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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

発信5年目の3月、ブログを毎日書いてみました。

2014年03月31日 06時29分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 70歳からはじめた『田舎暮らし』を発信しようと、2009年3月に『古希からの田舎暮らし』を書きはじめました。あれから丸5年が経過しました。計算してみたら1100回、約6割の日々、何か書いてきました。でも丸々一か月、「一日も欠けることなく書いた月」はありませんでした。そこで6年目の最初の月・3月は、毎日何か書いてみようと思い立ちました。別に深い意味はありません。
 きょうがその月末になります。
 「一日も休まないで書く」ことにそれなりに気をつかいましたが、無事に一か月が終わりました。また元のペースに戻って、5割になるか6割になるか、自分のペースで発信しようと思います。
 またよろしくお願いします。

ところで『余生』といいますね。ぼくみたいに定年退職した人が死ぬまでに過ごす年月のことを。あくまでも「余り」ですから日々残り少なくなるはずです。でも終着点=寿命が当人にはわからない。だから余生がいくら残っているかもわからない。
 で「ぼくは余生で田舎暮らしをしよう」と移り住んだ。一年が無事に過ぎ、3年が過ぎ、5年が過ぎ、8年目ですから、「このたび田舎暮らしをはじめました……」と手紙を書くのも気恥ずかしいほど根が生えてしまいました。
 裏山を借りて《里山復活》を目指し、竹を切り、木を植え、たき火場をつくり、……。一反三畝(400坪)の休耕田を借りて大き目の家庭菜園をつくり、「自給自足を目指して頑張ってみよう」と考えたり、「大工仕事が好きだから家のまわりに小屋やパントリーをつくってみよう」とあれこれ細工をしました。一応あれこれやって、一息ついて、さてと、「オレの余生は残りどれくらいになってるのかな」「次は何をするかな」というようなことに77歳=喜寿の頃にはなるわけです。
 ぼくはことし喜寿です。「数え」で祝うのか「満」で祝うのか知りませんが、10月で満77歳という通過点に達します。
 はて、街に暮らす同じ年頃の人たちは「何してるんだろう」。
 若い時からやってきた職人仕事のある人はまだ精進してるかな。商売してる人はまだ現役だろうな。勤め人はほぼいなくなるだろな。
 医者通い・リハビリ・趣味の教室・老人スポーツ・市民農園・子や孫の世話・ボランティア・自治会や老人会の役員や世話役 ……。みんなが携帯とかもって(ちょっと気の利いた人はスマホとかもって)、打ち合わせのときは「えーと、この日は……」と手帳を開いたりして。そういえばぼくは手帳を持っていません。壁の大きなカレンダーに書き込むだけです。
 そうそう、三木には《コープ協同学苑》という素晴らしい趣味・スポーツのセンターがあります。一度「体験教室」に参加しましたが、ありとあらゆるサークルができています。車で15分ほどで行けます。
 ああ、思い出した。ぼくは母親がいまだ健在で5月には101歳になるんです。
 やっぱり日本は長寿社会ですな。どうも失礼しました。
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わが『こころ旅』をふり返ってみると……。

2014年03月30日 11時23分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 25日のブログに、NHKのBSで放送されている火野正平が自転車で巡る『こころ旅』のことを書きました。「えーと、ぼくは自分の"こころ旅"だったらどこを挙げるだろうか」とあれこれ思い返していたら「もう〔思い出の地〕を訪ねてしまっている」(退職してから)ことに気づきました。
 ちょっと心にゆとりができると、みんな思い出の地を訪ねるのでしょうね。
 ぼくの「こころ旅」で訪ねたところは3カ所あります。
 一つ目は小学校3年生から4年生までいた鳥取県日野郡黒坂町の黒坂小学校久住分校です。
 敗戦から一か月後の昭和20年9月に父は朝鮮から引き揚げてきました。向こうの学校で教員をしていましたから。そして赴任したのが久住分校だったのです。教室は一つでその隣が6畳の住宅でした。そこに一家6人が暮らしました。子どもたちが登校する時間前に布団をあげ、朝食をすませ、(寝るときに)廊下に出していた家財道具を部屋にしまい込みます。我が家一軒だけが配給米(米が不足しているので配給米といっても高粱〈コウリャン〉のこともありました)を食べ、村の農家はみんな白米のご飯を食べていました。冬は軒下より高く雪が積もり、汽車の走る黒坂駅までは大八車も通れない山道を1里歩かねばなりませんでした。
 退職後父が亡くなってからまず訪ねたのがこの分校でした。黒坂の町はさびれ、山道は車が走る道になり、あっという間に久住に着いてしまいました。30軒ほど農家があったと思うのですが、話のできる住民と会うこともありません。分校は建て替わり、しかも閉校になっています。情緒に浸るというより、無味乾燥な砂漠を歩くようなサラサラした気分です。
 二つ目は鳥取県東伯郡竹田村穴鴨と木地山で、やはり父の赴任地でした。ここは阪神間に暮らしているとき郷里(倉吉)に車で帰省する通り道だったので、ときどき通りすがりに寄りました。でもやはりサラサラ気分でした。
 三つ目は鳥取県東伯郡舎人村方地の家です。ここは母の実家です。ぼくは祖母にとって初孫だったのでよく目をかけてもらい、日野郡や竹田村に行ってからもよく訪ねました。それだけに思い出すことがあるはずですが、やはりしっとりした情緒にひたることはありませんでした。

 都会のかたすみにわびし暮らすのでなく、いまのように田舎暮らしを満喫していても、思い出の地は、やっぱり手紙を書いて火野正平さんに訪ねてもらって、それをテレビで見るのが一番しっとりするのかな。
 
 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの  …… か。 この詩、うまいなあ。














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キウイの棚がデッキ風になりました。

2014年03月29日 14時09分11秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                          
 裏山の中腹につくったキウイの棚は、緑色にペイントしています。去年太い〔足場パイプ〕で作りました。「こんな頑丈なパイプで作る必要があるだろうか」と疑問に思いましたが。
 参考にしようと他所のキウイの棚を見たら、細いパイプでつくってあり、キウイの木が太く・大きくなって棚が潰れていました。「やっぱり太いパイプで作ってよかった」と安堵しているところです。
 さてその棚の下に土止めを作ろうと、少しずつコンクリート・ブロックを買っていました。でも石垣みたいに積むのは大変だし、工事をためらっておりました。そんなとき、村の大工さんだったおじいさんに、古い足場板をもらうことになったのです。
 で、この数日、デッキ風にしようと次々と〔アイディア・イメージ・やる気〕がわいてきて、一生懸命工事をしました。そしてできたのが写真のデッキです。山の斜面に作るのですから、いろいろと工夫が要ります。困っては立ちどまり、またいいやり方を思いついて、たのしい工事でした。
 そういうわけで(内緒ですが)"頑張った自分にご褒美"を、と宮津に蟹を食べに一泊の旅をしてきました。
 で、ふだんは夜中に書くブログを、宮津から帰ってお昼に書いています。
 
 帰って裏山を歩いてみたら、遅れていたユキヤナギが咲いてるし、ずっとつぼみのままだった「桃花姫コブシ」や「ミモザ」も咲いています。家を一晩空けただけだったのに。
 あしたは来客をむかえてたき火BBQの予定だし、村の女性部有志も近くやる話になっています。村の老人会有志にも声を掛けています。
 いっぺんに春たけなわになりました。
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ことしは〔ソメイヨシノ〕が花芽をつけました。

2014年03月28日 01時38分35秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 うちの裏山は竹藪でした。ここに暮らすようになって3年目の冬、竹藪の竹を片っ端から切りました。あとにできた空きスペースにいろんな木を植えました。ホームセンターで〔ソメイヨシノ〕を安売りしていたときは、3本一度に植えたこともあります。植木屋さんにきいてみたら「私なら竹藪だったところに木なんか植えませんがね。もし植えるなら深さ60センチ直径1メートルの穴を掘って、竹の根を全部取り出し、腐葉土と真砂土をドサッと入れてからにします」と言われてしまいました。
 真面目にその通りやろうと思いましたが、ツルハシと鍬でそんなことできるわけありません。多少大き目の穴を掘って植えてきました。ソメイヨシノは数えてみたら全部で6本植えています。毎年葉をつけるので枯れてはいません。でも花は一向に咲く気配がありませんでした。
 「竹藪に植えたのは無理だったな。もし花が咲くようになったら、冥途からでも花見をするか」と思っていました。
 そのソメイヨシノが、ことしは咲きそうです。写真のように〔花芽〕をつけています。「一本の木に花芽が2個だけ」という木も、花芽をつけていない木もありますが、一番よく育った木は「かろうじて花見ができる」くらい〔花芽〕がついています。
                             
 やった! ことしは裏山で花見ができる!
 
 去年、裏山にキウイを植えて、足場パイプで棚をつくりました。まだ棚に這い上がるほど伸びていません。実がなるまでに数年かかるそうです。
 いまその棚の下を「デッキ風」にしようと大工仕事をしています。村の大工さんだった人にもらった「足場材」を使いますから、材料費はタダ。割れたり腐食している材もありますが、昔の材木ですからしっかりしてます。おそらくホームセンターで売っている「SPF材」より長持ちするでしょう。
 これができたらデッキチェアーを置いて緑陰読書なんていいなあ。
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で、「あの国」はどうなればいいのか。

2014年03月27日 04時05分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 で、「あの国はどうなればいいのか」。
 ルーマニアのチャウセスク大統領は北朝鮮を訪問したとき、金日成や金正日が国民にあがめられる"あのマスゲーム"を見て「どうすれば自分もあんな風にあがめられるか」と感心したそうです。彼は1989年に市民の革命によって処刑され、ルーマニアの独裁体制が崩壊しました。
 実はどこかで読んだのですが「チャウセスクが処刑されたニュースは北朝鮮では一切報道されなかった。しかし2日のうちに隅々まで知れ渡った」。
それでも北朝鮮では革命が起きなかった。
 「韓国に入国した脱北者が一万人を越えた」というニュースはいささか古くなりました。生命の危険におびえ、食うや食わずの生活に疲れ、北朝鮮の何十万人もの人々が「豊かな韓国に行きたい」と中国に潜んでいます。中国から他の国にのがれ、韓国大使館に駆け込んでいます。
 「21世紀だというのに自分たちはなんとみじめな生活をしていることだろう」と北朝鮮の人は思い知っています。
 それでも革命は起きない。54段階の身分に仕分けられ、住民同士の監視体制が完璧にできており、政治犯収容所や公開処刑の恐怖に怯え、「ボロ布は反乱を起こさない」。何十年も分裂支配されたままです。
 
 もし金王朝が崩壊したらどうなるか。
 数万人・数十万人の国家ではありません。2400万人の国民が生きている国です。この国の混乱は周辺の国々におよびます。
 長い間の「恨」はどうなるのか。恐怖政治への人民の怒りはどう噴出するのか。あの国の国民におまかせするしかない。
 やりきれないのでぼくは自分の空想の世界に逃げ込んでしまいます。
 韓国・中国との国境を完璧に遮断して、国内で荒れ狂う〔恨〕の嵐を鎮め、社会の制度を改め、富を再分配して、みんなで国造りに立ち上がる。鉄道の複線化とか発電とか電柱を立てるとか木を植えて山を復活させ、河川を浚渫して元の豊かな山河を取り戻す。トウモロコシ主食を米食にして、国民が飢えない体制をつくる。国民が忘れていた〔希望〕という文字を胸に刻み……。
 
 人類という生き物の〔叡智〕にかけるしかないのですね。

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電柱の撤去作業を見ながら〔あの国〕を思いました。

2014年03月26日 02時12分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                          
 お彼岸には太陽が真東から昇ります。うちのウッドデッキからの眺めです。向こうの丘陵は標高150メートルくらいですから、〔真東〕はもう少し左寄りになります。うちでは毎朝シャッターを開けると、このようにまず太陽と対面することになります。
 左に写ってる電柱は、きのう撤去工事をして抜いてしまいました。
                          
 こちらの写真には、もう左の電柱が写っていません。どんなふうに「電柱抜きとり」工事をしたか。作業を1時間余りつぶさに見て、段取り・手際のよさに感心してしまいました。
 

 先日、新しい電柱が必要になり、架線を移動した / 今日、空いた電柱を抜くために4台の車が来た / まず電柱をクレーンで固定して、強力カッターで上半分を切断した / 切断した上半分の電柱をクレーンで吊って車に積み込んだ / 機械を電柱の根元にチェーンで取り付けた  / アームが伸びて電柱を傾けた / クレーンが電柱を少し吊り上げた / これを繰り返して電柱を抜いた / 作業員がダンプカーから地面に敷いたシートに土砂をおろした / シートの4隅の輪っかをクレーンで持ち上げ、土砂を電柱を抜いた穴に入れた / 土砂を固める機械で土砂を叩いた …… 。

 一本の電柱を抜く作業が、流れるようにすすんでいきます。完成された様式美のようです。見ていて気持ちがいい。
 北朝鮮は「朝鮮戦争後、電柱をなくして電線を地面に埋めた」と『暗愚の共和国』に書いてありました。本格的な工事をしたのでなく、ただ地中に埋めただけです。「ほんとうはこんなふうに電柱を立てたり抜いたりして、架線を張って、きちんと電気を送るのですよ」とあの国の人たちに仕事ぶりを見せてあげたいと思いました。
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六条大麦は厚蒔きし過ぎたかな。

2014年03月25日 02時21分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                           
 あったかくなりました。畑では草も作物もぐんぐん伸びています。写真手前の畝は六条大麦です。(麦茶用)
 12月に蒔いて、3度〔麦踏み〕をしました。分蘖(ぶんけつ)がすすんで、混み過ぎている感じです。厚蒔きし過ぎたかな。窮屈な思いをさせてごめんね、六条大麦くん。
 分蘖の〔蘖〕という字をはじめて知りました。「ひこばえ」と打って単漢字変換をしたら出てきました。イネ科の植物の株が分かれることを指すそうです。そういえばあのスズメノカタビラという雑草も、芽が出たときはほっそりしているのにどうしようもなく太い株になります。
 麦の畝の向こうはイチゴの三畝です。11月に本植えしてもらい、寒さに耐えて根を張り、やっとマルチをかけてもらいました。「これからぐんぐん伸びて5月にはおいしいイチゴを食べてもらいます」。
 植物は動物に食べてもらうことを〔よろこび〕にしているそうです。でもイチゴは食べるのを人間限定にします。4月中に防鳥ネットを張ります。
 ヒヨドリやカラスに分けてあげる気はありません。
                           
 きのうのお昼はタラコスパゲティーでした。天気はいいし、ウッドデッキで食べました。景色を見ながら食べると味がよくなります。

 NHKのBS放送に、視聴者からの手紙で思い出の地を訪ねてもらう『こころ旅』という番組があります。火野正平が自転車で走ります。あれで訪ねるところって〔平凡な田舎の景色〕です。それでもつい見てしまいます。
 8年前見知らぬ土地だったこの眺めは、あの世とやらに行ってから「冥途テレビ」にリクエストする景色になるかなー。
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もらい物三つ。

2014年03月24日 00時50分19秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 一つ目のもらい物は〔ビニールハウスのパイプ〕です。
                              
 いま畑のつかわない畝には黒マルチをかけていますが、風をはらんでふくれないよう竹を押さえに置いています。でも強風だと竹が吹き転がされて落ちてしまい、マルチもはがれてしまいます。なるべくならビニールハウスにつかう長い鉄パイプがいい。で、使われなくなった5メートルの鉄パイプをもらいました。軽トラに積んで運んできた写真です。
 「畑をつくれなくなって引き揚げるとき処分に困るかな」。チラッと思案しましたがその時はその時です。
 二つ目は春からのもらい物です。ことしの「土手焼き」はきれいに焼けました。そのあとに土筆(つくし)が生えてきました。お彼岸の金曜日には孫の萌ちゃんや大志くんが泊まりに来て、土筆を採りました。みんなでおしゃべりしながらハカマをとり(指先が黒くなります)、つくだ煮にして持ち帰りました。
                              
 <野菜づくり>を体験している街の青年が土曜日にやってきました。「土筆を採ったり食べたりしたことがない」というので、いっしょに採りました。彼もつくだ煮にして食べたかな。道子さんは友だちに会うので「春を味わってもらおう」とまた土筆採りに行き、つくだ煮を作りました。いい味です。
 三つ目のもらい物は〔足場板〕です。大工さんをしておられた方に「草刈りの足場を強化するのに足場板を分けてほしいのですが……」と老人会のとき声を掛けていました。金曜日に畑に行ってみたら入口に足場板がいっぱい置いてあります。電話したら「要らんようになったからあげる」。
 その足場板を裏山に軽トラで運んできて、山の斜面に立てたキウイの棚に〔L(エル)〕字型の枠をつけました。
                              
 4メートルの重い足場板を8本運び、取り回して切ったり、ドリルで穴をあけて長いビスで止めたり、水平を測って調整したり。昼寝も電動ウオーカーも返上して、夕方にはなんとか完成しました。足場板はSPF材とちがい、木が固くてがっしりしています。丸鋸とパワーのある〔コードのインパクト・ドライバー〕が必要で、家から電源を引いてきました。
 くたくた。
 
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裏山の竹を片付けて道をつけました。

2014年03月23日 03時59分28秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 母・妙子さんは、山陰の田舎で暮らし、子どもたちを生み育てて都会に送り出し、父と二人で老後を過ごすつもりでした。ところが64歳のとき、老夫婦は神戸の街に暮らすなりゆきになりました。父は米寿を祝ってから亡くなり、母もほどなく旅立つ心づもりでした。女学生の頃から文学少女で、老いても田舎の図書館通いをして本を読み、神戸に出てからは同人誌の仲間に加えてもらい、自分の書いたものを本にまとめることもできました。87歳のときには遺言のつもりで随筆集も出しました。そして94歳の誕生日に、三木市に引っ越してきました。
 一行でまとめようとしても100歳を越えて生きるとなかなか。三木での暮らしはあと一か月余りで8年目に入り、101歳になります。
                            
 写真は妙子さんがデイサービスで書いた習字です。町民文化祭に出したそうです。
 その妙子さんがいままで自分の仕事のようにやっていた「裏山に出て、花ばさみで竹の枝を切る」ことをしなくなりました。食事は自分でゆっくり食べますが、そのあと横になることが多くなりました。
 春になればまた竹の枝を切るか、と枝のついた竹を孝行息子は積み上げていましたが、このほど裏山に登りやすくするためにその竹を片付けました。
 もし母が出動するようになれば、また竹を切りましょう。
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『金王朝』の終焉を見てから ……。

2014年03月22日 01時08分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 あと2冊、本にふれてこの項を終わりにします。
 一冊目は「関 貴星」氏が、渾身の勇気をふるって書いた 『楽園の夢破れて = 北朝鮮の真相』 という本です。彼は朝鮮総連の岡山県本部長という輝かしい地位にありました。で、日本国中で北朝鮮への「帰国運動」が盛り上がった1960年(昭和35年)、日本の国会議員などといっしょに訪朝団として北朝鮮に行きます。在日朝鮮人として苦労してきた関さんが、祖国の独立15周年祝賀会に招待されたのです。
 あの頃『朝鮮民主主義人民共和国』は「地上の楽園」として宣伝され、日本中で帰国運動が展開されていました。「体一つで帰国すればよい。差別のない、食や職の心配のない、学びたければ学び、働きたければ自由に職業に打ち込める、福祉の行き届いた国が、あなたを待っている!」
 ところが行ってみると生活は苦しい。物は無い。自由が無い。それを日本に知らせようにもその手段がない。手紙や電話は検閲される。訪朝者は、帰国者と自由に会えない。つい先頃帰国した知人に会おうとしても会えない。会っても指導員が張り付いていて、自由に話せない。
 訪朝団の人々はそのことを思い知らされ、あまりに違う現実に腹を立てた筈なのに、その声は表に出てきませんでした。「関 貴星」氏だけは自分の立場、家族、親族、人生の経歴、総連での輝かしい業績、財産などすべてをなげうって、1962年(昭和37年)にこの本を出しました。出版を引き受けてくれたのは、〈左翼批判系〉と目されていた『全貌社』で、この本は注目されませんでした。
 ぼくの手元にあるのは、2003年河出書房新社で再版された本です。題は『北朝鮮 1960』となっています。
 「この本が1962年にベストセラーになっていたら……。あの国の真相が知らされていたら、日本から北朝鮮へのバブル時代の貢物もなく、帰国運動も消え、あの国はあの形では存続していなかったであろう」と悔やんでも悔やみ切れません。
 二冊目は写真集で、『北朝鮮〈楽園〉の残骸』(2003年・草思社)という本です。ある東独の青年がNGOスタッフとして北朝鮮に入り、地方の病院などで支援活動をしながら撮った写真を極秘に持ち出したものです。
 お仕着せの金日成の銅像やマスゲームの写真もありますが、500メートルを越える高い山が頂上まで段々畑にされている写真、資材や土木機械がなくて人海戦術で道路づくりをしている写真、牛車による運搬、天秤棒による水運び、カミソリや金槌の置いてある手術室、ビール瓶での点滴、ドラム缶に煙突をつけた薪ストーブの教室で勉強する児童たちなど、いまもそのままでしょう。
 
 バイキングの食事をするとき「あの国の人たちが落ち着いて、ゆっくり味わいながら、バイキング料理をたのしむ時がくるだろうか」と思い、衣類の断捨離をしながら「この衣類が空を飛んであの国のどこかの庭に落ちたらいいのに」と思い、寒い日には「あの国はもっと寒いだろう。暖房に裏山の切った竹を燃やせたらいいな」とつい思ってしまいます。
 『金王朝』が終焉をむかえ、あまりに長きにわたる「人間の心をねじる犯罪」が消えるのを見てから死にたいです。
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『金王朝』という独裁国家 ③

2014年03月21日 05時20分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 読んで衝撃を受け、捨てられない本にふれながら、北朝鮮のことを書いています。
 『どん底の共和国』=北朝鮮不作の構造 (1989年刊・亜紀書房)/『暗愚の共和国』=北朝鮮工業の奇怪 (1990年刊・亜紀書房)という本が出ています。きのう紹介した『凍土の共和国』と合わせて、北朝鮮の現実を知るための三部作です。
 20年以上前に出た、当時の様子を書いた本ですが、今と状況は変わりません。問題の根源はそのまま。進化も止まったまま。
○ 『どん底の共和国』 …… 北朝鮮の不作農業の現実が書いてあります。問題だらけです。耕地を増やすために、山を段々畑にしています。木を伐り、山を崩せば、どんなことになるか。
○ 『暗愚の共和国』 …… 北朝鮮の工業の現実が書いてあります。これも問題だらけ。指導員(案内員兼監視員)が朝鮮戦争後「電線を地下に埋めて電柱を無くしています」というあの国は、いまどんなことになっているか。漏電し、停電は頻発し、電気のない国と思うしかありません。電気製品に囲まれて暮らす現在、〈一家に一灯だけ(毎日停電あり)〉でどんな暮らしになるか想像もできません。
 
 "偉大なる首領様"という独裁者と取り巻きの思いつく「進化の妨(さまた)げになる施策」をせっせと実行した結果、あの国はいまどうしようもなくなっています。
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『凍土の共和国』 …… 許せない〈人間の心への犯罪〉 ……    ②

2014年03月20日 03時38分29秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
『凍土の共和国』=《北朝鮮幻滅紀行》 (金元怍 著 1984年・昭和59年刊 亜紀書房) この本は、神戸の大倉山図書館で借りて2度読みました。その後手元に置いておきたくてネットで購入しました。きのう紹介した本のあとにこれを読んで強い衝撃を受けました。
 「人間をいじめるのにこんなやり方があるんだ。なんと陰湿な犯罪だろう」と思いました。ユダヤ人強制収容所でのナチスの犯罪も、戦争での幾多の犯罪もひどいですが「かくも長く(何十年にもわたる)、陰湿な、〈人間の心〉への犯罪」は許せません。読み返すのは辛いですが、この本から30年たっても状況は変わっていません。何の役にも立たなくても、心を痛めるだけになっても、読み返してみます。 
 ※ 著者の名前は仮名ですが、「怍」の字は違います。出なかったので似た字にしました。
 北朝鮮に行くと「指導員」と称する者が一人一人に付きます。案内・監視する役目です。訪朝した人、昭和30年代に帰国した家族・親類を訪ねる人、みんなに。この指導員にワイロを差し出すのはもちろん当然のことです。
 その指導員という制度が長年にわたっていますから《ジラス/イヤガラセ/ユスリ・タカリ/オドシ》が実に巧妙になっています。詳しくは本にゆずりますが、読みながらイジイジと心が痛みます。

 北朝鮮から韓国に脱北した人50人に〈北朝鮮の生活についてアンケートをした本〉を読んだことがあります。それに「公開処刑を見たか」という項目があり、50人全員が「見た」と回答していました。
 公開処刑は、柱に処刑する人を縛り、「銃殺」で行います。処刑される人は、少しでも後に残される家族のプラスになればと「金正日万歳!」とか叫ぶそうです。そんな人を処刑するのは人聞きが悪いと思うのか、いまは口に布を押し込んで叫ばれないようにしているそうです。元気な人が目の前で一瞬にして殺される。そんな場面を見たいと思わない。でも「見たくない」は許されない。全国民が見させられます。
 恐怖心は生理的に骨身に浸み込みます。
 イタリア人の書いた『アウシュビッツは終わらない』(朝日選書)は戦後出版された古い本ですが、検索してみたら、なんといまでも売ってあり、若い人に読まれているようです。ぼくの記憶ではこの本にたしか「ボロ布は反乱しない」という一文があった気がします。
 飢えて死ぬ人がおり、いわれのない密告でも処刑される恐怖心を植え付けられ、毎週の反省会では「必ず〈自己批判〉して、〈他の人の欠点〉を必ず指摘する」ことが強制されます。がんじがらめで「心」を支配するあの国の「人間の心への犯罪」。
 朝日新聞(3月19日・朝刊37面)にいま、〈脱北者への人権調査〉がシリーズで掲載されています。こんなケースが載っています。

 
 平壌の北東部にある第14号管理所(収容所のこと)で生まれたシン・ドンヒョクさん(31)は17日、スイス・ジュネーブで自らの体験を詳細に語った。6歳から炭鉱で石炭を運び出した。逃亡を計画した母と兄は、「当時は家族の愛を知らなかった」という自らの密告で公開処刑された。「動物以下の扱い。動物の方が逃げる自由があるだけましだ」と話した。
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北朝鮮 …… 《心をもつ人間の尊厳》を踏みにじるのは許せません。  その①

2014年03月19日 04時46分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ほとんどの本は処分しました。しかし北朝鮮関係で〈一生処分できない本〉を並べてみました。
                          
 実はきのうの朝日新聞一面の見出しは =「人道の罪」 北朝鮮の闇 …… 収容所や経済難 脱北60人証言 = となっていました。
「北朝鮮の国家体制と人たちの生活に心をいためている」ことには、このブログで何度かふれました。「また書くことになるか」と気が重いです。
 でも書かずにおれません。この本たちとそれを読んだ <わたしのこころ> につき合っていただければうれしいです。ぼくの読んだ順に書きます。
 
 ○ 『北朝鮮 秘密集会の夜』 …… 留学生が明かす〝素顔"の祖国  李 英和 著(文春文庫・1996年刊)
 筆者は現在は関西大学教授で、北朝鮮問題のコメントをもとめられてテレビでも見かけます。在日3世の李英和氏は23年前(1991年)に、祖国への留学生として北朝鮮に渡りました。それが日本から北朝鮮への『留学生第一号』というのですから、「おかしいな」と思いました。そして彼があの国で体験したことにはびっくりしました。
 ぼくはこの本を1997年(退職した年)に読みました。それまで「朝鮮民主主義人民共和国は福祉が行き届き、医療は無料だし、子どもは大切にされるし、労働者は喜んで働き、豊かな生活をたのしみ、まさに〝地上の楽園"である」というような本を読んだり、『平壌少年芸術団』だったかよく訓練された子どもの〈来日公演〉を見たりして感心していました。そしてそんな国家の存在をふだんは忘れていました。その甘い認識がこの本で引っくり返されました。
 「エッ? そんな国だったのか!」
 だまされていたことを恥じて、それから北朝鮮の内幕を暴露する本・批判する本を何十冊と読み漁りました。「時流に乗って売らんかな」とあることないことを書いた暴露本もありましたが、いま手元にあるのは「あの国での自分の体験に基づいて書いた人」の本です。
 李英和氏の本は、いま読み返しても引き込まれます。10年もすれば社会は変わるものですが、あの国では、庶民レベルでは、おそらく凍土のままでしょう。何十年と凍土の国で生きるのはどんなに息苦しいことか。  (つづく)
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『サンシユウ』の木とばかり思っていたのですが……。

2014年03月18日 04時05分09秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 裏山に植えた木々の中で春に黄色い小花の咲く木は『サンシユウ』とばかり思っていました。ところがネットで調べてみると名前は『サンシュユ』で、「薬としてつかわれる赤い実がなる。よく似た木があり、実がなるかどうかで区別する」と書いてあります。
                           
 ネットの写真と見比べると花は <サンシュユ> にとてもよく似ていますが、赤い実がなったことはありません。別の木でしょうか。
 花梅(鹿児島紅梅)も南高梅も馬酔木も満開です。そして注目したいのはソメイヨシノです。年年植え足して全部で6本が裏山で育っていますが、まだ花は咲きません。そろそろ花を見せてほしいです。
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お昼は裏山BBQで。

2014年03月17日 03時37分24秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                      
 きのうの日曜日、大志くんや萌ちゃんがやってきて久しぶりに 《裏山・たき火・バーベキュー》 をしました。久しぶりといっても2月の中頃にしたから一か月ぶりです。いや、3月に入ってからもしたかな。
 ここで暮らすおじいちゃん・おばあちゃんには裏山のたき火はめずらしくありませんが、街からやってくる子や孫にはたのしいようです。たしかに裏山も春らしくなりました。南高梅、紅梅、サンシュウ、馬酔木など早春の花が咲き、木々の芽がふくらみ、ウグイスが鳴き、あまり寒くありません。
 ベンチはペーパーで削って塗り直してあるし、物置きテーブルもできています。「アルミホイルに包んだシイタケが焼けた。ポン酢がほしい」といえば台所から持ってくればいいし、厚揚げにはショウガ醤油を、焼鳥にはたれを、焼きおにぎりにパンにソーセージ、それにマシュマロを焼いたりして、なんとなく気分が広がります。いつものようにダッチオーブンでつくる焼き芋は、おじいちゃんの担当です。
 「孫たちの 〈田舎のおじいちゃんおばあちゃん〉 になりたい」という願いはどうにか間に合っていまの生活があります。
 きのうは16日でした。うちの村の『大将軍神社』(村では「畑の神さん」と呼んでいます)の祭りの日です。(田植えの6月と稲刈りの10月以外は毎月16日にあります)いままでは、 /我が家/萌ちゃん一家/大志くん一家/ と順繰りに賽銭を納めて拝んでいました。
 賽銭を納める様式は、上に「家内安全」とだけ書き、下に拝む人の〈性別・年齢・干支〉を書きます。名前は書きません。中に12の倍数の賽銭を入れます。うちでは今月から「家内安全」の横に「世界平和」と書き足すことにしました。また、いままで一人ずつの袋だったのを連名にしました。先月連名の袋が納めてあるのをみて、うちもそれでいくことにしたのです。賽銭の袋はいままでと同じ3つだけど、毎月3家族分を納めて拝みます。
 きのうはちょうど大志くんがやってきたので、いっしょに大将軍神社にお参りしました。大志くんは道を歩くときも「あぜ道」にそれ、細い畦を走ったり溝を跳び越えたりでハラハラします。
 ここに引っ越してきたときはよちよち歩きだったのに、ついてゆけなくなりました。
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