不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

木に名札をつけました。

2010年01月29日 20時51分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 寒肥を入れた裏山の木々に名札を付けました。写真は沈丁花に名札を付けたところです。枝先にゆるゆるの輪で名札をつけました。
 実は木の名札は一昨年あちこちに木を植えたときに付けました。30本の内半分の15本ほどに。去年の冬は木を植えなかったので、まだの木々にも名札を付けようと思いながらそのままになっていました。
 今年は新しく数本の苗木を植えたし、どんな木を植えたか忘れてしまうので、冬の間に名札を付けておこうとパソコンで名札を打ってプリントし、ラミネートして昨夜つくったのです。
 前の名札は木の板でした。幅三センチほどの板にタック紙に印刷した名札を貼り、その上から幅広の透明テープでカバーした、手の込んだ名札でした。上下に穴を開けて細い針金を通し、それを苗木の幹にくくりつけたのです。
 朝日のあたる裏山に名札を持って行き、前の名札をはずそうとして胸を衝(つ)かれました。この二年の間に幹が太くなり、細い針金が食い込んでいます。慎重にはずさないと幹に食い込んだまま針金が残ってしまいます。ペンチを持ってきてゆっくり引っ張って針金をはずしました。
 裏山に植えた苗木を「大きな穴を掘って植えたのでみんな順調に育っているな。斑入りアオキも金木犀もサンシュウも椿の侘助も温州みかんも……。よしよし」と見てまわりながら、木々の声が聞えなかった。締めつける針金の痛みがわからなかった。名札なんかいらないのに。
 ほとんどの苗木の幹に、針金は食い込んでいました。桜の苗木なんか買ったとき付けてあった名札の針金を取り込んでこぶになってしまい、どうにもはずせませんでした。
 苗木を買い、植え、名札を付け、木が好きといいながらこんなことにも気づきませんでした。いまさら謝ってもどうしようもありません。自分の尊大さを恥じるばかりです。 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裏山の木々に寒肥をやりました。

2010年01月28日 05時50分42秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 これは二年前・2008年の正月に撮った我が家の裏山です。手前の数メートルは竹を伐って木を植えています。雪をかぶっている『斑入りアオキ』はその後竹薮の奥に植え替えました。アオキは日が当たり過ぎるのはよくないので。あれから写真の右半分の竹は切りまくって頂上に達しましたし、左の竹薮の奥にはシイタケの原木置き場をつくりました。あらためて写真を見て「結構いろいろ手を加えてきたなー」と自分で感心しています。いい遊び場付きの田舎に引っ越したものです。
 きのうは裏山に植えた木々に寒肥をやりました。木のまわりを円形に掘り、鶏糞と草木灰を混ぜて入れ、土をかぶせました。三年前に植えた木は二、三本でしたがきのう数えてみたら31本。
 竹薮に木を植えるといったら、植木屋さんは「そりゃ余程しっかり穴を掘らないと竹に負けてしまい、育ちませんよ」といわれました。深さは50センチ以上、直径1メートル以上の穴を掘り(もちろん竹の根はすべて除去し)、肥料を入れて土をかぶせて踏み込み、『花と野菜の土』で穴をいっぱいにしてから植えろというのです。ツルハシで挑みましたが竹の根は4層になっています。一つの穴を掘るのに二時間かかります。そんなにまでしてよく植えたなー、と自分で感心しました。(だんだん掘る穴は小さくなりましたが)
 きのうも木を植えました。でも苗木のポットより少しだけ大きめの穴を掘っただけ。もう大きな穴を掘るのはしんどい。枯れたっていい。植木屋は自分とこで売った苗木が枯れたら文句いわれる。それで大げさにいったんだ。そう思うことにしました。
 とにかく気になっていた寒肥をやり、数本買いためていた苗木を植えてほっとしました。植えた木々が将来大木になることを考えると詰め過ぎですが、そんな心配は後世の人にまかせます。
 ぼくらのつとめはタケノコを蹴飛ばして元の竹薮に戻らないようにすることです。ツルハシで穴を掘っていると竹の根に遭遇し、しっかりタケノコの芽がついていました。竹を伐られて危機意識を持つ竹は「えらいこっちゃ。このままでは滅ぼされてしまう」と満を持して地下で待機しているでしょう。さー、対決の日は近し!
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏川りみさんの歌を聴いています

2010年01月27日 03時11分25秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 わかりにくいでしょうか。八幡神社から我が家を望遠で撮った写真です。(中央の平屋の家)浅い緑色の竹が山すそを占める裏山でクヌギ・コナラだけは頭を出していますが、いまは枯れ木状態です。我が家の裏だけは竹のない黒い部分が見えます。あれが竹を伐ったところです。三週間孤軍奮闘して伐りまくったのにたったあれだけか。
 去年の暮れからパソコンを見るときは必ず歌手・夏川りみの歌をyou tube で聴いています。深夜に聴くことが多いのでヘッドフォンで。演歌や歌謡曲にうといぼくは『夏川りみ』という歌手を知りませんでした。いまは、はまり状態です。
 はじめは『里の秋』『ふるさと』『椰子の実』など童謡中心でした。素直にのびやかに歌う。過剰な情感を盛ったりしない。しかしその歌の〔こころ〕はつかんで、きちんと伝えてくれる。
 夏川りみは中島みゆき『時代』山口百恵『秋桜』などいろんな歌をカバーしていますし、それがほとんど you tube で見られます。新年になってから彼女の歌うハワイアンを聴いて、それが裏山で竹を伐っていても耳に残っています。特に巨漢大関だった小錦(いまは‘Konishiki’で出ています)とデュエットで歌う“Ka Makani Ka' illi Aloha”という曲。英語の感想にアメリカに来て欲しいと書いてあったけどこの歌を聴くとそう思うでしょう。ハワイの言葉で歌うデュエットが実にいい。
 夏川りみのコンサートが大阪であるという広告を新聞で見て、チケットを買おうとしましたが売り切れでした。でも彼女は去年の元旦に結婚しておめでたのためコンサートは中止になったとネットで見ました。36歳ですから体を大事にして無事に赤ちゃんを抱いてください。
 藤山一郎は生前彼女の歌を聞いて「40年に一度出るか出ないかの歌手」と言ったそうですが、石垣島に生まれ育ったDNAと声と感性を大事にして癒しとよろこびを与えてほしい歌手です。いろんな歌をカバーしてエネルギーを消費するより沖縄のそして南の国の〔こころ〕を伝える歌手として長く活躍してください。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大志くんと散歩しました

2010年01月25日 04時06分36秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは大志くん一家が来たので、朝の散歩をしました。大志くんたちと朝の散歩をするときは散歩コースをいろいろ変えることにしています。きのうは大将軍神社にお参りするコースを考えました。
 我が家は低い山のすそにあり、大将軍神社は少しくだった美嚢川(みのがわ)沿いにあります。写真は川の近くから北向きに山方面を撮ったものです。左の山はむかし蛇池(じゃがいけ)の蛇が竜になって天に昇ったというとなり村の山で、右の低い山の東に我が家はあります。となり村の山は50メートル、うちの村の山は20メートルくらいです。山と山の間に福地池(むかしよく決壊したので福寿坊というお坊さんが人柱になったという池)があります。
 大将軍神社は表向き豊臣秀吉を祀(まつ)る神社ということになっていますが、実は近くにあった衣笠城の城主と家臣を祀ってあります。秀吉の三木城攻めのとき近くの衣笠城も攻められて城主は自害。家臣が後を追ったことはこのブログでも紹介しましたが、いかにも村人が家臣の徳を慕って建てたような素朴な神社です。
 帰りにうちの畑に寄って大根を抜き、ヌートリアに野菜が食べられていないかと見まわりました。大丈夫。
 年末のブログで紹介した土手はまだ草が生えていません。刈りたてのような清清しさのままです。いいときに刈った。きれいな土手をずっと村人に見てもらえる。そばを通るたびに気分がいい。悦に入っています。次に刈るのは4月はじめでしょう。
 午後図書館に本を返しに行き、途中の細川町『なか』という内の細い道を走ってみました。寄り道大好き人間ですから。由緒ありそうなお寺や祠(ほこら)があります。歴史があるっていいですね。田舎の風景に奥行が感じられて、先祖代々生きてきた人たちがいとしくなります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争という非日常をかかえて生きるしかない人々

2010年01月24日 03時08分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 保阪正康の『昭和陸軍の研究』の中にこんな話が出ています。
 泥沼の中国戦線で日本軍はある村で虐殺を行なった。ところが生き残った幼児が泣いてついてくる。上官に「どうしましょう?」ときいたら「処分しろ!」と命令され仕方なくやった。敗戦後、戦友会で上官に詰問したら「そんなことがあったかなー」と受け流された。後年自分にも孫ができたがどうしても抱けなかった。自分はこの傷をかかえたまま生の終るまで生きるしかない。
 おぼろげな記憶をネットで確認しようとあちこち調べたのですがわかりませんでした。でもこんな話を読んだことは覚えています。たしかイタリア人の書いた『アウシュビッツは終らない』という本です。ユダヤ人収容所に、特に残虐な行為をすると怖れられたドイツ軍の青年兵士がいました。彼は敗戦後の裁判で死刑を宣告されました。ところがこの青年の郷里の村人たちは、「人違いだ。あの子はそんな残虐なことは絶対にできない。だれよりもやさしくて、虫も殺せない」とこぞって助命を嘆願しました。調べたらやはり残虐行為をした本人でした。死刑になりました。
 もし戦争がなかったら、兵士として狩り出されなかったら、彼は村人にやさしくし、まわりのみんなに愛されて農夫としておだやかな一生をすごしたであろうに。彼の中の何が。
 戦争とかかわった人たちは、どうしても葬(ほうむ)ることのできない記憶を抱えたまま生きるしかありません。なるべく振り返らないように。なにごともなかったように。でもある年齢になると、これだけは伝えておかなくては、と思われるのでしょうか。『戦後』の一段落した1995年(50年目)くらいから青年兵士・少年兵士であった人たちの手記がよく出てきたように思います。ぼくの勝手な思い込みですが。
『一億総懺悔』という‘まやかし’であの戦争を清算していいのか。「ご破算で願いましては」と口をぬぐえるのか。初年兵をいじめた上等兵も無茶な命令をした小隊長も威張り散らした在郷軍人も免罪されていいのか。敗戦のとき子どもだったぼくはどうしても納得できない気持ちで生きてきたような気がします。 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やる時期になっていたのでしょうか。

2010年01月23日 12時38分37秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 正月からせっせと竹を伐って裏山の頂上に通じる道を拓いていますが、ここ数日は頂上も片付けています。頂上の写真です。チェーンソーとチョッキなどを置いていますが、竹や下生えは刈って向うに積み上げています。山の頂上といっても平らな広場で、ベンチを置こうかハンモックを吊ろうかブランコみたいなものをつくろうかと思考をたのしんでいます。
 この三年、家の柵や畑に使うために、シイタケの原木置き場をつくるために、木を植えるスペースをつくるために、竹を伐ってきました。でも明確な目標を立てて竹を伐ることはしませんでした。いわば「もうちょっと、もうちょっと」と山の上のほうに上がっていく感じでした。
 ある日思いました。「いつかは頂上までの道をつけようと思っている。でもこの調子だったらまだ数年かからねば道はつかないだろう。そのうちさらに歳をとってあきらめるかもしれん。目標が明確でないからだ。茂みをかき分け、よじ登ってでもとにかく頂上に行ってみよう」(たかが小山に登るのに大げさな表現ですが、本人の気持ちですからご容赦ください。)
 斜面の竹の多さに「やめよう」と思ったり「やろう」と思ったりしましたがとにかく道がつきました。いまでは日に五度も六度も頂上に登って仕事をしたりちょっとカメラを取りに下りたりしています。
 それにしてもよくもこれだけの竹を伐り倒したものだ、と自分で感心します。やっぱりやる時期が来ていたのでしょうか。思ったよりスイスイとここまでできました。よくわかりませんが『時期』というのはえらいものだと思いました。
 ウグイスよ、はやく鳴け。若葉の季節よ、はやく来い。そんな気持ちできょうもこれから竹を片付けます。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争体験だけは記録しておきたい……その気持ちわかります

2010年01月21日 23時15分41秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「……私は作家たらんと志して作家になった人間ではない。肺結核にかからなければ、今日あるいは別の職業人として、ちがった日常を送っていたかもしれない。しかし、いつかどこかで『ルソンの谷間』だけは書いていただろうと思う。」 …… 江崎誠致『ルソンの谷間』 あとがき より

 兵士たちの無残な敗走を描いた『ルソンの谷間』で直木賞を受賞した作家・江崎誠致の‘あとがき’から引用しました。この本は昭和三十二年に出版され、今も読み継がれている戦記文学の最高傑作です。言葉のつよさ! 文のつよさ! 大倉山の図書館で二度借りて読み、手もとに置きたくて古本を買いました。
 きのう取り上げた『水木しげるのラバウル戦記』を読了しました。やはりホッとします。どこか一節を引用してその「ホッ!」を伝えようとページをめくりましたが、やはり全体を読まないとその味は伝わりません。
 水木さんも江崎さんも自分の戦争体験だけは書き残したいと思ったでしょう。実は12年前に八十八歳で亡くなった父も自分の『朝鮮引揚げ物語』を書き残しています。
 父は兵士ではなく戦時中小学校の教員として朝鮮に渡り、京城(いまのソウル)よりはるか北の田舎で校長をしました。村では駐在所の巡査と校長だけが日本人でした。朝鮮の人たちは敗戦後すぐに日本人を襲いました。その中を文字通り命からがら逃げ帰ってきたのです。(母とぼくたち子どもは母の病気で一年前に内地に帰っていました。もし敗戦までいたらどうなっていたか)
 父は9月12日に我が家に帰ってきました。敗戦からわずか一ヶ月足らずでしたが、その体験は生涯忘れられなかったようです。何度か自分の『引揚げ記』を書き直し、50枚の手記を残しました。
 兵士として戦争に行った人も空襲で逃げまどった人も、あの戦争の体験だけは残したい。満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州(中国の東北部)に渡り敗戦を体験したかつての少年たちも、自分たちの体験を数多くの本に残しています。そのすぐ後の世代がぼくたちです。
 思いがまとまりません。また考えます。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『水木しげるのラバウル戦記』を読んでます

2010年01月21日 00時08分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 新年になって読んだ本に『ビルマ最前線』(小田敦巳 著・光人社のNF-ノンフィクション-文庫)があります。ビルマというとあの愚劣な『インパール作戦』と牟田口廉也にこのブログでもふれましたが、この著者はその作戦には参加しませんでした。しかし劣勢な戦局で敗走に敗走を重ね、やっと生還した若い兵士です。

 かつて日本軍将兵31万人がビルマに派遣され、そのうち19万人が帰らぬ人となりました。じつに驚くべき数字です。私の所属していた54師団(兵〔つわもの〕兵団)は、編成当時16500人いましたが、12000人が戦死し、復員したのはわずか4500人という、まことに痛ましい限りの犠牲者の数です。私のいた瀬澤小隊では編成当時120人いた者が23人に激減し、終戦後、さらに二年間の抑留生活の後、やっと復員することができたのです。  …… あとがき より
 
 戦死といっても戦闘で死んだのでなく、ほとんどの兵士は敗走中の飢えと病気による死亡です。身近な一人一人の兵士の死をていねいに、人間味のこもった見方で書いておられました。そして残るのはいい人の死という不条理のやりきれなさです。
 そんなとき図書館で『水木しげるのラバウル戦記』を見かけ、また借りてしまいました。(1994年発行・筑摩書房)この本は神戸に住んでいた頃、大倉山の神戸中央図書館で二度借りて読んだことがあります。どうして二度も借りたかというと、なにかホッとするものがあるからです。
 水木しげるさんが書いたといっても、妖怪やお化けが出てきて助けてくれるわけではありません。水木さんは軍隊ではいちばん下の位だし、人より要領がわるいから、いつでもビンタをくらいます。でもどんなときも兵隊や戦争を超越しています。その絵と文にホッとします。
 ぼくは水木しげるのファンでもないし、妖怪漫画が好きなわけでもないのですが、彼の文を読むと気持ちがいい。そんな本こそ人間の心の一番奥底で「戦争に反対する心情を育む」のかもしれません。
 
 
 
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

味噌を仕込みました

2010年01月20日 03時10分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 竹を伐りまくったので裏山からの眺望がよくなりました。写真の下のほうに我が家が見えます。玄関横のパントリー、小さな平屋の屋根、木立の向うに広がる田んぼと家々の配置の妙。はるか先のなだらかな山々。手前にはまだ伐り倒した竹が山積みになっていますが、玄関を出て山道を登ってくる距離感がいい。裏山頂上までの道の八合目くらいから撮った写真ですが、お気に入りスポットがまた増えた気がします。
 さてきのうは味噌を仕込みました。
 まず稲美町の味噌・麹屋さんに、注文していた麹をもらいに行きました。(22キログラム)それから神戸市西区の水田種苗店に寄って醗酵燐酸(有機肥料)を買いました。おじいちゃん・おばあちゃんがおいしいイチゴをつくってあげますよ。
 昼食後村の自治会役員としての仕事があり、長靴・作業手袋など服装を整えて出掛けました。平日でみんな勤めがあり、役員のうち集ったのは年配者中心に四人だけ。明日から工事にかかるので、崩れかけた田んぼの土手のブルーシートを取り除く作業をしました。
 その間に道子さんは前日煮た大豆をあたため、塩650グラム・麹4,5キログラムをほぐしながら混ぜて5袋に分けておきました。
 味噌づくりに取り掛かったのは4時前からでしたが、電動ミンサーは威力絶大です。一つの鍋の大豆をミンサーにかけ、麹とよく混ぜた味噌玉を容器に投げつけるのに30分かかりません。6時過ぎには五つの鍋が空になりました。量ってみたら一つの鍋の大豆で10キログラムの味噌を仕込んだことになります。全部で50キログラム。パントリーに運び、後片付けをして味噌づくり終了です。5月には若味噌の味見ができるでしょう。たのしみです。
 ところで電動ミンサーですが、今年買いました。アラ古希のじいさんばあさんが年に一度だけ使用するミンサーを買うのか。あと何年味噌づくりをするつもりだ! まーいいじゃありませんか。いくらでもお貸ししますよ。またどうぞ。 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

裏山の竹を100本伐りました

2010年01月19日 04時01分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 これはきのうの我が家のウッドデッキです。きょう味噌を仕込むために大豆を煮ているところです。ことしは7,5キログラムの大豆で味噌をつくります。おとといの晩大豆を洗って水にひたし、きのうは道子さんが付きっ切りで十時間かけて煮ました。
 鍋の数は五つ。石油コンロと台所の電磁調理台で二つ(台所のもう一つは調理用に使います)。あとは携帯ガスコンロ二つと練炭七輪一つ。そのうち三つはウッドデッキに出して、ベニヤ板で風防の囲いをしました。風防をつくりながら、孫たちがこんな囲いを見たらよろこんで遊ぶだろうなと思いました。むかしむかしのそのむかし、ぼくも、押入れ、柳行李のふた、空の段ボール箱などで遊んだかすかな記憶があります。
 ぼくのほうは裏山の竹をきのう一日で100本以上伐(き)りました。片付けていると時間がかかるので、倒れた竹が山のようになっても上へ上へと斜面の竹を伐り倒していきました。あとで一本の竹を三つか四つに切って片付けるのに数日かかるでしょう。
 なぜそんなことをしたのかって? 
 裏山の頂上は平らになっています。その広場を通る周回山道をつくるつもりだったのですが、頂上への二本の山道にはさまれた竹を、全部伐りたくなったのです。
 竹がなくなりクヌギ・コナラの木立だけの谷に小鳥たちがやってくる。いろんな木が生える・植える。孫たちが来てチャンバラしたり走ったり隠れたりする。ささやかな林間を毎日歩いて小さい芽生えを見つけ、木々の変化に目をとめる。里山が復活する。
 そんな想像がポッと浮かぶ。するとそんなことをする機会は今しかない気になるのです。長いこと生きてると「そのうちまたやろう」と思っていることがいっぱいたまります。大半は思いだけで終るでしょう。でもきょうはできる。やろう。……きのうはそんな一日でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡神社の直会で酔ってしまいました

2010年01月18日 02時58分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 わが家のウッドデッキから一キロほど先に見える小さい木立は、うちのの鎮守である八幡神社です。散歩でそばを通りかかるとお参りしますが、神さまはどこかに出掛けておられるような気がするときもあります。
 しかしきのうはたしかに神さまがおられました。お参りに来た人たちの願いをちゃんと聞いていただきました。
 まず朝の九時にの自治会役員が神社に集合しました。神社当番の人も直会当番の人も先に来て、それぞれ準備をすすめておられました。ぼくたち役員はテントを張り、机やイスを置いて直会の会場づくりをしました。でもその仕事はすぐに済み、あとはたき火にあたっておしゃべりです。村の人たちは各戸ごとに風呂敷に包んでお供えを持ってきます。神社当番が受けとって拝殿の床にお供えしていきます。写真は鳥居を入れて撮りました。奥に拝殿があり、横のテントで直会をします。拝殿横の大きな木は楠です。これも昭和天皇即位記念に配られた楠の苗が大きくなった木のようです。
 11時に若い神主さんが来られて神事がはじまりました。そして神事の後は直会です。
 実は『直会』という言葉をこの歳にしてはじめて知りました。広辞苑で調べると「なおらい」と読みます。意味は「〔(ナオリアイ)の約。斎(いみ)が直って平常にかえる意〕神事が終わって後、神酒・神饌をおろしていただく酒宴。……」と説明してあります。
 テントでイスにすわって、おでんとお酒をいただきました。ぼくは酒は弱くてすぐに赤くなりそして眠くなります。1時過ぎから『餅まき』があるのでそれまで頑張って片付けもする気でしたが、どうにも眠くなってしまいました。電話して道子さんに車で迎えにきてもらい、12時過ぎに帰ってぐっすり寝てしまいました。
 来年はお酒を控えて餅まき・片付けまでちゃんと参加しようと反省しました。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チェーンソーで裏山を片付けます

2010年01月16日 10時15分52秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ことしは裏山を片付けて頂上まで周回できる山道をつけようと竹を切っています。竹薮を切り拓(ひら)いていくと倒木や枯れた幹があり、それを処分しなければなりません。太い幹をノコギリで伐(き)るのは時間がかかります。ただ時間がかかるだけでなく大変な労働なので、開拓の意欲がしぼんでしまいます。山に何も手をつけないまま半年一年が過ぎてしまいます。
 そこで新年早々チェーンソーを買いました。チェーンソー・オイルと燃料を入れて切り株を試し切りした写真です。安全には特に気をつけています。衣服を着込み保護面をかぶり厚手の手袋をします。足場を確かめてからエンジンをかけ、伐るとすぐエンジンを切ります。
 特にこわいのは『キックバック』といってチェーンソーの先端が固い物に当たると自分のほうに撥(は)ね返ることです。まず伐るところを確認し、石など硬い物があれば除去します。それからエンジンをかけ、チェーンソーの動きをイメージして伐っていきます。
 写真をよく見るとうしろに小さく写っている人がいます。妙子さん(母)です。山積みにしてある竹の小枝を花バサミで切っています。寒い日でも運動靴をはいて、朝九時には山に入って仕事開始です。途中便所に行ったりおやつを食べるために帰ってもまた山に入っていきます。むかしはそんなに丈夫な人でなく、体調を崩してしまい子らが集ったことも何度かありました。九十四歳の誕生日にこちらに引っ越してから元気です。小枝を切り刻んでも役に立つわけではありませんが、本人の使命感・貢献感は相当なものです。
 20本ほど植えた木々に寒肥をやる時期です。木のまわりを掘って肥料を入れていきます。竹薮に植えても育つかと心配していましたが、イチジク・キンカン・温州ミカン・栗などは実がなりましたし、沈丁花・キンモクセイ・ネコヤナギ・アオキ・イチョウ・侘助(椿)・サザンカ・花海棠(かいどう)・ライラック・エニシダ・ユキヤナギ・サンシュウなどほとんどの木が活着して花を咲かせます。
 それにしても寒肥をやり、さらに穴を掘って木を植えようというのはかなりの労働です。我が家の庭でもなく誰に頼まれたわけでもないのに、里山回復をめざすぼくの使命感・貢献感はこれまた相当なものです。人はいくつになっても自分なりの存在感・やり甲斐を求めるのでしょうね。
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とんどをしました

2010年01月15日 02時27分35秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは我がの老人クラブ新年会が公民館であり、二人で参加しました。老人会の会員は50人が名を連ねていますが参加者は11人。仕出し弁当をつつき、男性は少しお酒を飲みながらおしゃべりをたのしみました。
 このに引っ越してきたのは三年前の12月でした。すぐにやってきた元旦のの新年会には、お酒のビンを提げて夫婦で顔を出しました。「ここの米はよそと味がちがう。酒米の『山田錦』をつくる田んぼは泥が深くて、食べる米をつくってもうまい。田んぼを貸してやるから米をつくってみなさい」と声をあちこちから掛けてもらい、よわい酒にフラフラになって帰ってきました。
 の新年会は次の年から廃止になってしまいました。婦人会の人にお酒やお茶の世話をしてもらう負担が大きいというのです。その婦人会も去年の暮に廃止になりました。なんとか健在なのは老人会だけです。
 夕方には公民館横のゲートボール場でとんどをしました。むかしは全体で大きなとんどをしたのでしょうが、数年途絶えていました。それを老人会で復活したのです。回覧板で案内してあったのですが、注連飾りを持ってきた人は数人です。でも村では貴重品のような小学生が三人も書初め練習の習字を持って参加してくれました。
 写真はとんどの火がようやく燃え上がったところです。風が強かったので突っ張りをしています。はるか向うの小山のすそに小さく見える数軒の家が我が班です。
 割った竹に餅をはさんだり突き刺したりしてとんどの火で焼き、黒こげの餅を食べました。焼いて持ち帰った人もいます。こげて固くなった餅を保存しておき(『へそ餅』といいます)、雷の鳴るときに食べると安全と言い伝えられているそうです。
 いつしか日は暮れ一人帰り二人帰りして、火のまわりは4人だけになりました。真っ暗闇のなかで黙って炎を見ているとヘッセの『デミアン』を思い出します。ぼくたちも老人会長に跡をお願いして帰ってきました。
 
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新春囲碁ゴルフ大会に参加しました

2010年01月14日 06時33分36秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 寒いですね。でも土と親しんで生きてきた老人たちは元気です。きのうは公民館の体育館で地域の老人会の『新春囲碁ゴルフ大会』があり、参加しました。ちなみに体育館は暖房が効いています。
『囲碁ゴルフ』とは聞きなれないゲームですが、写真を見ていただけば見当がつきますでしょう。五人がチームになり、交互に10個の白黒の球をそっと打ちます。(一人二球打ちます)その加減が大事で、強く打ち過ぎるとコートから出てしまうし弱く打つと囲碁の盤面まで転がりません。またスポットにはまっている球が相手チームの打球で弾き出されてしまうこともしばしば。最後に盤面に三連・四連・五連の並びができたチームが勝ちです。連ができなければ碁盤のスポットに球が多くはまっているチームの勝ち。
 大会には管内の各から16チームが参加して三試合ずつ行いました。うちのは二勝一敗でまあまあかな。いつものように参加賞のティッシュ・ペーパーをもらって帰りました。わかりやすいし室内でできるので、老人会では人気のあるゲームです。
 いま三木市では市長選挙のまっ最中です。きのうの夜は、個人演説会を聞きに、昼間囲碁ボールをした体育館に行きました。昼は一人、夜は道子さんと二人です。村の人に声を掛けられたのです。よそ者だから関係ないと見ないで、仲間と認識してもらっているのがうれしいです。
 放漫なハコモノづくりをしてきた行政の跡始末はどこでも大変です。三木市も同じで、一期目の市長は苦労したでしょう。現在の三木市は交通の要路から外れているけれど、かつては北東播磨の中心になる城下町でした。思い切った改革には地域の旦那衆の反発もつよかったでしょう。
 それにしても帰りは10時前になり、ほんとによく冷える夜でした。
 きょうは我がの老人会の新年会と老人会で仕切るとんどです。
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新春から悩ましいことになったなー

2010年01月13日 06時27分17秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうの朝、買物と散髪に車で出掛けようとしたら池の岸でヌートリアを見ました。成猫の大きさでガマの枯葉を食べています。横の道子さんが「シャシンシャシン!」と叫び、ぼくが車を道の真ん中に止めてカバンからデジカメを出そうとしたら、ヌートリアは水面を向う岸のほうに泳いでいきました。
 この写真は去年の二月に撮ったもので、きのうは撮れませんでした。去年の3月にブログを立ち上げて最初に話題にしたのがヌートリアでした。2009年3月9日のブログに大根を食べられた被害の写真、3月10日には親玉を檻(おり)で捕まえた写真を載せています。
 さーて、これから我が家の畑に被害が予想されるのに、このワクワク感はどうしたことか。道子さんなんか「しっかりカバーすれば大丈夫だから捕まえないでおこうね」と声まで弾んでいます。たしかにヌートリアは水辺に住むネズミですから、前足は水かきになっていてシートや網がかけてあると困ります。でも猫より大きい体です。腹が減ってるし目の前に野菜があればビニールシートや網くらいなんとかするでしょう。
 去年はまず一匹を見かけ、蒸発してさすらう中年男ヌートリア ⇒ 仲睦ましい中年夫婦 ⇒ モルモット大の子ども二匹との仲良し四匹家族 ⇒ さらに五匹のネズミ大の子どもがいる肝っ玉かあさん中心のほほえましい家族 と見方が日に日に変わっていきました。村ではかわいいヌートリア一家がすぐ目の前で見られると評判になり、子どもは学校から帰ると見に来るし、村人やおばあさんは散歩で坂道を上がってくるし。檻を借りて八匹を捕まえてしまったぼくはヌートリア名人みたいに思われるし。
 去年一匹捕まえそこねたあの親ヌートリアが、我が家のおいしい大根の味が忘れられずまた戻ってきたのでしょうか。どうするかなー。悩ましいなー。
 なおきのうの夕方池にヌートリアを見に行ったらまだ巣から出ていませんでした。いまは草むらはなくて見通しがよく、いればすぐわかります。我が家の畑の溝に見なれぬ車がはまっています。よその若者の車です。家に帰ってジャッキとツーバイフォーの角材を持ってきて、通りかかった老人会長と二人で救出しました。
 閻魔大王は見ててくれたかなー。あの世貯金にちゃんと積み立ててくれたかなー。
 
 
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする