このところブログがトビトビになっていました。
何十年も前に、作家の山中恒さんが朝日新聞に寄稿された文を思い出して、気が重かったのです。
彼の文を見たのは、「イジメ」が社会問題化して、いろんな人が寄稿していたときでした。イジメはいまも社会問題化していますが、あのときも少年の自殺にはじまり、いろんな有識者があれこれ発言しました。
山中氏の原稿が見つかればいいのですが、ずいぶん昔のことで探す手がかりがありません。ぼくの覚えているポイントをいくつか書き出してみます。
○ イジメが問題になっているが自分にも「イジメられた体験/イジメた体験」がある。
○ それは戦時中、集団疎開していたところで起こった。(山中氏は1931年=昭和6年生まれで国民学校=小学校のとき集団疎開をしていた。)ある子が子分をつくり、威張ってまわりの者をいじめた。自分もその的になったことがある。疎開のときのイジメは、みんな食糧不足で空腹のときに、食べ物を奪うというかたちで起きた。いわば生存に直結するイジメであった。
○ 敗戦後みんな大人になってから、疎開児童の同窓会がひらかれた。そのとき山中氏は、イジメた子に「イジメたことを謝れ」と詰め寄った。大人になったその子は「そうか。ぼくが迷惑をかけたのだったら、謝る」と言った。その言い方に山中氏はカチンときた。「……のだったら……」とはどういうことか。
○ だが大人になったその子が、それ以上謝ることはなかった。
○ ぼくはまた、ぼくがイジメた子に対しては「すまなかった」と謝った。心から謝った。だがその子は冷たかった。もしも「そうか。きみが謝ってくれたらもういいよ。水に流そう」と言ってくれたとしても、イジメたことは消えない。
○ ぼくはその十字架を一生背負って生きるしかない。
「十字架を背負って一生生きるしかない」その言葉がぼくのなかでひろがっていきます。
兵庫県の但東町の人たちは、昭和19年に開拓団として旧・満州に集団で渡りました。翌昭和20年8月、ソ連が攻め入り、中国の人たちが暴動を起こし、但東町の開拓団の人たちは絶望して集団自決しました。家族が手足を縛り合い、呼蘭河に身を投げたのです。400人が死にました。
当時小学校5年生だったその人は、家族と結んだ紐が解けてしまい、死ぬことができませんでした。
彼にはなにも謝ることはありません。しかし家族が、開拓団の人たちが、次々と身を投げた場面は消えません。引き揚げまでの日本人収容所の惨状は消えません。
悪夢のような十字架。加害者であろうと被害者であろうと、責任があろうとなかろうと、十字架に関わった者・見た者は、十字架を背負って生きるしかない。そしてだれを責めようと、だれのせいにしようと、十字架は消えない。
まとまりませんが、あの戦争の惨状はいまも、そしてこれから死ぬまで、生き延びた人たちにのしかかっているのです。
何十年も前に、作家の山中恒さんが朝日新聞に寄稿された文を思い出して、気が重かったのです。
彼の文を見たのは、「イジメ」が社会問題化して、いろんな人が寄稿していたときでした。イジメはいまも社会問題化していますが、あのときも少年の自殺にはじまり、いろんな有識者があれこれ発言しました。
山中氏の原稿が見つかればいいのですが、ずいぶん昔のことで探す手がかりがありません。ぼくの覚えているポイントをいくつか書き出してみます。
○ イジメが問題になっているが自分にも「イジメられた体験/イジメた体験」がある。
○ それは戦時中、集団疎開していたところで起こった。(山中氏は1931年=昭和6年生まれで国民学校=小学校のとき集団疎開をしていた。)ある子が子分をつくり、威張ってまわりの者をいじめた。自分もその的になったことがある。疎開のときのイジメは、みんな食糧不足で空腹のときに、食べ物を奪うというかたちで起きた。いわば生存に直結するイジメであった。
○ 敗戦後みんな大人になってから、疎開児童の同窓会がひらかれた。そのとき山中氏は、イジメた子に「イジメたことを謝れ」と詰め寄った。大人になったその子は「そうか。ぼくが迷惑をかけたのだったら、謝る」と言った。その言い方に山中氏はカチンときた。「……のだったら……」とはどういうことか。
○ だが大人になったその子が、それ以上謝ることはなかった。
○ ぼくはまた、ぼくがイジメた子に対しては「すまなかった」と謝った。心から謝った。だがその子は冷たかった。もしも「そうか。きみが謝ってくれたらもういいよ。水に流そう」と言ってくれたとしても、イジメたことは消えない。
○ ぼくはその十字架を一生背負って生きるしかない。
「十字架を背負って一生生きるしかない」その言葉がぼくのなかでひろがっていきます。
兵庫県の但東町の人たちは、昭和19年に開拓団として旧・満州に集団で渡りました。翌昭和20年8月、ソ連が攻め入り、中国の人たちが暴動を起こし、但東町の開拓団の人たちは絶望して集団自決しました。家族が手足を縛り合い、呼蘭河に身を投げたのです。400人が死にました。
当時小学校5年生だったその人は、家族と結んだ紐が解けてしまい、死ぬことができませんでした。
彼にはなにも謝ることはありません。しかし家族が、開拓団の人たちが、次々と身を投げた場面は消えません。引き揚げまでの日本人収容所の惨状は消えません。
悪夢のような十字架。加害者であろうと被害者であろうと、責任があろうとなかろうと、十字架に関わった者・見た者は、十字架を背負って生きるしかない。そしてだれを責めようと、だれのせいにしようと、十字架は消えない。
まとまりませんが、あの戦争の惨状はいまも、そしてこれから死ぬまで、生き延びた人たちにのしかかっているのです。