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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

今年は紅葉の冴えない秋になりました。

2011年11月30日 02時11分05秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                  
 今年は11月はじめの冷え込みが少なく、紅葉の色が冴えないと報道されていますが、ここ口吉川町でも雑木林の色合いがしっとりした感じになりません。写真は去年の11月下旬に撮ったものです。郷土史講座の参加者でウオーキングしていた曇りの日に、「桾原」から「東」の山々を撮りました。曇りなのでいまひとつ色が冴えませんが、それでもクヌギやコナラの落葉前の色合いがしっとりしています。
 その感じが今年はないのです。紅葉の色が浅く、そのうち茶色の落葉になってしまいます。この地に移り住んで、こころをしっとりくるんでくれる秋の彩りに、一番のしあわせを感じていたのに、ちょっと残念です。
 でも「イチョウ」だけはしっかり黄色になってくれています。細川町のJAのガソリンスタンドから県道20号線越しに西の山を見ると、山のふもとにかつて新興住宅だった家家が数軒建っています。そこにイチョウが一本立っています。だれがいつ植えたものかわかりませんが、かなり大きな木になっており、かたちがいいので散歩の途中に何度か見に来たことがあります。
 きのう宅急便を送りに出た帰りに、運転しながらあのイチョウをチラッと見たらいい色になっていました。きょうは軽トラで散歩に出掛けて、細川町の高篠、金屋、藤原惺窩の生誕地の桃津、それに蓮花寺のあたりをドライブし、気に入ったところで車をとめて歩いてみます。
 黒大豆の葉が枯れて、落ちてきました。営農組合では早く出荷するためにもう脱粒・選別にとりかかっていますが、うちでもそろそろ収穫作業をします。まず、枝が折れないように囲んでいたマイカ線をはずし、竹の杭を抜き、黒大豆の木を草刈り機で刈ります。抜いてもいいのですが、我が家では草取り・土寄せを三度しているのでしっかり根を張っており、抜くのはしんどい。
 去年はそれを稲木に架けて干し、12月12日にシートを広げて脱粒しています。黒大豆の木をビール瓶で叩き、脱粒するやり方です。でも黒大豆は木は太いし枝は張ってるし、無駄なところを叩いている感じです。そこで今年は、大豆と同じようにシートに干すやり方に変更しようと思います。木は刈り、サヤだけちぎって、シートに干します。サヤをちぎるのは手間のようですが、たいした量ではありませんからぼちぼちやります。それがパリパリに乾いたら踏んで脱粒します。そしてフルイにかけて、選別します。大豆はシートで干したらよく乾き、簡単に脱粒できたので味をしめたのです。
 畑の仕事をしながら、頭では「あそこに棚をつけよう」とか「雨どいはやっぱりつけたほうがいいな」とか大工仕事のつづきを考えています。しあわせな時間です。
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やっぱり大工仕事が好きなんです。

2011年11月28日 01時56分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 きのうは畑に出て六条大麦を播きました。大麦は播いてからの合計気温が100度を越えると発芽するそうですから、「麦踏み」はしばらく先になるでしょう。「寒くなるまでに播かなくては……」と思いながらひと月が過ぎてしまいました。それというのも大工仕事に時間をとられていたからです。
 写真は大工仕事の成果です。ウッドデッキの床を広げて、それに屋根をとりつけたときは「膝が痛いのに、脚立に上って危ない大工仕事をするなんてもうコリゴリです」と書きました。しかし毎朝、自分のした仕事を見ていると「もうちょっと。ここはこうしたほうがいい」とウズウズしてきて、また脚立に上ってあれこれしてしまいました。
 玄関横にある『野菜洗い場』に「屋根がほしい。雨のとき傘差して洗うなんてできないから。それと暗くなってから収穫した野菜を洗うのに電灯があるとうれしいけど」と道子さんにずっと言われていました。しかしなかなかその気になりませんでした。ところがこのたび大工仕事をしているうちに、ここにも屋根をつけようという気になりました。「脚立に上らずに下で組んでしまい、それを引き上げて外壁に取り付ければいい」と気づいたからです。流し台の上に棚をつけたりする仕事は残っていますが、これで今年の大工仕事は終わりです。これでやっと念願のウッドデッキの塗装にとりかかれます。去年はキシラデコールを塗りませんでしたから今年はしっかり塗るつもりです。
 きのうの日曜日は、二人の娘と孫が顔をそろえ、野菜を収穫して持ち帰りました。萌ちゃんと大志くんは、たっぷり昼まで畑で遊びました。大志くんは土手に転がっていた自動車のタイヤを見つけて、全力で持ち上げ、得意そうに転がしてきました。萌ちゃんは、墓の土手下のぬかるみを歩き、カマで墓の下の草を刈っていました。二人はおじいちゃんのつくった草刈りの足場を歩いたり、畑の遊歩道を一輪車を押してまわったり、まだ生き残っているバッタをつかまえたり、つぎつぎと遊びを思いつき、走りまわります。街中に住む大志くんの家の近くに、200坪か300坪のきれいな公園があります。いくらかの立ち木と滑り台とコンクリートの造形物と鉄棒と砂場と……。でも子どもは10分も公園内を歩くと退屈してしまうでしょう。子どもの遊びに必要なのは、なんでもない、ただの田舎の自然なんですね。
 
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ブルックナー・第8番交響曲を聴きました。

2011年11月26日 04時18分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 保木の神社の楠をまたアップします。遠くから見るとこんもりまとまっているようですが、枝には力があふれています。葉が繁り過ぎず青空の見えるのもいい。見上げていると胸が広がります。
 きのうは芸術文化センター管弦楽団の定期演奏会で、西宮北口の芸文センターに行きました。まず和波孝橲(たかよし)さんのヴァイオリンでバッハのヴァイオリン協奏曲。和波さんは国際的に活躍しておられるヴァイオリニストですが、西神のホールで聴いたことがあります。そのときもとめたCDはいまも愛聴しています。
 NHK教育テレビで、この和波さん(今年66歳です)とやはり国際的に活躍しておられるピアニスト・梯剛之さんの対談を見たことがあります。お二人とも目が不自由ですから、野原のようなところでたがいに手をとりあって話しておられました。梯さんが「ぼくは、和波さんとお会いしたいと、ずっと思っていたんですよ」とのどかな春の日差しのような声で話すと、和波さんが「わたしも一度お会いしたかったです」と、32歳年下の青年に、やさしくこたえておられた場面をいまも覚えています。その手が、ヴァイオリンを、ピアノを、弾いて、世界の人々を魅了するお二人が、手をにぎりあい、手からこぼれそうなほどの思いが通じ合う。
 ブルックナーの交響曲第8番(ハース版)は80分を越える大曲ですが、あの音圧はこころとからだに気持ちのいいシャワーになりました。CDを持っていないので手に入れてじっくり聴いてみます。オーケストラのメンバーの中に、ゲスト・トップ・プレーヤーの一人として、東京フィルハーモニー交響楽団の首席ヴィオラ奏者・須田祥子さんの名前を見つけました。これだけの大曲をやるのですから必要な補強だったのでしょう。
 須田さんの名前を知ったのは今年5月ごろのことです。インタネットの<you tube>でモーツアルトのクラリネット5重奏曲(K.581)を探していたら、須田さんが第二楽章を、3月28日にアップしておられました。彼女が「あの東北大震災の悲しみをいくらかでも和らげるために<音楽家としてできることを>と考えて仲間とともに演奏した」とナレーションを入れておられます。
 あの曲は、弦も、木管も、金管も、ティンパニーも、ハープ三台も、大働きする曲で、圧倒されました。見ているとヴィオラの前のほうの須田さんも大働きでした。帰りの車でもずっとあの曲の余韻につつまれていました。
 
 
 
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『皇帝ひまわり』が咲きました。

2011年11月23日 02時40分48秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 秋の花コスモスが枯れ、土手や空き地に咲き誇っていたセイタカアワダチソウの黄色い花が枯れ、紅葉とともに冬枯れの気配がしのび寄っていますが、そんなときに咲きはじめた花があります。『皇帝ひまわり』です。写真は我が家の庭に咲きはじめた皇帝ひまわりで、つぼみがたくさんついていますから、しばらくはあざやかな黄色の花がたのしめます。
 でも「花壇がさびしくなった頃に咲く花なんて素敵ね。わたしも皇帝ひまわりを植えてみましょう」というお方にご忠告申し上げます。皇帝ひまわりはものすごく背が高くなります。花の写真を撮った足場を見てください。              
               
 庭に立てた2メートル10センチの脚立に上り、一番上の板にまたがるようにすわって、こわごわ撮った写真なんです。ネットで見ると5メートルくらいになるそうですから、うちの花はまだかわいいほうです。咲いたからって花を見ようと思えば二階・三階に上がるしかありません。我が家のように二階がなければ、下から花の裏を見上げるしかありません。
 同じように今頃咲く花に『皇帝ダリア』があります。これもものすごく背が高くなり、見上げても花の裏しか見えません。そこで道子さんに「ウッドデッキのそばには植えないで」といったら、来年は電柱の目隠しに柵のそばに植えるそうです。でも街灯の光が当たると花が咲かないと書いてありました。どうなるでしょうね。
 きのうは快晴で朝から青空がきれいでした。そこで軽トラでゴミステーションに行ったときに、保木の神社にまわりました。この木はぼくのブログで何度も写真をアップして紹介していますが、昭和天皇即位のとき全国の神社に配られた楠の苗木が大きくなったものだそうです。枝ぶりがよく、見ていると胸が広がり、いい気持ちです。いつか青空をバックに撮りたいと思っていましたが、念願を果たしました。
               
 小さい神社の鳥居のそばに一本だけ立っている大木で、稲刈りのすんだ田んぼに長靴で入って撮りました。近寄ったり離れたり、日の当たる角度を見ながら、場所を変えて撮りましたがどれも絵になる。口吉川町に移り住んで一番気に入っている木です。
 
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小豆は3,5キログラムの収穫でした。

2011年11月19日 03時41分33秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                 
 このあたりの各の営農組合は、減反した田んぼに、農協の指導で黒大豆をつくっています。黒豆は12月上旬に出荷すれば値段がいいのですが、年末に近づくとだんだん値が下がるようになっています。そこでうちの村でもいま黒大豆の早期出荷に向けて作業をしています。
 まずよく日が当たるように葉を落とします。この作業が大仕事で、長さ100メートルの一畝にとりついて手で葉を落としていくと半日かかってしまいます。腰は痛くなるし、ずっと日に当たって喉は渇くし、苦しい作業です。しばらく日に干してから、写真のように黒豆の木を切って逆さに置き、また乾燥します。それを集め、さらに乾燥させ、脱粒、選別、出荷となるわけです。
 さて、刈った土手の草を足場に立ってかき集めていたら、老人会の人が足場にあがってきました。「山の田んぼでイノシシが捕まったらしいぞ。猟友会の人がきのう言うとった」と知らせてくれたのです。村の仲間に「おい、ニュースだぞ」と知らせてもらったようでうれしい気持ちでした。我が家の畑を襲ったイノシシかもしれません。
 丹波大納言の小豆は、収量が3,5キログラムありました。防風ネットを張っても相当ムシにやられましたが、収量が増えました。来年は天井にもネットをつなぎ、いわば防風ネットのトンネルで小豆をつくろうと話し合いました。それでアズキノメイガをシャットアウトできるだろうと考えています。4ミリの防風ネットの中は、そんなに空気がよどまないでしょう。2ミリの防風ネットとか1ミリの防虫ネットだと熱がこもってしまう心配がありますが。
 小豆は弱い木です。大豆や黒豆のようなしっかりした幹はありません。自分の力で立てないほど、なよなよしています。そのくせぐんぐん伸びて、枝を張り、つぎつぎとサヤをつけ、となりにもたれかかり、「自分の力で立てないのなら伸びるな!」と怒鳴りつけたくなります。それでも極上のおいしい豆を実らせるので、ムシたちがわんさか集ってきます。キャベツを食べたら葉脈は残す夜盗虫まで、サヤに頭を突っ込んでやわらかい豆を食べています。
 きのうは道子さんが世話をしてきた小豆の畝を片付けました。小豆は外に倒れないように二重のマイカ線で囲んでいますので、その竹の杭とマイカ線をはずします。さらに小豆の一本ずつには支柱を立てていますのでそれを抜きます。横に張った枝は自分の力で支えられず、折れて地面に落ちてしまうので、麻ヒモで支柱やマイカ線にむすんであります。それを切り、小豆の木は抜きました。片付けるだけでも相当な時間と労力を要したのですから、小豆の木をつぎつぎと補強していった作業はさぞや大変だったでしょう。
「小豆はつくらない」という有機農業者のことばがわかる気がします。そういえば散歩途中に家庭菜園で小豆をつくっている家が何軒かあります。農薬をかけているのでしょうか。 
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大豆を新方式で脱穀しました。

2011年11月18日 04時28分52秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 今年は大豆を抜かずに、草刈り機で刈り取りました。それを稲木には架けず、ブルーシートの上に集めて干しました。毎朝シートを広げて干し、夕方にはシートでカバーしました。おかげで大豆はパリパリに乾いています。そこで雨が降るまえにしてしまおうと、きのうの午後、脱穀しました。
 昼寝のすんだ2時半からかかり、まず集めた大豆の木を長靴で踏みました。木を見るとサヤも枝もくだけて、太い幹だけになっています。例年ブロックの上で、ガラスビンで叩いていましたが、その必要はありません。大小二つの自作の篩(フルイ)を通してサヤや枝をとり除き、脱穀を終りました。2時間30分かかりました。
 このあとの選別は夜なべ仕事です。写真の白い板は、今年から登場した選別器で、たしか道子さんが国華園かどこかのカタログで見つけ、通販で買ったものです。写真でわかりますか。コの字の枠がついていて、奥にゴミ混じりの大豆を入れ、板を傾けるといい大豆は転がり落ち、ゴミと虫食い大豆が残ります。段ボールなどで自作することもできるでしょう。
 簡単な道具ですが、選別作業をしていると気持ちがいいほど能率が上がります。大豆の収量は13キログラムでした。ここから褐斑病、紫斑病、ムシ食いの大豆を除くと12キロ足らずになるでしょう。我が家では味噌つくりに7,5キログラムを使い、あとは煮豆として食べます。なんとか間に合いますがもう少し収量が多くてもいいかな。
 この畑を借りた年は、直播きで「二本植え」にしました。播いてから二週間は防鳥ネットを張りました。この年の収量は28キログラムあり、300グラムの袋をつくっておいて、よく人にあげました。翌年も同じように収穫できました。でもたった二週間のために防鳥ネットを張るのは手間だし、それに二本植えだと葉が混んで、アセビなどの煎じ薬をかけにくい。それより一本植えにして、風通しをよくしよう。ということで去年、今年と苗立てした大豆を40センチ間隔で一本植えにしました。
 特に今年なんか大豆はほとんどムシ防除をしていません。小豆や黒豆に手がかかり、大豆まで手がまわりませんでした。畝間の耕運と土寄せ、それに除草はできましたが、アセビなどの煎じ薬と一度かけたかな、という程度です。それでもまあまあの出来具合です。
 来年どうするか。いまのところ、直植えで二本立てにする。というほうに傾いています。
   
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『ようしょう汁』をいただきました。

2011年11月15日 22時23分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
        
 きょうは二人とも歯医者さんに診てもらい、帰りに『山田錦の館』に足を伸ばしました。温泉は定期点検で休みですが、入口でなにかやってるようです。そばに寄ってみると、なんと『ようしょうさん』という神さまが、吉川の地に舞い降りておられるではありませんか。すべて吉川産の野菜でつくられた、なんとも美しく、おいしそうな神さまです。「かちよん」という三木市の芸術家が制作されたそうです。さすが芸術家。この神さまには、魂が入っています。材料がわかりやすいように写真は大判でアップしました。
 ところで「ようしょう」ってどんな意味? たずねなかったけど、多分「よくしよう」です。「ようしょう会」という名の会をつくって、山田錦の館で野菜を販売しています。この直販所はよく売れて、年間「億」円以上の売り上げがあるそうです。その人たちが12月11日(日)に収穫に感謝するお祭りをするのですが、まったく偶然にぼくらはプレ祭りの日に来合わせたみたいです。売店で500円以上買物をしてレシートを見せたら、豚汁とおにぎりをもらえるというので、おいしい昼ごはんになりました。
 今年は、我が家の大豆は、ブルーシートに広げて干しています。去年までは稲木に架けて干しましたが、今年のやり方のほうがよく乾く気がします。雨にもあわず、夜はカバーをするので夜露にもあわず、パリパリに乾いています。脱穀は来週しますが、おそらくシートをかけて踏むだけでほとんどのサヤははじけるでしょう。
 
 
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ヤーコンの花が咲きました。

2011年11月14日 04時08分02秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 道子さんが、「ヤーコンがいっぱいつぼみをつけてるよ。花が咲いたらタネに全部の栄養がまわってしまうんじゃないかしら。掘ってしまうか花を摘むかしたようがいいかも。調べてみてよ」というので、ネットで検索してみました。
「ヤーコンの花が咲きました」とうれしそうに書いているブログはありますが、迷惑そうに書いているブログはありません。だから鑑賞すればいいのでしょう。写真はうちの畑のヤーコンです。直径5センチもありません。ヤーコンの葉は大きいのに花は小さいのですね。後ろの木立ちはいつも写真に写っている村の墓地で、クヌギの木ばかり20本ほど。葉が色づきはじめました。
 はじめてこの木立ちを見たのは、不動産屋さんに案内されて土地を見にきた2006年3月でした。気に入った眺めだったので写真に撮り、2L版にプリントしてアルバムにはさんでいました。落葉したクヌギ林と小さい墓石の点在する素朴な墓地。手前にはまだ冬枯れの草原のような畑。「ああ、うららかな春が来たんだなあ」とただそれだけを感じる眺めでした。
 その墓地のそばで畑をつくることになろうとは。自分があくせく人生を切り開くのでなく、だれかに見守られながら、恵まれた田舎暮らしをさせてもらっている気がします。
 大工仕事に時間をとられ、畑仕事がたまっています。きのうの午後は土手の草刈りをしました。土手の肩にはリコリスの濃い緑の葉が出ています。ここは刈らないで、斜面を刈りました。リコリスは葉を刈っても冬の間はまた伸びてきますが、少しでも多く鱗根に栄養をまわしてほしいから。次に草を刈るのは来年の3月になるでしょうか。まだ残っている土手もありますが、それが終れば草刈りはしばらくお休みです。
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孫との会話は「付け足し言葉」で決めようぜ!

2011年11月12日 04時58分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 東条町を車で走っていたら、「あー、田舎のうちだなー」という家がありました。なんでもないけど、ただ田舎です。それがなんともいい。伝わりにくいですかね。しかしこの庭から見えるまえの丘は、30年前はリゾート分譲地だったような茂みです。あの土地バブルの嵐って、どこでもすごかったんですね。
 東条町の図書館で孫のために借りた「付け足し言葉」の絵本を、大志くんはとても気に入ったようで、「もう一回読んで!」と何度も読まされました。彼はだいたい覚えたようです。今度泊りに来たら、おじいちゃんがいろいろ使って、ビシッと決めてやろうかな。
 まず、大志くんが起きてきたら、「おはようごん座衛門!」とあいさつしてやろう。「おじいちゃん!」と声をかけてきたら、「何か用か九日十日!」と応じてやろう。畑から帰ってきたら、玄関で「ただいま帰ってキタキツネ!」と大声であいさつしてやろう。帰るときは「さよなら三角また来て四角!」と声を掛けてやろう。ピタッと決まったら、気持ちいいだろな。
 その絵本についていた「付け足し言葉」をパソコンで打ち、ラミネートして便所に貼って、練習しているところです。「付け足し言葉」をパソコンで検索するとたくさんありますが、絵本についてた言葉を紹介します。

  
   おはようごん座衛門
   何か用か九日十日
   おっと合点承知之助
   お茶の子さいさい河童の屁
   その手は桑名の焼き蛤
   平気の平左衛門
   恐れ入谷の鬼子母神
   結構毛だらけ猫灰だらけ
   しーらんペッタンゴリラ
   すいませんねん亀は万年
   嘘を築地の御門跡
   驚き桃の木山椒の木
   あたりき車力のコンコンチキ
   さよなら三角また来て四角
   ただいま帰ってキタキツネ
 

 心ときめくのがありますか。ビシッ! と決まりそうですか。
 では、おじいさん、健闘を祈ります! それと……赤っ恥は自己責任ですのであしからず。

  
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裏山をまわって朝の散歩をしました。

2011年11月11日 03時35分03秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 
 朝、一晩中つけっぱなしにしていたラジオを畑に回収に行き、ついでに裏山と福地池をまわって散歩しました。何の変哲もない裏山と池ですが、朝の空気と静寂が写っています。ほどなく朝日が山の向こうの我が家にあたります。あえて大きいサイズでアップしました。
 勤めていた時分に同僚だった人にばったり出会い、「田舎暮らしをはじめたんだよ」と話したら、言われました。「やるときは徹底的にやるあなたのような人が、なんで三木みたいな、中途半端な、しょうもないところで、田舎暮らしをはじめたの? 『八ヶ岳のふもと』とか『安曇野』とか、この辺だったらせめて『丹波篠山』とか、もっと立派な田舎はなんぼでもあるのに」 
 でもね。街に住んでいたら、こんな朝の空気は、旅にでも出ないと吸えないでしょ。それが毎朝、一歩家を出れば吸えるんですよ。
 播州一帯は、ため池の多いところです。うちの村だけでも九つあるでしょうか。どの池にも我が家から歩いて5分で行けます。そしてどの池にも、写真のように静かな朝が訪れています。それだけで十分ではありませんか。
 引っ越してあとひと月で丸5年。早いなー。もう5年も過ぎたのですね。
 きのうは、うちの村の老人会で公民館まわりの掃除と花の植え替えをしました。前の日に、ぼくがゲートボール場の草を刈ったし、会長が土手の草を刈っておいたので、きのうは掻き集めて燃やすほうにみんなでかかりました。庭木も剪定してすっきりしました。これでこの村にも、よいお正月が来ます。
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『ラサ島守備隊記』(光人社NF文庫)を読まれませんか。

2011年11月10日 03時12分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 年のせいでしょう。2冊同じ本を買っていました。一つはきのう紹介した『ニコバル諸島戦記』、もう1冊が『ラサ島守備隊記』です。どちらもあの戦争で召集され、戦った兵士の記録です。まったく知らない島のことなのに、どんな縁があって同じ本を2冊買ったのかわかりません。でも読んでブログで紹介し、「読んでみよう」と思われる方に送るつもりで書いています。よろしく。
 あの戦争では、南洋の島々で日本軍の兵士が過酷な戦いを強いられました。ガダルカナル島、サイパン島、ペリリュー島、フィリピンのルソン島レイテ島など多くの島で日本軍は戦い、飢え、玉砕しました。しかし『ラサ島』というのは聞いたことがありません。どこの島かと読む前にネットで調べてみました。
 ラサ島は日本の領土です。日本名は『沖大東島』といい、面積1平方キロ余の、サンゴ礁でできた、小さい小さい島です。天気予報で台風の進路を報道するときに、『大東島』という名前を耳にすることがありますが、どんな島かほとんどの人は知りません。でも北大東島には700人、南大東島には1400人の日本人が暮らし、サトウキビをつくっています。沖縄から飛行機も飛んでいます。
 この南・北大東島から150キロ南に「ラサ島」はあります。絶海の孤島という名のよく似合う無人島です。この島はラサ工業という会社の私有地で、戦前・戦時中はリン鉱石を採掘しており、2000人の人が働いていたときもありました。地表は削られて緑はほとんどなく、鉱床のむき出しになった島でした。
 昭和19年、アメリカ軍は日本を攻める足がかりとして、南西諸島最南端の沖大東島を、まず占領するだろうと予測し、守備隊を置くことになりました。その守備隊は、何の軍事施設もない小さい島で、アメリカ軍の上陸を阻止し、玉砕するしかありません。その『玉砕引当部隊』220名の隊長として戦った、森田芳雄さんの戦記です。
 森田芳雄さんは、大正元年生れですから昭和19年といえば33歳です。妻も子もある身で二度目の召集を受け、ラサ島守備隊長を命ぜられました。彼は「お前たちを傷ひとつなく無事に日本に帰らせたい」と部下の兵士たちに言い、陣地を築き、民間人は退去させ、兵士たちを敗戦まで守り抜きました。
 彼は敗戦時、上部からすべての書類を焼却する指令があったときに、ひそかに部隊の陣中日誌を隠し持って帰郷しました。それをもとに記した本ですから、日々の様子がよく描かれています。まず昭和48年にどこかの出版社で出された本で、平成7年になって河出書房から再版が出され、今年になって光人社NF文庫として出版されました。
 この本はなぜ、こんなに息が長いのか。どうして今ごろになって文庫に入れられたのか。華々しい戦闘が描かれているわけでも、ドラマチックな感動秘話があるわけでもありません。
「隊長というものは、部下を大切に思うべきだ。それが一人一人の力を最大限に発揮させることになる。その最大限の力を合わせて全体の力を最高に高めるのが隊長の仕事だ。」という気持ちが、孤島での戦闘と日々の暮らしの底流に流れているからでしょう。
 手柄話や被害者物語はやがて消えます。でもヒューマニズムに根を下ろした、いわば「人間と人間が真正面から向き合い、信頼し合い、力を合わせて仕事をした」物語は、生きていきます。
 人間はそういう心をもった動物なのですから。 
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『ニコバル諸島戦記』を読まれませんか。

2011年11月09日 01時43分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 本を2冊紹介します。「読んでみたい」と思われたらコメントにアドレスを入れてください。先着一名の方に、コメントはアップしないで本を送ります。本はどちらも光人社NF文庫で、書店で見つけて「読んでみよう」と買ったものです。先日本棚を整理したら同じ2冊の本を少し前にも買っていました。1冊は手元に置きますが、もう1冊はどなたか読んでください。
「なにかの縁で2冊も買ったのだから読んでみよう」と夜中に読みましたので感想を書きます。

◎ 『絶海の島・ニコバル諸島戦記』 前田 酉一(ゆういち) 大正10年生れ 和歌山県出身 著
     -インド洋最前線の孤島守備隊物語-

◎ 『ラサ島守備隊記』  森田 芳雄  大正元年生れ 福岡県出身 著 
     -玉砕を覚悟した兵士たちの人間ドラマ-

 2冊の本の内容を紹介します。きょうは『絶海の島・ニコバル諸島戦記』です。
 まずニコバル諸島というのは、インド洋のビルマ(いまのミャンマー)南にある島です。題名の「絶海の島」というのは誤解を呼びます。絶海の「孤島」ではありません。近くにたくさん大小の島があり、本隊はすぐ近くの島に駐留していました。
 ビルマではあの『インパール作戦』がありましたが、この本の日本軍はその作戦とはまったく関わりがありません。またイギリス軍が上陸して島で戦闘があったのでもありません。元は『弱兵インド洋作戦』という題で平成6年(1994年)に自費出版でもされたようで、2011年になってから光人社NF文庫として出版されています。
 なぜ文庫に入れられたか。 …… 太平洋戦争末期、いつ攻め寄せるかもしれない敵の影におびえつつも、必死に生き抜こうとする日本軍将兵たちを温かく見守り続けた一下士官の物語。内地の兵営生活から最前線、人間性の現わになった捕虜体験まで描く。 …… とブックカバーに記してあります。
 前田酉一さんは、徴兵検査は乙種合格で身体強健ではありません。体が弱く、下士官といっても乙種ですから上には上がれないし、弱いところにしわ寄せが来る日本軍の体質がよく描かれています。強がったり、ひがんだりしないで、むしろ感情を抑えて淡々と描かれているので、読んでいて引っ掛かりがなく、すんなり胸におさまります。
 東京裁判で死刑になった板垣征四郎に、こんな面があったのですね。その一節を紹介します。

 
(敗戦後英印軍の捕虜になり、南洋の島レンパン島の収容所に入れられていた昭和21年冬のことです)
 ある日、総司令官・板垣征四郎大将の訓示があるというので、各部隊は広場に集合した。戦中と違い軍刀も帯びず丸腰の司令官が副官や幕僚を従え、整列している私たちの前に姿を現し台上に立った。
「かしら(頭)、中」の号令で、私たちは一斉に大将に敬礼し注目したのだが、どういうことか敬礼を無視して傍らの副官に何か言っている。
 副官は私たちに、「敬礼が揃わない。やり直し」と叫び、再び敬礼を行ない、ようやく答礼があった。
 日本軍の中枢にいて陸軍大臣まで経験した板垣大将は、今回の日本敗戦の責任者であるといっても過言ではない。彼の命令により過酷な戦場での戦いを余儀なくされ、その上飢餓に耐えながら不安の日々を送ってきた幾万の部下に対して、一言の詫びも言葉もなくあげくに敬礼が揃わないとは何という傲慢な人物かと思った。こんな人間の部下であったとは情けなくなり、戦争に負けるのも当然であった。最高責任者自らが生きて虜囚の恥をかきながら、思い上がった態度で部下の前で威張り、今さら何を言うかの心境であった。
 
 世界的な指揮者の小澤征爾さんはもちろん平和を愛する人ですが、1935年(昭和10年)に当時の満州で生れました。歯医者のお父さんが満州事変の責任者石原莞爾や板垣征四郎と親交があり、二人から一字ずつもらって「征爾」と名付けたそうです。お気の毒というか、時代を反映した名前というか。 
 




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田舎暮らしといいつつ消費社会にひたっていますね。

2011年11月07日 02時28分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

「地球上の蟻の全体重は全人間の体重より重い」と本に書いてありましたが、田舎に暮らすと蜘蛛だって負けていない気がします。朝、散歩の途中に山道に入ろうとしたら大きな蜘蛛が目の高さに巣を張っていました。
 草むらに朝日が当たると、夜露の水玉のついた小さい蜘蛛の巣が無数に見えます。夜の間に蜘蛛はこんなに働いてムシをとっているのかと感心します。畑を借りる前、家の庭でキュウリやナスビをつくっていたとき、道子さんは毎朝バドミントンのラケットを持って畝間に入りました。夜の間に蜘蛛が巣を張るからです。ムシを食べてくれる蜘蛛さんが、折角張った巣をこわして、「申し訳ない」と心の中で謝りながら歩いたそうです。
 さて、イノシシですが、先日は夜ラジオをつけていたのに畑に入ってきた形跡がありました。耕運したところを掘り返しています。耕運で土がくだけたところのミミズを食べているのです。「イノシシさんには朝日の深夜放送は駄目か」とがっかり。でもサツマイモを全部掘ってしまい、耕運し、土を平らにならしてもう一晩観察したら、入った形跡がありません。やっぱりラジオは効くのか。こっちが疑心暗鬼になっています。
 イチゴの本植え。ポットで苗立てしたソラマメの植え込み。イノシシくんに掘り返されたら困る苗がつぎつぎと待機しています。月末にはタマネギも植えなくては。イノシシには何が有効なのか。グランドゴルフ大会があるので、村の老人会仲間にきいてみます。そうそう、『宝交早生』のランナー苗がまだいっぱい残っています。もし入用でしたら一週間以内にどうぞ。
 きのうは、雨で畑には入れないし、山仕事もできないので、グランドゴルフ大会のためのおやつを買いに出ました。老人会会計係の仕事なんです。遠足のおやつを買う小学生の気持ちで、しあわせに買物をしました。青山台のダイキに寄って、工事をしたデッキに電燈をつける材料を買い、その間に道子さんは、カゴ二杯分の花の苗や土の袋を買い、思うような材木がなかったので大村のナフコにまわりました。長い板や波板を買って積み込み、大村食堂で昼食をとってから近くのダイソーに寄りました。ここは三階まである大きな店で、なんでもあります。なんだかんだと大きなビニール袋にいっぱい買って、それも積み込みました。
 きのうは軽トラで買物に行ったのでいくらでも積めます。そこからジャスコにまわり、また買物。道子さんは、ウッドデッキにできた棚用にイーオンの買物カゴを買いました。これで我が家のピンクの買物カゴは五つになりました。もうストップしようね。
 田舎暮らしというけれど、自給自足とはほど遠く、消費社会にどっぷりつかっているなあ。
 
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出た! イノシシが!

2011年11月04日 04時26分26秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                   
 大工仕事が一段落したのできのうは畑仕事に復帰しました。まず午前中は、98歳の母・妙子さんのために竹を用意しました。裏山の竹を切ればいいけれど、太くて、切り倒しても枝を妙子さんの仕事場まで運ぶのがえらい。そこで電柱二本分、山のほうに行って、細い竹のブッシュから切り出しました。でも竹がないと退屈する妙子さんは、竹があるとすごく張り切って、10数本分の竹の枝くらい一日で細かく切ってしまいます。
 作業をしながら考えました。老いた母のために竹の枝を集める孝行息子の童話を。「むかし、あるところに、100歳ちかいおかあさんのために、竹を切って枝を集める孝行じいさんがいました。ある日、いつものように竹やぶに入っていくと……」高齢化童話だね。ハハハ。
 さて午後は畑に行ってまず大豆を干しました。去年は木を抜いて稲木に干しました。でも『サチユタカ』はサヤはびっしりつきますが、木の丈が低く、稲木に架けてもよく落ちてしまいます。そこで今年は草刈り機で根元を切りブルーシートの上で干すことにしました。15キロ超とれれば味噌づくりと煮豆はできますから、なるべく労力をはぶくことにします。
 それからサツマイモのツル(半乾きの)や落花生の葉を燃やし、安納芋を掘る作業にかかりました。となりのイチゴのうねをみると、まだ本植えしていませんが、だれかが荒らしたような形跡があります。何も植えてないところを掘るなんて、アライグマの仕業ではないし、犬や猫の足跡もないし、だれだろう。足型を見るとくっきり残っていました。イノシシです。
 前の日は、道子さんの実家のお寺で『報恩講』があり、尼崎に出掛けていました。帰ってきたときはもう暗く、疲れていたので、「きょうはラジオは置きにいかなくてもいいことにしよう」。でも動物は例外を認めません。イノシシは、山からおりてきて、うちの前の道を通り、畑に来たのです。きのうまで足型がなかったのはラジオが効いていたのです。うちの畑はミミズが多いので鼻で掘って食べたのです。やっぱりラジオは毎晩つけておかねばなりません。いまは日が短く12時間以上つけておくことになります。電池は一晩で充電が必要になります。でもがんばることにしましょう。
 安納芋は大きくなっており、よくできていました。でも横にはみだす行儀のわるいでき方で、備中鍬で掘るとヒットしてしまうことがあります。16株掘りましたが、一汗どころか三汗くらいかきました。あとナルトキントキが数株残るだけ。例年サツマイモ掘りは娘たちがやってくれるのですが、今年は雨が多く、その機会を逸していました。これで芋掘りはおしまいです。
 今年レンゲ畑にした大豆のうねに、いまレンゲがいっぱい生えています。そのまま播き足して来春もレンゲ畑にしようか、と思いましたがやめました。孫たちにレンゲ畑を! と思うのはおじいちゃんおばあちゃんだけ。「いっぱい咲いたからレンゲ畑に入ってもいいよ」とこの春孫たちに声を掛けたら、ほんの少し入って遊んだだけ。われわれのノスタルジーでした。そういえば、案山子もつくろう、と思ってたけど孫たちはその気なし。
 自分たちの郷愁を押しつける年寄りにはならないでおこう、と自戒しています。
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田舎暮らしをおすすめします。

2011年11月03日 06時36分19秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 ウッドデッキの屋根を出す工事が終了しました。やれやれ。やれやれやれ。もうこんなこわい仕事はしません。自分がイメージする身のこなしと現実の動きが大きくずれています。もし若いぼくがそばで見ていたら、それこそ「見ちゃおれん。じいさん、やめてくれー」と思わず腰を浮かすでしょう。
 いままで遮光のオーニングをしていたので台所の窓が暗かったのですが、8尺のスモークのポリカ波板を屋根に張ったら明るい窓になりました。それに通路になっていた台所前に床のスペースができました。棚には早速モノが置いてありますが、棚の数は増やしません。物置ではありませんから。これで出来上がりです。
 さて2回にわたって「どんなふうに田舎暮らしをはじめたか」を書きましたが、ふり返ってみると「よくもまー、年寄りが、大きな「ダマシ」や「おどし」にも遭わず、街の家を手放して見ず知らずの田舎に住む踏ん切りをつけたものだ」と思います。失敗すれば「やり直せばいい」年齢ではありません。そんなねばりも経済力もありません。失敗していたら、人から「浅はかなことをしたものだ」と冷ややかに見られたでしょう。
 田舎暮らしを考えておられる方が、ぼくのブログをのぞいて、訪ねてこられました。60歳になられたばかりで、ぼくから見ると『前途洋洋』の若者みたいな方です。ぼくの体験を話して「時間をかけて考えてください。なるものはなるし、ならんものはならん。無理になんとかしようと思っても、どうにもならんときもあります」と言いました。
 かつてバブルの頃、日本中の土地は途方もない値段で取引されました。坪1万円もしない田舎の土地にも「20万円!」と声のかかった時代でした。その頃計算したお金の夢を忘れられない農家の方が、いまでも法外な値段で空き家を売り出すことはありますが、塩漬けになるだけです。ネットで田舎暮らし物件を検索してみると、6年前と比べて空き家のレベルも値段もこなれてきました。現実の取引に近づきました。しかも数が多い。いま売りに出ている空き家物件は100軒の空き家(または空き家同然の家)のうちの1、2軒でしょうが、これからは増えるしかありません。空き家のまま置いていても仕方がありませんから。
 それと街から移住した「田舎暮らしの先輩」が点在するようになりました。土地の人にきくのもいいですが、先輩を訪ねて話をきくとたしかな良質の情報が得られます。空き家探しでなく、家を建てるという選択肢もあります。田舎暮らしの門戸が広くなりました。定年後夫婦で移住するとなると、できれば二人とも田舎暮らしを希望している、二人とも運転免許を持っているのがのぞましいですね。
 
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