古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『アンネの日記』はいまもナチスを撃ちつづけています。

2014年02月28日 04時02分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 いまなぜか図書館で『アンネの日記』が破られて話題になっています。
 20年以上前のことですがぼくはその『アンネの日記』を精読したことがあります。〈初恋〉らしきところをチェックして、思春期の少女の想いにふれてみたかったのです。そのとき、この日記の背景も調べてみました。
 フランク一家は、秘密の隠れ家にかくまわれていました。しかし密告によって「ゲシュタポ」(ナチスの秘密警察)に踏み込まれ、収容所に連行されました。ゲシュタポは隠れ家を家宅捜索して、衣服や本を蹴散らしました。
 その時床に投げ捨てられた一少女のノートが、戦後70年たってもヒットラーを、ナチスを、撃ちつづけています。
 収容所で紙屑のように消された命が、いまもその犯罪を告発しています。

 日本はナチスと歩調を合わせて三国(日本・ドイツ・イタリア)同盟を結び、アメリカやアジアの国々に「大東亜戦争」を仕掛けました。そして軍部や憲兵の犯罪的な仕打ちが、戦争に負けてから告発されました。ぼくのブログでは何度もふれていますが、その仕打ちをした人たちの責任追及は、敗戦後きちんとなされたでしょうか。
『一億総ざんげ』という言葉で、天皇から無茶な命令をした上官までが〈免罪された〉ことにしたのではないか。
 ぼくは昭和12年に生まれました。すぐ上の世代は青年として戦争に巻き込まれ、徴兵され、中国やアジアの南の島にやられました。
 国民は満蒙開拓団として「満州」に送り込まれました。
 日本の軍隊はソ連侵攻のとき、開拓団を見捨て、日本国民を見捨てました。
 ソ連は敗戦直前の1945年8月9日に侵攻してきました。二日後の8月11日には飛行機で新潟に逃げ帰ってきた軍人があったそうです。日本の開拓団が逃げ惑っていたときです。『満蒙開拓青少年義勇軍』のことを取材していたとき聞いた話です。
「そんなことしたんか。そらわるい。だけと大昔のことやないか。いつまでもそんなことほじくらんでもええがな」
 と、言われそうですが76歳になるぼくは、その話になるといまも心が波立つのです。
 また、まとまらなくなりました。生涯言い続けるしかありません。
 日本にも『アンネの日記』のように《昭和軍隊の犯罪》を撃つ作品はいくつもあります。
 いまトイレ読書は『ルソンの谷間』です。どこでもいい、開いた数ページを、日々読んでいます。
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待望の雨よ、どうぞ降ってください。

2014年02月27日 03時07分23秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 しばらく雨が降らないので畑がカラカラです。
 桃坂の信号付近の畑でたくさん野菜をつくっている人が、きのう畑に水をかけていました。野菜づくりにくわしいあの人が水をかけるほどだから、よほど乾いているのでしょう。玉ねぎもイチゴも水が欲しそうです。
 きょうは雨の予報。どれほど降るかわかりませんが、どうぞしとしと降ってください。まだ龍神さまにお願いにまわっていませんが、できれば25ミリ程度がいいのですけど……。
 雨の前に頑張ろうと、きのうは畑仕事に精を出しました。
                  
 写真は25日に撮った溝です。畑に降る雨は、この溝にあつまって流れ落ちます。それだけにいつも湿っており、スズメノカタビラもびっしり生えています。雨水の流れがわるくなります。草をなんとかしなければなりません。スズメノカタビラを手で抜くのは無理だし、鍬で削るのも大変です。そこで耕運機で削りました。
 畑の乾いている今、鉄の爪をいちばん浅くして耕運機をかけます。草を削り、土の塊を砕くのです。毎日2往復耕運機を通して4日目。土の塊が乾き、小さくくだけてきました。で、きのうは土を左右にあげて溝をきれいに通しました。
 畑の10畝には有機石灰と元肥に鶏糞を入れて、耕運し直しました。そして、しんどかったけど、もう一度土寄せをして畝を整えました。
 これで雨が降るとばっちり。次に使うまで黒マルチをかけておいて、苗を植え、種を播くことができます。

 
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絶好の <畑仕事日和> でした。

2014年02月26日 02時49分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは絶好の <畑仕事日和で> した。で、一日中畑仕事をしました。
                 
 夕方5時半頃に撮った写真です。お彼岸が近くなってこんな時間まで仕事ができます。
 これは道子さんの仕事です。エンドウの支柱を立て、イチゴの草を抜いて追肥をしました。イチゴはことしも3畝にしましたから200株近くあり、時間と手間がかかります。
 道子さんは、イチゴの苗を植えるときは黒マルチをかけません。寒さにさらして鍛えてからかけます。とても面倒な仕事ですが彼女しかできません。まだその仕事が残っています。
 ぼくは畑をせっせと耕して、畝をつくりました。
                 
 スズメノカタビラがはびころうとしていますが、いまなら耕運して畝をつくり、黒マルチをかけておけば大丈夫です。写真のような畝(長さ10メートル)を10畝耕運しました。畝立てをしてから、ジョレンで左右に土寄せをして畝間を広くとります。
 きのうは5畝土寄せをしました。きょう残りの畝の土寄せをして、あした雨が降ってから黒マルチをかけます。
 こうしておくと、次になにかの苗を植えるとき手をすっと土に差し入れられます。「いい土になったなあ」と『土』に声をかけたくなります。あの気持ちよさを味わいたくて、畝づくりと土寄せに精を出しています。

 
 
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畑を耕運するのは「今です!」。

2014年02月25日 03時24分30秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 このところ雨が降りません。畑も乾いてきました。寒くても草たちは春を感じて、一挙に生長しようと力をためています。
 そんな春の草たちの中でも、特に手を焼くのが『スズメノカタビラ』です。ハマスゲとかギシギシとか「最強の雑草」と名前のつく草はいろいろありますが、〈草抜きの困難さ〉でいえばスズメノカタビラが最強です。このイネ科の草は、芽を出したときは稲の苗のようにほっそりしていますが、分けつ(株が分かれて増える)がすごい。何十倍もの大きな株になります。手では抜けません。鍬で掘ると根がごっぞり土を持っていき、地面に穴ができます。 しかもこの草は、寒くても、地面が固くても、どこにでもびっしり生えます。南極大陸でも観測隊員が発見したそうです。そのスズメノカタビラが畑の畝間にはびこりはじめました。そこで耕運機で畝間を耕しました。ネットのあるサイトに「21度以上になると滅びる」と書いてありました。それを信じて、とにかく土を掘り起こして畝をつくります。
 ということで久しぶりに耕運機を畑に持っていき、畝間や溝を耕しました。
 やっぱり畑仕事は気持ちがいい。一反三畝(400坪)の畑はちょっと広いけど、ことしも野菜づくりに精を出せそうです。
 夕方のテレビを見たら「河川敷や土手を勝手に耕して菜園にしてる人がある。災害のとき土手が弱くなる。もっと厳重に注意しろ。処罰が必要だ」といった論調の取材が放映されていました。田舎では耕作放棄地が増えているのに、畑の土ができるには数百年かかるのに、同じ国の中で「なんとかならんのか」と思いながら見ました。
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夜起き出して、NNNドキュメント 『自衛隊の闇』を見ました。

2014年02月24日 04時56分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 夕食後すぐに寝てしまい、深夜の1時前に起き出して何気なくテレビを見ました。「自衛隊員のいじめによる自殺」と「自衛隊を相手どった裁判」を取材したドキュメント番組をやっており、最後まで引き込まれて見てしまいました。
 番組の名前は『NNN ドキュメント11 自衛隊の闇 沈黙を破った遺族の闘い』(10チャンネル読売テレビ放映)でした。波立つ心を抑えて番組を見ていると、テレビ報道にたずさわる人たちの『正義感/良心』が伝わってきました。日曜日のみんなが寝静まった深夜枠にしか放送できなくても、正義を貫(つらぬ)くのだという気概に心打たれました。こんな内容の番組は、いまのNHKではつくれないでしょう。
 いじめによる自殺を「自衛隊という組織ぐるみで隠した」隠ぺい体質は、今年4月23日の判決で暴かれることになるでしょう。自衛隊員の自殺は一般公務員より多く(1,5倍)、1994年~2009年で1248名になるそうです。上官という立場での極めて性質(たち)の悪いいじめによる自殺です。それをこの報道チームはずっと追ってきたようで、それの前段の番組をいま〈you tube〉で見たところです。きょうの放送も近いうちにだれかが〈you tube〉にアップしてくれるのではないか。
 この判決は自衛隊をゆるがすでしょう。去年体罰が問題になり、多くの学校やクラブで暴力が追放されました。いま『闇』に強い光があたろうとしています。右傾化、ネット右翼、世の右寄り風潮などが冷水を浴びることになるでしょう。そうでなければいじめられた兵士たちの恨みは晴らせません。
 
 ぼくは昭和12年生まれですから敗戦のときまだ7歳。軍隊にはとられませんでした。でも軍隊内のいじめは聞いたり読んだりしています。そのたびに腹が立ちます。叔父さんは徴兵され、朝鮮に行かされました。そしていじめを受けました。柱にしがみついて「ミーンミンミン」と蝉のように鳴かされたり、四つん這いの姿勢を長時間とらされたり、殴られたり、子どもには聞かせられないけどもっと陰湿ないじめにもあったそうです。
 日本の昭和の軍隊ではどこでもそうだったようです。だから根本博中将が「わが連隊ではいじめを追放する」と旭川連隊で宣言したことを、このブログでも取り上げたことがあります。部下に残酷な戦闘や虐殺を強要した「いじめ」もありました。だから上官は後ろから「撃て! 突撃!」と命令した。先頭に立つと後ろから撃たれるから。元兵士のブログに書いてありました。
 まとまりませんが、この裁判は注目します。しばらくネットでこの情報を漁ってみます。
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Google マップ で、ぶらぶら見歩きました。

2014年02月23日 05時08分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 Googleマップで「街の通り写真」を見られるのは知っていましたが、田舎のほうは写真が出ませんでした。大雑把な集落全体の航空写真が見られるだけでした。ところがきのう夜中に起きて地図を検索してみたら、なんと我が家の前の道路も民家も写真で見られるではありませんか。我が家から山のほうに上がって人家のない田んぼまで。
「えっ? 田舎でも、人家のあるところは全部見られるようになったのか」
 ことしの年賀状を見て、いろんな人の住所を入力してみると、どなたの家も〈ストリート・ビュー〉が出てきます。どんな山奥でも。少なくともぼくが賀状交換をしている人の家は。数年調べてなかったし、「田舎だから仕方がない」と思っていたのに知らぬ間に進化しているのですね。驚きました。
 ぼくは、76年生きている間に、あっちこっちに引っ越しました。
 昭和12年に生まれたのは鳥取市の宇部神社近くですが、父が教員をしていて朝鮮に渡ったので家族みんながついて行きました。敗戦後は日本に引き揚げ(母の病気で、子どもたちは戦争に負ける前に内地に戻っていた)、鳥取県中部の山奥の分校、西部の山奥の分校、倉吉市の小学校と父についていき、転々と住所が変わりました。それぞれの土地、まわりの家々、樹木や川に、いっぱい思い出があります。
 60年たっても70年たっても変わらない、幼い頃に歩いた道、見覚えのある人家や樹木、神社やお寺を見ていくと、歳月の落ち葉に埋もれて朽ちてしまった思い出が立ち上がってきます。
「あんなことがあったなあ」「あんな目にあったなあ」「あんなやつがいたなあ」「……」
 ひとたび穴が開くと、いろんな思い出が浮き上がってきます。
 しばらくは〈Google マップ〉のストリート・ビューでそんな思い出にひたってみたい。 …… と思っています。
 
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温泉三昧(ざんまい)で骨休めをしています。

2014年02月21日 03時26分26秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 こう寒くては外に出る気がしません。野良着に着替えて一旦外に出てしまえば、それなりに体が動き、作業しているうちに気分がのってくるのですが、
気持ちがなかなか始動しないのです。そこにもってきて客人があり、いっしょに〈温泉三昧〉の時間を持っています。おとといは『よかたん』きのうは『ゆぴか』きょうはまたちがう温泉に出掛けます。
「ははーん、いかにも年寄りらしい時間の過ごし方だな」と自分のすることを眺めているところです。
 ところで11日に届いたあの《電動ウオーカー》ですが、三日坊主どころか、すっかり気に入りました。道子さんもはまってます。きのうぼくは30分コースを二本半歩きました。時速4キロメートルで5キロメートル歩いたことになります。それだけの運動をしただけでなく、縮こまった気分が広がったのを感じます。これで外があたたければ裏山や畑に出るのですが……。
 ところで冬季五輪ですが、いろいろですね。世の中多様になり、テレビという巨大なマスコミも王者でなくなりつつあります。それでもなんとかみんなに注目してもらおうと、冬季五輪をダシに盛り上げに必死です。《国や郷土を応援せよ》と強制的な感じさえします。こんな熱狂は思考力を低下させます。国対抗・地域対抗・学校対抗のスポーツ応援を盛り上げようとする空気には警戒しなければなりません。
 こんな話を聞いたことがあります。要約します。

 ある立派な講師が、「人間にとって大事なのは『寛容な心』です」とすばらしい講演をしました。
 満員の聴衆は、感動的な〈いい話〉に深く心を動かされ、熱狂的に拍手しました。ところが聴衆の中の一人が「いまの講演はくだらない」とつぶやきました。するとまわりの聴衆はその人に詰め寄り、袋叩きにしました。

 熱狂……思い出してください。昭和16年12月8日 あの大東亜戦争開戦の日を。国民みんなが熱狂した。頭上の暗雲が吹っ飛び、体の血が沸騰したあの日を。そして……。
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電動ウォーカーで歩いてます。

2014年02月18日 03時09分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                   
 パソコンの「引っ越し」をしてもらったら「ピクチャー」に写真が8000枚入っていました。それを引っ越してもらって、見やすいファイルになりました。ブログにもこのように取り込めるのですが、実は「写してきた新しい写真を取り込んで、それをアップする」やり方がわかりません。それで仕方なく過去のファイルから一枚アップしました。
 これは2010年の写真です。うちの庭に子どもの野兎がやってきて、菜っ葉を食べているところを撮りました。そのときにもアップした写真ですが、「こんなことがあったなー」と思い出しました。あの頃はまだ裏山の竹を切っていませんでした。竹が繁っていました。タヌキを見かけたし、キツネも見ました。この頃見かけませんがまだ裏山のどこかに棲んでくれてたらいいのですが.....。
 さて、寒くて「散歩」も「山仕事」「畑仕事」もお休みです。「寒くても頑張るぞ!」なんて思わなくなりました。
 しかし「人さまのお世話」にならずに生きていくには、身軽でなければなりません。母は何十年も体重30キログラムのまま。日常生活で手助けすることはほとんどありません。ちょっと手助けするにしても気軽にできます。
 ぼくはここに引っ越したとき52キログラムでしたが、いま67キログラム。76年生きた中で、30代の頃に一時65キログラムまで太ったことがありますが、それ以降60キログラム超になったことはありません。いつの間にこんなに太ってしまったのか。これでは立ち上がるときに15キログラムの砂袋を身に着けているようなものです。動きにくいし、人の世話になるようになれば「世話する人」の負担が大きくなります。
「暴飲暴食するでもなく、たくさん食べるわけでもないのに太って困る」と道子さんに言ったら、「高齢になると新陳代謝能力が落ちて脂肪が無駄に溜まってしまうんだって」。
 足場に立って「土手の草刈り」ができなくなれば400坪の畑づくりはやめるつもりだし、もっと太れば裏山の竹伐りだってしんどくなります。この体重を落とすのはいましかない。そう思って『電動ウォーカー』を買いました。アルインコの〈AFW3012〉という機種です。
 そして気づいたこと。
○ ぼくがいままで「散歩」「散歩」といってたのは全然運動になってなかった。退職して15年、散歩してたつもりだけど、あれは「物見遊山のぶらぶら歩き」でしかなかった。出勤で電車に乗るために駅に歩くときは〈目標〉があるけれど、ぼくの「散歩」はそんな目標をもたず、足の向くままにぶらぶら歩いていただけだった。
○ 「ベルトの上を歩くなんておもしろくないことをする。ぼくならすぐ退屈してしまう」。そう思っていたが、歩いた距離/消費カロリー/脈拍/時速/歩いた時間がわかるし、一定の速度で真面目に歩けるので気に入った。  きょうで一週間になりますが、毎日30分以上歩いています。
○ ダイエット効果があるかどうかまだ不明だが、気持ちが軽くなった。雨や雪のときは家でテレビを見てるくらいだったのに、家の中でしっかり30分歩けた。それがうれしい。気持ちが若返った気がする。
 ときどき電動ウォーカーの経過報告をします。よろしく。
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母と暮らして気をつけていること

2014年02月14日 04時01分14秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 高齢の母と暮らしていると、だんだんと老いてゆく様子を教科書で学んでいるようなところがあります。
 母はコタツが嫌いで、昔から電気炬燵を自分の部屋に置いたことがありません。〈石油ファンヒーター〉/〈電気セラミックヒーター〉を長らく使っていました。98歳くらいまではそれで大丈夫でした。ときどき手をかざしたりしながら、机に向かって本を読んだり、何か書いたりしていました。
 ところが98歳くらいになると、本を見ていてもよく居眠りするようになり、ときにはヒーターにもたれるように眠ってしまったりします。低温火傷をして、化膿すると大変です。で、熱源のある暖房器具を母の部屋から無くしました。寝るときに電気敷布は使用しますが。
 暖房はエアコンだけにしたのです。そして部屋に加湿器を置き、便所には脱臭・暖房機を置きました。ところが視力は弱っても電気製品がついているかどうかわかります。むかしの人はやたらスイッチを切りたがりますが、母に「自動運転にしてあるから必要なければ自動で切れる」といくら言っても、スイッチを切ってしまうのです。
 で調べたらエコの加湿器が売ってあります。それを部屋に置くことにしました。
             
 この自然の加湿器で、コップに水を入れて置くより20倍も蒸発すると書いてありました。エアコンつけっぱなしの部屋では水は2日もちません。毎日つぎ足す必要があります。これだけ蒸発すればしっかり加湿できるし、喉をいためることもないでしょう。
 次にテレビです。母はテレビというものを一切見ませんでした。読み書き専科の文学少女のまま老いて、100歳まで生きました。ところが98歳の頃からときどき居間のテレビを通りすがりに立ちどまって見ることがありました。ドラマの中身でなく美しい景色などを。そこで100歳のお祝いは〈ビデオ付きテレビ〉にしました。それを彼女の部屋に置き、満開の桜とか都会・森のDVDをつけました。するとずっとテレビをつけてそれを見ているのです。居眠っていてもテレビはつけてます。本を読む視力・気力は衰えたけれど、外から入るなにかを求めているのです。
 母を見ていると「老いの勉強」になります。
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「よろしくお願いします」 - 引っ越したパソコンから

2014年02月10日 02時43分14秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 まえのパソコンが〈Windows XP〉だったので、このたび新しいパソコンに引っ越しました。といってもぼくは、なにをどうすればいいやら。さっぱりわかりません。パソコンのことがよくわかる方のおかげで、引っ越すことができました。ありがとうございました。
 10月になれば七十七歳=「喜寿」をむかえるぼくが、いまの気持ちをきかれたら「生涯の伴侶を得た気持ちです」。ブログやメールをしていますから、一応毎日パソコンを開けますし、わからないことがあればネットで調べますし、〈良き友〉です。この先ぼくとパソコンとどちらが早く寿命がくるかといえば、「ぼくのほうが先に寿命がくる」と思っています。そのパソコンでブログが送れるようになったのですから、大仕事をした気持ちです。実際はそばで見ていただけですが。
 メールとか移し替えるたびに「これのIDとパスワードは何ですか」ときかれ、そのたびにドキッとしました。ちゃんとメモしたつもりなのにどれがパスワードでどれがIDなのか、この「合言葉」はいつの、どれにつかったものか、きれいに忘れています。「えーと、....」と考えたふりをしても思い出せるわけありません。それでもとにかく引っ越せたのですから、「うれしい、うれしい!」です。
 
 さて、雪が降りましたねえ。うちでもウッドデッキで測ったら8,5センチ。数年前に7センチ降ったことがありますがそれ以来の大雪です。誰も歩いてない福地池を周回する道を新雪を踏んで歩き、郵便ポストまで手紙を出しに行きました。
 しばらくは畑仕事も無理なので、裏山と小屋でごそごそします。道子さんと話すことがあります。「植木屋さんが丹精込めて手入れしてくれた我が家の庭を見て、縁側で静かにお茶を飲むのが〈いい老後〉と思ってみたりするけど、ちがうね。里山風の裏山の落ち葉をかき寄せ、植えた木の枝を剪定し、球根や花を植え、ツルハシで竹の根を掘り出し、たき火をするほうが満ち足りた気分になる」
 とってもいいところで暮らしてる気がします。
 
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パソコンの『お引っ越し』をしようと思います。

2014年02月09日 03時37分06秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ウッドデッキの手すりで積雪を測ったら8,5センチ。久しぶりの雪がうれしくて、村の中を散歩して畑にも寄ってみました。ふだんはわからない動物の足跡がよくわかります。そして発見しました。
               
 中央の丸い穴は畑(田んぼ)から水を落とす土管です。そこから畑の中に足跡が入っています。ひづめのようだからイノシシでしょう。溝を歩き、直径が30センチもない土管をくぐって、「うり坊」が入ったのでしょう。体の大きな親イノシシは電気柵がしてあるから入れないはずです。
 うちの畑は、ときどき電気柵を見まわって、ゆるんだ電線は締めてピンと張り、草の伸びたところは刈ってチェックしているのですが、こんな盲点があったとは。畑を一巡してチェックしましたがほかに動物が入った形跡はありませんでした。水の落し口には何か格子状の柵をつくってはめることにします。
 
 さて、いまのパソコンを使いはじめたときは、「これを買い替えるときが来る」なんて思いもしませんでした。たしか2004年頃に買ったと思います。あれから10年。
 いまもこのパソコンで満足しています。ネットを見れて、ブログを書けて、写真を取り込めて、メールができて、ときどき年賀状や老人会の案内状を書ければ何の不満もありませんでした。
 でも<windows XP>のバックアップがおしまいになるというので、こんなおじいさんまで買い替えさせられます。
 自分の力では引っ越しできませんから、お願いしています。
 これがいまのパソコンでの最後のブログになるでしょう。読んでいただき、ありがとうございました。ブログはこれからも書きますのでよろしくお願いします。
 
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『ジビエ』(狩猟鳥獣肉)が高級食材になればいいのですが……

2014年02月06日 06時35分46秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのう夕刊を見たら「厄介者をジビエで特産に」という見出しで、鹿やイノシシの肉が取り上げられていました。(朝日新聞)『ジビエ』とは「欧州で食材にする狩猟鳥獣肉」を指すそうです。
 それを高級食材として、鳥取県や長野県が売りだそうとしているんですって。それはまあ、食べる人はどんどん食べたらいいのですが、終わりのほうに「獣が増えて困る」話が書いてあったので紹介します。


 県内(鳥取県)では鹿とイノシシが年1万頭弱捕獲されているが、食肉として利用されているのは7パーセントほど。資源として有効活用したいが、 …… 「販路の確保が重要。今のうちに市場をリードしていきたい」と意気込む。 …… 中略 ……
 国内の鹿の生息数は、2011年度で約325万頭と推定されている。政府は昨年末、10年後に生息数を160万頭に半減させる捕獲目標を掲げたが、現状の捕獲率が維持できても25年度には500万頭に達するとみられている。 …… 中略 …… ただ、捕獲してもほとんどが埋めたり、焼かれたりして命が捨てられている現状に抵抗感を覚える人は多い。 


 生息数が出ているのは鹿ですが、イノシシだって負けないくらい生息しているはずです。それがわが三木市でも田畑を荒らしまわっています。うちの畑もイノシシに荒らされ、去年はカボチャや「安納芋」がこっぴどくやられました。今年は電気柵を設置しているのでいまのところ「セーフ」ですが、いつまでも大丈夫ではないでしょう。
 おととし丹後半島をグルッとまわるドライブをしたとき、電気柵を見かけました。うちの畑ではアライグマを防ぐねらいもあって、地上から20センチ間隔に3本の電線を張っています。(地上60センチの高さになる)ふつうはイノシシ防止の電気柵で2段に張ってあります。(地上40センチ)
 丹後半島の先端で見た電気柵には8本の電線が張ってありました。地上160センチの高さになります。鹿や猿を締め出すための柵なのでしょう。
 狩猟のできる猟師は高齢になってやめていくし、動物に荒らされて耕作放棄する田畑は増えるし。
 
 鹿肉・猪肉を食べたら内臓脂肪も皮下脂肪もグーンと減ってスマートになる。
 そんな研究が発表されたらいっぺんに解決するかなあ。
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いよいよパソコンを買うことにします。

2014年02月05日 03時54分16秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 パソコンのことはよくわかりません。
〈パソコンの雑誌〉をチラッとのぞくと、「パソコンらくらく引っ越し術」とか「いよいよ迫る……」と書いてあります。「あなたのパソコンはあと2ヵ月で鍵のかからない家になり、泥棒が自由に出たり入ったりします」。
 わからないので不安です。電気店に行っても、どれを買えばいいかわかりません。写真を取り込めて、メールができて、インターネットをのぞくことができて、ブログを書ければいい。facebook/twitter/line/とわけのわからないものが暗躍しているようですが、いまのブログ以上に自分のすることを拡大したくありません。
 もともとぼくはワープロ=『文豪』/『ルポ』で人生を終る〈こころづもり〉をしていました。
 ところがワープロが故障し、チラシをつくる立場になってパソコンに手を出し、デジカメで写真を撮り、インターネットをのぞき、ブログに手を染めるようになってしまいました。
 しかし同年輩でメールをやりとりする人は少なく「いまのレベルで人生の終点まで行けばいい」と思っていたのです。
 ところが友だちが「パソコンを買い換えることにしました」と先日メールしてきました。さー、落ち着きません。ウインドウズXPの期限が迫れば電気店は混雑して、ぼくははじき飛ばされてしまうでしょう。もうブログを書くどころでなく、落ち着かない日々です。
 しかしちょっと引いて考えてみると、「パソコンなんでわけのわからんものをわけのわからんままに使っている人は世の中にたくさんいる」はずです。
「とにかく安い、機能の少ない機種を買って、なんとか使えるようになって、それで《おしまい》にしよう」
 で、わかる人に選んでもらって、メーカーサイトで購入する気持ちになりました。
 すると不安がうすらいで、ブログを書く気持ちも出てきました。
 近日購入予定です。
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寒肥を入れ、竹を切りました。

2014年02月01日 04時07分43秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 寒い冬にもこんな日があるのですね。陽光に春を感じます。
 裏山に植えた木々に、寒肥を入れてまわりました。「肥料食い」の芝生にも鶏糞を撒きました。フジワラ・ファームの鶏糞を全部で3袋つかいました。
                    
 数年前「レモン屋」さんにいただいた〈クスノキ〉の苗が2メートル近くになりました。夕方だったのでフラッシュで葉っぱが光っていますが、なかなかの生長ぶりです。100年もすれば裏山のシンポル・ツリーになるかな。
 でも油断すると植えた木々が全部竹薮に埋もれてしまいます。斜面の急なところに生えてきた細い竹を、きのうは数十本切り倒しました。倒した竹を片付けるのは大仕事になりますからしばらくこのまま放置します。
 
 のんびり山や畑の仕事をして老後を過ごそうと思うのに、世の中のことが気になります。
 一つは〈日本の農業の未来〉 …… NHKのテレビで山形県高畠町の「米つくり」(有機農業のとりくみ)を放映していました。いま日本の米つくりは大きな問題にぶつかっています。そのことを国民がもっと知らなくては。
 二つ目は〈戦争したがる雰囲気をつくろうとしていること〉 …… 「ノモンハン事件」という『戦争』が昭和14年にありました。日本とソ連が戦争して、数万の兵士が死にました。モンゴルの羊飼いが羊を追ってくるくらいで何もない草原での戦争で、関東軍が暴走して起こしました。ノモンハンは、いまも羊飼いが羊を追って通ってるのでしょう。
 だれも住んでいない島をめぐって「一触即発」状態をつくろうとしているようです。「それで戦争になったらだれが責任をとるか」なんていう問題はどうでもいい。どうせ無責任に煽った人はあとで「ひらきなおり」・「いいわけする」だけですから。
 あーあ。
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