古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

軽トラでドライブしました。

2022年01月31日 20時50分16秒 | 古希からの田舎暮らし
 軽トラを購入したのは2010年5月でした。4WD/冷房付き/オートマチック/の軽トラにしました。今年の5月に6回目の車検を受けるつもりです。この冬はほとんど乗っていないので、バッテリーが心配です。バッテリーに喝を入れようと、軽トラで2時間ほど三木市内をドライブをしました。
 まず郵便局などの用事をすませてから、細川町の道を瑞穂のほうに走りました。
 細川町の瑞穂のほうに行く道は、自動車が少なく、いかにも田舎の道らしい。大きなトラックはほとんど通りません。両側がなだらかな丘になり、民家がほどよく散らばっています。谷間の空気がのどかで、軽トラで走るのがよく似合う、好きな道です。
 国道428号線に出て、途中からみなぎ台のほうにおりてきました。そこから渡瀬のほうにまわり、県道20号線をかえってきました。
 今日、ほかにしたことといえば、電動ウオーカーを34分歩いただけです。グウタラの一日でした。
 大寒ですから、裏山の樹樹に寒肥を入れます。今年はJAの鶏糞を2袋。芝生にも鶏糞を1袋入れます。
 さ、明日から働くぞ!
 
 
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吉村昭『帰艦せず』を読みました。

2022年01月31日 02時51分01秒 | 古希からの田舎暮らし
 吉村昭の短編小説集『帰艦ぜず』を図書館で借りて読みました。重い気持ちです。
 吉村昭は思いつきでフィクションを書くような作家ではありません。自分で納得のいくまで取材して、登場人物が自分の中で立ち上がるのを受けとめて書く作家です。それだけにあの戦争で苦しんだ人たちの「生きざま」が胸にこたえます。
『帰艦せず』は「戦時中に軍艦に乗っていた兵士に、外出許可が出て、期限までに帰艦できなかった」物語です。
 ぼくはあの戦争での「下級兵士の戦記/苦労した話/いじめられた兵士の体験談」などをかなり読んできました。江崎誠致の『ルソンの谷間』/結城昌治『軍記はためく下に』/水木しげるの戦争体験を描いた本/いろんな人の書いた『インパール戦記』/伊藤圭一の中国戦線・戦記/ペリリュー戦記など、いっぱい。主に読んだのは、兵士自身の体験です。
『帰艦せず』は兵士の親や身内の「つらい思い」を語る話です。
 戦地での、兵士自身の苦しみや痛みは大変です。でもそれは兵士ひとりの問題でない。兵士には親があり、兄弟や身内があり、生まれ育った土地がある。兵士は降ったように出現したのではなく、親から生まれ、子どもとして生き、成長して兵士になったのです。
 あの戦争で日本人は310万人死んだ。その数字のうしろに、親や兄弟や身内がいる。その「うしろ」の「つらい日々」に思いをいたす。それが不十分だった。という思いです。死んだ人はつらかったでしょう。あとにのこって生きた人たちもつらかった。そのつらさに思いをいたす。気力がおとろえていますが、こころがけます。
 
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隣り村と総出で草を燃やしました。

2022年01月30日 16時49分51秒 | 古希からの田舎暮らし
 先週の日曜日には、隣り村と総出で堰堤の草刈りをしました。福地池/蛇ガ池/無施池/の草はきれいに刈られています。一週間雨がなくて、草はよく乾いています。今日は隣り村と総出で〈草燃やし〉の日です。毎年堰堤の草がきれいに燃えたあとで「あー、草燃やしやったんだ」と思っています。あの高い堰堤の草が燃え上がるところは見ていません。
 今年は絶対に見てやろう。「1時から総出で燃やす」と村の人にきいて、写真を撮りに出ていきました。福地池堰堤の写真です。

 消防のポンプで燃やす境目には水をかけておき、火をつけます。

 堰堤の山との境界からも燃やしていきます。
 刈った草はよく乾いているので炎が堰堤を這い上がっていきます。

 きれいに焼き上がりました。このあと、九文小池の土手、蛇ガ池の堰堤、無施池の土手も燃やしてまわりました。
 ここに住んではじめて、いい見物ができました。
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ほだ木を仮伏せしました。

2022年01月27日 13時44分44秒 | 古希からの田舎暮らし
 シイタケ菌の駒は80個余りました。で、もう一本ほだ木を買って打ち込むことにしました。昨日は夕方コメリに出かけました。ほだ木だけ買うつもりでしたが、道子さんは重たいほどなにかを買い込みました。「ついでに」と思っても〈ついで〉のほうがふくらむ。よくあることです。
 今日はまずほだ木にシイタケ菌の駒を打ち込みました。
 次に〈仮伏せ〉をするのですが、竹を伐って台をつくることを考えていました。裏の小屋に来てみるとアルミの柱が目につきました。これはテントハウスの柱です。一昨年のテントが破れてしまったので、去年は新しいテントを設置しました。破れたテントは、布を捨てて、アルミの柱だけ残していました。それで仮伏せの台をつくることを思いつきました。

 水平をとって四角に組みました。〈仮伏せ〉はシイタケ菌がほだ木にまわるように寝かせておきます。そのときほかの菌がはびこらないように地面から浮かせます。下は湿っているほうがいい。ほだ木置き場の横で、日は当たらないし、ちょうどいい感じです。
 今日打ち込んだのと合わせて7本を井桁に組みました。

 これに4月までカバーをかけておきます。そのあと、ふつうのほだ木置き場に立てかけます。
「やってみよう」と思っていることがあるのですが …… 。シイタケ菌の駒が10個ほど余っています。それを、いま生えている山桜の幹に打ち込んだらどうなるか。この山桜は日陰になり過ぎて〈困りもの〉なんですけど。
 もうちょっと考えます。
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「昭和2年生まれ」と「昭和12年生まれ」

2022年01月26日 11時59分15秒 | 古希からの田舎暮らし
 城山三郎の『嬉しゅうて、そして … 』という随筆の本にこんな文がありました。それを見てぼくの思ったこと。


 吉村昭(作家)さんは、私(城山三郎)の作品集のためにこんな解説を書いてくれたことがある。

 私(吉村昭)は、昭和20年夏に敗戦という形で終わった戦争に対する考え方は、その時の年齢によって相違するということを、エッセイに書いたことがある。極端に言えば、一歳ちがうだけで戦争観がことなっている、と。『大義の末』を読んだ私は、自分の戦争についての考え方が氏のそれと確実に合致し、同年生まれであるからだと思った。(『城山三郎伝記文学選4』「昭和2年生れの眼差し」)

 昭和2年生まれは、少年時代を戦争の中で過ごし、青年時代の入口で敗戦を迎えた。「末期戦中派」という言葉があるが、私(城山三郎/吉村昭)たちは末期も最末期である。  (中略)  私は、名古屋の商業学校の生徒だったが、軍神杉本五郎中佐の著書『大義』に感銘を受けて徴兵猶予を返上して、海軍特別幹部練習生に志願した。自分なりにお国のために尽くそうと考えたのである。しかし、敗戦までの数ヶ月間過ごした海軍の最底辺は、私の期待していた皇軍の姿とは似ても似つかなかった。上官による意地悪の日々。士官は白いパンを食べ私たちには芋の葉と蔓(つる)だけ。そして戦争が終わると、手のひらを返したように、民主主義を唱え出す大人たち。この経験を書かずには死ねないという思いが、私を文学に向かわせた。自分の体験を『大義の末』『生命の歌』といった小説に書いた。
 吉村さんは、その私の作品に、自分と共通するものを感じ取ったようだ。

 少年であった私(吉村昭)の眼に映った戦時下の日本人は、戦争を勝利に導こうと努めている人たちの群れであり、あの人たちが終戦の日を境にカメレオンが環境によって体色を変えるように変節したことに、私は全くの虚脱状態におちいっていった。少年と青年のはざまにあった私は、その変化に応ずることはできなかったのである。自然に、人間というものに対する根強い不信感がうまれ、それは自分の内部に深く食い込み、今もって物事の判断の基礎になっている.   (同前)

 と吉村さんは書かれている。これは、吉村さんの文学の底にある視点であり、私にも共通するものである。


 ここまでが引用です。ぼくは昭和12年生まれです。城山三郎/吉村昭/などの10年あとに生まれました。7歳か8歳のときに敗戦です。山陰の山奥では、戦争のことは何にもわかってなかった。ただ都会の方では、多くの子どもは親や身内を失い、食うものもなく、浮浪児として死んだ子も、生きのびた子もいるでしょう。その人たちが84歳になります。
 国民学校に入学し、途中から小学校と名前が変わり、2年生の2学期から教科書に墨を塗り、新聞紙みたいな粗末な教科書が配られ、級長の選挙をさせられました。(それまでは担任の指名でした)みんなで相談したわけではないけど、組で一番成績の低い子に投票が集まり、先生が説教しました。また選挙し、また同じ子が選ばれ、また説教。結局どうなったか忘れました。
 中学の音楽の時間は「君が代」に代わる新しい国民歌「緑の山河」を習い、声高らかに歌いました。道子さんはこの歌に合わせて運動会でダンスをしたといいます。平和と民主主義の時代が到来した感じです。
 そしていま、84歳になって。 ここからのつづきが書けません。同じ世代の人たちに、通じ合う思いがない気がします。
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シイタケの菌を打ち込みました。

2022年01月25日 17時43分06秒 | 古希からの田舎暮らし

 シロハラは茂みからピョンピョン跳んで出てきます。スズメが粟をついばんでいると、近寄ってえらそうにします。スズメはパッと飛び立ち、またすぐ地面におりて粟をついばみます。こわがっていないようです。そんな鳥たちがおもしろくて、何度も窓から裏山をのぞきます。スズメは20羽超飛んできます。やっぱり冬は餌が少ないから、粟を思い出したのでしょう。
 4月まではたのしみがつづきます。3月にはウグイスが鳴きはじめます。春の気配が待ち遠しいな。

 今日は午前中にシイタケのほだ木にシイタケ菌を打ち込むつもりでした。でも外は寒い。まずたき火をして焼き芋。お昼は焼き芋と小さいおむすびのランチ。昼寝をしてからほだ木の作業をしました。

 地面にほだ木を置くと腰をかがめます。それはしんどい。作業台で。6本のほだ木に320個の菌を打ち込みました。80個菌が余っているのでもう一本ほだ木を買うかな。
 穴をあけるのはコード式のインパクトドリルです。パワーが全然ちがいます。このドリルはいまの家を建てるときに、大工さんにすすめられて買いました。ふだんの大工仕事はバッテリー式のインパクトドリルで間に合いますが、シイタケの作業はやっぱり。
 ちょっと仕事をした日でした。
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シイタケのほだ木を買いました。

2022年01月24日 20時30分27秒 | 古希からの田舎暮らし
 シイタケのほだ木といえば、一本500円という感覚でした。しかし、いまは一本1000円します。
 裏山にほだ木置き場はあるし、旅行や外食でぜいたくすることもないし、シイタケの原木を6本買いました。粟粒(バードフィーダー用)を買いに出たついでに。明日は、電動ドリルで穴をあけて菌を打ち込みます。たのしみな仕事です。
〈ナフコ〉で「ほだ木」を買ってから、粟粒を買うために〈ナンバ〉にまわるつもりでした。念のため「小鳥の餌はありますか」とナフコでたずね、ペット用品売り場へ。行って驚きました。ペット用品売り場がこんなに充実していたとは。世はペットブームなんですね。
 小鳥用の粟粒は4キロ入りの大袋があります。買ってかえりました。渡り鳥のシロハラやアオジが春にどこかに行くまで、毎日まいてやります。4キロでは2カ月もたないかも。毎日、窓から裏山を眺めるたのしみがあります。スズメ/シロハラ/アオジ/のほかにも、エナガ/メジロ/ジョウビタキ/などがやってきます。バードフィーダーをつくってよかった。野鳥を見るのがたのしみです。
 
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村の人総出の草刈り/次の日曜日に燃やします。

2022年01月23日 19時28分18秒 | 古希からの田舎暮らし
 散歩に出た道子さんが帰ってきて「村の人が総出で蛇ガ池の草刈りしてるよ。軽トラが20台ずらっと並んで止まってる」といいます。
カメラをもって出かけました。みなさんは仕事中です。近くに寄るのは遠慮して、遠くから撮りました。

 左のほうと右の道に軽トラが止めてあり、蛇ガ池の堰堤を草刈りしているところです。蛇ガ池/福地池/は隣り村と共同で田んぼの水をもらう池です。草刈りも共同でやります。村をウロウロしているのは老人が多いですが、日曜日は、若い勤め人も出てきます。老人にはむずかしい堰堤の斜面も、若い人なら草を刈れます。背負い式エンジンの草刈り機は音が違います。みるみる草が刈り倒されていきます。
 見とれていたら道子さんが「村は生きている、ってひしひし感じるね」といいます。たしかに老人の野良仕事とパワーがちがいます。
 刈り倒した草は一週間放置して干します。来週の日曜日に、また総出で消防団のポンプを引きながら、草を燃やします。毎年、忘れて見逃しますが、来週はカレンダーに記入して、忘れないように見たいと思います。

 我が家の玄関から70メートルくらい山の方に行くと、写真の茂みがあります。ここは分譲宅地です。5年くらい前に、この区画の所有者が茂みの木を全部伐り倒し、片づけ、草を刈って、更地にしました。75坪160万円と看板も立てました。
 5年で元の茂みに戻りました。細い木がいっぱい生えています。〈元の木阿弥〉ですね。そんな区画が70以上あるそうです。昭和46年頃に宅地分譲で売れたそうです。土地を買った親は亡くなり、いまは子供が相続しているのかな。どうしようもありませんけど。

 バードフィーダーにスズメが帰ってきました。30羽近く群れて飛んできます。地面の粟粒をついばんでいます。するとシロハラがやってきて、ちょっとおどします。スズメたちは、パッと飛び上がり、また下りて、ついばみます。シロハラを恐れてはいません。アオジも2,3羽飛んできます。シロハラはアオジには知らん顔しています。毎日粟を撒くのでなくなりました。餌の切れ目が縁の切れ目にならないように、明日粟を買いにでます。
 
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『独ソ戦』を読みました。

2022年01月23日 03時01分00秒 | 古希からの田舎暮らし
 先日紹介した『独ソ戦』という本には、引用したいところがいっぱいあります。文明国同士の地上戦の残虐さ/ヒットラー/ナチス/スターりン/など。その中で一つだけ。(「共犯者」国家)という項目のところから引用します。


 ドイツ国民は何故、絶望的な情勢になっているにもかかわらず、抗戦を続けたのだろう。第一次世界大戦では、総力戦の負担に耐えかねた国民は、キールの水兵反乱にはじまるドイツ革命を引き起こし、戦争継続を不可能としたではないか。ならば、第二次世界大戦においても、ゼネストや蜂起によって、戦争を拒否することも可能ではなかったか。どうして、1944年7月20日のヒトラー暗殺とクーデターの試みのごとき、国民大衆を代表しているとはいえない抵抗運動しか発生しなかったのであろうか。
 これらの疑問への古典的な回答として、しばしば挙げられるのは、連合国の無条件降伏要求である。周知のごとく、1943年1月のカサブランカにおける、ローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相の会談で打ち出された方針で、枢軸国に対しては、和平交渉を通じての条件付降伏を認めないとするものだ。ナチス・ドイツは、無条件降伏など、全面的な屈服と奴隷化を意味することだと喧伝し、それをまぬがれたければ、ひたすら戦い抜くしかないと、国民に対するプロパガンダに努めた。また、体制の統制・動員能力が、秘密警察等により、第一次世界大戦のときよりも飛躍的に高まっていたため、組織的な罷業や反抗など不可能だったとする説明もある。
 けれども、近年の研究は、より醜悪な像を描きだしている。本書でも述べたごとく、ナチ体制は、人種主義などを前面に打ち出し、現実にあった社会的対立を糊塗して、ドイツ人であるだけで他民族に優越しているとのフィクションにより、国民の統合をはかった。しかも、この仮構は、軍備拡張と並行して実行された、高い生活水準の保証と社会的勢威の上昇の可能性で裏打ちされていた。こうした政策が採られた背景には、第一次世界大戦で国民に耐乏生活を強いた結果、革命と敗戦にみちびいた「1918年のトラウマ」がヒトラー以下のナチ指導部にあったからだとする研究者もいる。
 とはいえ、ドイツ一国の限られたリソースでは、利によって国民の支持を保つ政策が行き詰まることはいうまでもない。しかし、1930年代後半から第二次世界大戦前半の拡張性政策の結果、併合・占領された国々からの収奪が、ドイツ国民であるがゆえの特権維持を可能にした。換言すれば、ドイツ国民は、ナチ政権の「共犯者」だったのである。それを意識していたか否かは必ずしも明白でないが、
国民にとって、抗戦を放棄することは、単なる軍事的敗北のみならず、特権の停止、さらには、収奪への報復を意味していた。ゆえに、敗北必至の情勢となろうと、国民は、戦争以外の選択肢を採ることなく、ナチス・ドイツの崩壊まで戦いつづけたというのが、今日の一般的な解釈であろう。
 つまり、ヒトラーに加担し、収奪戦争や絶滅戦争による利益を享受したドイツ国民は、いよいよ戦争の惨禍に直撃される事態となっても、抗戦を放棄するわけにはいかなくなっていたのである。


 読みながら胸に手を当てて日本のことを考えました。
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雪の日に〈たき火・焼き芋〉をしました。

2022年01月21日 16時52分33秒 | 古希からの田舎暮らし

 天気予報に「雪」はなかったから、裏山で〈たき火・焼き芋〉をしようと外に出たら、雪が降ってきました。「雪が降る」といっても恥ずかしいほどわずかな雪です。ぼくは山陰の山奥で育ちましたから、こんな雪は雪とも思いません。かまわずたき火をして、1時間ほど焼き芋をしました。
 旧年中に〈よかたん〉に行ってみたら、サツマイモは出ていませんでした。地元の野菜を売っているホームセンター「ナンバ」にもこの頃サツマイモが出ていません。東条道の駅にはサツマイモが売ってあります。先日、焼き芋数回分を仕入れたところです。
 我が家はすっかり焼き芋ファンになって、ベニハルカの焼き芋のおいしさにはまっています。今日も軽いにゅーめんと焼き芋のランチにしました。

 電動ウォーカーの運動はつづいています。時速3,6キロで2キロ歩いていましたが、少しスピードを上げています。時速3,8キロで歩いたり、調子のよい日は時速4キロで、2キロメートル歩きます。万歩計をポケットに入れていますが、これは運動とはあまり関係ないと思うようになりました。外で動けば1万歩になります。しかし、仕事をする目的で歩くのですから、自分のペースです。運動とはいえません。電動ウォーカーは一定のペースで歩きます。歩いていると、運動の実感があります。「これが運動なんだ」。
 33分くらい歩くのですが、その間に「なんかしんどいな。今日はやめようかな」/「ちょっとスピードを上げてみよう」/「大股に歩いてみよう」/「20分たった。今日はちょっとサボりたいな」/と、いろんな気持ちが浮き上がってきます。その「思い」を「つよく押さえ込もう」とは思いません。いつでもやめるつもりです。でもいまは、一つ一つ乗り越えながら歩いてます。

 あーあ! 全豪オープンで大阪なおみが負けてしまいました。3回戦で。来週は試合がありません。いっぱい言いたいことがあるけど、言っても、どうしようもありません。それにしても、あーあ。
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今日は大寒です。味噌を仕込みました。

2022年01月20日 13時46分58秒 | 古希からの田舎暮らし
 毎年やっていることですが「えーと、どうだったかなー」と思案しそうになるので、諸道具の配置を写真に記録しておきます。

 カウンターの白い箱は「電動ミンサー」です。「母の麹」店はこのミンサーを20台そろえており、貸し出してくれます。2009年の冬は、それを借りて味噌を仕込みました。しかし、使ったら返しに行かねばなりません。「2万円するけど買おうか」と2010年に思い切りました。その時のブログに「〈アラ70〉のじいさん・ばあさんが、何年使うかわかりませんけど」と書いています。
 今年で13年目。84歳/80歳。今年も役に立ってます。「もういいでしょう」と声がかかるところか。
 昨日8時間とろとろ煮た大豆に、水を足してまた煮ました。ほどよく冷めたところでミンサーにかけます。仕込みは午前中でおしまいです。片づけがすんだら、温泉にでも行きたいところですが、コロナで気持ちがそがれます。
 昼寝でもするか。
 
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今年も〈大寒〉に味噌を仕込みます。

2022年01月19日 19時45分39秒 | 古希からの田舎暮らし
 今年の大寒は1月20日です。明日は味噌を仕込みます。今日は稲美町の『母の里麹』さんに麹をもらいに行きました。22キロ注文しています。持ち帰った麹は、手でもみほぐしました。5キロを一袋に入れて、塩を混ぜておきます。
 道子さんは昨夜から大豆を大鍋に入れて水にかしています。稲美町に出かける前に3時間大豆を煮ました。

 一つの鍋に1,5キロの大豆が入ってます。これを飴色になり、指でかるくはさむとつぶれるくらいまで、とろりとろりと煮ます。圧力鍋で、短時間にやわらかくしてしまう煮方もありますが、味噌の味がちがいます。今日は8時間煮て、明日の朝、もう一度火を入れて、ミンサーでつぶし、麹と混ぜて、仕込みます。
 うちはオール電化で、ガスは来ていません。携帯コンロ3つとIHヒーターで4つの鍋をつかいます。
 体の動くかぎりは味噌をつくり続けることになりそうです。

 大阪なおみは、今日が2回戦。第一セットは6-0で楽勝と思ったのですが、第二セットは危なかった。精神的に不安定なところがあるし、ミスを連発すると気持ちを立て直すのがむずかしい子です。ヒヤヒヤしました。
 問題は3回戦です。おそらくベンチッチが勝ち上がってくるでしょう。彼女は東京オリンピックで優勝しました。大阪なおみは、ベンチッチに三連敗しており、苦手としています。相手は力のある選手です。ミスを連発して精神的に追いつめられるとパニックになるかも。
 なんとか勝ってほしい。

 いつものように夜中に起きて全豪オープンテニスのニュースを見たら「なんと、ベンチッチが負けてる」じゃありませんか。
 明後日、アメリカの若い選手と対戦します。勝ってほしい。

 
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〈竹槍訓練〉…「これはひどい」… 鈴木貫太郎

2022年01月19日 03時35分55秒 | 古希からの田舎暮らし
 日本の、あの戦争のとき、アメリカの飛行機が飛んできて焼夷弾や爆弾を落とすのに、日本の庶民は竹槍訓練をしました。
 いまなら日本中に竹藪がはびこっていますから、竹槍を作るのは苦労しません。「100本竹槍を作れ」といわれたら、ぼくでも、裏山から竹を伐ってきて、鋸でとがらせることができます。でも近代の軍隊に立ち向かって、竹槍でどう戦うのか。
 ふつうの常識ある人なら、飛行機や戦車に竹槍を突き出してもどうしようもないことはわかります。わからない人のほうがおかしい。
 でもあの戦争のとき、日本人は、全国津々浦々で、竹槍訓練をしたのです。「あのときはみんなおかしかった」ではすまない問題です。「強制されたから仕方なくやった」/「反対したら、非国民、アカ、といわれる」/「特高警察につかまって、拷問される」/。「言い訳」はできます。
 陸軍の上層部は、あの戦争の末期に、敗戦に反対しました。日本人全員が「一億総特攻」で上陸してくる敵(アメリカ軍)に竹槍で突っ込むことを想定していました。そんな日本を、敗戦に導くために、鈴木貫太郎が総理大臣に指名されました。
 鈴木貫太郎総理は、敗戦に反対する陸軍に「一億総特攻」の武器を見せられました。「この武器で全国民が戦うのです」。
 竹槍/さすまた/鎌/包丁/などが武器になると展示してあった。見せられた鈴木総理は「これはひどい」とつぶやきました。有名なことばになっています。
 あのときの日本はひどかった。日本人はおかしかった。これからは「100年後の国民に言い訳できないことはしないでおこう」。敗戦後そんな反省を、しっかりしただろうか。敗戦直後の「一億総ざんげ」でごまかしたのではないか。
 本当の、世界の平和を願う、外交の力を発揮しているか。
 7歳で敗戦になり、84歳まで生きているぼくは、そんなことを思って暮らしています。 
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『独ソ戦』を読んでいます。

2022年01月18日 22時22分53秒 | 古希からの田舎暮らし
 大木毅・著『独ソ戦』(絶滅戦争の惨禍)=岩波新書という本を読みはじめました。(図書館で借りて)この本は2019年7月19日に第1刷が出て、一か月後の8月29日には第5刷になっています。一カ月の間に5刷にもなってる。地味な本なのに。
 独ソ戦は1941~1945年の、80年もむかしの戦争です。しかも、遠い、よその国の戦争です。それなのに、いまの日本で、なぜこんなに読まれるのか。
 まだ読みはじめたところですが、日本との比較で、思うことがあります。
 
 ソ連とドイツは「不可侵条約」をむすんでいました。「この条約があれば安心」と思うような、のん気な外交官はいないでしょう。ヒットラーは「共産主義は許せない。ソ連を攻め滅ぼす」と考えていました。さて、ドイツが敗けて戦争が終わり、ドイツの戦争責任が問われたとき、ドイツの高級将校たちは「ヒットラーの命令で、仕方なくやったんだ」と口をそろえて弁解しました。
 実は、ドイツの高級将校たちは、ヒットラーが言い出す前からソ連戦を考え、作戦を練っていました。負けたとき「ヒットラーの命令で、やむをえず …… 」言い出したのです。
 日本でも同じようなことはなかったか。高級将校たちは、配属将校たちは、えらそうにした在郷軍人たちは、特高警察は、どう弁解したのか。ほんとに「上官の命令で仕方なく …… 」だったのか。自分は心の中で抵抗/反対していたのか。

 アルベルト・シュペーアというナチス・ドイツの軍需大臣がいました。彼はヒットラーお気に入りの建築士でした。戦後の裁判で、「ナチスの犯罪にかかわりは少ない」ということで、死刑でなく、刑期20年になりました。
 刑期を終えて出てくると、暴露本を書きました。ぼくは、シュペーアの『狂気の内幕』という本を入手して読みました。「ああ、シュペーアはあのナチスの犯罪的ユダヤ人虐殺にかかわっていなかったんだ」と思いました。彼は欧米で人気が出て、講演したり本を書いたりして、世間から賞賛されて、生涯を終えました。いまシュペーアはナチスの犯罪者の一人と見なされています。巧妙に自己弁護していたのです。同じように、口をぬぐって生涯を終えた日本の将官もいます。

 戦争の当事者の体験談には、そんな弁解、自己弁護が入る。歴史家の眼でそれを見抜いて、評価する時代になりました。
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裏山を歩きやすくするために

2022年01月16日 21時07分49秒 | 古希からの田舎暮らし
 今日は16日。大将軍神社にお参りする日です。二軒の当番の方が、境内を掃き清め、幟(のぼり)を立てて、参拝者を待っています。いまは、氏神さまの秋祭りも、日を動かして日曜日にします。しかし大将軍神社の当番は16日を絶対に動かしません。勤めている方は、休みをとって当番の仕事を果たします。今日は16日が日曜日で、仕事を休まずにすみますが。
 去年、我が家では、〈お参り皆勤賞〉をねらったのですが、一回忘れてしまいました。今年は皆勤賞をねらいます。
 道子さんは一年分の〈お参り用賽銭〉袋を用意しました。(12の倍数の賽銭を入れる/家族の干支/年齢を袋に書く)あとは忘れずに行けばいい。ところが老人は「すぐわすれる」。今朝も忘れるところでした。しかし思い出して、しっかりお参りしてきました。

 神社の境内にはびこっていた竹(真竹)は、去年総出で一本残らず伐ってしまいました。冬の寒い日は、境内で、倒れた竹でたき火をしていましたが、燃やすものがありません。当番の方は、たき火なしでもてなしていました。

 午後は、裏の小屋で歩道用の桟をつくりました。幅66センチ長さ2メートルの桟です。平らな通路に置きます。手すりのなかったところ、通路がデコボコしているところは、費用がかかっても歩きやすくしておきたいのです。

 桟には、クレオパワーという塗料を塗りました。
 道子さんもぼくも、まだ大丈夫ですけど、いずれ見えなくなる/歩けなくなる。そのときになってから手すりをつけたり、歩道をつけたりはできません。いまならできる。
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