古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

ワルキューレ

2009年03月28日 03時25分32秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは、三田のワーナーマイカルに映画『ワルキューレ』を見に行きました。ぼくは若い頃からヒットラー関連の本を読むことがあり、加瀬俊一の『評伝アドルフ・ヒトラー」は何度も読み返しています。この著者は戦時中ドイツ大使館に勤務し、大島大使らといっしょにナチス要人に会った人です。彼の文面からは、ヒトラー、ゲッペルス、ゲーリング、ヒムラー、リッペントロープなどナチス要人の実感が伝わってきます。
 その本の中でもつよく印象に残っている『ワルキューレ』のヒットラー暗殺事件は、好漢シュタウフェンベルクのイメージとともによく覚えています。
 映画など何年も見たことがなかったのに、昨年秋には『パコと魔法の絵本』を、2月終りにはアカデミー賞に刺激されて『おくりびと』を見に行きました。そのときにこの映画のチラシを見て、ぜひ見たいと思ったのです。
 映画は歴史を忠実になぞって、事件を知らない人にもわかるように描かれています。あの時代の緊張感がよく伝わりました。
 ヒットラーは映画が好きで、いつもカメラマンがついてまわって撮影し、ぼう大な映像を残しています。その記録映画をよく見ているのでヒットラーの映像は覚えていますし、それだけのオーラがあります。1944年はドイツがつぎつぎと戦争に負けていくときです。7月といえばもう連合軍はノルマンジーに上陸し、東部戦線でも西部戦線でも敗北を重ねています。この映画のヒットラーは、そのときの彼の雰囲気をよく出していました。宣伝相のゲッベルスもすぐにわかりました。でもゲッベルスはもうちょっと似ていてほしかったなー。
 シュタウフェンベルクはこの映画に描かれている通りの人だったのでしょう。この事件ではのちに7000人が逮捕され2000人が抹殺されました。またヒットラーが政権を奪取してからの10年間で体制を批判した人たち20万人が抹殺されました。アウシュビッツとは別のゲシュタポの弾圧の恐怖。その恐怖を乗り越えてナチスを批判し、暗殺するしかないと国を憂えた人たちの気概に感動しました。特に同じ時代の昭和陸軍の生き様を読んでいるときだけに、日本の軍人の官僚体質や責任逃れの卑怯さと対比して。
 
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イチローの試合を見た話

2009年03月26日 03時13分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 田舎暮しをはじめる前は神戸のグリーンスタジアム(スカイマークスタジアム)が朝の散歩コースになる須磨区に住んでいた。オリックス・ブルーウエーブの応援に、球場内のスカイレストランでの食事に、また花火ナイトの野球見物にときに出掛けた。
 2000年10月13日、ぼくは家で夕食を食べてから歩いてグリーンスタジアムに野球観戦に出掛けた。オリックスのシーズン最終戦が行われる日で、アメリカに渡ることになったイチロー選手を見られる最後の公式戦だった。
 地下鉄の駅から多くの人が外野席のほうに流れていく。観戦チケットを買おうとしたらこの日は外野席は無料解放になっていた。イチローの守備位置のライトまで歩いて観客席に入ってみるとほぼいっぱいの観客で埋まり、「感動をありがとう」とスローガンを書いて掲げている女の子もいる。
 試合ははじまっていたが、イチロー選手は出ていない。彼はこの年8月終りの試合で右脇腹を痛め、以後ずっと試合に出ていなかった。そのイチローが9回の守りからライトの守備についた。歓声と拍手で観客は彼を迎えた。ボールが飛んできて彼が守ったかどうか覚えていないが、イチローはたしかにライトの守備位置に立っていた。
 試合は終った。選手がベンチに引き上げた。バックスクリーンの大型画面に、大地震の前年1994年に一軍に登場して、いきなり210本のシーズン最多安打を記録したイチローの映像が流された。この記録はいまも健在で、だれかが破るのは当分むずかしいだろう。打ってダイヤモンドを走りまわるのはまだ少年だ。「若い!」と画面を見る女の子の声。多くの観客は立ったまま画面を見て、なかなか帰ろうとしない。
 イチローがベンチを出て、ライトの守備位置に歩いてきた。観客は拍手と歓声で彼を迎えた。イチローが手を振り観客も手を振った。多くの日本のプロ野球記録を残してイチローはアメリカに渡った。そしてアメリカでも多くの大リーグ記録をつくりつづけている。
 彼のプレーは日本の多くの人たちに野球を見るたのしみを与えた。アメリカに渡ってからは、アメリカのそして世界の多くの野球ファンに野球を見るたのしみを与えてきた。
 日本での終りの二シーズン、イチローは怪我でシーズンの終りに試合に出られなかった。あれは日本だけにはおさめられない彼のプレーの何かがあんなかたちで表出したのではないか、といまも思う。その後の完璧なまでの彼の自己管理を見るにつけても。
 何より彼のチームをワールドシリーズで優勝させたい。野球は、試合に勝つためにチーム全員の知力体力を結集するスポーツだ。長年野球をしつづけてきたイチローはそのことをよく知っている。そして勝ちたいと願っている。イチローは記録のために野球しているんじゃない。WBCで彼が『勝ちたい!』と思ってチームを引っ張っていく姿を見るにつけ、いまでいえばマリナーズを強いチームにしてワールドシリーズで優勝させたいとつよく思う。
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日本国中WBCだったろうね

2009年03月25日 03時38分50秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうはWBCの優勝戦で日本と韓国のチームが対戦しました。
 これまでもWBCの試合はテレビで見てましたが、その観戦方法は:
①日本が大差で勝ってる場合、部屋に戻ったとき日本が攻撃中なら見る
②日本が大差で負けてる場合は見ないで仕事をする
③勝敗不明ならイチローの打席中心に点の入りそうな攻撃のときだけ見る
 このどれかでした。ずーっと集中してテレビ観戦しないで、家のまわりの仕事をしながらときどき見ていました。きのうの優勝戦もそうするつもりでした。竹薮の竹を切って割る仕事をしながら、ときどきテレビ観戦のつもりでした。
 ところが優勝戦は結局テレビの前に釘付けになってしまいました。10時から3時までなんにもしないで、テレビを見てただけ。引き込む魔力があの試合にはありました。
 あとでニュースを見ると、あちこちの街頭でも店先でも電気店でも、テレビ観戦に人が引き込まれていたようです。持ってる人は携帯電話のテレビで観戦したり。
 パブリック・ビューイングを大きな野球場や競技場やホールでやって、みんなで応援できたらよかったなー。連帯意識と歓喜に身をひたしてみたかったなー。
 多くの人の心に、あの試合の感動はいまも残ってるでしょうね。
 
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晴耕雨読の『読』にはまる

2009年03月24日 03時13分52秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 妙子さん(95歳の母)はとにかく字が好き。いまでもずっと本を読んでます。自分の本棚は読んだ本ばかりだから、いまは図書館から借りた『佐多稲子全集』にとりついてます。その妙子さんを二週間に一度市立図書館に連れていくついでに、ぼくも本を借りてます。三月のはじめに「久しぶりに松本清張を読んでみるかな」と清張全集の棚を見て『西海道談綺』を手にとりました。
 読み始めたら面白い。そして実に長い。2段組400余ページの全集で3巻。やっと2巻目が終わったところです。週刊文春に五年余り連載された時代劇の伝奇小説ですが、夜起きて読むからまだ一週間はかかりそう。
 冒頭で主人公の恵之助が妻を断罪する。モンテクリストの冒頭の脱獄エピソードは読む者を一挙に物語に引きずり込みますが、あれと同じ。
 そうそう。ヒットラー暗殺事件の映画『ワルキューレ』を見に行くつもりです。その前に加瀬俊一の『評伝アドルフ・ヒトラー』をざっと読み返してみよう。同時代を生き、接触したことのある人の描写はどこか人間の肌合いを伝えてくれます。
 棚を見ると数日前に買った水木しげるの『娘に語るお父さんの戦記』と保阪正康の『敗戦前後の日本人』という文庫本が積んである。なるべく買わないようにと思うけど、つい立ち寄って買ってしまう。
 日本が戦争に負けた頃『はなたれ小僧』だったぼくたち『アラコキ』の世代は、10歳前後の子どもの感性であの時代を見てきました。自分の戦争体験や大人の生きる姿を見て感じたことを語ることもなく。でもなにかを伝えよう。死ぬまでには。そんな願いをもつ人は少なくない。これからそんな本が出る。
 本を読むことが、死ぬまでたのしみでありつづけますように。
 
 
 
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竹薮ガーデニングその④

2009年03月22日 00時06分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 なれないパソコンで写真をサイズダウンして入れようとしたのですが、今日はどこをどう間違えたのかうまく写真が出てくれません。だからことばで。
 去年の冬は竹薮に木をいろいろ植えました。明幸園の店の人は粘土の竹薮に木を植えるのに賛成してくれなかったけど。でも穴掘りはしんどかった。だから今年の冬は二月の終りに寒肥をやっただけで苗木を買いに行く気が出ませんでした。
 しかし去年庭に植えた山椒が枯れたようだし、小屋を建てるために移植した山椒のほうは土に埋もれている。やっぱりタケノコシーズンには山椒がほしいなー。
 というわけで三月になって苗木を買いに出掛けました。そして買ったのが『ボックスウッド』。これは玄関横の流しに植え込みがほしいという道子さんの要望。この木は『西洋ツゲ』という名前がついてるほど植え込み・刈り込みには適した木だそうで、なるほど5本並べただけで植え込みらしくなる。それに一本380円と安い。(明幸園はどの木も安い。インターネットで調べてもここより安い店はないようです)ほかにも数本買って植えました。でも大きな穴を掘る気になれなくて、とにかく「植えた植えた」という感じ。
 ホントはサンシュウの黄色い花を写真で見てもらうつもりでした。去年植えた沈丁花やユキヤナギ、サンシュウは花が咲き、花海棠、ライラックなどもつぼみがついています。枯れた木もあるけどほぼ順調。やっぱりせっせと木を植えよう。
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散歩でツクシを摘みました

2009年03月20日 01時37分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ブログを意識して、朝の散歩にカメラを持って行きます。三月はじめに村の人たちが焼いたあちこちの土手にツクシがいっぱい。
 今日は摘んできました。「あとが大変なのよ」と道子さんは言ってましたが、夕方にはハカマをはずして佃煮にする用意ができました。もう胞子が飛びはじめています。この土曜日に孫が来てツクシ摘みに行ったら遅いだろうな。
 小屋の屋根に塗料を塗りました。カラートタンの波板を打ち付ければ雨の音は大きいし夏は太陽の熱で小屋が暑くなる。そこでコンパネをビス止めして、その上にアスファルトルーフィングのシート(コロニアル瓦の下に敷くシート)を張って屋根としました。そのシートにシーラーを塗り、上から瓦塗料を塗ったのです。こんな工法はないけどダメなら後日上から瓦を張ります。これで小屋はほぼ完成。
 畑の土手のカラスノエンドウがのびはじめました。盛り上がるように伸びたカラスノエンドウは刈りにくい。草刈りの労力がちがう。去年、4月末に休耕田を借りることになったときは、放置してあった土手なので刈払い機を振り回して悪戦苦闘しました。今年は早目に刈ります。

 
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竹薮ガーデニング その③

2009年03月19日 01時31分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は自生しているアセビ(馬酔木)の花です。竹を切ったので日が当たるようになり、木が元気になりました。アセビは、葉を煎じて畑の作物に散布するとムシに有効です。
 さて最初の大工仕事が一通り終わって、竹薮に木を植えようと思い立ったのは2008年の冬で、田舎暮しを始めて丸一年が過ぎていました。
 苗木を買ってきて、大きめの穴を掘りました。苗木は直径30センチ深さ30センチも掘れば植えられるのですが、竹薮に植えるときは深さ60センチ以上、直径1メートル以上掘って竹の根を取り除かねばと苗木屋さんに言われたのです。
 ツルハシで穴を掘りはじめて、竹薮の地中がどうなっているか思い知りました。地上の竹を切り倒せば庭になると思っていましたが、地下はその何倍もすごい。竹の根はタテヨコナナメと自由自在に走り、一層二層でなく三層にも四層にもなっています。その竹の根にねらいをつけて、ツルハシを力いっぱい振り下ろす。やっと根を切ったらその下にまた根がある。
 一つの穴を掘るのが半日仕事です。調子に乗って10本も苗木を買ったのにどうしよう、と途方に暮れました。
 ツルハシを力いっぱい振り下ろす仕事は、70年の人生で体験したことがありませんでした。竹の切り株を一つ掘り出すだけでも、大自然に全力で挑戦している気持ちになります。穴を一つ掘るのに竹の切り株を7つも8つも掘り出さねばならない。精根尽きるほどの力を振るう。
『開拓』という自然に挑戦する気持ちのいい言葉を、うわずみだけ使っていた。祖先がやった開拓を、そのスピリットを、ぼくたちはもう忘れてるのだろうな。
 
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竹薮ガーデニング その②

2009年03月18日 03時07分07秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 竹薮ガーデニングにいたるまでを伝えようと思うと、どうしてもこの写真からスタートしたくなります。我が家に来られた方なら「へー、こんなときがあったのか」と思われるでしょうが、これはわずか2年4ヶ月前、2006年12月20日の写真です。工務店から家の引渡しを受けて12月4日に引っ越し、ふたりでささやかに引っ越し祝いの蟹食い旅行に行き、まず取り掛かったのがウッドデッキをつくることでした。
 写真ではウッドデッキの材料を庭に広げて、道子さんがサンダーを掛けています。その向うに見える青いシートは、ぼくの大工仕事の作業所です。戸棚を横に倒して雨よけのシートを張り、板を切ったり削ったりしました。竹薮にある作業台は元々ここで使うためにつくったものです。キッチンのカウンターを作ったり、ぼくの部屋の特製の2メートルの机、台所の道子さんの机、戸棚などあれこれつくりながら、ウッドデッキづくりをすすめました。ふたりで冬至の日も大晦日もウッドデッキの材料を磨いたり塗料を塗ったりしたのを思い出します。
 ウッドデッキは1月の終りにできあがりました。道子さん、となりのおじいさんに手伝ってもらって堂々の完成。ぼくの生涯最大の工事でした。それから石垣をコンクリートで強化する工事にかかり、庭の柵づくり、庭に真砂土を入れてもらって畑づくり。そろそろ竹薮の手入れにとりかかることになりますが、それはまた明日。
 
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竹薮ガーデニングをやろうと思うまでには……

2009年03月17日 01時50分30秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 田舎暮しをしようと2006年3月にこの宅地を買ったときは、宅地につづくなだらかな竹薮は、盛り上がるようにびっしり竹が繁っていました。そこで竹薮の持ち主の了解を得て、夏の暑い日に何日も神戸から通って竹を切り倒し、宅地に引きずり出しました。
 竹の小山ができて、それを側溝工事の人にダンプに積んで持ち帰ってもらいました。ほんの三年前のことなのに「あの頃は若くて元気があったなー」と思うのはどうしてでしょう。特別なパワーが出てた。延々ノコギリを引き、二百本以上切り倒した気がします。
 その頃の竹薮は竹の切り株がびっしりあり、歩けるようにしようとか木を植えようとか考えるゆとりはありませんでした。とにかく家を建てて、69歳のうちに田舎暮しをはじめよう。動き出したのだから後戻りできない。3月に宅地を買い、5月には工務店を選び、8月に基礎工事をし、9月に棟上げ、11月に引渡し、12月に引っ越しと必死だったんだなー。
 写真は2006年8月10日の切り倒した竹の山です。
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竹薮がのさばる

2009年03月16日 02時24分19秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 写真は散歩コースの橋からの眺めです。川は美嚢川で、蛇行する川の両側には竹薮がつづいています。竹薮は両側のなだらかな山すそにも広がっています。その竹藪が年々山を這いあがり、雑木林を滅ぼします。我が家の裏山も同様です。
 竹薮が里山を占領してしまうのは全国的に問題になっていますが、里山に戻すのはしんどい作業です。竹を切り倒すことはできますが、それを小さく切って運び出すのは時間と体力のいる仕事だし、翌年にはまた生えてきて元の竹薮に戻ってしまいます。でも根気強く竹を切り続けないと里山は回復しません。
 この2年間竹を切り倒し、木を植えているのが裏山の200坪ほどのスペースです。明日はその『竹薮ガーデニング』を紹介しましょう。
 
 
 
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ヘンゼルじいさんとグレーテルばあさんは……

2009年03月15日 02時34分02秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 ヘンゼルじいさんが小屋に行こうとすると、ゴミ袋がやぶられゴミが散乱しています。グレーテルばあさんが「やっと芽が出たのに、花畑が踏み荒らされてる!」と怒っています。
 一体だれがこんなことをしたのでしょう。
 そのとき一匹の犬が近づいてきました。しっぽを振っています。首輪はしてるけど見たことのない犬です。
 ははーん。犯人はおまえだな。
 どうやら自首してきたようです。
 ヘンゼルじいさんとグレーテルばあさんは、どこかの飼い犬が迷ってきたのだがら、下の村まで連れていけばうちに帰るだろうと話し合いました。
 グレーテルがイリコの頭を二三コ、道に置きます。犬はそれを食べ、またグレーテルについて行きます。グレーテルはまた先のほうにイリコを置き、犬が食べます。下の村に近づいてきました。ヘンゼルは後ろからゆっくり車でついて行きます。
「もう自分の家がわかるだろう」ヘンゼルが声をかけ、グレーテルは車に乗って、スピードを出して帰ってきました。
 昼ごはんを食べて外に出てみると、家の前の道にあの犬がいます。
「なんで戻ってきたんだ。おまえのうちに帰れ」といっても、動こうとしません。
 近所の人が出てきて「いくら追っ払ってもどこにも行かないので警察に電話しましたよ」といいます。ぼどなくパトカーが来て、おまわりさんが二人がかりでつかまえてつれていきました。
 日が暮れるころ、グレーテルばあさんが窓の外を見て「うまく飼い主のところに戻るといいね」とつぶやきました。
 写真は戻ってきたときの犬で、家の前の道で番犬気取りのポーズをとっています。
 
  
 
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妙子さんは春を待っています

2009年03月14日 02時31分44秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 妙子さんはブログを立ち上げたぼくの母の名前です。大正2年生れでいま95歳。5月になれば堂々の96歳。いまどき『堂々の』なんて威張れないかな。裏山に入って、伸びてくる草や笹を小鎌でちぎるのをたのしみに、春を待っています。体重30キログラムを、もう何十年も維持してるから身軽です。そんなに頑強でもなかった妙子さんが、こんなに生きるとは本人も意外だったようで、いまや『アラコキ』(70歳前後)の子どもたちも「寿命というのは、ほんとにわからんものだ」と実感しています。
 息子は古希近くなってから田舎暮しを始め、いくらか自慢げに『古希からの田舎暮し』なんてブログを立ち上げちゃったりしてるけど、64歳まで山陰の田舎で暮らし、94歳まで神戸でアーバンライフを楽しみ、また近郊でセカンドカントリーライフを楽しむ妙子さんにしてみれば、チャンチャラおかしいかも。
写真は2008年秋、慈眼寺の紅葉見物のとき妙子さんと息子のツーショット。
 
 
 
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我が家の遠望……朝の散歩

2009年03月12日 22時58分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 春になってまた朝の散歩をするようになった。今日はデジカメで遠くから我が家を写してみた。手前の池は『左の広池』(さのひろいけ)という。池から我が家まで直線で100メートル足らず。数軒の家が写っており、中央の平屋が我が家だ。
 家の後ろの小山には名前はない。竹薮が上まで這い上がっている。竹を切って里山のようにしたいのだが、することがたくさんあってなかなか竹切りの順番にならない。
 田舎に暮すようになって、「退屈する」ことが一切なくなった。今日はなにをしようかな。家のまわり、裏の山、畑をうろうろしていると、つぎにする仕事がイメージになって浮かんでくる。そのイメージを映画を見るように眺めていると、仕事をする力がわいてくる。ちょうど力が満ちてバッタが跳躍するように。力が不足してたら仕事はお休み。昼寝をするか温泉にでも行くか。
 ああ、自由っていいなー。
   
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これがhatake400です。

2009年03月12日 02時25分06秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 一反三畝=400坪。田舎暮しの二年目に村の人に借りた休耕田の面積です。耕土改善のすんだ田んぼとしては小さいほうです。
「家庭菜園にするには広すぎる。とても半分もつくれない。残りの半分は草ぼうぼうになってしまう」2008年4月の末に借りたときの気持ちでした。まず草刈り機を買ってきて、5月の連休までに土手と田んぼの草を刈りました。自由奔放に伸びている草々、特にカラスノエンドウがのさばっていて大仕事でした。
「菜園として使ってもらえるなら、営農組合の大きなトラクターを入れて耕してあげましょう」地主さんの好意で連休に畝立てをしてもらったのがこの写真です。
 借りてからもうすぐ一年。いまでは家から一分ちょっとの畑のない生活は考えられない。孫たちはやってくると冬でも畑に行くのをたのしみにしてます。
 そんな孫たちのために100坪ほどをレンゲ畑にしました。あとひと月もすればレンゲ祭りだな。イチゴ狩り、芋掘り、たき火と焼き芋など、今年も畑からいっぱいよろこびをもらうだろうな。畑さん、よろしく。
 
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春になるのにまだ小屋づくり

2009年03月11日 01時49分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 1月に農機具や肥料などを入れる小屋をつくりはじめたのに、まだ完成しません。春になって、これから畑仕事をあれこれしなければいけないのに。
 小屋をつくろうと思い立ったときは、片なだれの雨よけの掘立て小屋をイメージしていました。幅一メートルほど家の軒を引き出して、タマネギをぶら下げるために。ところがだんだんイメージと意欲がふくらみ、独立した小屋を建てたい気持ちがつよくなりました。もう少しくわしくその気持ちを語ると、「71歳になるオレのこれからの人生に、小屋を建てるチャンスはもうないだろう。生涯に一度小屋を建てるなら、家の形をした、屋根が三角になる小屋を建ててみたい」です。
 そう思い立つと次々と智恵と体力がわいてきて、写真のような小屋ができました。三メートル×六メートルの、三角屋根の小屋です。ホームセンターで材木・コンパネ・足場パイプなどの資材を買って、店の軽トラを借りて運び、床の土を一輪車で山に運んでコンクリートの床にし、おじいさんになった自分の、いまの力をフルに使い切って仕事をした冬でした。
 小屋の中で棚をつけたり仕上げの仕事をしていると、小屋をつくったよろこびが、ふつふつとこころを満たしてきます。外壁塗装などの仕事は残っているけど、道子さんが小屋におやつを持ってきてくれて、二人で大工作業台でお茶を飲んでいると、新たな自分の城ができた気分です。伝わるかなー、この満足感……。
 
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