側にも竹が生えはじめています。あと10年もすれば全山竹薮になる勢いです。離れたところから山を見上げると、クヌギやコナラが竹薮の上に頭を出して樹冠状に枝を広げていますが、山に入って斜面を見下ろすと竹が木々を圧倒しています。
 三木市の「市の木」は「松」です。奈良時代に書かれた『播磨風土記』の頃からこの地は松の茂るなだらかな丘陵でした。我が家の建築中に立ち寄った村のおじいさんは「むかしはこの山も赤松が茂っとって、マツタケがようけとれたわな。それを自転車に積んで三木の街に売りに行きよったでな」と思い出話をしてくれました。
 いまでは竹がてっぺんまで這い上がり、松の木は生き残っていません。立ち枯れた松は倒れてしまい、竹薮の間にしっかり立っているのはクヌギとコナラです。竹薮の縁にはアラカシが勢いよく道路側に枝を伸ばしています。
 この写真は、東中の愛宕さんに登る参道で撮りました。中央の木は松です。孟宗竹にかこまれて枯れています。日照を求める地上の闘いよりも壮絶な根の闘いが地下で展開され、竹に敗北したのでしょう。竹薮の松はすべて枯れています。例外はありません。
 田舎の景色は心休まるいいものですが、竹薮を見ると数年後の山を想像します。先日山歩きのときに寄った法輪寺の竹薮は二年前より孟宗竹が倒れて折り重なり、荒れていました。ぼくは裏山の竹薮を数百本切り倒して片付けただけですが、竹薮を里山にするのは大変な仕事です。いまの日本はそれどころではない雰囲気ですが、静かな竹薮の侵攻にもっと危機感を持ってもいいのではないでしょうか。
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イチゴにマルチをかけました。

2011年03月29日 02時14分57秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 イチゴはできるだけ寒さに耐えさせて冬を越すのがいい。鍛えられてしっかり根を張り、おいしいイチゴが実をつける。マルチをかけると保温効果があり、イチゴが甘えてしまう。
 本にそう書いてあるので、例年イチゴを本植えするときはマルチをかけません。でもあとからマルチをかけるのは手間と時間がかかります。道子さんのやり方は、まずイチゴの両脇に箸を差します。その上からマルチをかけて押さえ、プスプスとマルチに穴をあけます。そして箸の間をハサミで切り、そこからイチゴの葉をほじくり出すやり方です。ちょうど娘が来ていたので手伝ってもらい、200株のマルチがけを完了しました。「これで大きな顔してイチゴが食べられる」というのが娘の感想です。
 こんなことで大きな顔をされたのでは道子さんもたまったものではありません。娘や孫はイチゴの採れる時期を過ぎたら知らん顔ですが、まずイチゴの株を市松模様に10株残します。あとの株はぼくが草刈り機で刈って耕してしまいました。でも10株の左右の畝は耕して平らにし、ランナーを伸ばしやすくします。夏の間は草が茂りますから、除草、追肥、水やりが必要です。しかし夏野菜に手をとられ、なかなかイチゴの手入れまで気がいきません。それを来年のことを考えて草を抜き水をやり、しっかり手入れをしました。いい苗ができ、このブログでも「イチゴの苗をどうぞ」と呼びかけて、四軒のうちにもらってもらいました。
 マルチがけのあとはイチゴのネットハウスづくりで、おじいさんの出番です。あと一ヶ月、連休の頃にはイチゴの初採りができるでしょうか。
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コンパニオンプランツを植えました。

2011年03月26日 04時47分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 イチゴのそばに一本緑の細いものが生えています。ネギの苗です。数日前に道子さんが草を抜きながら植えていきました。ネギとイチゴは相性がよく、防虫効果もあるそうです。ネットで調べたら「イチゴとタマネギは相性がいい」とありました。ほかにも「仲良し関係の野菜」があり、それを『コンパニオンプランツ』といいます。科学的に立証されているわけではありませんが。
「東」と「保木」の間の道沿いに、一反あまりの畑があります。どこかよその人が畑だけをつくりに来ているそうです。熱心に畑をしておられる姿を見かけたこともあります。この畑にはコンパニオンプランツが植えてあります。先日「山歩きの会」で歩きながら、この地に住む人が「ここの畑をつくっとる人は、わしらとちょっと考えがちがうみたいやな」と話していました。
 車で通り掛るだけでも、ちゃんと畑は観察しているのですね。そういえば通りがかりにうちの畑を見て「仕事はなにをしておられたんですか」とたずねられたことがあります。一反三畝の畑がきちんとつくってあるので感心したそうです。これってつまり自慢かな。ごめんなさい。
 さてウグイスの「初鳴き」をきのう聞きました。お彼岸を過ぎてから聞くのははじめてです。例年なら初鳴きは2月の終りに耳にします。初鳴きを聞いたのはゴミステーションでした。美嚢川のそばですから、裏山とはずいぶん離れており、うちの裏山ではまだ鳴きません。そういえば3月に入るといつの間にかいなくなるジョウビタキが、三日前にもまだ鳴いてました。小鳥でなくてもいつまでも寒いから調子がおかしくなるかも。 春よ来い!
 そろそろイチゴのマルチ掛けをしなければ。草を抜き、追肥をやりました。今年は十分寒さに鍛えられたから、おいしいイチゴになるでしょう。孫たちよ、存分にたのしんでおくれ。
  
 
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軽トラ大活躍……コープ堆肥をもらいました。

2011年03月24日 02時12分48秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうはコープみずほ農園に堆肥をもらいに行きました。軽トラ一杯で3000円です。農園では20リットル入りの袋を500円で売っています。3000円というとわずか6袋です。一輪車に三杯くらいでしょうか。どうして軽トラでもらいに行くとパワーシャベル一杯が3000円なのでしょうか。
 以前から疑問に思っていたことなので、きのう農園の人にたずねてみました。軽トラだと手間が要らないから10倍の量をあげるそうです。つまり60袋分の堆肥をもらったことになります。ここはオートメーションの工場ではありません。山になった堆肥を、人が雪掻き用シャベルで袋に入れて封をする。手間がかかります。その手間が省けるから安くなるそうです。ちなみにコープ農園を借りている人は、ここの堆肥をタダで使い放題です。
 畑に持ち帰って、畦パネルをつないで円筒形にした容器に入れました。写真のように軽トラを土手に乗り上げ、畑との間に板を渡します。そして立方体になる袋に堆肥を入れ、畑を引きずって横断して容器に移します。二つの容器に一杯にするには立方体の袋二つで5回ずつ往復します。75リットルのゴミ袋に入れて軽自動車で運んでいたときとはずいぶん労力がちがいます。
 去年軽トラを買うまではゴミ袋でもらっていました。堆肥置き場の床にぶちあけられた堆肥の山を、雪掻き用シャベルでゴミ袋に入れます。それを20袋、軽自動車の後ろに天井まで押し込んで運び、またその袋を容器まで一輪車で運んでいました。それがわずかな労力で移せる。JAで買ったアルミの道具(手に持っている)も活躍しました。コープ堆肥のもらい方はこの方式で決まりです。二人で半日以上かかる大仕事と思っていた堆肥購入が1時間ちょっとでできます。さー、この作業が何歳になるまでできるでしょうか。
 うちが借りている一反三畝の田んぼは、水が漏るので圃場整備をしてから米をつくったことがありません。いわば10年以上ずっと休耕田です。農薬も使用していません。うちが有機無農薬でつくるようになって4年目ですが土がとてもよくなりました。山田錦の田んぼですから泥が深かったのですが、それがさらさらしっとりしたいい感じです。雨のあとは畦の水はけ具合をみて畑に入るので、ぬかるみと格闘するような畑仕事はしなくなりました。
 畑の土さん、ことしもよろしく。
 
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もうひとつの三木合戦 『青竹の筒』を見ました。

2011年03月22日 05時19分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 三木市の文化会館で『みき演劇セミナー』の『もうひとつの三木合戦 青竹の筒』の公演があり、きのう見ました。演劇の写真撮影は一切禁止だったので、畑の雑草・オオイヌノフグリの写真を載せています。いまうちの畑はこのオオイヌノフグリ、ハコベ、ナズナ、ホトケノザなどが繁栄しています。4年前にこの畑をつくるようになったときと雑草がちがってきました。有機で畑をしていると雑草も在来のやさしい草になるのでしょうか。
 みき演劇セミナーはこのこの15年間、毎年新しい公演に挑んでいる市民劇団です。以前団員公募のチラシを見て心が動いたこともあります。それだけにどんな舞台を見せてもらえるかと期待していました。実際に見たら舞台装置がすばらしかった。大きくて存在感のある大道具とスピーディーな場面転換。あとで出演者・スタッフの舞台あいさつがあり、装置をつくった裏方の人たちが沢山出てきました。全員女性です。道理で緻密な手を抜かないつくりになっている、と感心しました。
 三木城の別所長治の戦いは三木の長い歴史の中でも特筆される大事件です。それだけに様々な角度から取り上げられます。このたびは三木城下の民衆の立場から、脇川の教海寺のエピソードが上演されました。市民にはなじみの話ですからいまさらミステリー風なあつかいにしないで、民衆の支えという視点で物語が展開されました。はじめ女性の出演者が早口でよくわかりませんでしたが、だんだん迫力が出てきて最後までたのしむことができました。
 二回公演でいずれもほぼ満席の状態でしたから市民に支えられている劇団です。三木市の第九合唱団といいこの演劇セミナーといい、人口8万の田舎の町で、しっかり文化を支える市民層があるのがうれしい。もう少し男性団員がいると演技に厚みが出ると思うのですがむずかしいかなー。教海寺のお坊さんや民衆の気概がもう少し前面に出て、当時の戦の残虐さと秀吉軍の仕打ちと対決させる場面があるといいかなー。男性団員がほとんどいないから無理でしょうか。練習はよく積んでいて後半だんだん盛り上がってきました。
 そうそう、口吉川町に引っ越してきた人が、飲料用の水をすべて教海寺そばの念仏水にしていると聞きました。頻繁にくみに来るそうです。以前「コーヒーを入れても味がちがいますからねー」と明石からくみに来た人も言ってたなー。「口吉川町の米はおいしい」と評判だから、それをこの念仏水で炊いたらさらにうまくなるか。一度試してみる価値はありそうです。
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you tube で Libera の歌をききました。

2011年03月18日 03時49分33秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は去年の3月に撮った竹薮です。今年は正月からまた竹切りに精を出して、この写真に写っている竹は全部切ってしまいました。気持ちの広がるスペースができました。
 地震がありました。津波がやってきました。この国の人は、いま重たいこころで息をしています。そんなこころをあつかいかねて「天罰だ。我欲で突っ張っているから天罰が下ったのだ!」と喚(わめ)くしかないおじいさんもいます。ただただ涙を流しているおばあさんもいます。
 いくらか募金をしても、気を紛らわそうと山仕事をしても、こころは重い。テレビを見るのはつらくて、夜中にヘッドフォンをかけて you tube で音楽を聴きました。スラヴァの歌うカッシーニの《アヴェマリア》を聴き、ほかの人の歌うのも聴いてみようとクリックしたら、リベラ(Libera)という未知の文字が目にとまりました。
 〝You were there" (あなたがそこにいるから)という歌は2009年に映画につかわれたそうですが、こころにしみます。you tube の視聴者の感想は外国語が多いのに、これは日本語の感想です。日本のだれかがアップしたのでしょう。

◎ 本当にきれいな声だと思う。ソロの子の声が特に透き通った声をしている。初めて聞いたときは泣きそうになりました。

◎ おれ不登校で5年くらい泣いてなかったんだ。でもこの曲に出会って……出会って……ありがとう。

 この感想を読んだとき、この少年の不登校の5年間がずしりと胸に伝わりました。そしてひとりでに涙が流れました。
 Libera というのはイギリスの少年合唱団です。来日公演をしたこともある。CDも出してる。若い人たちの間では人気があるのでしょうが、おじいさんは知りませんでした。しばらくはyou tube で彼らの歌を聴くことにします。
 災難がふりかかったけど、この国の人たちはやさしい。みんなで助け合って、生きていきましょう。
 この国の人たちみんなで「ひとはもっと信じてもいいいきものですよ」と世界に伝えられたらうれしいですね。
 
 
 

 
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竹の片付けに精を出しています。

2011年03月17日 01時35分02秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 gooのブログが進歩したみたいで、複数の写真を載せられるようになりました。ぼくがアップの仕方を知らなかったのでしょう。まず土筆(つくし)の写真から。毎年採っていた土手はほとんど生えていませんが、佐の広池の土手に群生していました。朝の散歩で採り、一晩水にかしてから道子さんが佃煮にしました。おいしいです。
 畑仕事が一段落したので、竹薮の片付けに精を出しました。シイタケの原木置き場前を片づけた写真です。ここに上の斜面の竹を切り倒して100本近くが折り重なったいたのですが、4メートルくらいに切って積み重ねました。枝のついた先のほうは向うの谷に引きずっていき、積み重ねておきます。すると母上(妙子さん ― あとひと月余りで98歳になる)が花バサミを持って裏山に出勤し、チョッキンチョッキン枝先を切り刻んでくれます。でも雀の舌は切りませんからご安心を。それを73歳になる息子とアラウンド古希の嫁がまわりの竹薮に押し込みます。竹薮討伐隊はきょうも行く!
 我が家からシイタケの原木置き場までの道が片づきました。斑入りアオキなど植えた木も見えます。右の「竹の枝先山」はまた妙子さんの仕事場に引きずって運ぶことにします。また5月にはタケノコがいっぱい生えるでしょうが背丈を越して伸びる頃に刈ります。家のそばの竹薮なら多少広くても退治できることがわかりました。
 竹を切るとクヌギやコナラがのびのびと枝を張ります。喉元やほっぺたを竹の枝先がくすぐってうっとうしかったのに「竹を切ってもらってなんて気持ちがいいんだ!」という声が、幹に耳をつけると聞えそうです。でも「竹」だって生き物。クヌギやコナラは生かすけど竹は切るというのは一方に味方して竹のいのちを無視しているようで気がひけます。でも竹はクローン。いわばコピー。コピーがいっぱいになり過ぎたので整理しただけです。
 竹さん、ぼくは竹さんが好きなのですよ。決して憎んだり嫌ったりしているのではありませんよ。
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久次の『権現講』を見せてもらいました。

2011年03月13日 04時32分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 口吉川町の東端にある『久次』(「ひさつぎ」と読みます)は、面積が広くうちのより78人も人口の多い大きなです。(我が・東中は144人、久次は222人で口吉川町では三番目の大きさです)このでは老人会が中心になっていまも『権現講』が行われます。土曜日に公民館の『楽しい郷土史講座』受講生でその権現講を見学し、脚気神社にお参りするウォークがありました。
 むかしはどの農家にも牛がいました。田を梳くときに欠かせない動物でした。そこで久次ではむかしから権現山の頂上で大護摩を焚き、家内安全・牛馬安全・五穀豊穣を祈願する祭りがありました。ところが米づくりは機械がするようになり、牛がいなくなり、大護摩の火が消えそうになりました。
 しかし「むかしからの伝統行事が無くなるのは忍びない」と老人会がお世話を引き受けることになりました。それから二十年あまり、いまも老人会が中心となって全体でこの行事を行っています。牛がいなくなったので「牛馬安全」⇒「交通安全」を祈願します。
 まず公民館で山伏四人と僧正さんに祈願の儀式をしてもらい、近くのお堂(このの大師堂でしょうか)にみんなで繰り出します。写真は大師堂前の広場で山伏問答をしているところです。下の山伏が案内を乞い、杖をついた山伏と問答をしています。それから四方に矢を射て、マサカリで打ちすえ……と秋に行われる伽耶院の大護摩と同じ作法で儀式はすすみ、火入れとなります。
 木を井桁に組んで桧の葉が差してあるのですが、この煙がなんともすごい。それでも山伏は大声で般若心経を唱えたり頑張られました。

 公民館で弁当を食べさせてもらい、午後は脚気神社まで2キロ半の道を歩いて山に登りました。写真の山門は崩れかかっていますが、その向うにある小さな祠が脚気神社です。むかしは例祭には参道に店が並び、広場では芝居小屋がかかり、近郷の村人で終日にぎわったそうですが、いまは静かな静かな山の中です。日露戦争ではたくさんの兵隊が脚気に苦しんだといいます。そこで出征する前には必ずこの神社にお参りするのがこの近郷の人たちの習しだったそうです。
 土曜日の前日とてつもない地震があり、参加するのは気が重かったのですが、参加してよかった。年寄りでなにもできませんが、護摩木に「大津波の犠牲になられた御霊よ やすらかに」と書き、脚気神社でもお祈りしました。
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小さな旅に出ました。

2011年03月11日 02時28分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 2006年12月に三木市で田舎暮らしをはじめたとき、お祝いに松葉蟹を食べようと城崎温泉に旅をしました。冬は蟹を食べて温泉につかる。それがなによりのぼくのしあわせです。きのうも一泊で宮津に行きましたが、よく行くところなので途中の変化をもとめ、舞鶴道の綾部インターチェンジでおりてみました。
 綾部市というのは福知山の隣りにある田舎の町です。人口は1970年(昭和45年)には45000人でしたが現在は35000人。この40年間で10000人減りました。市の観光協会をネットで見ると、有名な見所はあまりありませんが、大本教の本部があります。
 大本教はいまの新興宗教の元祖であり、戦前国家権力の弾圧を受けた宗教です。生長の家や世界救世教などが分かれていった大本(おおもと)の宗教です。なんとなく大らかな宗教ではないかと思っていましたが、実際に行ってみてもそんな感じを受けました。
 写真は桧づくりの拝殿です。人はだれも見かけません。二人で境内を勝手にうろうろしていたら女性が通り掛って「お参りですか」と声をかけられました。話を聞いているうちに拝殿の中を案内していただけるということでお願いしました。建立して二十年になるそうですが、いまも桧の香がただよいます。建物の立派さを誇示するところがなくて、質素で気持ちの静まる空気感が好ましい。(総桧づくりのすごい建物ですが)拝殿のつづきにある庭園は見事なもので綾部市の紅葉の名所になっているそうです。境内には柵も門もなく、いかにも民衆に開かれている宗教という感じを受けました。
 帰りは篠山で舞鶴道をおりて、三田市の一番奥の小柿という集落を通って帰ってきました。知人の田舎の家があるのでまた訪ねたいとどきどき思い出すのですが、なかなか実現しませんでした。知人は小柿を『三田のシベリア』と呼んでいますが、篠山の後川(しつかわ)から下りてくると、谷の幅が広くなり気持ちがすーっと広がる田舎です。
 阪神間に暮らす知人は、田舎の家に風を入れ、草刈りをするためにときどき帰るそうです。でも街の家と親の暮らした田舎の家の両方を管理するのは結構な仕事で、負担の度合いが年齢とともに増すでしょう。街に暮らし、ときどき田舎の家に帰る人は少なくないようで、不動産屋の話では「空き家同然の田舎の家はたくさんありますが、実際に売りに出される家は100軒に1~2軒ですよ。代々の長い歴史があるからなかなか踏み切れません」ということです。
 
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縦走! 「東」の山の神さんから「南畑」の石上山へ。

2011年03月08日 23時58分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは『口吉川町の山を歩く会』の3月例会の日でした。郷土史講座の先生は都合で参加されなかったので、道子さんとぼくを入れても参加者は4人でした。山の空気は肌寒かったけど歩くうちに体があったまり、気持ちのいい山歩きになりました。
「東」(ひがし)の公民館に8時に集合して、山に登りはじめました。山道には軽トラの轍(わだち)があり、4WDの車なら走れそうです。しかし轍は途中でなくなり、『山の神さん』のある頂上への道は傾斜がきつくなりました。
 歩きはじめて20分で「東」村の山の神さんに着きました。写真は頂上にある祠です。「東」村の人がお世話をしており、毎日この祠を拝みに登ってくるおじいさんがおられるそうです。いつかまた散歩の途中に、この村の人にお祭りの日のことをたずねてみます。
 時間があるので『石上山』(いしがみやま)まで縦走しようということになり、尾根を歩いてみました。山道はところどころ枯れ枝が落ちていますが落葉の積もった歩きやすい道です。竹薮がないので雑木林にはいろんな木が生えています。リョウブ、タカノツメなどを教えてもらいながら歩きました。南畑に移り住まれた方は植物や山にくわしいようで、歩きながらタヌキのフン場、猪のケモノミチなども教えてもらいました。
 石上山は標高228メートルですが口吉川町では一番高い山です。頂上に石の祠があり、消えかかった「嘉永六年……」の文字が見えました。木が茂り藪に埋もれていたのを郷土史の講師の先生が見つけて、木や草を刈って整備されたそうです。祠の前に多くの小石がきちんと置いてありました。先生が山のふもとの南畑からこの山に登るたびに小石を一つ並べるそうです。
 車のところに帰ってきたら11時でした。ダラダラ歩きですが3時間歩いたことになります。今週末には郷土史講座の実地学習があるのでまた山を歩きます。「久次」(ひさつぎ)という村には『脚気神社』という神社があり、召集された人は出征する前にお参りしたそうです。
 こうして口吉川町のあちこちを歩いているとよく墓場があります。その墓の中には必ずといっていいほど戦死した兵士の墓があります。先の尖った墓石があると、読める限り碑文を読んで戦死したときの様子を想像してみます。おそらく20代30代の強壮な若者で、生まれ育ったこの村を思いながら死んだのでしょう。死んだ者、墓を建てた者の無念さをいまも伝えてます。 
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細川町中里の原坂に行きました。

2011年03月08日 02時40分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真はうちの村のゴミステーション前です。田んぼの土手に埋めたチューリップの球根が芽を出してきました。その横に花を植えたプランターを置きました。雪が降った朝ですがどことなく春めいています。今年もさり気ない気くばりを心掛けたいと思います。
 さてきのうは軽トラで散歩に出ることにしました。寒かったしちょっとした用事もありましたので。ところが走っているうちに、先日うちの村の老人会長に聞いた〝細川町の秘境〝を思い出して、行ってみることにしました。
 細川町の谷に入って東に走ると、法輪寺が山の中腹に見えます。さらに東に走ると御酒神社(みさかじんじゃ)があり、その先を左の山に入ると〝細川町の秘境〝原坂があると聞きました。それらしい道を登ると山の中に入っていきます。「この先に人家があるのか? 山の中の細い道をバックで戻ってこなければならないか」と心配しましたが、「4WDの軽トラだから急な坂でもなんとかなるだろう」とズンズン山を登りました。
 すると突然視界がひらけ、数軒の家が見えてきました。庭先におばあさんを見かけたので、車と止めて話を聞くことにしました。ここは原坂の奥の集落で家は四軒あるとのことでした。でも一軒は空き家みたいになっています。軒先の切り株のイスにすわり、しばらくおばあさんにこの集落の話を聞くことにしました。
「私は口吉川町の番谷からここに嫁に来ました」と聞いてびっくり。『番谷』といえばこのブログでも紹介しましたが、おらが町・口吉川町(くちよかわちょう)の秘境。はじめて入り込んだときは「エッ? こんなところに平家の落人の集落があるのか」と思うほどの雰囲気がありました。再訪しようとして道を間違え、『槙』の集落で車が田んぼの道で立ち往生したこともあります。あの秘境からこの秘境にお嫁に! 
 干し柿と蒸したサツマイモをすすめられて食べながら、昔の苦労話なども聞きました。小学生のときは口吉川町学校に山道を一時間歩いて通い、忘れ物をして取りに帰ったこともあったそうです。
 しかしこの山奥にも最近子どもの遊び場ができて、週末は車が何十台と来るそうです。そういえば途中に『てくてく』と矢印を書いた小さな看板を見掛けました。道子さんは「ここからは歩行者専用の道という意味かな」といぶかっていましたが、そんな名前の工房があるのですね。
 ネットで調べてみるとなかなか人気の「子どもの遊び場」のようです。ウォルドルフ人形、シュタイナー、足立美和子先生、人形の講習、ちっちゃなこども園にじいろ……。エエッ? 大志くんの保育園だ!
 カメラを持ってなかったのでこの山里の写真はまた。もし田舎暮らしの家探しをしているときにこの村の空き家に出会っていたら、ここに暮らすことになったでしょうね。気に入りました。また若葉の季節には行きます。  
 
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竹薮の竹を片づけました。

2011年03月05日 04時18分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは雪がちらついたり晴れたりの寒い日でしたが、一日中折り重なった竹と格闘しました。写真はその格闘の一場面です。腰に竹引き鋸のケースをぶら下げ、竹を引き上げて切ろうとしています。3月いっぱいかかると思っていましたが、いざ倒れた竹にとりついてみると一本片づけるごとにやりやすくなっていきます。先が見えてきました。
 わずか四年の田舎暮らしですが、竹薮に挑む気持ちがこの二年だんだん盛り上がり、なんとかここまで里山風な山にすることができました。でもどうして「気持ちの盛り上がり」が起きたのだろうと不思議です。いまも思い出すのは、生い茂った竹薮の奥にわずかに見え隠れしていたコナラの幹です。うちの玄関から15メートル竹薮に入ったところにある高い木ですが、それがはるか奥の、未知の世界に存在する大木のように思えました。いまでは里山にとりつく最初の木になっています。
 郊外を車で走っていると竹薮が山に這い上がっているのをよく見かけます。その竹薮にとりついて幅20メートルで竹を全部切り倒して里山風にしていく。仕事でもないのに、そんなしんどいことをする気になるでしょうか。でもネットで見ると、竹薮と格闘して里山復活を目指している人たちがあちらにもこちらにもいます。
 我が家もそんな仲間ということになるでしょう。妙子さん(母)は枝先を花バサミで切り刻んで片づけやすくするのを仕事と心得て、寒くても竹薮にご出勤ですし、ぼくも道子さんもきのうは切った竹をまわりの竹薮に突っ込みました。98歳の妙子さんを筆頭に平均年齢80歳になる竹薮討伐隊です。勇ましいでしょ。
 竹薮で仕事をしながらときどき頭に去来したのは、日本の政治です。ぼくはあの戦争を下っ端の兵隊として戦わされた人たちの体験記をよく読みますが、いまの政治は遠い存在でした。でも『日本の独立』を読み、日本を本気で心配している人たちの意見をネットで読み、「あの戦争のときと同じ状況にいま民衆は置かれているんだ」と思います。情報をマスコミにコントロールされ、真実の姿を隠され、『日本』という『アメリカの財産』はさんざんむしばまれています。
 日本はアメリカの国債を世界で一番多く買っています。でもアメリカは一円も返す気はありません。だって日本は自分の財産ですから食潰したっていいじゃありませんか。そうそう、郵貯の350兆円もあったなー。基地は好きなように使い、思いやり予算をつけさせ……。
 検察やマスコミやいまの政府が必死に「小沢潰し」をしたのはなぜか。いまの日本の危機が丸見えになってしまうからです。ぼくも少しは選挙というものを知っていますが、小沢さんの地を這うような働きでいまの民主党の議席は、そして政権はとれたのですよ。いま現実に日本の危機に立向えるのは小沢さん。でも山仕事しながらそんなしょうもないこと考えて怪我せんとこ。
 
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裏山にアオサギが巣をつくっています。

2011年03月03日 03時09分10秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうの朝散歩の途中農道から我が家の裏山を撮りました。左右の竹薮と同じように竹が全体をおおっていました。去年と今年の冬にひたすら竹を切り倒して、これだけのオープンスペースをつくることができました。竹を全部切っても禿山にならなかったのは、クヌギとコナラのお陰です。裏山は真竹(まだけ)が生えています。孟宗竹より少し背が低いので、クヌギやコナラのほうが背が高くなり、なんとか生き残れました。
 この木たちは4月になると目にやさしい若葉となり、夏は木陰をつくり、秋は色づいて落葉します。タケノコは5月になると「ワッ!」と生えてきますから、伸びて竹になった頃に切らねばなりません。でも大丈夫! なにしろ毎日裏山を散歩して、植えた木木の芽を見たり、花をたしかめたりしていますから、こちらが元気なうちは竹薮に戻ることはありません。きのうはネコヤナギがしっかり咲いてきたなー、サンシュウ・ミモザ(フサアカシア)・コブシ・ジンチョウゲ・ユキヤナギのつぼみがふくらんだなー、と眺めて歩きました。
 裏山を散歩できなくなり、窓から眺めるだけになれば苦労して空間をつくっても二年で完全にもとの竹薮に戻るでしょう。うちの前に50坪ほどの宅地があります。その持ち主がどこかから通ってきて、竹を全部切って燃やし、宅地が現れました。次の年もまた生えた竹を全部切って燃やし、宅地が現れました。でも三年目はほったらかし、四年目もほったらかし。いまでは元の竹薮に戻っています。竹が危機意識をもってしっかり生えた分だけ立派な竹薮になった気がします。そばに住んでいないと竹薮管理はむずかしいですね。
 写真で見えますかどうか。実は頂上の左手にアオサギが巣をつくっているのです。白っぽい点のようなものがアオサギです。これが「クヮー!」というような声で鳴きます。池のそばにいるときは哲学者が思索に耽っているポーズで微動もしないのですが(魚や蛙をねらって水面を見ているだけです)、巣にいるときはよく鳴くのです。こんなに鳴くとほかの小鳥が嫌がって寄りつかないんじゃないかと心配しますが、そうでもなさそうです。ジョウビタキの声が聞えなくなりました。遠くカムチャッカに飛んでいったのでしょうか。そういえば寒いからでしょうか。今年はまだウグイスの初鳴きを聞きません。
 いまは切り倒した竹を引っ張り出しては短く切って片づけています。電動レシプロソーが活躍していますが、3月いっぱいかかりそうです。
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『日本の独立』を読んで考えること。

2011年03月02日 03時53分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は家から畑に行く途中の池です。この日は完全な無風で鏡の水面が空を映していました。小学校の運動場ほどの池ですがこんなに静かな水面を見るのははじめてだと思いました。
 さてブログで『日本の独立』(植草一秀著・飛鳥新社刊)を読んでいると書きましたが、読んだ後も頭に引っ掛かったままです。ネットを見ると多くの人が衝撃を受けたり、「日本をなんとかしなければ……」と思っています。ぼくも、まだ思いはまとまりませんが感じたことを書き連ねてみます。
◎ 菅直人は「自分が総理にしがみつくためには誰とでもつるみ、なんでもする」やつなんだ、とわかりました。まさかそこまで無定見な人とは思っていませんでした。コープ瑞穂農園を見学したときはあそこの堆肥(店の食品残滓などでつくった堆肥)を食べたと伝説になっているし。(ぼくに瑞穂農園の堆肥をすすめた人は菅さんが堆肥を食べた話を何度もしてくれました)厚生大臣をやってたときはエイズ問題で官僚を叱り飛ばしていたし。(と報道されていた)「正義の味方」かと思いました。
 いま見ているとまわりの人に信望はないし、信念はないし、出まかせ言うし。でも米従・官従(官僚の言いなりになる)財従(財界の言いなりになる)している間は安泰です。その仕組みがわかりました。
 鳩山首相が追い込まれたのは普天間基地の問題です。日本は「アメリカの属国」だから言いなりにならねばならなかった。そうしなかったからハトヤマは切られた。その点菅はチャンと言いなりになる。こんな都合のいいヤツはどんなにヨタヨタでも首相にしておかねば。考えてみると田中角栄は日中国交回復をしたから切られた。アメリカのご意向抜きに動いたら切られるのです。
◎ テレビで政局批判をしている御用評論家がこの本で次々と切られているのは気持ちがいい。テレビや新聞では真実は伝わらない。ネット社会です。『日本の独立』がベストセラーになり、多くの人がネットで意見を発表し、テレビの電波や新聞に載らない世界が広がりつつあるのを、社会の片隅でひっそり暮らすぼくさえ感じます。チュニジア、エジプト、リビアなど中東諸国では、御用テレビや新聞を越えてネットで運動が拡大しました。中国だっていつまで押えられるでしょうか。(悲しいことに北朝鮮は凍土のままですが)世界はそういう時代に入っています。名古屋・愛知の知事・市長選に見られるように自民党・民主党を超えた民衆のうねりの予感。
 いつまでも「民衆は馬鹿なもんだ」と思ってたらイカンぜよ。
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